神々の祝宴

(どうして王城の外に――)


 瞼を閉じる前には、夜の廊下にいたはずだ。それなのに、今は砂漠にいる。


 駱駝は、夜の砂漠を駆けていた。背後に見える街灯かりが、どんどん遠ざかっている。灯かりのない砂漠の奥へ向かっていた。


 駱駝は全部で三頭いた。呪剣士の男は手に長い鞭と紐をもっていて、マリアがくくりつけられた駱駝と、もう一頭の駱駝を操っている。


 空っぽの鞍を乗せて走る駱駝をじっと見ていたのに、男が気づいた。


「おまえの父親を乗せる分だ」


 男は笑っている。目が合うと、マリアの表情はこわばった。


「そこの駱駝だよ。そいつは、これからおまえの父親を乗せようと思って連れてきた。――まだ意味がわからないか? おまえと父親を、俺が逃がしてやろうといってるんだ」


 男は笑っていたが、わざわざへりくだるような作り笑顔に見えた。男の顔をじっと凝視すると、男は息を吐いて苦笑した。


「信用できない、って顔だな」


「だって――」


 それは、そうだ。その通りだ。


 どこの誰が、気を失ったところを無理やり連れ去ろうとしている人を「そうですか、ありがとう、お世話になります」と信じるというのだ。


 父を捜すためだと胸をいい聞かせて、びくびくしながら敵国の王城に潜入していたことをこの男が知っていて、その王城から、父と自分を連れ去って逃げてくれるのなら、決して悪い話ではない。でも、せめてわけをしっかり教えてほしいものだ。だいたい、父を捜していたことを、どうしてこの男が知っていたのか。それに、この男はいったい誰なのか。


 あなたは誰ですか。それに、わけを教えてください――と、いいたいのだが、跳ねるように走る駱駝の上では、なにかをいおうと口をひらくと舌を噛みそうになる。


 奮闘しているうちに、男は話を続けた。


「俺はな、おまえの父親がここまで連れてこられたのを見ていたんだ。フォル・トナの王都からここまで、ずっとだ。おまえの父親の助けが欲しいのだ。フォル・トナの王城に堅守の盾というのがあったろう? あの国が滅んだ日に、この国の術師軍が効果を打ち消すのに苦労したやつだ。あれを造ったのがノルア・マジュリー――おまえの父なんだろう?」


 駱駝の足が砂を踏むごとに、舞い上がった黄砂がザッザッと降ってくる。男は、その砂を指先でぬぐいつつ、襟の内側に手を差し入れた。男の手は鎖をたどって、なにかを見せるふりをする。端っこだけ見えたそれは、大きな紅玉に見えた。


「こいつにはもともと水神の力が宿っているが、これに、おまえの父親の錬金術で、守りの力を加えて欲しいのだ。この街でのさばっている『魔女』を追いやりたいのだ」


「それは――」


 思わず、目を細める。男の襟で隠れているが、紅玉の中央には金の模様が見えている。その模様には、見覚えがあった。


(〈堅守の盾〉にあった模様に似てる――フォル・トナ王家の――)


 フォルは古い言葉で「滝」、トナは「使者」だ。フォル・トナの王は、国の端にある聖なる滝に棲む竜神の末裔だと伝えられていて、フォル・トナの王城や、とくに王に近い特別な場所にだけ、竜紋と呼ばれる、水しぶきをかたどった紋章が飾られる。


 男の手元に見入っていると、男はふんと笑って、宝玉を服の内側に戻してしまった。


「俺のだ。これの価値がわからん奴に渡すようなものではないし――」


 男の形相が変わっていく。唸るように続けた。


「あの盾を割って、あの国を滅ぼしてやったのは俺だ。なのに、あの女が突然やってきた。身分などというものを掲げて――しかも、なにが気に食わんのか、呪剣士を殺しまくってる」


