最終話「長い旅の終わり」
中天に輝く太陽から、柔らかな日差しが差し込む、穏やかな昼下がり。
「さあ、食べましょう、ヴァイス」
湖のほとりで、ミリアとヴァイスは腰を下ろしていた。二人の間には、大きなバスケット。中には、ミリアが朝から腕によりをかけて作った料理の数々がこれでもかというくらいに詰め込まれている。
「今日のお弁当には自信がありますよ。ここ五百年で一番の出来かもしれません」
「はいはい」
まるで子供のようにはしゃぐミリアを、ヴァイスは苦笑いして見つめている。これではどちらが子供なのか解ったものではない。
湖面は降り注ぐ陽光を反射して、優しく煌めく。まるで、湖一杯に宝石を浮かべたようなその輝きにヴァイスは思わず目を細める。湖面を音もなく鳥が駆け抜けていく。肌を撫でるそよ風が心地よい。今日は絶好のピクニック日和だ。
「ほら、ヴァイス、もっと食べてください。遠慮はいりませんから」
「俺はもう十分に食べてる。母さんこそ、もっと食べなよ」
「私はもうお腹いっぱいだから」
にこにこという擬音が聞こえてきそうなほどの満面の笑みでミリアはヴァイスの横顔を見つめている。
山の方から鳥の鳴く声が聞こえる。それ以外には、何の音もない静寂な世界。そんな穏やかな空気に包まれながら、ミリアはぽつりと呟く。
「昔、貴方が子供の頃にも、こうやってこの場所にピクニックに来ましたね」
「……そうだったかな」
「はい、あの頃はまだあなたのお父さんも生きていて……」
そこまで話しかけて、ミリアは不意に口をつぐむ。
「あなたのお父さんを産む前にもここでピクニックをして……その前も、そのまた前も……」
ミリアは遠くを見ていた。湖面の向こう、山の向こう、空の向こう。いや、もっともっと遠いどこかを見つめていた。それは今ここにいるヴァイスには見えない場所。ずっとずっと遠い過去。
ミリアは隣に座っているヴァイスの方をゆっくりと見る。
「一年前、司教様を殺した日からずっと考えていました」
ミリアは言う。
「司教様は儀式の前、私の母を村から追放しました。あれは母が掟を破った罰だと思っていました。でも、本当はもしかしたら、あの人は母を儀式に巻き込まないために、母を追放したのだとしたら……」
ヴァイスは死闘を繰り広げたゼーアという男を思い出す。奴と対峙したときは、自分の中に眠っていた先祖の魂が、奴を『殺せ』とざわめいた。それに呑まれ、あの男に燃え滾るような殺意を覚えた。だが、その熱が去った後、俺はあのゼーアという男をどう捉えていいのか解らなくなっていた。少なくとも、俺にとっては知らない人間だから。
「もしかしたら、あの方は私の……」
ミリアは、またそこで口をつぐんだ。静寂の時間。ヴァイスは何も言わずに、ミリアの言葉の続きを待つ。
そして、ミリアはヴァイスに微笑みかけて言った。
「まあ、その辺りのことは死後の楽園で聞いてみることにしましょう」
「………………」
ヴァイスは彼女の言葉に、やはり何も応えることはできなかった。
「ヴァイス、お弁当、もういいの?」
「……ああ」
「もう、私が作れるの、これが最後だよ」
「……後で食べるよ」
「そうですか……だったら、きっと大丈夫ですね……」
ミリアは安心したような、落ち込んだような、静かな声で呟いた。
「さあ、あの人のお墓の前に行きましょうか」
湖のほとり。そこには、いくつも石が積まれていた。この小さな石の一つ一つが、死んでいった『ヴァイス』たちの墓だった。戦士たちは皆、この場所で眠っている。
ミリアはその一つ一つを丁寧に掃除していく。そして、その墓の一つ一つに優しく声をかけていく。
「そう、貴方は一番、気が利いて、よく家事をしてくれましたね」
「貴方は、言葉遣いは乱暴だったけど、大切なことはきちんと解っていましたね」
「誰よりも泣き虫だった貴方。だけど、誰よりも優しかった」
