第3話

―その3―

肥育期前期

77日齢→140~154日齢(9~11週間)

体重約30㎏→約80㎏


 新しい房に移されたのを機に吾輩は雌仔とは離ればなれに暮らすことになった。雌仔は吾輩の隣の房に住んでいる。

 1つの房には、20頭から30頭ぐらいの同輩達が居る。同輩達は窮屈でおが屑がすっかり黒く臭くなった以前の房から、広く新しい房へ移れてうれしそうである。吾輩の両隣の房は吾輩の居る房と同じ位の大きさの同輩が居る。逆算して考えると、どうやら吾輩は身体の大きさだけなら並みらしい。

 どこの房でも新しい生活の最初は、争うことである。雌獣も雄獣も力自慢の者は次々と喧嘩を吹っかけて来る。吾輩は早々に負けて隅の方で寝ていたが、喧嘩に負けた者がその腹いせに吾輩を攻撃するのには閉口した。

 それでも吾輩の房では、群れの大将は早々と決まった。美しい若雄が勝利し、我々の統率者となった。後に吾輩が《太陽の王子》と密かに名付け、敬愛した若雄である。

 その若雄は同輩のうちで僅かながら一番体格が良かった。この若雄は一段と身体が上等に出来上がっている。色艶がよく、身体が引き締まり、脚が短く太く、声は低く大きく響いていた。体臭は吾輩の語彙力では例えようのない程の、若い女の仔ならその美しい香りに酔いふらつくと評される程の、優れた香りであった。吾輩は、生まれた時以来の体験から、美しい者、強い者への妬みが強かった。が、その 若雄は吾輩の美への妬みを打ち消すほどの正義と高潔に満ちていた。何より性格が公正であった。

 若雄は朝、誰よりも早く起きる。まず水を飲み水遊びをする。彼が水を浴びるとそこに虹が現れそうな程、大量の白い水飛沫が飛ぶ。  

 そして何名かの同輩と連れ立って粒飯が来る容れ物の方へ歩いて行く。連れ歩く同輩は日によって違う。故にどの同輩も公平に朝一番目の場所にありつけた。

 若雄はまた、同輩達に気楽に声をかけた。吾輩のことも数の内に入れてくれ、吾輩を「博識り君」と気安く呼んでくれた。吾輩は感激した。

 その若雄君の周囲には自然な笑いがいつも溢れていた。あまり笑うことのない吾輩も、その若雄の工夫した、機智と思いやりに満ちた様々な即興の笑い話に目と口を動かし舌を打ち鳴らした。雌の同輩達は残らずその若雄に憧憬と愛情の視線と香りを送っていた。

 二脚獣もまた、彼を愛していた。我々の中で二脚獣に最も愛されていたのは間違いなく彼だ。二脚獣は朝に夕にその若雄に笑顔を向け、ふんふんはらはらと何か言っていた。脚獣の言葉は吾輩にはあまり理解出来ないが、その明るい調子から褒め言葉である筈である。二脚獣は進んでその若雄の背を撫で頬を触った。

 しかし、その若雄君を一番愛していたのは、この吾輩でありたかった。

吾輩は泣かんばかりの憧憬と、吾輩の目前にあるものなら全てを譲り渡したい程の愛情と、この若雄君のすること言うことであれば何でも信じたいほどの敬愛の念を持っていた。             

 

 吾輩は、この若雄に《太陽の王子》の名を与え、心の中だけでその名を呟いて呼んでいた。

 若雄君が《太陽の王子》に変貌するのは、昼下がりから夕方にかけての、ある時間であった。

 若雄君は房の壁際の、採光と通風のための大きな10角形の穴の近くに立つ。大きな穴からは午後の日光がタケタケの木陰と共に房に差し込む。太陽は惜しげもなく若雄君の背や頭を照らす。若雄君の身体の輪郭が、陽の光によって浮き上がる。

