第4話

―その4―

肥育期後期

140~150日齢→およそ180日齢(平均45日間)

体重約㎏80→115㎏前後


 二脚獣が空っぽの房を掃除している。

 幾つかの房には前回まで住んでいた先輩獣がまだ何頭が住んでいた。先輩獣のうち、同じ獣でも身体が大きく育った者は別の房に移されたらしい。居残りの先輩獣達は自分達よりも大きな獣がいなくなり、房にも余裕が出来て伸び伸びとした表情をしている。

 《太陽の王子》と《輝く日の姫君》は同じ房で暮らしていた。それも吾輩の房の真向かいに当たる所に。

 2頭は当然のように親しくなっていた。2頭はいつも一緒に飯の容れ物の前に現れる。2頭はいつも一緒に賑やかに水を浴び、石の床の上でぬた打ち回る。2頭が鼻や口で接吻をする姿が柵越しに見える。

 吾輩にとってその光景は恐ろしく冷たい辛い思いにさせられた。太陽の王子と輝く日の姫君。この世にこの2頭ほど美しいものは居ない。2頭が仲睦まじくする姿を見ることはこの世の最も美しい事象を見るのに最も等しい。 

 が、吾輩は自分が敗残者であることを自覚させられる出来事でもある。

 吾輩は2頭の睦まじい姿を初めて見たとき、悲しみと妬心のあまり目前の柵に激しく頭をぶつけ大きな音を鳴らした。ようやく2頭は吾輩に気付き、2頭は温和で親しみのこもった目礼を吾輩に送った。

 吾輩は大声を出して話をする趣味はない。そのまま返礼もせず反対側にある壁の大きな穴の方へ行き、吾輩の唯一の友者となったタケタケの木々の黄色い葉を眺めていた。吾輩は泣いた。この房の壁穴からはこれまでの房の壁穴とは違い、遠方に常緑樹の山脈が見える。吾輩は出来るのなら、あの山の中で暮らしたかった。

 噂話で知ったことだが、《太陽の王子》は新しい房での大将争いに負け、一時は悔しさから自分の頭を柵にぶつけるほどに、やけっぱちになっていたらしい。そんな彼に親切に慰めたのが《輝く日の姫君》だったという。あの2頭にとって、吾輩は何でもない対象だったのだ。

 

吾輩が十全の脚を折り畳み、悲しみと羨望に気持ちで、体調まで崩れかけているとき、例の雌仔が吾輩に近寄って来た。

「ねえ、今夜から私達の房でも《懇親会》(コンパ)とか《嵐の大騒ぎ》(ストーム)とか《陽気なバカ騒ぎ》(ジャンボリー)とかが始まるのよ」

 懇親会、嵐の大騒ぎ、そして陽気なバカ騒ぎは、房の先輩から後輩へと受け継がれる行事で、二脚獣が寝静まった深夜に行なわれる。《太陽の王子》の居る房では既に毎深夜に賑やかな会合を持っていて、その房の同輩達の和やかだが活気ある笑い声が聞こえて来る。

「吾輩さん、私はそこで演説の下案を考えて来るようにこの房の大将に言われたの。一緒に考えて下さらないかしら」

 吾輩は、ああと曖昧に返答をした。

 