どの『ヴァイス』にもそれぞれの人生があった。目指した理想は同じであっても、想いは、気持ちは、皆違っていた。ミリアはその誰もを確かに愛していたし、どの『ヴァイス』も、確かにミリアを愛していた。
ミリアはその中の最も古びた墓に向かって言う。
「ロアさん」
それは、ヴァイスの師であるロアの墓だった。
「貴方の教えのおかげであの人は真っ直ぐに歩けました。ありがとうございました」
ミリアはその墓石に深々と頭を下げる。そして、言う。
「あの人にとって、貴方は母でした。だから、私にとっても貴方は母だと思っています。会ったこともないですけど、いつかご挨拶をさせてください」
そう言って、両手を合わせて、深く深く祈るのだった。
「では、行きましょう」
ミリアは立ち上がり、ヴァイスを促す。
「……いいのか?」
ヴァイスの視線の先には、挨拶をしていない墓。
それは、初代ヴァイスの墓だった。
それを見たミリアははにかんで言った。
「いいんです。その人には、今から真っ先に会いに行きますから」
「………………」
母のまるで初心な少女のようなまぶしい笑みにヴァイスは思わず、そっと目を背けた。
ああ、この人にこんな顔をさせるのか、それはきっと、彼が最も特別だから。
そんなことが嫌というほど解ってしまった。
「叶わないな……」
ヴァイスは呟いた言葉は、風に乗って静かに消えた。
「ヴァイス、これでお別れです」
墓から少し離れた森の中で、ミリアは跪き、まっすぐにヴァイスを、自分の息子の瞳を覗き込んで言った。
柔らかなそよ風が、彼女の稲穂のような髪を優しくなびかせている。
「あの決戦から一年。もう、この世界に『呪魔』は残されていません」
ゼーアとの戦いの後、彼らは一年をかけて世界を回った。五百年前とは段違いに世界の交通網は整備されている。伝手をたどれば、世界中を回ることは不可能ではなかった。海を渡り、空をかけ、世界の果てまで旅をした。そのどこからも新たな『呪魔』は見つからなかった。
「そもそも、『呪魔』というのは、『不壊』の性質である『神の器』を壊すための武器です。『神の器』さえ消えてなくなれば、残った『呪魔』も消えるはずです」
ゼーアは、王となり、世界中の戦争を裏から制御することで、『呪魔』の感染者を手ずから殺す体制を整えていたようだった。その証拠に彼が居なくなってから、世界中の戦争は一挙に収束に向かっている。もちろん、何百年も続いた戦争が、一朝一夕で消えてなくなることはない。けれども、世界は少しずつ平和に向かって歩みだしている。
「だから、ヴァイス。今の貴方が全霊を込めて、私の首を落とせば、私はもう二度と目覚めることはありません。それだけの力を貴方はもう持っています」
ミリアはそっとヴァイスの頬に触れて言った。
「だから、お願い、私を殺して……」
彼女の手のぬくもりが頬から伝わってくる。その熱は確かにそこにある。それは幻などでは断じてない本物だ。けれど、今、自分が彼女の首を断ち切れば、その熱は消える。二度と蘇ることはない。
そうだ。これでいい。自分たちはこの瞬間のために、彼女を眠らせてやる、今、この瞬間のために、五百年もの時間を捧げてきた。これは、すべての『ヴァイス』の悲願だ。それが達成されることを嫌がる理由など、一つもありはしない。
——だが、
「……いかないで」
気が付けば、そんな言葉が口をついていた。
そんなことを言うつもりはなかった。最後の役目をきちんと果たそう。その覚悟は決めていたつもりだったのに。
それは自分を買いかぶり過ぎていたようだ。
——母さんに死んでほしくない
一度、口に出してしまえば、もう止まらない。堰の切れた堤防のように、言葉は決壊し、溢れ出す。
「いかないでよ、母さん! 俺はまだ母さんと一緒に居たい。ずっと、ずっと一緒に居て、ずっと母さんの作った料理を食べて、ずっと母さんと話して、ずっと母さんの隣に眠っていたい!」
ヴァイスはミリアを抱きしめる。華奢な身体が折れてしまいそうな位に強く、強く。
「なんで! なんで行ってしまうの?! 母さんはずっとずっとこの世界に居られるのに! ずっとずっと生きていられるのに!」