若雄君は鼻をもたげ天井を見つめる。形のよい鼻と、たてがみの如き背の毛の一群と、前脚より長い後ろ脚の、若雄君の美しい肉体が浮かび見え、日食の時に見られるという光冠の如く首筋から背筋にかけてのたてがみが薄暗い房の中で輝く。この時、彼は1頭の獣であることを辞め、《太陽の王子》となる。沈む太陽が最後の光を惜しみなく彼に与える。まさしく太陽すら彼を愛でるのだ。

 実は彼は、このとき排泄の後の欠伸という、最も獣らしい行為をやっていのに過ぎない。そんな獣めいた行為でさえ、彼の健康な外見の美しさは、彼が沈む太陽と何かのやり取りをしているようにすら見えた。

 やがて房には天井にある、細長い不思議な灯りが点る。やはり彼が光を呼んでいるのかも知れぬ。そんな奇跡を起こしそうな力を、彼は感じさせた。

 吾輩は《太陽の王子》に対し激しい憧憬を感じていた。もはや彼にとって吾輩が大勢の朋友の中の1頭では物足りなくなった。2頭だけで話をしたい欲望を彼に対して持つようになり、その欲望は日に日に心の中で膨張し続けていた。が、彼の周囲にはいつも2頭から10頭余りの取り巻きのような朋友がいた。公正な彼は取り巻きを固定せず、いろいろな朋友を側に置いた。吾輩が彼の傍に居られる日もあったが他にも雄雌の取り巻きが居る。吾輩が彼を独占することは不可能であった。

 

 ところで例の雌仔とは柵越しによく目と目が合った。

「吾輩さぁん」

 ある時、雌仔は大きな声と強い匂いで吾輩を呼んだ。

「何ですかね」

 吾輩は仕方なく、雌仔のいる柵に近いて行った。

「特にご用はないわ。お元気そうね」

「用がないのに呼ばないで下さい」

「お忙しいのかしら」

「吾輩が忙しい筈がありません」

「吾輩さんがお元気で何よりだわ。以前よりも明るくなられたみたい。私、嬉しいわ」

 雌仔は向かい合ったこちらから見ても分る程、機嫌良さ気に大きく尻尾を振っている。

「そうですか。こちらの房は優れた若雄君が同輩を率いていますので、吾輩も明るく居られるのですよ」

 雌仔は少し驚いたような表情で顔を傾けてから

「いい方はいいね」

 と考えたように答えた。

「そなたの方は今の群れに慣れましたか、雌仔さん」

「まあ、あなたが私のことを気遣って下さって嬉しいわ。でも、あなたと一緒じゃなくて、とても寂しいの、ぶうぶう」

「お友達が出来ないのですか、だから吾輩を呼んだのですか。」

「あら、私には女の仔のお友達なら沢山いてよ。皆さん、食べ物のことやら穴掘りことなら、いっぱしの口を利くわ。でも生き方とか哲学のお話しとか真面目なことは敬遠して話題に上らないのよ。だから私は吾輩さんとずっとお友達でいたいの」

