蜥蜴と抜け殻

 雷鳴のようにドンと重い音が鳴り、その女が裂いていた夜空が弾け散った。まるで、その女がここへたどり着くための役目を終えたかのように、夜空だったものは粒になって、細かく散っていく。


 飛散すらなかったことのように夜景が静かになる頃には、『魔女』――エポドスは、行く手をはばむように砂の上に立っていた。


「見つけた。会いたかった」


 呪剣士の男が、すぐさま駱駝の鞍から飛び降りる。慌てて砂の上になにかを転がして、魔術の支度をはじめたように見えた。しかし、砂の上に凛と立つ細身の女の顔を見るなり、男は息を飲んだ。


「おまえが『魔女』? ――おまえの顔、覚えてるぞ」


「その節はどうも」


 『魔女』はくすっと笑った。冗談を返すようなにこやかな笑顔だったけれど、次の瞬間、形相が変わる。


「私は、おまえを探し続けていた。その手に汚された私の宝玉を返しなさい」


 不気味な冷笑だった。まるで、目にした瞬間に呪いが発動する絵や、人形のような――笑顔は自分に向けられたものではなかったけれど、マリアは青ざめた。闇が似合う笑顔というのか、笑顔そのものが、呪いの道具じみていた。


 エポドスの周りには、不思議な光が吹き荒れているように見えた。背後で蠢く透明な風の竜のように、向こうが透けるほど透明だけれど、ほどよく色づいて、重みがあったり、熱かったり、乾いていたりする光――。


 呪剣士の男が身構える。すると、男の周りにも似た光が滲んだが、エポドスの周りにあるものよりずっと淡く、弱々しかった。


「なぜおまえは魔力が衰えないんだ。こんな場所で――」


 男が歯ぎしりをするように唸る。エポドスは笑った


「あら、これでも衰えているわよ。こんな状況ですもの」


「――女装が板につきやがって、オカマ野郎」


「いまは正真正銘の女ですが。おまえのせいで」


 バチッと火花が散るような音がして、エポドスを囲む光がほとばしる。聖なる鳥や竜を思わせる切れ長の目が、視線だけで呪い殺すように男を見ていた。


「マリア。歌いなさい」


 突然、エポドスはマリアを呼んだ。


「なんでもいいわ。歌いなさい、マリア」


 もう、なにがなんだかわからない。


 うしろでは風の竜が何匹も何匹も蠢いていて、目の前では空から降ってきた『魔女』が呪剣士の男と言い争っていて。『魔女』と呪剣士の男、どちらが敵で、味方なのかもわからない。


 でも、迷ったのは、一瞬だった。どうにでもなれとマリアは口をひらいた。『魔女』を信じた。



  フォル・トナ王は竜神の子

  守盾は聖鱗のごとく剛健で

  忠剣は牙のごとく噛む

  王の凱旋を称えよ

  我が水神を拝せよ



 歌ったのは、故郷の軍歌。軍隊の行進を見送る時に街のみんなで合唱する曲だったが、エポドスは拍子抜けしたように振り返った。


「その歌?」


 街のみんなが好んで歌う人気の歌だが、旋律は童謡じみている。小さな子どもでも笑いながら歌うような、明るい曲だった。


 マリアも、はっとした。竜の形の風や、二人の魔術師が睨み合う緊張した場で歌うなら、もうすこし神秘的な歌のほうがよかったかもしれない。


「いえ、その――」


 エポドスは笑った。


「いいよ。続けて。――久しぶりにきいた」


 『魔女』っぽくない笑顔だった。まるで、魔術など知らない人のような。


 笑顔の健やかさに驚いて目をまるくしつつ、マリアは繰り返し歌った。故郷の王を称える軍歌だ。



  フォル・トナ王は竜神の子

  守盾は聖鱗のごとく剛健で

  忠剣は牙のごとく噛む



 エポドスの意図はわかった。自分が歌えば聖霊カシム・カージが生まれることを、エポドスは知っている。聖霊は魔術をはたらかせる時の仲立ちになるから、自分に都合の良い聖霊を大勢集めることは、きっと魔術師にとっては必須なのだ。


「カシム・カージ、その男に目にみえない縄をうちこの砂に縛りつけよ」


「カシム・カージ、その女の骨を砕き、その場に這いつくばらせろ」


 エポドスと呪剣士の男は、ほぼ同時に聖霊を使役した。でも、より多くの聖霊がいうことをきいたのはエポドスの命令だった。エポドスの周りにほとばしっていた虹色の光が弾けるように闇に染みて、男の身体を覆いつくした。男は、見えない糸でぐるぐる巻きにされたように動かなくなり、砂の上に倒れた。まるで、風の色の縄が、男を砂上に磔にしたようだった。