ヴァイスは聞き分けのない子供に戻ってしまったような震える声で言った。
「……母さんは、俺のことが嫌いになったの?」
瞬間、ミリアは自分を抱きしめるヴァイスを強く抱き締め返す。
「そんなわけないでしょ!」
それは初めて聞いた母の泣きそうな叫び声だった。
「貴方は私の大事な子。本当に本当に大事な子。嫌いになることなんて、たとえどんなことがあってもありはしないわ!」
ミリアの頬を熱い涙が伝う。
母の懐かしい温もりが触れ合った肌を通して伝わってくる。
「でもね、ヴァイス。今しかないの。今、世界中の『呪魔』はここに集まっている。この機会を逃せば、またどこかで新たな『呪魔』が産まれ、人を殺すかもしれない」
ミリアは続けて言う。
「それに、『呪魔』の感染者は長くは生きられない。このままなら、貴方もいずれ、そう遠くない未来に死んでしまうことになります。今、私を殺しきれば、『呪魔』は消滅し、貴方も普通の人間のように生きられる」
「そんなこと!」
「耐えられないのです!」
ミリアはヴァイスの言葉を遮って叫ぶ。
「自分が永らえることで、愛する子を死なせるようなことに!」
ヴァイスの胸の中に顔をうずめて、呟く。
「私がしたくない……これ以上、私のために誰かを死なせることなんて……」
伝わる鼓動、温もり、吐息。
「これは、身勝手な都合で愛する子たちを死なせてきた母の最後のわがままなのです……」
「………………」
「許されることじゃない……許されるとも思っていない……でも、もうこれ以上は一人も死なせたくないの……」
ヴァイスはあまりにも弱弱しい母の姿に何も言えなくなってしまう。
「自分のことばかり考えている情けないお母さんでごめんね……」
母が泣くことしかできない小さな赤子のように見えた。ヴァイスはそんな彼女をもう一度、強く抱き締める。
「情けなくなんてない……」
母のぬくもりを、優しさを、想いを。
決して忘れないように、失わないように、強く強く抱き締める。
「貴方は世界で一番の……自慢の母親でした……」
剣を取った男の足元に跪く女。
もはや、二人の間に言葉はない。別れは済ませた。納得も、理解もしていないけれど、これがもう避けられぬ結論だということは解った。ならば、後は粛々と自らの役目を受け入れる。そして、自分にできる最高の技で、愛する母を送ってやる。それだけが自分にできる最後の孝行。
剣はゆっくりと振りかざされる。磨き上げられた剣は、陽光を反射して、燦然と煌めく。穏やかな日の光だけが、二人を優しく見守っていた。
——さようなら
別れの言葉を心の内で唱えて、男は剣を振り下ろす。
瞬間、女の首は胴に別れを告げていた。
その分け放たれた首はそっと転がり、地面の上に落ちた。
男はその首をそっと見下ろす。
その表情は、今首を斬られた人間とは思えないくらいに穏やかで、それはきっと、彼女の人生の中で最も安らかな寝顔だった。
男はその首の側に跪く。そして、その首を優しく抱き締める。
二度と目を覚ますことのないその首を、男はいつまでもいつまでも抱き続けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「お待たせして、すいませんでした」
「……いや」
どこかの世界、どこかの時間。
「俺の方こそちゃんと『殺し』てやれなくて、悪かったな……」
二人は出会い、手を繋ぐ。
「もういいの。貴方は私を殺すことなんかよりも、もっと、もっと嬉しいことをしてくれました」
二つの掌はまるで一つの生き物であるかのように絡み合う。
「貴方は私を生きた人間にしてくれました。それだけで、もう十分です」
その手は、きっともう二度と離れることはないだろう。
≪了≫
殺せ、その命尽き果てるまで 雪瀬ひうろ @hiuro
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