「吾輩はそなたと難しい話をする道具ではありません。でも吾輩はついつい考えてしまう。そんな滓のような思考でよければ聞き相手になって下さい」

「嬉しいわ。吾輩さんのお話しを沢山聞けるって。ありがとう。ぶちゅぶちゅ」

 雌仔は柵越しに吾輩に接吻をして来た。吾輩は後ずさりする。

 その時、何頭かの同輩達の足音が吾輩等の方に近づいて来た。

「ねえねえ。穴掘り遊びをやろうよ」

「穴掘り遊びか。それはいいなぁ」

 若雄君の声が続く。

「ぶうぶう博識り君。君も一緒にやらないかい。君の大きな鼻で加勢してくれると僕も嬉しいよ」

「まあ、お友達と穴掘りをなさるのは健康的ですわ。本当にいいお友達に恵まれたのですね、吾輩さん」

 雌仔は嬉しそうに言って柵の側から離れた。相変わらずの跛行の歩き方をしている。

 吾輩は若雄君や同輩達とおが屑の地面に鼻を使って穴を掘り始めた。吾輩は穴掘りは苦手なので吾輩は掘る真似だけをしながら、ただただ若雄君の姿を盗み見ていた。それにしても若雄君は逞しい。若雄君の周囲には大きな穴が出来ていた。彼は水浴びも大好きだ。今は水浴びをしてもさして寒い季節ではないが、若雄君は水をたっぷりと浴びる。飯もたくさん食べ、歩幅大きく逞しく歩く。

 若雄君の光の前では吾輩が闇の中で見えたものが霞んで消えてしまう。吾輩は闇を消して光をもっと求めたほうがいいのだろうか。 

 若雄君と共に穴掘り遊びに参加しながら吾輩は思った。若雄君のように逞しく美しくあるには、形而上学的なことを考えないことに尽きるのではないかと。吾輩も下らない空想や観念の遊びを吾輩も止めてみるべきではないかと。若雄君のように積極的に水浴びをし快活に動き回ってみる。それは吾輩に可能なことなのだろうか。

「おや、博識り君。君はさっきから全然穴を掘っていないよ。それともまた考え事をしているのかね」

 若雄君が吾輩に声をかける。他の同輩達は、またあいつのすることだ、この獣に生まれながら穴掘りをしないでぼぅと考え事なんて莫迦げている、その上みっともない長い鼻だと言わんばかりに忍び笑いをした。

 若雄君の厚意も虚しく、吾輩は場を白けさせないために、そっと退場した。

吾輩はタケタケの木を見ながら吾輩は悲しみの感情に耽っていた。ここの房は以前に比べ外の地面の位置にある。外にはタケタケの木の下に生えるヨモヨモギやハッカッカなどの草は春の初めらしく青々とした新芽で萌えている。タケタケの木々は冬に耐えた緑の色が褪せかけている。

 吾輩の心の中には棘の多い茨で囲われた深い森がある。何者にも邪魔されない自分独りの心の森である。太陽の光は森の木の葉が茂り過ぎてあまり差し込まない。 吾輩をあざ笑い軽蔑する者の視線も言葉も匂いも、この森にいると入って来ない。吾輩だけの楽園である。

 この心の森を払う必要があるのだろうか。

 外では二脚獣が何本かのタケタケの木を切り倒している。外にいる二脚獣は我々の所に現れる者とは種類が違うのか、毛の色も顔立ちも異なっている。唯一同じなのは物を掴むことが出来る2本の触手だった。二脚獣は切り取ったタケタケの木をどこかに運んだ。切り倒されたタケタケの木の株とその周りには、春の日差しが差し込んでいた。


 ある日、吾輩は、よく晴れた昼下がりに《太陽の王子》と、あの若雄君と、2頭だけで会話をする機会を得た。

 吾輩は、おやつに形の崩れたトマトマトの実を食べていた。トマトマトは赤く扁平の形をした果実で、味は甘酸っぱい。近頃はミカンカンの実よりもトマトマトの方がおやつによく出る。若雄君は熟睡している。遊ぶときはとても活気と鋭気に溢れている彼だが、眠る時間はとても短かく熟睡する。吾輩はトマトマトの実を若雄君に残して置いていたかったが、若雄君のあまりにもの気持ち良さ気な眠りを見ると、吾輩は起こしてまでトマトマトの実を与えるのが面倒に思えて来た。それにトマトマトの実は好物の少ない吾輩の大好物である。

 吾輩がトマトマトの実を少し齧ると匂いが回りに充満した。若雄君の鼻が動き目が開いた。起き上がった若雄君はトマトマトを探しているようだが、残念ながら吾輩はその実を齧りかけた後だった。吾輩は若雄君に無礼を詫びて残り半分を若雄君に渡そうとした。

