第5話

―その5―出荷、そして……


 吾輩と同輩一同は、坂道を二脚獣に追い立てられて真っ直ぐな坂道を登って行く。我々の道の隣には10本の円形の脚を持つ、かなり大きな獣がじっとしている。

 我々は、その獣の背に乗せられたらしい。この獣の背中は、我々が背中から落ちるのを阻止するためか、10方面が柵やら壁やら幕やらに囲まれている。

我々を乗せた獣は、やがてぷうぷうゔぉうと強烈な悲鳴に似た声を出してゆっくりと歩き、やがて速足で駆け出した。

 外は強烈なボンジシャブーンと吾輩と同種の獣の臭いが立ち込めている。我々は、この甚だしい臭気の下で暮らしていたらしい。我々が住んでいた、10角形で直線と直角から成る山々の姿が見えた。我々はここを出て二度と帰って来ないのか、それとも夕方には戻って来るのか、さっぱり先が分からない。

 我々は昨日から何も食べていない。昨日移った房では、飯の類が一切出なかった。排泄をするためのおが屑や小穴の類さえなく、硬い地面に直接便や尿を落とした。臭いが強いのには閉口した。飲み水と言えば天井から時々落ちて来る水が地面に溜まったものを飲むしかない。塩気が欲しいときには自分が排泄した尿や便の類を摂る以外に方法はなかった。

 今、我々は、丸い脚を持つ獣の背に乗せられ、何の飲食物もなく、運ばれている。


 食い物こそないものの、外の風景は美味しそうだった。タケタケの林は緑の葉を取り戻して若々しい。タケタケの木々が消えると、外には緑溢れる山々が見えた。 10角形の野原には、今が食べ頃の青葉が沢山茂っていた。クサクサやハッパッパの香りがいつでも鼻まで漂って来た。

 道は均一な泥色が続いているが、その両側には緑の樹木が並んでいて、葉も下草もどれも美味しそうである。

 獣の背は盛んに揺れた。そのため体調を崩し嘔吐する輩も大勢いる。昨日から食べていないので吐瀉物は淡い黄色の粘液状である。吾輩も耳が痛くなって来た。  唯々、見える緑で食欲を紛らわせていた。

 風景には山と10角形の野原に混じって、我々が暮らしていたような10角形の岩山もあった。そこには大きな10角形の穴が規則的に並んでいて、我々の暮らしていた房を思い出させた。おそらく我々と同種の獣の住居であろうと思うと、この世には我々は大勢いることが予想され、実に頼もしい。

 時々、我々を乗せた獣は止まることがある。そういう時には、二脚獣達の歩く姿が見えた。我々の房に時々現れた二脚獣とは種類が全く違うのか、全身の毛の色が様々で、見るからに年老いた二脚獣が丸い脚の獣に引っ張られて歩いていたり、中には稚獣もいたりした。

 一度、我々を乗せた丸い脚の獣が長時間止まったとき、その傍らには一塊の二脚獣の稚獣達がいた。そいつらは我々を見ながら「ぶたぁ、ぶたぁ」と叫んだ。どうやら二脚獣の稚獣は、我々と同じ啼き声のようである。

 

 道が三十三折(つづらお)りになり狭くなってきた。いよいよ我々の気分の悪さは増した。

「辛いね。これからどうなるのでしょう」

 同乗している同輩の1頭が不安げに言った。

「そう言えばいつもの白い毛皮の二脚獣を全く見ないよ。あいつらはどこにいるんだろう」

「まさか、いつもの二脚獣が全く預かり知らないうちに、私達はあの丸い脚の獣の意思で勝手にどこかへ運ばれているのかしら」

「いつもの二脚獣さん、助けて」

 声は次第に悲痛になってきた。吾輩は事態を深刻には考えていなかった。豊穣な緑の匂いと生い茂る木々や草々に吾輩の精神は平常に保たれていた。何となく、吾輩が憧れていた野山での生活に近づけそうな気がしていた。それは確信に近いものがあった。

 吾輩は身の辛さから逃れるために、空想に耽った。空想は吾輩の旧い身近な友獣であった。思えば房に居て、同輩との間で居たたまれなくなったときにも空想に浸り集団生活の軋轢から生ずる苦しみを逃れたものだった。吾輩は、あの作りかけの物語であった、横暴な皇帝の話の続きを考えた。