「殺す? 『魔女』が?」


 きっと、書庫の前でその肩書きをもつ男が次々と亡くなっていることを言っているのだと、それは理解した。でも。


「『魔女』は、その犯人を捜す役目を負ったんじゃ――それに、犯人は剣士だって……」


「でたらめだ。呪剣士を殺した犯人がみずから検死をしてるのに、ありのままをいうわけがないじゃないか。なにが、魔術の痕跡はない、だ。残ってたさ、あいつの気配が」


 憤ったのか、男の声が低くなっていく。


「あいつは、俺が目障りなんだ。隙あらばあいつを殺してやろうと狙ってる俺が。――フォル・トナの守りの力を得たら、あの魔女を呪い殺す。おまえの父親ならそれができるんだろう?」


 ぎろりと睨まれる。でも、マリアは首を横に振るしかなかった。


「わたし、知りません……」


 そもそも、いくら親子であれ、王城に勤める錬金術師の仕事に詳しいわけなどないのだ。


 ちっと舌打ちをして、男の目が行く手に逸れた。








 ザッ、ザッと砂を蹴る音だけが響き続ける。都市の灯かりもどんどん遠ざかり、三頭の駱駝はどんどん暗がりへ――砂漠の果てへ向かって進んでいく。その先には、牢獄があるはずだ。


『城塞都市の向こう側の砂漠の下にでっかい洞窟があって、戦犯や敵国の捕虜はそこに入れられたって聞いた』と、その牢獄のことを教えたのは、しばらく世話になった吟遊旅団の団長だった。


(えっと――)


 一度整理しよう、と、マリアは息を吸った。


 どうやら、この男はマリアを砂漠の牢獄に連れていくつもりらしい。そこには父が捕えられているはずで、この男の言葉を信じるなら、父を仲間にしたくて、一緒に連れ去りたいのだ。


(それに、この人と『魔女』は仲が悪いんだ)


 『あの魔女を呪い殺す』と睨んだ男の顔が、忘れられない。ふいに蘇って、ぞっと背筋が凍るほどだ。あれが誰かを殺そうとしている人の顔なのだな――と、こわごわと頷きたくなる顔だった。


 いま、男の目はまっすぐに行く手を向いている。いまのうちだ――と、マリアは指で首に触れていた。たしか、さっき会った時に、『魔女』がこの首に魔法をかけたはずだ。


『カシム・カージ。この娘のそばで、この娘を守りなさい。この娘に危害を加えようとする者が現れたら、みえない鈴を鳴らし、きこえない音を私の耳に届けなさい』


「カシム・カージ、いる? 魔法をかけてもらったんでしょう? 起きて」


 男に聞こえないように、息を吐くような小声で呼びかけた。


「ねえ、みえない鈴ってもう鳴った? もう知らせてるのよね? わたし、いま危害を加えようとされてるのかな? はたらかないっていうことは、この人はいい人なのかな? ねえ? ね?」


 いくら念を押しても、返事はかえらない。ザッザッと駱駝が砂を踏んでいく駆け音だけが夜の静寂に響いて、城下町の灯かりが遠のき、あたりを埋め尽くす暗闇が濃くなっていく。


 ふと、空を見上げた。


 漆黒の空に、黄砂の色をした月がぽつんと浮かんでいる。月は大きく、ほとんど満月に近かった。


(そうだ、明日は貴月の祭)


 月の男神を祀るこのあたりの地域では、一年のうちで一番夜が長くなる時期の満月の光をとても大切に扱った。その光を浴びる祝福を「禊」と呼んだけれど、その祝福が、地下に閉じ込められている人にも与えられると教えてくれたのも、マリアを城に送り届けた吟遊旅団の団長だった。