「そんなに気にすることはないよ、博識り君。それにもうすぐ夕食だ。トマトマトの実なら昨日も食べたから今日はいいよ」

若雄君は、こんなときでも相手を気を使ってくれる。吾輩は感激した。憧れの若雄君とじっくり会話が出来ると感じた。吾輩は頭脳を回転させ、会話の種を選んだ。

「若雄さん、吾輩は最近、物語を考えて作っているのです。でもなかなか続きがつくれなくて」

「物語を。さすが博識り君だな。1つ聞いてみよう」

 吾輩は以前の房に居たとき、既に亡くなった歌唄い君を真似て詩歌を作っていた時期があったがこれは成功しなかった。吾輩には詩作よりも物語作りが合っているように思える。

 吾輩は若雄君の前で話すことに緊張しながら物語を話し出した。

「昔々のことです。我々の一族は皇帝によって治められていました。皇帝は沢山のお妃を持ち、ある山1つを自分の住居として持っていました。山には沢山の洞穴がありますが、それは全て皇帝が家来に掘らせて作らせたものです。食べ物もまた、家来達が山や川から捜して取って来ました。皇帝の力はとても凄いのです」

「ぶぅぶぅ。続きを」

「皇帝には残虐な一面がありました。自分の気に入らない家来は、尻の穴から口に至るまで1本の太い棒を差し込んで処刑し、その遺骸は山火事や落雷のときに得た火種を使って大きな焚火を作り、その火で焼いたのです。皇帝は謀反者の遺族に、その焼いた遺骸を食べさせたりしたのです」

「それは恐ろしいなあ。ぶぅ」

 若雄君は大きく目を開いて聞き入った。

 吾輩は話を続けた。

 帝には皇太子がいたこと。皇太子はある時、棘の多いサンサンショウの林の中に閉じ込められた美しい姫君を見つけたこと。皇太子は姫君を救い、2頭は愛し合ったこと。しかし皇帝は、その姫君を自分の妃の1人にしたことを。

「皇太子も妃になった姫君もとても悲しみました。それを見た家来の内の1頭が、自分は謀反者になってもいい、皇太子と姫君のために一計を案じようと策略を巡らせました」

 吾輩はここでやや間を置いてから話を続けた。

「しかしね、吾輩はここまで物語を考えてふと、この皇帝がかわいそうになったのです。なぜなら息子である皇太子にも妻である姫君にも、そして家来にも愛されていないのですから。だから皇帝は、皇太子と姫君を併せたよりも倍以上にかわいそうで悲しいのだと。それを思うと物語が作れなくなったのです」

 その内に管から夕飯が流れて来る音が響き始めた。若雄君はいつものように何頭かの同輩を引き連れ、一番最初に飯の場所を取る必要があった。

「残念だなあ、続きは別のときに聞かせてもらう」

若雄君はそう言ってくれた。吾輩は若雄君が飯の音で目が輝き始めたのを見落とさなかった。

「それにしても君の話は面白かったよ。尻の穴から口にまで棒を突っ込んで丸焼きにするなんて残酷だな。でもそういう残酷な指導者に憧れる気持ちも僕にはあるよ」                                    若雄は走りながらそう言う。吾輩のように皇帝が王子さまとお妃とを一緒にしたよりも可哀そうな存在だとは考えもしない。

 念願の、2頭だけの会話の後より、吾輩は若雄君の、特別な友になることを断念した。只々目と鼻で若雄君の姿だけを追って、心の森の中で満足していた。吾輩は再び観念と空想の遊びに浸った。なるべく現実離れした風景を、生得概念にない世界を空想し現実を乗り越える。昼なお暗い森では茸が樹木の根本で光り、沼に浮かぶ小島は風に乗って動く。木の枝同士は複雑に絡み合い、根を持たぬ蔓草が枝に寄生し繁茂し、決して光を通さない森の世界。そして現実の吾輩の目前にあるのは、冬は青葉をつけ、若葉の季節に黄色く枯れるタケタケの林だった。    