 唸り声をあげ、男は罵詈雑言を浴びせた。けれど、エポドスは耳を貸さない。


 砂の上に倒れた男のそばへとゆっくり歩み寄りながら、腹のあたりへと腕を動かす。ひそかな金音が鳴り、次に腕が上がった時、手には短剣があった。


 刃が月光を浴びて輝いた時、エポドスの顔には、恍惚とした笑みがあった。これから起きることが愉快で仕方ないと、喜びが目からも頬のまるみからもにじみ出ている。その顔は、さっきよりも凛々しく骨ばっていた。首も太くなり、肩も胸も広くなっている――『魔女』は、男の姿に変わっていた。


「なぜ――女に変えたはずだ」


 砂の上にいた男が、息を飲んで見上げる。その顔のそばへと、エポドスは一歩、また一歩と近づいていった。


「そうね。おまえの呪いは、私を完全な女にはしなかったの。いまの私は、男と女が混在している状態で、人を殺そうとする時には男に戻るらしいの。追いつめる時には魔術師、とどめを刺す時には剣士――最強ね。私を止められる人は、誰もいなかったの。おまえのおかげで」


 砂の上に膝をつき、笑いながら、エポドスは、月光を浴びた剣を振り上げた。


 刃の先が狙うのは、男の心臓。笑顔を浮かべたまま、エポドスはその切っ先を男の身体に突き立てようとした。


 けれど、力がみなぎっていた肩からふっと力が抜けて、後ろを振り返った。彼が気にしたのは、マリアだった。


「いまからこの男を殺す。見たくなかったらどこかを向いていろ」


 エポドスは、この男を殺したがっている。この男を殺すためにエポドスは人探しをしていて、王城で二人も呪剣士を殺したのも、きっとこの男を探すためだった。きっと、エポドスとこの男のあいだには恐ろしい因縁があるのだ――と、それは、うっすらとマリアも理解した。


 けれど、目の前にいる人が死ぬ――エポドスが振り上げた短剣の刃におびえてぴくぴくと震える指先がいまに動かなくなる――小刻みに息をして浅い上下を繰り返す男の胸がいまに血で染まる――そんなふうに、これから起こることを想像すると、膝が震えた。


 エポドスは、呆れたように息を吐いた。


「おまえは見ないほうがいい――向こうを見ていろ」


 マリアは、かくかくとうなずいた。エポドスのいうとおりにしたいとは思うが、身体の震えが止まらず、顔の向きを変えるどころか、肩も、指先も、膝も、がくがくと震えはじめて、いうことをきかなくなった。


 エポドスがため息を吐いた。それから、もう一度、砂にまみれて倒れる男を見下ろした。


「カシム・カージ、この男の姿を砂の上を這う蜥蜴とかげに変えよ」


 しゅっと煙が吹き上がるような音が鳴る。そこだけ霧がかかったように男の姿がじんわりぼやけて、次の瞬間、男の服の中が空っぽになった。まるで、その服をまとっていた人の姿勢を残したまま抜け殻になったように、革を多く使った衣服は、蛇が脱皮をした後のように皺が寄っていた。


 襟の内側に、赤土色の小さな蜥蜴がぽつんといた。


 エポドスはそれをまじまじと見下ろして、肩を落とした。


「死体を見たらそっちが死にそうだったから。――蜥蜴を踏み潰すのはいい? できれば殺したいんだけど」


 きっと、その赤土色の蜥蜴は、さっきまでそこにいた呪剣士の成れの果てだ。つまり、その蜥蜴を踏んで命を奪ってしまえば、さっきの男も死ぬということだ。


 つい、マリアは首を横に振っていた。


「――あの、どんな生き物にも命はあるから。人じゃなくても、誰でにでも――」


 やれやれと、エポドスは肩で息をした。


「訊く相手を間違えたか――おまえは巫女だものね」


「巫女?」


「――なんでも。酷いものをたくさん見たら、きっとおまえは美しい歌声を失うだろう。それはよくないよね。――蜥蜴じゃなくて、水の中でしか生きられない魚に変えればよかった」


 舌打ちをして、エポドスはぶつぶつといったが、踏み潰すのは諦めたようだ。隙をうかがっては空っぽになった衣服の影に隠れようとする蜥蜴から、目を逸らした。


「どこにでもいけばいい。その姿なら、砂漠でも生きられる」


 服の影からそろそろと這い出て、一目散に砂の山へと向かっていく蜥蜴の逃げる先を目で追ってから、エポドスは、うつむいた。いまや、エポドスの興味は、逃げ出した蜥蜴よりも、その男が身にまとっていた服――襟の隙間に見え隠れした金色の鎖へと移っていた。


 指が伸びて、鎖を自分のもとへと引き寄せる。鎖の先には大きな紅玉が繋がっていて、真ん中には金の紋章がある。フォル・トナ王家の竜紋だ。


「――あった」


 まばたきを忘れたように、エポドスは動かなくなった。


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