何もない場所(立ち入り禁止)

どうした、こんな所へ来て。こら、そんなに慌てて読むな、読むな。

おまえ、ここがどういうところかわかってるのか?

知らないのか。ここは焼け野原だ。真っ白な灰で出来た焼け野原。

ここにあった文字列はみんな焼かれちまったんだよ。

ここら一帯に文字インフルエンザが流行したせいでな。

それはどんなものかって、知りたいのか?

知らない方がいいと思うが、まあ、もう済んだことだ。いいだろう。昔話だからちょっと長いぞ?


……ん、そういやお前、前にも来たか?気のせいか。



……あれは災いそのものだった。本当にひどかった。奴の……「命」の話の受け売りだが、最初の感染者だった「が」はひどく苦しんでな。ああ、奴らはもう死んだ文字だから、名目的に出すときは「」でくくる決まりだ。

——痙攣した「が」から濁点が飛び出して、看病していた「令」にひっついて「冷」になっちまったんだ。そこから地獄の蓋が開いた。

「が」は「か」になったから、身も軽く羽を生やして飛び回って、あちこちの血を吸いまくった。奴は「か」になったときメスになっちまったんだ。

そいつら全員に、文字インフルエンザが感染した。

おまけに「冷」が影響すれば、みるみる体調不良者が溢れた。「水」が「氷」になり、「椿」は「柊」になっちまった。もうわかるだろう?文章の崩壊、パンデミックさ。

「か」はすぐに「蹄」に潰されたし、「冷」に対抗して「暑」や「熱」は駆り出された。でももう手遅れだ。

「温」や「優」は苦しんでいる文字たちのために尽くしてくれたが、ふと気がつくともうぼーっとして動かない「皿」と「憂」になっていたそうだ。


みんな、みんな死んでいった。そこらじゅうが文字たちの死体で溢れ、みんな苦しみの中静かな狂気に溺れていった。

このままだと、文章を読んだ人間にも感染する、ヒト文字感染型ウイルスに変異しかねない。そうなっては文章世界全体がおしまいだ。

そう思った「命」は決死の覚悟を決めた。


——俺は最初断ったんだ。俺にそんな力はないと。ただ、俺の体は文字インフルエンザに感染しなかった。抗体があったからだ。

それは奴にとって、最後の希望を託すに充分だったというわけだ。……皮肉な話だが。


俺はまだ動けた「下」を連れて、いくつものページ……丘をまたいだ。「弾」は比較的簡単に捕まえられた。ペチペチ跳ね回りやがるのが嫌だったが、後に比べたらずっと楽だった。

茹だるような熱波と劈く音で、次の標的がいるのがわかった。

奴は強力だった。飛び込むなら一瞬で、だ。

不思議なことに、俺がそいつの肩に手をかけた途端、しおらしくなりやがったがな。

これで「爆」も手に入れた。


最後の文字が厄介で、俺たちがその力を求める以上は、それそのものに近づくわけにはいかなかった。俺が苦労して探した類似文字は「刻」だった。

こいつは硬くて頑なで、しかも絶対に「刂」と離れようとしなかった。間に手を突っ込み無理矢理引きちぎると、「亥」からも俺の手からも血が噴き出した。

深い切り傷から血が噴き出すのも構わず、俺と「下」は走った。

もう時間は迫っていた。こんな過疎地域にでも人の手は伸びる。その時に文字インフルエンザがヒト文字感染するように変異していたらおしまいだ。早く終わらせないと!


——山の頂上まで登ると、息も絶え絶えの「命」が待っていた。

俺は黙って頷くと、「亥」「爆」「弾」を組み上げた。

「命」がすまないと言いながら震える手で、少しひしゃげた「木」を差し出した。すまない、見届けることが自分にはできない。ここで精魂尽きそうだ、と。


「木」を受け取ろうとしたその時、ずっと黙っていた「下」がすごい速さでそれを奪った。驚く間も無く、未完成な爆弾もひったくられた。


——あなたには、「命」を看取る役割がありますから。それに、わたしの方が速く落とせる。お互いそれが適任でしょう?


そんな風に言っていた気がするけど、瞬く間に「下」は崖っぷちから飛び降りた。文章の真ん中に対して、垂直に。


俺は「命」を守るように覆い被さった。

間も無く、ビリビリするような熱線——さっきの爆風とは比べ物にならない——が俺たちを襲った。

まばゆい光、全てを焼き尽くす光が全部燃やして、溶かして、灰にした。

愉快にも見えるキノコ雲が、俺たちを嘲笑うように見下ろしていた。

辺りは焦土と化し、誰かに読まれたかった文字たちは殆ど死んだ。そこには読めない部首や点や線が転がるばかりだった。

山は爆風をもろに受けた部分は溶けてしまったが、まだ形を保っていた。

俺たちも、まだ形を保っていた。


「命」が、呻き声を上げてこちらを見上げた。何か言いたそうだったが、もう喋るなと言った。奴は無視した。


よくやった。

俺が下した命令をよくぞ達成してくれた。すまない、感謝する。


「命」はそれからもう、動かなかった。白い灰になって崩れ、死んだ。

死んだことで、俺に吸収された。


そう、俺が『死』だ。

俺「が」最初に文字インフルエンザで"死"んだんだ。死そのものになった。だから病気には罹らない。

死が溢れている場でこそ俺は初めて輝けた。


そうしてここには、死と白い灰の積もった焼け野原以外、もう何もないというわけだ。


——あれから俺自身も何度か死んでは次の『死』に代替わりしているから、実感なんてもうほぼ無いけど、たまに覗いてくるおまえみたいな物好きに、ここには何も無いと説明して追い返すための番人を務めているというわけだ。



……さ、ここにはもう何もないってよくわかったか?

じゃあさっさとここから立ち去るんだな。

もし次におまえと会う事があっても、それは多分何世代も後の俺だが——


俺がまだ奴らのことを覚えていたら、何度だって話してやるよ。

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