 《輝く日の姫君》。素晴らしい女の仔。決して外見そのものは華やいだ美しさはないが、明るい無邪気な瞳と笑みをたやさぬ口元を持っていた、明朗で溌剌とした女の仔。この仔が吾輩の初恋、いや生涯に一度だけ恋をした相手だった。無論、向こうは吾輩の気持ちなぞ気付いてはいない。彼女はいつから吾輩の心の中に住み着いたのだろうか。

吾 輩はいつものようにボンジシャブーンの匂いのする、房の隅で心の中の暗い森を空想していた。すると1頭の雌の女の仔が吾輩の鼻前を速足で敏感に通り過ぎて行った。タケタケの木の新鮮なおが屑の匂いにも似た、その女の仔の香りと彼女が通り過ぎるときに吾輩の鼻に触れた彼女の毛並みの感覚がいつまでも残った。

彼女は二脚獣が置いて行った、丸い球に20本の長い突起のついた奇妙な品物を、鼻慰みの道具として、歌を歌いながら鼻で転がしていた。


『蟻さんキュンキュン マヴィチの匂い

ゴキブリチュラチュ ベルヴォの匂い

スズメはフデュフデュ

鳩さんコリュコリュ』


 恐らく彼女が乳飲み仔だった頃、母獣に教えて貰った歌なのだろう。歌詞も調べも素朴な歌であった。彼女は突起のついた球を鼻で転がしながら誰ともぶつかることはなく、器用に機敏に鼻と身を動かしていた。吾輩は目を瞠ってその姿をずっと眺めていた。彼女の鼻の毛の長さが印象的だった。

後に知ったのだが、彼女に言わせると、雌という者は他者の悪口や陰口を言うことが多いので、それが嫌で独り遊びをすることがあるらしい。しかし彼女は完全な孤立者ではなく同輩達と遊ぶときは素晴らしい運動能力を発揮し、同輩達に信頼されていた。また彼女は生まれてすぐに事情あって里子に出されたらしい。乳仔の頃からかなり気を使って生きていたという。そういう境遇を感じさせない明朗さが吾輩に尊敬に近い念を引き出させた。

 吾輩は彼女のその香り、吾輩の鼻が触れたときの彼女の肌の感覚、そして吾輩には絶対に得ることの出来ない、自然な明るさに心が吾輩の心を癒した。やがて吾輩の目と鼻は、自然に若雄君よりも彼女を追うようになった。吾輩はこの感情を《恋》と名付けた。

 吾輩が彼女を恋して以来決意したこと。それは彼女の明るい清らかな瞳に、吾輩の姿を決して写させぬことであった。吾輩は醜い。おそらく醜い。性根が暗く心に深い闇を抱えそれが外見からも滲み出ている。吾輩は彼女のあの美しい笑顔を吾輩の存在によって曇らせたくはなかった。吾輩の姿を気付かせぬことが吾輩から彼女への最大の愛の表現であった。

 が、目と鼻は自然と彼女を追う。

 彼女は独り遊びをするときも雄雌の同輩と遊ぶときにも、彼女はその優れた身体能力を見せた。彼女は日々狭くなりつつあるこの房で軽快に駆け回った。体格の大きさに似合わぬ身軽さは、まるで外にいるテフテフの羽ばたきを連想させた。

 吾輩は彼女に恋をして以来、房の隅に佇み首と目と鼻だけを動かす生活となった。以前からの悪癖である空想や思索に耽る習慣は、健康な彼女を只盗み見ることにより減って来た。一方、若雄君や他の同輩から遊びの誘いを受けても返事すらせず拒絶するようになってしまった。その頃の吾輩は自分が最早、真正の雄でないことは知っていた。それでも沸き上がる官能への未熟な憧れと彼女の純潔を崇拝したい思いとの間で、吾輩の心は揺れていた。


