この世界を無茶苦茶にしてしまうくらいにでたらめなこと
「日和はどうしたい?」
かけられた訊ねに微睡む意識を揺り起こし、私は曖昧な笑顔とともに言葉を返す。
「ごめんなさい、もう一度言ってくれる?」
質問に質問で返すのは反則だなんて、つまらないことを言う人ではない。代わりに、たおやかな睫毛の隙間で目が眇められた。
「寝てた?」
「羊を数えていたわ」
「寝てたのね」
「そうとも言うかしら」
委員長は呆れたように嘆息を溢し、その柔らかな髪を手櫛でぐしゃぐしゃと掻き撫でた。美人なのにそういうところはもったいないと、怒られている立場なのに暢気に思う。
「文化祭の出し物をどうするかということで、喫茶店にすることは決まったけれど、どういう
「アイ・シー」
委員長みたいに英語の成績はよくない。
文化祭、放課後――友達。みんなが我先にと帰った後の教室で顔を突き合わせ、一人で考えた方が早くまとまりそうなことを多人数の意見を聞きながら決めていく。そんな無駄ともいえる時間こそ私の憧れていたもの、普通すぎるくらいに凡庸な日常に焦がれていた。
「ハイハイ!」
活発で、よく響く声が上がる。
「誰か意見ある?」
委員長は真っ直ぐに手を挙げた唐谷を視界に納めつつ、他のメンバーを見渡す。
「俺挙げてんじゃん! 無視よくない! いじめ!」
「どうせつまんないことでしょ、却下」
「いいんちょうー、聞くだけ聞いてあげようよー」
「さすが惟村、愛してるぞ!」
「調子に乗んな! アンタの本命は別だろうが!」
思わず噴き出しそうになるのを堪える。こんな冗談さえもおかしく感じるなんて、いったい私はどれだけ乾いた日々にいたのだろう。けれど、いま、私の世界は色付いている。
「古典的でありながらも根強い人気を誇るものとして、メイド喫茶を進言する次第であります」
「却下。メイド服なんて誰が好き好んで着るのよ」
「俺としては日和さんに着て欲しい」
「まるっきりアンタの願望じゃん。だいたい、日和がそんなのするわけないでしょう」
同意を求めるように委員長は私を仰ぎ、私は、少しだけいたずらげに微笑む。
「いいよ」
「マジすか!」
感極まったとばかりに席を立った唐谷は、
「でも、唐谷も一緒だから」
一転してしおらしくなり、座り直す。
「一緒って、何を?」
「メイド」
その言葉でみんなの意思は決まったのか、口々に唐谷を囃し立てる。唐谷のメイド姿を思い浮かべるとなんだかおかしな気分になる。堪え切れなくなったのか誰かが笑い、それは伝播していった。唐谷は大口を開けて笑っていた。《僕》に向けていた歪んだ嘲笑ではなく、清々しい少年の笑顔を私に向けている。そして、いつしか私も笑いの渦に巻き込まれていく。
「あー、お腹痛い」
笑いの余韻を残しながら、みんなは帰り支度を済ませていく。消し跡だらけの黒板には、赤のチョークで《メイド喫茶》と殴り書きされていた。
「が、ガンバリマショウ、日和さん!」
「はいはい」
ヘッドホンをつけて音楽をかけると私は歩き出し、教室を出たところで唐谷に手を振った。彼はとても嬉しそうに何かを言っていたが、それは聞こえない。
いつからだろうか、唐谷を友好的に捉えている私がいた。《僕》に対する唐谷と、《私》に対する唐谷の相違に不思議な気分になることはあれど、《僕》に向けられていた彼の姿は次第に消えつつあった。私はなんて優しさに絆されやすいのだろう。
柿色の空気を掻き分けるように廊下を進む。階段に差しかかると上を仰ぎ、制服の襞スカートを躍らせながら上に向かう。
錆び付いた鉄扉を押し開ける。樹々の芳香を混じらせた風が私に吹き付け、髪を舞い上がらせる。夕陽が瞳を貫き、目を細めた。鞄を放り投げ、屋上に飛び出す。縺れるように走り、真っ青な、しかして空とは一線を画す色合いの金網に背中を押しあてて静止する。
「いい、空」
玉粒の汗が首筋を伝う。乱れた呼吸と疲弊に憂える筋肉が、私がもう契約者ではないことを知らしめる。未来の私がマリアを消滅させたことで、私は契約者という呪縛から解き放たれた。門扉を潜って人間界へと帰ってきた時点で、因果の胤は役目を終えたのか砕け散った。
その日からひと月が過ぎ、私は煉獄に残してきた少女のことを未だに気にかけていた。
「兄貴! 兄貴ったら!」
校庭を縦横無尽に走り回る人影に目を向ける。たおやかに広がる瑠璃色の髪の、怜悧な眼差しの少女が土ぼこりを巻き上げている。
「捜されているみたいですよ」
横を向く。金網に背中を押しあて、薫さんは眩しそうに夕陽を見上げていた。
「知らん」
「そんなこと言って、緋奈さんがかわいそうじゃないですか」
「休み時間のたびに高等部まで乗り込んでくる妹など知らん」