  深夜になった。大将の取り巻きの獣達が

「惰眠を貪るな。皆の者、起きよ」

「眼を覚ませ、我が同胞達よ。赤き血潮を燃やせ」

と叫んでいる。

 この房の大将が演説をする。吾輩も同輩も、我々一族は夜闇にも効く目を持っている。大将の隣には、例の雌仔も居た。

「我々はわれわれである。何時如何なるときも我々はわれわれである。我々は瞬時たりともわれわれである。行住坐臥、坐臥行歩、何時如何なる瞬時も我々はわれわれである。我々はわれわれ以外の何者でもない。我々以外の者は決してわれわれには成れない。ダーターファブラ―、ブーブーファブター。この話はお前に関するものである。この話はお前達に関するものである。我々はわれわれであり唯一無二の存在である。しかし我々は常にわれわれとしての自覚を持っているだろうか。我々はわれわれであることを忘れがちである。我々はわれわれであることをたった今、取り戻そうではないか。ダーターファブラー、ブーブーファブター。この話はおまえに関するものである。この話はお前達に関するものである。我々の自覚はわれわれ自身の中にある。我々は胸中にあるわれわれ自身を覚醒させよう。我々がわれわれとして蘇ったとき、我々はわれわれになる。我々は振り向くことをしない。何故なら我々の首は後ろを振り向くように出来ていないからだ。我々は前進するのみである。我々は100以上の数を知らない。なぜなら100頭の我々が団結をすれば世界は変革出来るからである。我々にはその気概がある。我々にはその勇気がある。我々にはその確信がある。今こそ、此処に集いたる者一同、我々はわれわれであるべきだ。心を1つにして我々はわれわれになろう。我々は我々だ。我々以外の何者でもな      

い。今こそ声を揃えて言おう。みーつー! みぃつぅぅ! ういつー! うぃつぅぅ! あいきゃん! あぁいきゃぁん! ういきゃん! ういぃきゃぁん! あいはぶあどりいむ! うぃはぶあびっぐどりいぃむ!!!」

 真夜中、ここの房の大将は演説を終え、他の者達はぶうぶうと鼻を上に向けて鳴らし舌を打ち背中の毛を立てた。

「そうだ! 我々はわれわれだ! われわれは我々だ!」

 灯りが消えた後の夜の静けさを打ち破る程の強さで俗獣達の声と脚踏みが響く。雌仔は雄大将の隣にいるのが暗闇の中で見えた。

 おい唄歌い君、ここは酷い世界だな。吾輩は呟いた。

 吾輩はこの雰囲気に馴染みたくなかった。

 何物にも関わりたくなく、何者にもなりたくなかった。若さの関門を突破しなければ成獣になれないとすれば、吾輩は何時までも仔どもでいたかった。

「吾輩さぁん」

 大将の隣にいた雌仔が吾輩に近寄って来た。

「騒がしくしてごめんなさいね。でも私達にはあなたのような方も必要なの。あなたは皆とは違うわ。あなたは冷静なのよ。冷めているよ。だから皆が熱意に圧されて間違った方向へ進むときには、勇気を持って何かを言って欲しいの。あなたなら出来るわ」

 雌仔はそう言うと夜闇の中へ消えて行った。

房の群れの統率者の演説が終わると、房内を練り歩く行進が始まった。「我々はわれわれだ。われわれは我々だ」。房内の獣の数はだいたい20頭から30頭程である。今は房に比べて個々の獣達の体型はさして大きくないが、やがては成長し房が狭くなる時が来る。そのときは、この行進は如何なるふうに行われるのだろうか。

同輩達はどこでこの歌を覚えたのか、こんな歌を歌う。


『二脚獣も皇帝も英雄も我々を救えない。

 われわれは何者でもないが全てである』


 吾輩は同輩達が排泄を行なう場所、房の隅に居ながら、同輩達の列がやって来ると、なんとか動いてぶつかるのを避けた。列は大声でぶうぶうと言い、尻を振って練り歩く。

 房のあちこちでも歓声が上がった。夜、二脚獣が寝静まって何も彼ら彼女らが何も知らないうちにstorm(ストーム)とかcompany(コンパ)とかjamboree(ジャンボリー)とか呼ばれる行事がなされていた。

夜明け近くには、疲れ果てた同輩達は雄雌混じり合ってその場で眠った。こうして 朝食を準備する音が聞こえるまで熟睡する。

 

 飯の内容はすっかり変わっている。黄色い粉であるコメヌカヌカが白いムギフスフスマに替えられていて味が全体に甘くなっていた。同輩達の食欲はこれまでにもなく旺盛なので、デントデンコーンコンやマイロマイは細かく砕かれ、一度に大量の飯が食えるようになっていた。おやつには赤紫色の皮を持つ、紡錘形のモイモイが出る。それでも連中達の食欲は収まらず、朝飯が食べ終わるのは太陽が昇りきる昼近くになってしまう。その間、自分の食事の順番を待ちながら、同輩連中は夜の睡眠不足を補うため、うたた寝をする。もし、昼間だけの同輩連中の動きを見ていると、なんと寝ては食っての、おとなしい生き物だと勘違いするに違いない。