 吾輩の引きこもりを気にして、《太陽の王子》が、若雄君が、声をかけてくれた。少し以前の恋をする前の吾輩なら、彼の方から吾輩に声をかけられたなら、至福の感激に包まれ、彼に夢中になっていた筈だ。だが雌の女の仔に恋をした今は、若雄君以上にあの快活な姫君の方に心囚われていた。

「君は誰かに恋をしているね、博識り君」

 吾輩はその言葉に恥じ入って地面のおが屑に鼻を突っ込んだ。

「そしてその娘は隣の房にいる」

 なぜだ。違う。

「その娘は綺麗なピンクピンクの可愛い仔ちゃんである」

 どうやら雌仔のことを指しているらしい。吾輩は自分の表情が変わるのを感じた。

「えっ、あの娘じゃないの」

 若雄君は意外そうに言う。吾輩は正直に話さざるを得なかった。吾輩は恋している女の仔の特徴を遠回しの表現ながら若雄君に告げた。笑みをたたえた唇と鼻の美しさ。駆け足の後の香しい息の匂い。長めの鼻の毛。

「ああ、あの娘だね。あの仔はいいと思うよ。身体がよくて美しい。周りを明るくする仔だね」

 吾輩は若雄君に告げた。吾輩が己の醜さを自覚し、見つめるだけの恋に徹していることを。

「いけないよ。彼女ともっと話をするべきだよ。会えば会うほどあの娘にも君の良さが分かる筈だよ」

 それ以来、若雄君とその女の仔と吾輩の3頭で過ごすことが1日に1回はあった。吾輩は彼女の健康美と明朗さに因んで彼女には《輝く日の姫君》と心の中で名付けた。《太陽の王子》は吾輩を話題の中心に立ててくれた。彼は彼らしく何気ない笑える小話をする。吾輩は自分で考えた物語を話す。《輝く日の姫君》は活発に自分の意見を言った。吾輩はそれを聞いて頭の悪くない、物事を善良に解釈する女の仔だと感じた。

吾輩の作った話は、房の外にいる虫や小鳥、ネズネズやクモクモなどが主人公の、なるべく明るい話を心掛けたが、やはり吾輩の世界から生まれるだけに暗い展開になる。何よりも物語が最後まで完成しない。 

 それでも若雄君も女の仔も真剣に話を聞き、真面目にはっきりと自己の意見を述べた。   

 若雄君が用事で離れ、女の仔と吾輩が2頭だけになると我々は黙ってしまった。女の仔は鼻でおが屑の地面を軽く掘るし、吾輩は彼女を盗み見しながら視線が合わないようにしていた。この2頭だけで、一度だけ会話を交わしたことは忘れられない思い出である。

 ある日、彼女は吾輩に

「外のタケタケの木の下の草の名前を知っているでしょ。博識りさん」

 と質問をしてくれた。吾輩は話す声が上ずるのを吾感じつつ答えた。

「あれはヨモヨモギとハッカッカなんだ。ヨモヨモギの葉は時々食事に混じっているよ。お腹の虫をやっつける作用があるんだって。ハッカッカはネズネズが嫌いな草だから植えてあるんだ。ネズネズを避けるため、ゴボゴボウの種も撒いてあるんだ。ゴボゴボウの種は棘だらけなんだ」

 話しながらも吾輩の胸の鼓動は高鳴った。ちなみに吾輩のこれらの知識は雌仔仕込みのものである。雌仔もまた、こういうことにやけに詳しい同輩に教えて貰ったらしい。

「さすが博識りさんだわ。ネズネズは見たことあるの」

「いや、まだないです。いないのではないですか」

 我ながら気の利かないそっけない返事だ。

 暫く沈黙が続いた。

 遠くの方から雨の匂いがする。激しい雨音に混じり、吾輩の生得観念で言うところの雷の音も響いている。やがて雨雲は我々の居る房の方へとやって来た。房内が薄暗くなり、雷鳴と落雷の音が我々の感覚の縄張りへ入って来た。恐怖のあまり声を上げる者もいる。同輩達みんなは外と通ずる穴から遠く離れ、道側の隅に集まり尻を向けている。吾輩も、顔や匂いにこそ表さないが、恐怖の感情はあった。《輝く日の姫君》だけが、激しく地面を打つ雷雨を珍し気に見ていた。が、彼女は突然、身の方向を変え走り出して皆の方へ向かった。

