拡張味覚
朝起きてから、味のないシリアルを人工牛乳で流し込み咀嚼しながらもずっと、次に食べてみたいコードについて考えていた。
注文しておいたカートリッジをカバンにしまい、工場での勤務を終えてから、早速バーに赴いた。バーは清潔だが薄暗く、いつ行っても分類できなさそうなジャンルの音楽がかかっていて、いつもの顔がカウンター席にあった。
「いらっしゃい」
マスターが迎えるのに続いて、カウンターから声がする。
「今日は早めなんだな、お疲れ様」
痩せた、背の高い男が声をかけてきた。男はアンディと呼ばれていたが、どう見ても僕と同じ日本人だった。
「お疲れ様。今日は受注量が少なめだったんだ。合成食品への反対デモがまた激しくなってるしな」
僕はそう言いながらカウンターに腰掛け、いつも最初に頼んでいるもの——カスタマイズ・カクテルセットを注文した。
アンディは挨拶もそこそこに、俺の方に携帯を見せてきた。初めて見るが、見慣れた羅列。
「そういえば、思いつきでこんなの《闍ヲ蠢?Κ諞コ》をゼリーの甘味タイプで試したんだが、やばかったぞ」
「どうやばかったんだ?」
「説明するだけ野暮なのは知ってるだろ」
そう言ってゼリーと電子回路付きのスプーンを渡されたので、後で食べてみると言ってとりあえず脇に置く。僕はアンディの舌をあまり信用していない。自分の目当てはもう見繕っていたから、そちらを先に味わいたかった。
「お待たせしました」
僕の前にコトリと注文した品が置かれた。
小さなカラフェに入った酒、特殊な技術が用いられた、透明な極々細い筋が脈のように張り巡らされたカクテルグラス、タバコの箱くらいの黒いデバイス。
カクテルグラスの底部は少し分厚く、中に電気回路が仕込まれている。
僕はカウンターにノートパソコンを置く。もちろん、仕事をするためなんかじゃない。カートリッジをハックするためだ。
パソコンと味覚信号デバイスを無線で接続し、カートリッジをデバイスに挿入した。
「いつ見てもすげえな」
とアンディが尊敬というよりは敬遠の眼差しで言う。
「そうか?パソコン持ってて発想があれば、簡単にできることだ」
「謙遜するなよ。あと俺はパソコンなんて難解な高級品を買うくらいなら、同じ金で本物の牛肉が食ってみたい」
「そうか」
軽口を叩いているうちに、カートリッジのフォーマットが終了した。つまり、大抵の好きな電気信号を舌に流すための算段が整った。
——ここは、水や醸造アルコールや無味無臭のゼリーや塩味だけのパスタを、極上の美味にも未知の味覚にも化けさせられる、拡張味覚とも呼べそうな電気味覚専門のバーなのだ。
本来は馬鹿みたいに親切な携帯端末のアプリのユーザーインターフェースに従って、鹹味酸味甘味苦味辛味旨味の比率、スパイスや炭酸の特徴的な刺激、果物や花や食べ物に似た香りづけなどを選ぶのだが、それには一定の制限があって、許容量を超えてしまうとエラーになる。
プログラムごといじれば、もっと面白くならないか?と考えて、僕が奇妙なほど情熱を注いで作り上げたのは、単純だが、味を指定するための数値入力領域に、特定の漢字や記号を、二進数に置換して入力することで、電気信号に反映させる手法だった。
《臥薪嘗胆》
《閾・阮ェ蝌苓ユ》
《233150190239189165233152174239189170232157140232139147227131166》
《100100010001011011110111110111001110111010010110(以下省略)》
この方法では、人間のために作られたとは思えない風味を生むことの方が多かったが、時々奇跡のような味というか風味というか、印象的で、堪え難い快感、脳が冴え渡ったり恍惚とする後味が生まれるのだった。
そして、その感覚を元に従来のアプリでいくら調整しても、同じ味は再現できないのだった。
デバイスを通じてグラスに数値を入力し、カクテルを舌に当てながら液体を口に含むと、噎せ返る程の生臭さが口いっぱいに広がった。食べたことはないが、動物の内臓とか生ゴミはこんな味なのかもしれない。しかし後にはほんのり甘味が残り、まるで激しい拷問に耐えて解放されたかのような安堵感が余韻としてあった。
「これは……まずいが、ありだ」
「マニア受けしそうってことか?」
「まあ、そんなところだ。特に忍耐強い連中に」
「俺は遠慮しとく」
奇妙なことだが、言葉の意味が味に影響することがある。それそのものと言うよりは、語感が味覚と嗅覚に絡んでいるような風情で。
《雨上がり》は土と林檎が混ざったような香りがした。《愛》はある人は塩辛いと言い、ある人は甘すぎると言った。《神》は味がしなかった。
最近、味からそれを構成している言葉を突き止める試みも始めた。
手始めに、人々が愛していた飲料。コーヒー、コーラ、オレンジジュース、緑茶、エナジードリンク。
今のところは、どれもこれも意味がなさそうな文字列だったのだが、それはまだ解析の仕方が下手なだけかもしれない。あるいは、それらの飲料の対応言語は日本語ではないのかもしれない。
それが証明できた時、僕らは言葉と情報を食べているに他ならないと言えるのではないか———。
そんな風に夢想しながら、今日も僕はただの安酒で酔っ払う。
ふと思い立ち、アンディの寄越したゼリーをスプーンですくって食べると、苦味が強いが果実のように甘酸っぱくて美味しかった。
「これ、珍しく美味いな。元はなんて言葉だったんだ?」
「な、やばいだろ。なんだと思う?答えたら教えてやるよ」
「……《青春》とか」
アンディが派手に笑った。
バーに漂う湿気や、生きることの煩わしさを吹っ飛ばせそうなほどに。
「《苦心惨憺》だ。お前にぴったりだな」
僕はなんとなく決まりが悪くなって目を逸らす。
カウンターに肘をついた重みで、器の中の透明な液体とゼリーが揺れた。
無為識 銀文鳥 @silverbunchou
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