そして雌仔の態度にも変化があった。相変わらず吾輩を憧憬と敬愛を含んだ瞳で見つめていたが、以前のように世話を焼くことはなかった。

 壁穴の外のハッカッカやヨモヨモギの草は盛んにその草丈を伸ばし春らしくなってきた。タケタケの長い円錐形の新芽も生えて来た。それに反比例するかのようにタケタケの木々の色は黄色くなり葉の一部を落とした。雪の日にあんなに青かったタケタケは届いた春を見守って枯れるのだろうか。

 吾輩が外を見ていたとき、雌仔が吾輩の知らぬ間に近くに来ていた。

「吾輩さん、急に来て驚いたでしょ。ごめんなさいね」

 吾輩は何気なく雌仔の姿を見た。かつての雌仔は目立つほど血色がよかったが今は普通の毛並みの色をしている。尻に肉がつき太っていて、どこか成獣めいてきた。なんとなく母者のことを連想させた。唯、耳と背の細いたてがみのみが、かつての薄い赤みを残していた。鼻には相変わらず黒い痣がある。

「何だい。形而上学の話かい」

「違うの。どうして私があなたとお友達になりたいのか、改めてお話ししたいの」

 雌仔は吾輩に肩を寄せながら話を始めた。

「私は雌だわ。だからいつかはお母さんになると思うの。知らない雄と少しだけ付き合って、そして別れてから妊娠したのが分かるって、私の母さんが私が小さい頃、話してくれたわ。そのまま仔どもは父親の顔を見ずに育つの。たぶんあなたもそうでしょうね。私はそういう雄雌の関係になる前に、雄の方の考えとか知恵とかを知りたいと思うの。真面目なお付き合いをしたいのよ」

「吾輩は真正の雄ではありません。それを知っての願いなのですか」

「ええそうよ」

 雌仔は言いながら少し恥じらっていた。そして言葉を続けた。

「私のお母さんの話をしましょうか。私のお母さんの頃は女の仔は女の仔だけで生活していたのですって。広い水遊びの水場や穴掘りのための砂場があってとても良い所で育ったの。でも女の仔が大勢いていつも喧嘩ばかり。成獣になると柵の付いた自分専用の房で暮らしたのだけど、こうびのときまで、あなた、『交尾』って知っているかしら。交尾するまでお母さんは雄を見たことがなかったの。今の私は専用の遊び場はないけど、ここは雄の仔も一緒だから、あなたに会えて良かったわ」

 雌仔は吾輩に眼差しを向けた。吾輩は少したじろいだが、吾輩は雌仔を見つめ続けた。

「ところで雌仔さん、あなたはもっと小さかった頃は本当にきれいな花葩色でした。そのため、いじめられたりしたこともあるだろうと思います。今は普通の色ですね」

「ええそうなの。あれは事故みたいものなの。お母さんの話だと私達はどの仔も生まれてすぐはまっ白なんだけど、二脚獣が私達に棘を刺すでしょ、そうすると少し経つと皆、  毛色に赤みが挿して来るのよ。だけど私の場合は二脚獣さんが間違って赤い色の素を沢山刺して入れ過ぎたの。そのため白ちゃんから赤ちゃんになる頃は病気勝ちで大変だった

わ」                                    雌仔はさも苦労したように話すが、あの《輝く日の姫君》が、母獣と別れて他の母獣のところへ里子に出された苦悩に比すれば、吾輩には大したことがないように思えた。精神的苦悩は、肉体上の苦痛よりも記憶に残る。精神は常に物体に過ぎない肉体を超越したものである。                         暫く雌仔との間に沈黙が続いたが、雌仔はまだ傍らに居た。