「皆さん、雷を怖がらなくてもいいように面白い遊びをしましょうよ」

 隅の方に固まっていた同輩共は、彼女の明るい声と匂いに誘われて、輪をなして集まった。

「rule(ルール)は簡単よ」

姫君は軽やかに言った。

「最初の1頭は、『ブフィー』と言うの。隣の者は『フィグー』と言うの。その隣の方は『グブー』と言うの。簡単でしょ。慣れたら場所を変わりましょうよ」

 彼女の提案で、その遊戯を始めることとなったが、意外にも難しい。「ブフィー」と答えた者の次の者は、何と答えればいいのか、「フィーグ」「フィフィブ」とかいろいろ間違えた答えを言った。その度に笑いが起こる。笑った者も自分の順番が来れば、やや間違った答えを言う。その内、この遊戯にも慣れて来ると場所を入れ替わる者が増えて来た。

 他の房の同輩達の、雷光と雷鳴が起こる度に驚きと悲痛な啼き声を上げているのが、吾輩の耳にも聞こえて来る。《輝く日の姫君》の居る房だけが楽し気な笑いに包まれていた。

 だが吾輩の遊戯に対する反応は酷かった。同輩達が遊戯に慣れ、答える早さを競うようになっても間違えてばかりいる。

 誰かが吾輩を嘲った。同輩全員が吾輩を笑った。《輝く日の姫君》は自然に笑い、《太陽の王子》も大らかに笑い、他の同輩達は吾輩を嘲笑った。雌達は顰笑いをする。房全体の同輩が笑う。吾輩だけが笑えない。

 吾輩は笑い声の下を潜って、いつもの我輩の居場所、ボンジジャブーンの臭いがする房の隅へ、外が見える壁の穴の近くへと行った。

そ こには見慣れたタケタケの木々があった。木々は雨風に激しく揺れている。房の中では他の同輩達の明るい笑い声がする。吾輩は足元のおが屑を見る。我々がここに暮らし始めたときには極淡い褐色だったおが屑は我々が放つ排泄物のためどんどん黒くなっている。

 吾輩は雷鳴の光と落雷の響きのする外を眺めながら、例え雷が吾輩の友であっても、同輩達と付き合うよりは良いとすら思った。

 どうも吾輩と友になれる者は不器用な身体と微妙な魂をもった者、すなわち道に迷いつまずいている者ばかりなのだ。震え仔の弟者も、亡くなった歌唄い君も、身体に問題があり身体の問題は当然、正常な同輩達との間に隔てが出来てしまう。吾輩と友情を交わせる者はそういう孤独な魂の持ち主しかいない。  

 雌仔も同様である。鼻にある黒い痣と引き摺り歩くような脚を持つ雌仔は、同輩達より豊かな語彙を持ち、そのためかえって同輩達と対等な交わりが持てないのだ。雌仔は吾輩を激しく求める。が、吾輩には雌仔が生得概念中にある《鏡》の如き存在に思える。もし吾輩の姿を映し出す水鏡を吾輩が見れば、吾輩はその長い鼻や他者から嫌われやすい表情を映し出し自己に絶望するだろう。雌仔の理屈っぽさや現実を見ない悪い癖は、そのまま吾輩の中にある。

