母の心音

 金色の鎖がついた紅玉を手に取ったまま、魂を吸い取られたように、エポドスはひたすら呆けた。


 しばらく経ってから、笑った。自嘲するような笑い方だった。


「これを取り戻したら、なにか変わるかと思った。でも、なにも変わらなかった」


 ふう――と、気だるげに息を吐き、エポドスはうつむいて、胸元や腹、脚など、自分の身体を見下ろした。蜥蜴にした男の息の音を止めようとした時のまま、エポドスの身体は男のままだった。


「――魔法が解けただけだ。――奥底にしまったはずの記憶も私を責めはじめた。――忘れているべきだった」


 くたびれたふうに笑って、エポドスはマリアを向いた。


「はじめまして」


 マリアは砂の上に立っていた。そういえば、駱駝に縛り付けられていたはずだが、エポドスが降りてきた時からいつのまにか縛めは解けて、砂の上に立っていた。


 身体の震えは薄らいでいたが、力はまだ入らない。マリアのほうも、呆然とエポドスを見つめた。


「はじめまし――」


 オウムが挨拶を返すように同じ言葉を繰り返すけれど、我に返る。


「いいえ、『はじめまして』じゃないです。前に会いました。――その、前にあなたがかけた魔法は、かからなかったんです。だから、その、わたしは、あなたのことを覚えています。『はじめまして』じゃ――」


「――どの時のことだろう。私のことを忘れる魔法は、実は、何度かかけた」


 力なく笑って、エポドスは「ごめんね」と謝った。


「いまも、いやなものを見ただろう。また忘れさせてあげたいんだけど――」


「忘れさせてあげるって――」


 いろんなことが起きて頭が朦朧としていたけれど、それには言い分がある。マリアは言い返した。


「勝手に記憶を奪わないでください。いやなことだって哀しいことだって、覚えておきたいんです。大事なことを思い出せないのは、忘れるよりももっと哀しいじゃないですか」


 「あの――」と続けた。ふっと、子どもの頃の記憶がよみがえった。


「子どもの時にも、わたしに魔法をかけましたか」


 母が死んだ日のことだ。母の命日のことを、マリアはどうしても思い出せなかった。でも、ちょうどその日に、泣きじゃくるマリアのそばで涙を流す少年がいたのだけは思い出した。


『あまりに哀れだ。どうかこの子に、忘れる魔法を』


 その先が、どうしても思い出せない。



 あの子は、もしかして――。



 奇跡のような繋がりだが、あの泣き顔の主はもしや――と尋ねると、エポドスは、砂の上に腰を下ろして、両足を投げ出してしまった。


「ああ、かけたね。――哀しい思い出も大事、大事なことを思い出せないのはもっと哀しい――たしかに、そうだな」


 エポドスは慎重に、ゆっくりと言葉を選んだ。


「記憶を奪い去って悪かった。魔法を解こうか。ほんの少しならまだ力が残っている気がするから……」


 エポドスは、自分の手のひらを自信なさげに見下ろしてから、マリアをもう一度見つめた。


「でも、いくつ魔法を解けるか。男に戻ったからかな、魔力が遠のいてしまった……違うな、いままでがおかしかったんだ。女と男が混じった妙な状態だったから、きっと自在にいろんなことができたんだろう。奪ってしまった記憶は、一つくらいしか戻すことができないかもしれない――ごめん」


 まっすぐに見つめて詫びるその目に、マリアはべつの目を思い出していた。


 幼い頃、母が死んだ日のことで、立派な身なりをした少年が、いまのエポドスと同じようにマリアに詫びた。その子は小さな肩でマリアを庇って、泣いた。


『ごめん。あなたの父上に――命じたのは、私の父上だ。ごめん』


 思い出せるのはそこだけだ。でも、たしか、その少年は自分の人生をまるごと捧げるように謝った。


『おまえが平和に暮らせるように、私は勉学を怠けず、この国を守る努力をおこたらないから。おまえに誓うから』


 記憶の中にある少年は、幼い見掛けが嘘のように立派で、頼もしかった。その少年を責めたいと思ったことは一度たりともないし、今も――砂の上で両足を投げ出して座る細身の青年が、もしかしたらあの少年かもしれないと感づいた今も、怒りは、わずかたりとも湧かなかった。


「あなたは、母が死んだ時のことを私から忘れさせたんですね。つまり、あなたがわたしに魔法をかけなければいけないことが、母の身になにか起きたんでしょうか」


 尋ねると、エポドスの表情が曇った。


 「それは――」となにか言いかけたのをさえぎるように、マリアの手は、胸元に下がった懐中時計に伸びていた。


「これ、母の形見なんです。あなたが忘れさせたせいもあるだろうけど――なんとなく、母が死んでしまったとは、あまり思っていないんです。――ううん、母がいない暮らしは寂しいけど、母さんならここに居る気がして」


 肌身離さず持っている懐中時計だった。時計の針は正しい時間を指さないが、不思議なことに、ねじを巻かなくても動きが止まることはない。チッ、チッ、チッ、チッ――と、まるで生きているように、ゆっくり、ゆっくりと歯車は回り続けた。


「ほら、心音みたい」


 懐中時計を手のひらですくいあげて耳元で音をきくのは、昔からの癖だった。母の胸に抱きついているようで、心が落ち着くのだ。


「チック、タック、チック、タック」


 音に合わせて小さく顎を振り、リズムをとる。音に聞き入れば母の胸に飛び込んだ気がしたし、機械仕掛けのリズムを楽しめば、「マリア、歌って」と母が笑った気がした。


 そこで、ふと気になった。エポドスの真顔を見つめた。


「――あなた、ここにも魔法をかけた?」


 エポドスは、目をまるくした。でも、マリアは、それ以上問いつめたいと思えなかった。


 頭の中に、少年の涙声が響いていた。


『あまりに哀れだ。どうかこの子に、忘れる魔法を。――この子のもとで、母上を生き続けさせて』


(いいや。そうでも、そうじゃなくても。ここに母さんはいるもの)