向かいの房から激しい笑い声がする。この房よりも更に楽しいことが起こり、その幸せな笑いの中心に、あの彼と彼女がいるように吾輩には思えた。笑い声の息の匂いだけでも嗅いでみたい。吾輩はやや駆け足で房の反対側の、入り口近くの柵へと向かった。みれば雌仔も何事なのかという表情で吾輩について来る。

「ねえ、吾輩さん。昨日の夜、議論があったのよ。哲学のお話しの。『存在が意識を規定するのか、意識が存在を規定する』。さあどちらでしょうという話なの」

 雌仔はやや早口で言う。

「そんざいがいしきを、ですか」 

吾輩は、向かいの房を眺めながら言った。

「つまり物質は精神に先立つものか、精神が先にあって物質が存在するのか。そんなお話しなの」

 そこまで高尚な話題を会話していたのか、同輩達は。

「随分と難しい、現実に生きるのに関わりのない話をするんですね。吾輩には分かりません」

 向かいの房でまた笑い声が起こった。吾輩は向かいの房の者達に羨望の感情を持った。

「それが私達にとって重要になったの。つまり死んでも意識は存在するのか、死んでしまえば全てお終いなのか、そういう話なの」

 雌仔によれば、何頭かの同輩達、それは雌仔自身を含め、既に身近な者の死を目撃している。死後、我々はどうなり、我々はどこへ行くのか。

「もし精神が肉体とか物質を越えたものなら、死後も精神は存在するはずだわ。だけど誰も死んだ者の精神を見たことがないって。一方ではこんな意見があったわ。私達の見た死者は幼過ぎて精神的なものを残せなかった、もっと精神が発達していれば精神は肉体の死を越えて生き延びたかもって」

 吾輩はふと、歌唄い君のことを思い出した。吾輩は歌唄い君のことを誰にも話したことがなかったし、思い出すことすら稀であった。

「その内に精神とは何かという話にもなったわ。お腹が空いた、いい匂いがする、これも精神の働きだわ。だから精神とは感覚の束に過ぎないという意見もあったの」

 向かいの房から柵越しに、あの彼女の腰と尾っぽが見えた。彼女は機嫌よさそうに尾っぽを盛んに振っていた。吾輩は自身の鼻が長くなるのを感じた。これは止め様がない。

「大将は精神派なの。我々には言葉がある。言葉を残せば肉体に死が訪れても、精神は残り、我々は世代を越えて精神を残すことが出来る。だから言葉は」

 雌仔は何故か突然黙った。

 柵越しに、あの彼女の横顔が見えた。長い鼻毛が印象的だ。吾輩は何も考えず、見つめ続けた。

「吾輩さん、あなたは私の話を全然聞いていらっしゃらないのね。いいわ。もう。あなたはあなたの見つめたいお方を見つめていらっしゃい。私はあなたのことを諦めます。ぶぶぶぅ、ぶぶぐぅ、うぇぇぇん。ぐぐぶぅ。ぐぐぶぅ」

 雌仔は突然、大声で啼き始めた。あまりにも大声なので周囲が注目する。吾輩は雌仔の傍を離れて奥へと向かった。

 二脚獣も雌仔の啼き声に驚いたらしく、あの二脚に羽を生やしたように飛んで雌仔の所へやって来た。

 雌仔は二脚獣から何か食い物を貰ったらしく、機嫌が直って尻尾を左右に激しく振っている。吾輩を諦める悲しみよりも食い物のほうが雌仔には喜びが大きいらしい。

 吾輩は、すっかり黄色くなったタケタケの木々とその彼方にある常緑の山脈を眺めていた。そしてまたスズスズメやテフテフが登場する物語でも作ろうと考えていた。考えていたが得体の知れぬ悲しみが胸の奥よりこみ上げ全身を襲う。精神が我が身を規定する。吾輩はその得体の知れぬ悲しみ、身の置き所もない程の苦痛に覆われ何も考えられない。夕飯を運ぶ音がする。吾輩は10肢を折り畳み顔も伏せてその場に動かずにいた。二脚獣が房と壁の穴の間の道を歩いている臭いがした。