 房の中は今は嘲りの笑いでなく、自然な快感から生まれる大らかな笑い声で満たされている。吾輩はあの同輩達の笑いの中に入って行けない。

 一方で想う。もしここに、あの《輝く日の姫君》が、彼女が、独りぼっちの我輩を心配して傍らに来てくれたらどれだけ嬉しいだろうか。彼女は優しい。だからこんな所で独りでいる吾輩を気にしてくれるかもや知れぬ。『どうして皆の所に来ないの』。そう言ってくれるのを待っている。だが彼女が例え呼んでくれても吾輩は同輩達の遊びの中に入ることが出来るだろうか。いや、出来ない。彼女に誘われても吾輩は依怙地であろう。

 やがて雷は去り、タケタケの林は明るくなった。しかし吾輩の心の森は深く暗い。

「吾輩さん、あなたはお独りなの」

 不意に隣に雌仔が居て驚いた。匂いもなにもかも鼻の黒い痣も雌仔である。

「どうしてそなたがここにいる」

「二脚獣が間違えてここに入れたのよ。私、脚を挫いて2日か3日か、病気や怪我をした者が入る柵に入れられたの。それで帰って来たけど房を間違えてここに入れられたわ」

 雌仔は少し怒っていた。

「吾輩の背中の上に乗りませんか。そうすれば隣の房との仕切りを越えられますよ」

「吾輩さん、お気持ちは嬉しいけど、本気なの。そんなことをしたら潰れて死んじゃうわ」

 雌仔はそう言う。

「吾輩も男の仔です。そなた1人ぐらい乗せられるでしょう」

「絶対やめてよ、吾輩さん。私、乳飲み仔だった頃、きょうだい同士が折り重なって下の方に居たきょうだいが死んだのを見たの。母さんは悲しんでいたわ。それに誰も他の者を乗せて房の壁を越えたりしない。きっと大きさが同じ者同士が上に乗ったりすると危険なことを皆さん知っているのよ。吾輩さんのお優しい気持ちは嬉しいけどね」

「それでも雌仔さん。この房の者に見つかると喧嘩を売られるかも知れませんよ」

「私もそれが心配だわ。吾輩さん、私を守って」

 房の者達は遊び疲れて、1頭また2頭と遊びから抜け、うたた寝を始めている。

「あなたのいる場所なら私の匂いが他の方に伝わらなくてよ。暫く私をここに置いて下さいね。吾輩さん」

 吾輩は雌仔の言い分を受け入れた。雌仔は二脚獣が来るまでの間、吾輩の傍らに居ることとなった。夕方近くになって二脚獣が現れた。雌仔は柵の近くの二脚獣に向かってぶうぶうぶうと啼く。二脚獣に意図は伝わったらしく、雌仔は隣の房へ連れて行かれた。

 吾輩は雌仔の足跡が残るおが屑敷きの地面を見ていた。この房のおが屑が汚れ、今の房を離れるときが近づいている。

 吾輩は何時までも《太陽の王子》と《輝く日の姫君》と同じの房で暮らしたかった。雌仔の体臭に心惹かれることはないとは言えないが、吾輩の精神が、純粋な理性と徳性が希求する相手は、この2頭であった。 


 しかし現実は常に吾輩の期待を裏切る。まず飯の内容が変わり始めた。吾輩が好きだったオカラカラが次第に少なくなる。油っぽいカスカスも無くなって来た。変わって甘い粉が混じるようになった。吾輩と同輩達の身体は大きくなるばかりだった。

 ある日、二脚獣は我々の体格を測り、体格が大きい者達のみを房の外へと連れ出した。その中に《太陽の王子》と《輝く日の姫君》が居たのは語るまでもない。

 吾輩は、自己の体格の貧弱さに涙しながらも、あの2頭は、《太陽の王子》と《輝く日の姫君》は、吾輩が来るのを待っている。きっと待っていると、信じ続けた。 

 庭のタケタケの木々が黄色くなり、下草の若葉が緑に萌える季節の出来事であった。   


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