『牢屋にいる奴を探すなら、年に一度の禊の晩がいい機会だ。貴月の祭りの晩に、すべての人が月の男神ヤーと風の女神カシムの祝福を受けることが定められているから』


 星空にぽっかりと浮かぶ円い月は、満天の星が及びもつかないほど光り輝いていた。


 「あれっ」と、マリアは目をみひらいた。


 まるく膨らんだ月を見上げているうちに、月に、ヤーの姿が重なった気がする。天上から見下ろす男神が、砂の上を駆ける三頭の駱駝を見下ろして、にやっと笑ったような。


 砂漠や平原の多いこのあたりの国では、遠出に適した涼しい風が吹く夜を照らしてくれる月の神が、最上格とされている。フォル・トナにも、しばらく潜んでいた王城でも、いたるところに月の男神ヤーの彫像が飾られていたが、それが月に重なるような錯覚を覚えた。


 ざわり、と、ぬるい風を感じた。


 なにか奇妙なことが起きたと鳥肌が立つような、肌にあたってよけていくのではなく、身体を通り抜けて、胃の腑や心を抜き去っていく不気味な風が――。


 呪剣士の男も、はっと顔を上げた。


「風の女神カシムだ」


「えっ」


「風の女神カシムが通りはじめた。貴月の晩は明日だってのに――まずい、はじまるぞ」


「まずい? えっ?」


「貴月の晩の宴だ。夫の光のもとに風の女神が帰ってきて、火の神も、砂の神も、水の神もみんなやってくる。神と霊と聖霊で砂漠中が埋め尽くされるから、魔術が効かないし、いろいろ起きる――」


 「錬金術師を早く攫っちまわないと」と、男は焦りはじめたが、魔術というもののことをろくに知らないマリアには、よくわからない話だ。


 でも、しだいに、マリアの目にも不思議なものが見えはじめた。


 駱駝に乗って駆ける砂漠の暗がりに降りそそぐ、あかるい月の光。その下を、大きな風の塊が吹き抜けていた。塊は大きく、動きはゆっくりで、まるで透明な巨大竜がゆっくりと黄砂の上を泳いでいるようだ。


 透明な竜に見える風は、砂を巻き上げながら、砂漠のあちこちにぽつぽつと建つ石造りの遺跡の隙間をゆるゆると通り抜けているが、駱駝で疾走するマリアたちと同じ向きに動いていたので、時おり、進路が重なった。


 とはいえ、目に見えるのは「なにかありそうな気配」と、奇妙な風が通り抜けるたびにふわりと舞い上がる黄砂だけだ。でも、透明な竜に似た蛇のような形の風が、たしかにいた。 


 その風が駱駝の群れを通り抜けていくたびに、腹の底から吐き気がこみ上げる。得体の知れない風に身体を通り抜けられて、吐き気で済んでいることのほうが、幸運というべきか。


 はじめ、竜の形をした風はひとつだけだった。でも、すこしずつ増えていく。どれも透明で、向こうにある乾いた夜景が透けて見えるのだが、赤や青や黄色にほんのり色づいて見えるものもあらわれはじめた。


 ひとつだけだった透明な竜に似た風は、いまや数種に増え、広大な砂漠の中空を埋め尽くすようにして夜空を這っている。


 マリアは、虚空を向いた。なにかと目が合った気がした。闇を這う透明な竜状の風のうちひとつがこちらを見た、そんな気がして視線の先を探すと、見つめた先で、それが笑った。


 風なので、目も鼻も口も顔もなく、そもそも透明だ。でも、それはたしかに笑った。


 青い水の色をして見える風で、重そうで、よく見れば、風の塊を覆う鱗は水しぶきを思わせる滴のよう――そんな風。そこまで思って、叫びそうになった。


(竜神だ、フォル・トナの――)


 その瞬間、びりっと雷撃が落ちたふうに背中が痺れる。


 びりびりとした振動が身体中に伝わって、真上からなにかが落ちてくる。


 見上げてすぐに「人だ」とわかった。真上から人が落ちてくるなんて、見たことも想像したこともないはずなのに、なぜかすぐに「人が降りてくる」と思った。


 その人は大きな頭巾フードをかぶっていて、短刀を手にしている。月の光を浴びてきらめく刃で、夜空を切り裂きながら、自分が落ちるための通り道を虚空につくっていた。顔もまだ見えないうちから、マリアはその人が誰かがわかった。


(『魔女』だ)



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