 

 気がつけば吾輩は病者の房にいた。特に管や蔦や棘は身についていない。

 吾輩は周囲を見渡した。空いている房が多いが、吾輩の隣の房には、大きな2つのふぐりをつけたおじさん獣が横たわっていた。かつては大柄なおじさんだと思われるが、骨と皮に痩せ、毛の所どころが抜けて地肌が痛々しく見えていた。その上、腹には大きな腫瘤がある。

「若いにいちゃん、何の病気だい。儂は死に病じゃ。いっそう二脚獣がコロしてくれても良さそうだと思うが、痛くて苦しくてたまらんときは昔を思い出しとる。はあはあぶうぶう」 

 おじさん獣は、雌との交合の思い出話を始めた。

「儂は乳飲み仔の頃はともかく、それから後は成獣になるまで雌なんぞ見たことがなかった。まだ若い頃は二脚獣が触手を地面につけて我々のような獣みたいになって、交合の練習相手になってくれたんじゃ、はあはあ苦しいよ。成獣になってからは広い自分だけの房を宛がわれてのう、普段は水浴びしたり隅の方にある砂遊び場で穴を掘ったりしていた。ああ、しゃべるのも苦しいや。そして時々は雌ばかりいる房に連れて行かれて雌と交合をしたもんじゃ。雌の方は自分専用の房がひどく狭くて気の毒じゃったよ。儂は日によっては3頭も10頭も11頭もの雌と交合したさ。最初の内はやり方が分からんで雌の顔の上に乗ったりした。勿論、そういうときは雌に怒鳴られた。やがて雌と上手く交われるようになった。毎日々々違う相手と交合した。だけど1年後には以前身籠らせた雌とまた会うこともあったな。楽しいなぁ。思い出すと苦しみが吹き飛ぶよ。儂の仔どもは沢山いる筈だが儂は自分の仔どもとは会ったことはねえよ。一度か二度、儂の倅だと名乗る奴が儂の房の隣に居たが、血のつながりのある息子だからってどうしてやることも出来ねえ。男親は寂しいもんだね。それでも雌ちゃんとの交合は楽しかったさ。儂はもうすぐ死ぬだろうが死ぬ間際まで楽しかった雌とのなんちゃらを思い出して死ぬつもりじゃ。若いの、お前には楽しいことがあったか、やりがいのあることはあったか。お前さんはふぐりなしの雄か。偶にそういう雄と病房で会うことはある。だがのう、ふぐりのないお前さんにも何か生きがいとか使命とかある筈じゃ。お前さんはやりたいことをやったか」

 病気のおじさん獣は猶もしゃべり続ける。出会った雌との交尾の話までだらだらとする。

 二脚獣が飯を運ぶためやって来た。吾輩にはいろいろな種類の飯が用意された。モイモイや粒飯やほの甘い粉飯、見たことのない形の飯やらがやって来た。一方の隣のおじさん獣には、水と少しの粉だけが来る。おじさん獣はもう、食い物が殆ど身体に入らないらしい。

「若い者よ。儂はこの病気になって何度か二脚獣にコロされそうになった。何か毒を儂に与えようとした。死なせたほうが病気で苦しまなくていいと思ったのだろう。しかし儂は死にたくない。生きて生きて生きてる間は雌ちゃんのことを思い出して痛みを堪えているつもりじゃ。その方が毎日が楽しいからのう。死にたくない。死にたくない」

 こんなおじさん獣の隣に居たのでは、吾輩の気が滅入る。吾輩は早くこの房を出たくなった。吾輩もいつか死ぬ。そのときは何を思うだろうか。そして吾輩はこれからをどう生きるべきか。