 癖の続きのように、息を吸う。「歌って」という幻の声にいざなわれるように、唇をひらいた。



  女神の御胸に抱かれし風の子は

  男神の息吹にて星の子と成る

  風に舞う子は光の子

  火の神、水の神、砂の神も

  出で来ていざ、はじまる祝福の宴

  揃い来ていざ、盛況なる祝福の宴



 あぁ、歌っていたと気づいたのは、歌うためではない時用の呼吸をした後だ。


「あ、思わず」


 まず目に飛び込んできたのは、砂の上で脚を投げ出して座るエポドスだ。


 呆気にとられたようにじっと見上げていたけれど、目が合うとくすっと笑う。そうかと思えば、肩を揺らして笑った。いつか見た、『魔女』とはほど遠い印象を帯びた健やかな笑みだった。


「やっぱり魔法が解けたんだなぁ。前はあんなにカシム・カージがおまえの口のそばに生まれたのが見えたのに、もう見えないや」


 エポドスはしみじみと言ってから、目を合わせて笑いかけた。


「それに、男に戻ったからかな。あなたのことが、前よりずっときれいに見える」


「え――」


 マリアの息が止まった。急に照れくさくなってうつむいて目を逸らすと、エポドスは「あっ」と真顔に戻った。


「そんな、変人を見るような顔をしないでくれよ。――まあ、そうだよね。これまで、あなたは私を女だと思っていたんだものね。――魔法がかからなかったっていうのはどの時のことだろう。あの時のことだったら、申し訳なかった」


「あの時のことって、どの時のことですか」


 赤くなって責めると、エポドスは肩をすくめてみせた。


「身構えはじめたね。私は女だったほうがよかった?」


 エポドスはまだ女用のドレスを着ていた。身体が細くて顔立ちも中性的なので、それほど違和感はなかった。男物に、きっとそういうデザインの服があるのだろうなと思わせてしまうのがすごいところだ。でも、女物の服を着ていることには代わりがないので、いささか生地が伸びていて、窮屈そうだ。


 この人が女だろうが、男だろうが、マリアにとってはべつにどちらでもいいことだった。でも、そうだ、この人は男なのだ――と、それが身に沁みていくと、この人の唇が額に触れたことをふいに思い出す。


 忘れさせてもらえなかった柔らかな感触が蘇るなり、悲鳴が出そうになった。


「あの! お名前は、エポドスではないですよね!」


 悲鳴をおさえようとすると、声が大きくなった。


 エポドスは苦笑していたけれど、名を尋ねると、笑顔が翳った。


「私の名か――その名の人はもう死んだと思っていたけれど、その名に戻らなければいけないのだろうね。これを取り返してしまったのだものね」


 ゆっくりと腰をあげ、立ち上がる。


 エポドスは、マリアより背が頭一つ分は高かった。『魔女』だった頃も背が高かったけれど、男の身体になって肩や胸がいくらか頑丈になると、女の姿をしていた時よりもずっと背が高く感じた。


 月光を浴びて輝く白い肌や、どこか憂いを帯びた横顔や、聖なる鳥や竜を思い起こさせる切れ長の目――『魔女』の時と同じく彼は美しかったけれど、いまは、その時にはなかった品が増している。彼の立ち姿は、夜の景色によく似合った。


「もとの名に戻れば、私のことを知る人は私が逃げたことを罵るだろうし、なぜ生きているのかと、生き恥を嗤うだろう。でも――しかたない」


 エポドスの手には、紅玉が握りしめられている。紅玉の表面には、竜紋と呼ばれる水神の水しぶきを象ったフォル・トナ王家の紋章が金色に輝いていて……マリアの目が、そこから離れなくなった。


 あっ――と、息を飲む。


 幼い時に母の死を忘れさせようと魔法をかけた高貴な身なりをした少年や、父と幸せに暮らしていた頃に聞いた王族の青年の話や、なにかの祝典で遠くから姿を見た立派な若者の姿や――遠い記憶が、マリアの脳裏に次々に蘇った。


「あなたは、その、つまり――」


 口ごもったマリアに、エポドスは微笑んだ。


「私はつまり――女装が板についたオカマ野郎?」


 冗談を言ってくすくす笑い、エポドスは、マリアの手を取った。


「私は、私を助けた歌姫の付き添いだ。あなたの父上たちを助けにいこう。あなたの力が要るし、いまならあれも味方してくれると思う」


 あれ――と、エポドスの目が向いた先には、砂漠の闇を埋め尽くす風の竜がいた。透明な風の竜の一つが、エポドスのほうをじっと向いていた。


 エポドスの唇がひらく。彼を向いた竜神に祈りを捧げるように、歌った。



 出で来ていざ、はじまる祝福の宴

 揃い来ていざ、盛況なる祝福の宴



 でも、歌いやめる。素朴な歌声を恥じるように、マリアに笑いかけた。


「魔力がなくなってもわかるものだね。私の歌じゃ、竜神が喜ばない。――歌って、マリア」


 そういわれるので、マリアも唇をひらいた。




 二人の歌声が重なり、夜風に乗る。

 マリアの胸元で揺れる金色の懐中時計も、チッ、チッ、チッ、チッと時を刻んでいた。

 二人で一つの旋律を歌い切った後で、エポドスは笑った。


「帰ろう、みんなで」





                   End.

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カシム・カージと制約の魔術師 円堂 豆子 @end55

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