 

 横暴な、巨大な牙を持つ皇帝は、やがて、皇帝が最も信を置く去勢獣の召使いに裏切られ、サンショウショウの棘に囲われた森の中に幽閉される。後継には皇帝に疎んじられていた、あの王子が選ばれる。王子は前・皇帝の妃になっていた、初恋の姫君を妃として得ることが出来た。

 皇帝となった王子と妃となった姫君は、幽閉された前皇帝に粗末な飯が与えられていることを知り、こっそりと木の棒に水や蜜を含ませ、前皇帝にそれを与えた……。

 吾輩は、そこまで物語を考えたとき、ふと続きをどうすべきか、悩んだ。

皇帝は回心しておいでになり、王子や姫君と仲良く暮らしたのか、自分の醜い生涯を悟り王子が与えた丸太で自分の喉を貫いて死んだのか。そして王子は父親と違い優しい皇帝となり民獣も彼の徳を慕ったのか。それとも父親にも負けぬ暴君とならざるを得なかったのか。

 吾輩が考え悩んでいるうちに、三十三折りの道は終わっていて、いつしか平坦で太い道となっていた。我々を乗せた獣は、柵に囲われた、泥色の広い地面に立つ、10角形の山々がある場所へ我々を運んだ。

 

 さて我々は獣の背から降ろされ、褐色とも緑色とも言える毛皮を生やした二脚獣に案内され、新しい房に入った。ここの房の二脚獣達は頭の毛も褐色あるいは緑色で額から平たい角のようなものを生やしていた。房の方は以前の住居で直前までいた房と同じく、地面にはおが屑も小穴もなく、ただ天井から水が降ってくるのみで、我々は硬い地面に溜まった水を吸い、自らが吐瀉し排泄した物体を嘗めたりしていたが、もう排泄物も吐瀉物も腹の袋の中には殆ど残っていない。

房の中には、吾輩と同じ大きさの同種の獣が大勢無数にいる。雄獣もいれば雌獣もいる。耳の垂れた者や立った者、毛皮が白い者や淡い褐色の者。皆、匂いが違うので争いが起きそうなものだが、房に窮屈に詰められて喧嘩をする場所の余裕もない。そして遠くの方から母者に似た臭いの雌獣や大きな雄獣の臭いまで漂って来る。すぐ隣の房には全身が黒毛の大きな若い獣がいた。

 更に我々の隣には、これまで見たこともない10脚獣がいた。

そいつらは我々よりも大きく、腐ったクサクサに似た臭いを放っていた。毛皮は白地に黒の大きな班がある。蹄は2本しかない。時々、ムゥウと大声で啼く。

この2本蹄の獣なら、何進法で思考するのやら、吾輩は空想してみる。蹄が2本なら2進法だろう。1、10、11、100、そんな数でこの世を把握しているのか。

 二脚獣はうろうろと歩いている。どこからともなく、「くろげわぎゅうおかっているのか」と長々しく啼いている者がいたのが何故か印象に残っている。

同輩達の中には、奇妙な所へ来たと泣きだす者もいたが、吾輩は今日の内に吾輩の好奇心の袋がはちきれそうな程、様々な見分をし、さして悲観する気持ちはなかった。ただし飯は今日も出ないらしい。吾輩は10脚を折り曲げ、水の溜まった硬い地面の上で眠った。以前に比べて眠ることに抵抗を感じなくなった吾輩は、早く寝入ることが出来た。


 吾輩は奇妙な夢を見た。

吾輩の目前に、生得概念から起想されるあらゆる食べ物、木の実や草の根、柔らかい草、そしてあの房で食したミカミカンやトマトマト、モイモイなどが、たんまりと目前にある。吾輩はそれらを自由に気兼ねなく食べていい。吾輩は猛烈な勢いで食したが、食っても食っても腹は満たぬ。そのとき遠くから、雌仔の、あの雌仔の泣き声と悲痛な悲鳴が聞こえてきた。

 吾輩は食うのを止めて雌仔の声のする方向へ近づく。

 雌仔の傍には、鋭利で巨大な前歯のようなもの1枚がついた丸太を握っている二脚獣がいた。二脚獣は正にその前歯を使って雌仔の頭を切ろうとしている。雌仔は二脚獣とも我々の同種とも知れぬ獣に10脚を押さえられ、身動きが出来ない。