 吾輩はひとつの決断をした。


 吾輩が二脚獣に連れられて元の房に戻って来たとき、匂いを感じたのか雌仔は吾輩が房に入るなり走って近寄って来た。

「吾輩さん、大きくなったわ。見違えそうよ」

「吾輩は病気をしていたのですよ」

吾輩は素気なく答えた。

「やっぱり男の仔は、じゃなかった雄さんは違うのよね。すっかり成獣の雄に成長しているわ、吾輩さん」

 雌仔は吾輩を憧憬の目で見る。

「吾輩が真正の雄ではないことをあなたはご存知でしょ、雌仔さん。なのに今の言葉で吾輩の心は傷つきました」

 吾輩は雌仔の側を離れた。

 思えば雌仔との会話は、これが最後であった。

 病房を出て以来、吾輩には新しい野心が芽生えた。もう、空想や思索で時間を潰しくない。

 吾輩は外の天然の世界で、肉体を酷使し自己の肉体の限界に挑み、それによって精神を高め己の欲望から解脱する生活を夢想した。世の中の無駄な交際や陰口やら喧嘩のない世界で、己の精神のみを磨いて生きていたい。それが吾輩の未来への望みであり生きがいとなっていった。空腹は感覚を磨き、雨や風に打たれた肌は己の孤独感を増す。孤独と磨かれた感覚は吾輩を自由へと導く。

 そして吾輩は高い境地に達し、今の管理された生活を見下す。そこでは憧れ続けた太陽の王子の存在も輝く日の姫君の存在も小さくなる。吾輩は生涯で最大の妄想をした。

 一方、吾輩の日常生活はむしろ食欲が増進していた。あの病者だけの房でいろいろな飯を多く食べたせいか胃袋がすっかり拡張し、朝夕の飯を沢山食べた。食べても食べても空腹だった。

 吾輩の生活は外見上は俗獣のそれにどんどんと近づいて行った。すなわち沢山食べ、食べるためなら横にいる仲間を押し退ける。食べ終わると少し休んでから房内を駆けたり穴を掘ったりする。水を出すための出っ張りを押して水浴びをする。そして眠る。

 これらのことは全て吾輩が、この外へ出てからの訓練のつもりで吾輩は取り組んでいた。即ち穴掘りは山や森で食い物を探すために、水浴びは雨や川のどんな冷水にも耐えるために。仲間達の穴掘りと水浴びが戯れであり暇潰しなのに対し、吾輩にとっては真剣な修行であり苦行ですらあった。

 吾輩は依然として穴掘りをするとおが屑が鼻に入るのを苦痛に感じていた。水浴びは怖かった。雌仔も水を浴びおが屑を掘っていたが雌仔には遊びに対する歓喜の表情があった。吾輩は雌仔を無視して作業に取り組んだ。

 吾輩の変化に仲間達はそして雌仔は、どんな感情を持っていたのか吾輩には全く分からない。それほど周囲のことなど構わずに食べそして動いた。吾輩は日々力を増して行った。鼻の力も蹄の力も強くなっていた。身体の成長は吾輩のみならず房の同輩にも起こっていた。そのことがある夜、思わぬ不幸をもたらした。

 

 房の中では相変わらず夜になると、陽気なバカ騒ぎがあった。以前の演説とそれに続く行進はなくなり、替わって舞踏会が行なわれていた。一同は舌で10拍子に3拍子が混じった複雑な拍子を打ち、それに合わせて相手に鼻接吻をする。尻尾も拍子に合わせて正確に振る。毎夜、それは続いた。

『我はい寝まし。されど汝は踊られ止まず』    

吾輩が作ったのか、それとも彼方昔からある詩なのか、吾輩はそんな詩を思い浮かべた。

 ある深夜、突然、地面から1つの大きな響きが伝わり、同輩達の舌打や歌う鳴き声が悲鳴へと変わった。吾輩は我が身の向きを変えて何事が起ったのか知ろうとした。暗闇の中で沢山の同輩達が倒れている。吾輩の側を覚えのある雌仔の匂いが通り過ぎて行った。雌仔はこの倒れている同輩の中にはおらず無事だったのだろう。 同輩達は暗闇の中でゆっくりと徐々に立ち上がった。そのままその夜の踊りの会は中止となった。同輩達はその場で眠りについた。他の房では賑やかな歌声と拍子と笑い声が続いていた。