「また、そんなこと言って」
私の言葉に、彼は曖昧な笑みを浮かべた。
「やっぱり嬉しいんでしょう」
「さあな、一年も経っているんだ。幸せは日常へと姿を変えた」
薫さんが言葉にした願いは、緋奈さんを生き返らせることだった。しかし、実際に叶ってみれば、緋奈さんが生き返っただけではなく、失われていた彼の聴覚も戻っていたそうだ。因果の胤は言葉の願いではなく、心の願いを叶えたことになる。人間の心と言葉の食い違いは、こんな形でも現れたのだ。
「幸音さんは?」
「晴香は人並みの日常ってやつを望んでいたようだが、アイツは単に煉獄から脱け出したかっただけだからな。晴香に付き合ってはいるようだが、どうせ今日もさぼりだろ」
「それで、編入して早々にあれだから、腹も立つよね」
「数百年の年の功は伊達じゃないってことだろ」
絵に描いたような文武両道を体現してみせた幸音さんには、今やファンクラブなる珍奇なものも存在するらしい。事の真偽は別として、彼が煩わしく感じていることは確かだった。
「……噂をすれば、もう一人の秀才のお出ましだ」
鉄扉が開き、そこには、肉体を得て人間となったちいちゃんが佇んでいた。その姿は初めて私に声をかけたときから何も変わらないというのに、どこか初々しく、重責から放たれたことに起因する軽やかな雰囲気を纏っている。
「緋奈ちゃんが探してたわよ」
「知ってるし、こっちは逃げてんだよ」
「それなら早く逃げた方がいいんじゃない? 一階からしらみつぶしに捜してたわよ」
慌ただしく屋上を後にした薫さんの背中に向け、
「捜してたのは高等部の校舎だけどね」
ちいちゃんはそんなことを嘯く。
「性格悪いよ」
「かわいい妹から逃げるなんて、兄として潔くないわよ」
ところで、とちいちゃんは切り出す。
「当ててみせようか。ひよちゃんが何を思っているのか」
隣に腰を下ろし、ちいちゃんはスカートと一緒に膝を抱える。その背中に翼はない。
「煉獄に残してきたあの子のことでしょう?」
違うと否定することはできなかった。たとえ否定したとしてもそれは言葉だけの否定でしかなく、私の表情は、なんとも分かりやすい肯定を示していただろう。
「あの時、未来の私が残るって言い出したとき、どうしてちいちゃんは背を向けたの? 無理やりにでも手を引っ張って、連れていくことだってできたはずなのに……」
私の訊ねはとても酷いものだと思う。
あの少女は消えようとしていた。私と一緒にいる限り、少女が消滅することは必至であり、避けられない。また、それは私を以てしか解決することのできない問題だった。
誰にも頼れない。唯一の解決策だと信じていた因果の胤さえも無力でしかなかった。
私かあの子。現在を生きている遠里小野日和か、未来に生きていた遠里小野日和のどちらかが煉獄に残り、どちらかが因果の胤を握り締めて日常に帰る。平穏を甘受した者に待ち受けるものは、私がこうして浸っているようなぬるま湯に似た幸福であり、艱難と辛苦を覚悟した者に待ち受けるものは無情なまでの孤独だ。どちらがどちらに進んだところで結末は覆らない。そして、孤独の痛みを知っている私にとって、それを選択することなどできるはずもなかった。
突き詰めれば私の問題。私が選択した結果の責任の在り処を、ちいちゃんに訊ねる。
「あの子が遠里小野日和であることは確かだとしても、私にとっての日和とはあなたのこと。誰もそこに這入り込めないし、代われない。あの子は、私にとって他人でしかないのよ」
残酷なことを言ったと思ったのだろうか。ちいちゃんは眼窩に影を落とす。
「
未来も過去も、現在に干渉することはできない。取って代わることは許されない。
「でもね、それだけじゃないの。私が彼女に背を向けられた理由は、もうひとつある」
彼女はこう続けた。《信頼》だと。
突き抜けるように広がっていた柿色の空は、地平との分かれ目に夜を混じらせていた。
誰もいなくなった屋上で、私は一人、湿った風に晒される。
「信頼……」
ちいちゃんは未来の私に何を託したのだろう。何を信じたのだろう。
私は――……私なら何をするのだろう。一人きりになった、その後に。
手を掲げる。この手のひらはいつか、煉獄にいるあの子の元に届くのだろうか。あの子の手のひらを少しでも温めてあげることができるのだろうか。
ふとした拍子に過ぎった考えに失笑して、私は手を下ろす。
何か、とんでもないことを。悪魔より悪魔らしく、神様より神様らしく、この世界を無茶苦茶にしてしまうくらいにでたらめなことを――――
「やらかしちゃえ、私」
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