 吾輩は、雌仔のために、あの雌仔のために戦う決意をした。

 吾輩は飛びかかる。その時、吾輩が乳獣期に切られた10本の牙が蘇り巨大化した。吾輩は二脚獣の持つ、歯の付いた丸太を自分の口で奪い取り、しっかりと歯で咥え、首を振りながら丸太の歯先を二脚獣や正体不明の獣達へと向けた。

「吾輩さん、気を付けて。二脚獣は私達を食い物にするため、私達の面倒を見て来たのよ。私達は、あなたも私も二脚獣によって殺されるわ」

「そうか、そうだったのか。これで何もかも納得がいく。だが吾輩は戦う。お前を二脚獣から救ってやる」

 吾輩は本気になって二脚獣へと飛びかかった。身体の大きさ、ことに重さでは吾輩も、雌仔も二脚獣に決して引けを取らない筈だ。吾輩は歯を剥き大声で啼いて、相手の獣達は吾輩を恐れて暫くは戦いは膠着状態が続いた。吾輩は、歯先の付いた丸太を投げ捨て、捨て身で自分の歯で戦う決意をした。

 そのとき、吾輩が乳獣期に喪ったふぐりが蘇り、先から乳状のものが迸り、虹を造った。吾輩は歯で噛み、鼻で突き、後ろ脚で蹴飛ばし、敵の獣達と戦う。雌仔も健気にも戦いに加わろうとしている。

 やがて眩い限りの光が射し、地面には豊かな水が渦となって現れた。烈しい緑の匂いがする。敵対する獣達は全て死に去った。吾輩と雌仔は美しい緑の中に居る。

「吾輩さん、本当にありがとう。私はあなたの中に愛の力を見ました。これで世界は平和になります。さあ、私と一緒に行きましょう」

 吾輩は、ふと不思議な気持ちがした。これは吾輩の望んでいることではない。吾輩は戸惑い沈黙した。やがて大勢の同輩達が吾輩の胴や腰や尻に鼻を擦り付ける。


 「目を覚まして下さいよ。ぶうぶう」

 吾輩は気付いた。 

 これは夢だったのだ。夢から目を覚ましたとき、しばしば夢の内容を忘れることがある。吾輩は夢のことを思い出す間もなく、現実世界への対応を迫られていた。

「私達の前の房にいる方々は二脚獣の命令指示でどこかへ行きました。隣の房は空っぽでしょ。今度は私達がどこかへ行くようです」

 間近にいた同輩が教えてくれた。吾輩は、我々一同は、赤い10角形の板と白い筒棒を持つ、緑色の毛をした二脚獣に誘導されて、細く真っ直ぐな道を歩かされた。

 一同は、まっ白な隧道に案内された。幅は1頭が歩けるだけの狭さしかない。例によって、天井も壁も床も直面で10角形に整えられた隧道である。吾輩は10本の脚で歩いていく。遠くから血の匂いがする。吾輩は、母者の産道を通ったときのことを思い出した。

 出口は白い帳が垂れている。ここでは後ろを振り向くことも後戻りすることも出来ない。

 吾輩は行く。あの白い帳の場所まで。

 そして帳から外に出たとき、両の耳と目の間に激しい痛みと痺れの衝撃が走り、吾輩は気を失った。

※        ※      ※      ※

 気がつけば吾輩は後ろ脚2脚で立ち、前脚は頭部と共に天井の方へ向けていた。2脚で歩いているのだろうが実感がない。

 やがて吾輩は自らが、後ろの2脚を縛られ、逆さに吊るされ、頸部には鋭い歯で切られた跡があり、そこから出血している状態なのだとようやく理解した。目玉を辛うじて動かすと、前にも後ろにも同じ状態の同輩達がいた。

 吾輩は声を出そうとしたが、既に頸の致命傷の故、声すら出ない。失血は吾輩の意識を薄めようとしている。

 吾輩は死ぬ。何故にかくの如き待遇になったのか、さっぱり分からぬ。何だかの天変地異があったのか。何かの事故なのか。見知らぬ敵が現れたのか。

 夢の中での言葉ではないが、もしや二脚獣が我々を殺し遺骸を利用するため、我々を幼獣期から育て、このような大掛かりな仕組みを作ったのか。吾輩には信じがたいことではあるが。