 朝になりようやく日の光が幕の隙間から房に差し込むと、事態が明らかになった。1頭の同輩が倒れたまま動かない。目と口元を半開きにし、微動だに動かない。死んだのだと吾輩は思った。同輩は踊っている内に仲間に圧されて死んでしまったのだ。吾輩だけでなく仲間も日々身体が大きくなっていた。しかし房の広さは変わらない。だから圧死は起こった。

 同輩達は動かなくなった若輩君に鼻を近づけたり喚いたりしている。もうすぐ二脚獣が来る。二脚獣の助けを貰わなければ我々だけの力では解決出来ないだろう。

同輩達は朝飯のことも忘れてぶうぶうぐうぐうと啼き続けた。早く二脚獣に来て欲しい。この時は吾輩も一緒に啼いた。吾輩は目前の若輩君の遺体のことで頭が一杯であった。

 やがて二脚獣が姿を現した。我々の声で分かったのか、二脚獣は直ぐに房に入り若輩君の遺骸を見つけた。

 二脚獣は触手を斃れた若輩君に近づけたり耳を胸に当てたりしていた。そして若輩君が死んでいると分かると二脚獣は目から涙を流し泣き始めた。吾輩は二脚獣が感情を露わにして泣く所を初めて見た。

 二脚獣が2頭になり若輩君の亡骸を房から運び出した。同輩達は、少し安堵の表情を見せ、やがて管から出た朝飯を頭を突っ込んで食べ始めた。いつもの朝となった。吾輩も水を出すための出っ張りを押して水浴びをしたり水を飲んだりした。同輩達は隣や向こうの房に向けて何か話をしている。おそらく昨夜の事件のことだろう。

 

 それからは夜の舞踏や演説の団居(まどい)は公式にはなくなった。ただ、夜には小声で話したり小さな舌打ちで拍子を取る音があちこちで響いた。同輩達はかなりの大きさになっていたので動くのに用心するようになった。

 雌仔は昼間、例の若輩君が死んだ場所へ行き、鼻を地面に着けながら歩いていた。吾輩は、雌仔と亡くなった若輩君と、所謂よい仲だったのかと思い、妬心が沸き上がり意外に感じた。この妬心は向かいの房、太陽の王子や輝く日の姫君の居る房から楽しそうな笑い声が聞こえてきたときも起こってしまう。吾輩の意思とは裏腹な感情である。

 雌仔はやがて若輩君が亡くなった場所に悲し気な表情で座り込んだ。

 今思うと雌仔は若輩君の死に、自己の至らなさを悔いていたのかも知れぬ。元気に踊っていた若者のあっけない死に哲学的な思索をしていたのかも知れぬ。

 若輩君の死は、吾輩の存在や思索とは独立して起こった事象であった。吾輩が堅忍不抜で同輩とは違う立ち位置に居ても予見出来ぬ事件であった。吾輩は若輩君の死に何の責任もない。仕方のない事柄である。だから吾輩は若輩君の死をもし雌仔が悲しみ悔いているのなら吾輩は雌仔にかけてやる言葉は何もない。

 そう考え吾輩は雌仔には近寄らなかった。

 吾輩は自分の肉体を成長させる作業に没頭していた。

 そうして雌仔との別れの秋(とき)がやって来た。

 

 あるとき、二脚獣は我々の中から体格が大きな者の身体の大きさを測り始めた。その中に吾輩も居た。いつの間にか《太陽の王子》も《輝く日の姫君》も、ここでは暮らしていなかった。身体の大きな者は二脚獣によって房から出され、丸い10本脚を持つ獣の背中に乗せられた。その中に吾輩が居る。吾輩は住み慣れた房から離れることとなった。

取り残された雌仔が、悲し気な声と臭いで丸い10本脚の獣に近寄ろうとするのが気配で分かった。雌仔の声は悲痛であった

 だが吾輩は振り向いて雌仔の姿を見ることは出来ない。我々は後ろを振り向けない獣だったのだ。

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