光箭を握り締め、胸に刺す。痛みはなく、むしろ私の体を蝕んでいた瘴気が払われたことで体は軽くなる。消えていく光箭を眺めながら、緊張で高まった息を吐き出す。

 幾度となく経験しようとも、この瞬間は落ち着かない。たった一秒でも戻ってしまったなら、私はまた同じことを繰り返してしまうのだから。

 不安定な足場で立ち上がる。赤錆びた東京タワーの頂上から見下ろす大都会は、あまりにも味気なかった。砂塵を含んだ風が容赦なく吹き付ける。一瞬でも気を抜けば、私のちっぽけな体などあっという間に攫われてしまう。

 煉獄の様相は月日を重ねるごとに荒んできた。私が初めて迷い込んだときもなかなかの荒廃っぷりを呈していたが、これを見るとあの世界はまだ整っていたように感じられる。

 少なくともあの頃は、魔族に抗する神々の末裔がいたのだから。しかし、彼等がいなくなった今となっては、この世界に魔族が跋扈するのみとなった。

 私はどうかというと、自分から魔族を殺そうとすることはなくなった。


 風が搔き乱される音に、目を下方へと向ける。潰れたヒキガエルに蜥蜴の尾のような翼をくっつけた魔獣がこちらへと向かって来る。光箭を出現させ、東京タワーから飛び降りる。ぐんぐんと近付くにつれて魔獣の口内の様子が窺えた。黄緑色の唾液に塗れたくはなかった。体を捻り、空中で重心を頭二つ分ずらす。私は魔獣の眉間に着地した。遠目では岩のように硬く見えた魔獣の皮膚は、実際にはナメクジを連想させるものだった。

「うぇ……」

 ぬちゃぬちゃと沈み込む足を引き抜き、光箭を放つ。魔獣は光の内に没した。

「ダメじゃない、私なんかに消されたら」


 


 光子を魔力で撚り合わせて糸を形成する。糸の一端を東京タワーの外骨に引っかけ、私は自由落下に身を任せた。迫り来る大地に鼻先が掠めるか否かというところで静止する。それでも衝撃に堪え切れなかったのか、遥か上方で鉄骨が軋む音がして、平然と歩き始めた私の背後に鉄骨がなだれ込んだ。巻き上がる砂塵と瓦礫の渦から脱け出ると、私は空を仰ぐ。

 あそこにも、あちらにも、ここにも。魔獣はそこかしこに犇めき合っていた。《晴れの日》は終わり、魔女が斃された日を後にしても魔族が滅びるなんてことはなかった。魔族は変わらず魔族として跋扈していた。

 マリアと仮初めの和平を結んだときに交わされた文言には、いくつか誤りが含まれていた。それすなわち、神様がいて人間が善行を為すのではなく、魔族がいて人間が悪行を犯すのではなく、人間が善行を為すから神様がいるのであり、人間が悪行を犯すから魔族が存在するということだ。逆なのだ。神様と魔族が中心ではなく、人間が根源にある。

 だから、ヴァルハラより続いた神々と魔族の闘争は、初めから滅ぼすべき相手を間違えていた。神様を殺したいなら人間を、魔族を殺したいなら人間を滅ぼせばいい。けれどそれは諸刃の剣。毒薬を素手で掴んで杯に盛れば、自身もその手に掴んだ脅威に曝されることになる。

 どちらかが、どちらかのみを滅ぼすなんて永遠にできるはずもなかったのだ。いつまでも惰性で共存するか、必滅の共倒れを迎えるか、それだけの話だったのだ。

「ホント、ばかみたい」

 そんなことにも気付かずに、延々とこの世の始まりから戦い続けてきたなんて。もしかしたら気付いていたのかもしれないけれど、結局は引っ込みなどつかなかったのだろう。

 そこでひとつ、疑問が残る。人間が起源だというのなら、人間の悪意が積み重ねられた末に何が生まれるのだろう。煉獄を満たし、跋扈し、繁栄を貪った末に魔族の中に生ずるものとは、すなわち、魔族の長、帝王と魔女だ。

 そして、魔女が身の内に潜めるものこそが万能の願望器、因果の胤。それを手に入れることが叶えば、私は全てをやり直すことができる。目の前には二つの扉が浮かんでいる。片方の扉には《このまま進む》と言葉が刻まれ、もう片方には《やり直す》と刻まれている。

 私はすでに《やり直す》方に手をかけている。あとは鍵を手に入れるだけ。

 だから、

「もっと、もっと」

 この世を悪意で充たせ。充たせ。充たせ。

「この世界は怨嗟に包まれるべきよ」

 魔女を生み落とすほどに、この世界よ醜くあれ。


 ポツリと大地に影が落ちる。少しずつ濃さを増していく影を見つめ、濁った太陽を仰ぐ。首をもたげた瞬間、それ自体がひとつの魔獣であると錯覚するほどに大量の魔獣が犇めき合った影が落ちてきて、私の視界を一斉に埋め尽くした。

「ホントに、今日はどうしてこんなに……」

 光箭を掴む。弦に番え、引き絞り、放とうとして異変に気付く。

 魔獣の群れに私を襲おうとする様子が見られない。彼等は決して私との距離を詰めようとはせず、高ぶった呼吸を繰り返すのではなく、むしろ私を阿るような様子を見せる。

 息苦しい沈黙を挟み、魔獣共はようやく動き出した。しかしながら交戦の意思が示されることはなく、示されたものは純粋な敬意だった。魔獣は、私に向けて首を垂れる。

「……ヲ……」

 魔獣の口が開けられ、濁った息とともに吐き出された言葉に、私は愕然とする。

「オ迎エニ、アガリマシタ」

 私は、魔族の繁栄を願い続けた私は、


「姫サマ」


 魔女となった。

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魔女Re 亜峰ヒロ @amine_novel_pr

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