 血の匂いがする。母の胎を出たときと同じ血の匂い。恐怖よりも故郷へ帰ったような不思議な匂い。

 吾輩は死ぬ。苦痛はあまりない。唯、意識が弱まるのが恐ろしい。吾輩は生きている限り思考し続けたいと思った。そして誕生より今日いままでの出来事が瞬時に蘇った。それこそが、これまで語って来たことである。

 吾輩の生きざまは、他者と関わらず自己の森の中で生き続けた、ある種虚しくある意味満足した生涯であった。子孫を残すこともなく、誰の思い出にもならない、暗い一生ともいえる。

 吾輩はいつも我々の内の1頭に、同輩の内の1頭になれない自己に悩んでいた。それでいて吾輩が我々の内の1頭になることは、吾輩であるはずの吾輩が、平凡な並みの獣になってしまうことにも恐れを抱いていた。吾輩は吾輩でありたい。そのため吾輩は自己の心の森の内に籠り他者との交流を避けていた。結果、吾輩は他者との間で切磋豚磨されず、稚獣並みの言葉や思考しか持てずに死を迎える。そして最期だけは、我々の中の1頭として、同輩一同の中の1頭として死を迎えた。

吾輩は後ろ脚から逆さまに吊るされ首から血を出しながら意識は少しずつ薄れ、死へと近づいていく。母の胎を出るときと同じ血の匂いが周囲に満ちている。

 そんな最中に思い出すのは雌仔よ雌仔、お前のことだ。

 そなたはいつも吾輩を、優しく慕ってくれた。いつも吾輩を見つめ吾輩のことを考えてくれたね。なのに吾輩はいつもお前と真剣に付き合わなかった。今だから分かる、吾輩とお前の考えの違いを知ったり、吾輩がお前に言い負けされたりするのを恐れて、お前を避けていたのだろう。

 房の舞踏会で仲間が押し潰されて死んだ後、お前が若輩君死んだ場所で物想いに耽っていた姿が思い出される。なぜ吾輩はお前に声をかけなかったのか。お前と真剣に死と生について語り合い、考察しなかったのか。

 吾輩は死ぬ。全ての同輩の獣達もいつかは死を迎える。死とは平凡な日常からの逸脱であり、つまずきである。どんな凡獣も死の道に迷うだろう。

 吾輩は我々の中の1頭だった。それ故、清潔な房と整った水と飯を労することなく得ることが出来る毎日であった。何故にそのような生活が出来たのか、二脚獣に我々を殺して利用する心積もりがあったのか、それすら謎である。それも含めて吾輩は同輩我々の内の1頭であった。吾輩は、それに思考すべきであった。

 死が全身に近づいて来た。吾輩はわが生涯を思い悔いた。なぜ、吾輩は他者ともっともっと交流しなかったのか。さすれば言葉をみがき、優れたとまでは言えなくとも、道にまよう者そしてつまずく者への警句や詩や物語のひとつでも残せたかも知れぬ。ことばによって、えいえんのいのちをえたかもしれぬ。ことばによって、今すぐはむりでも、われわれをあやまちや不幸からすくえたかもしれぬ。

 めす仔さん、わがはいはあなたを愛します。いまになって、あなたとともに、ことばをさがしたいと思うのです。ことばは木の葉のように、枯れながらもつもり、みずを湛え、むしを養い、やがてつちに還りじゅもくをやしないます。わがはいは、そんなことばを、あなたとともにみがいて行きたかったです。それがやがて、さけられぬ死をむかえる、どうはいたちへのわがはいからのおくりものになるのです。

 わがはいはあなたをあいするとどうじに、あのぼんじゅうたち、われわれを、ぞくじゅうたちを、け色やみみやはなのかたちいろをこえて、あいしたいのです。

 どうか、このあいを、とめたりあざわらったりしないでください、めすこさん。

                             では さようなら

※     ※     ※     ※

戒名 愛肉豚 杜仁夫(とにお) 久礼我吾(くれいがーあー) 大兄

俗名 67D13123

享年 25週齢

 

                        (了)

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豚がぶうぶう啼いている~或るこぶた懺悔録~ 高秀恵子 @sansango9

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