第2話
―その2―
離乳期・仔豚期
28~77日齢(7週間)
体重 約6~8㎏→約30㎏
我々の種族にとって言語とは、先天的に刷り込まれたものであって、生後に習得する言葉はさして多くない。生得観念として言語を所有しているため、離乳期の頃より思い出は言語化されている。それ故、吾輩にとっては性質の基礎を作る離乳期から幼少期にかけての思い出は多い。 母者の居た場所から離されて、吾輩等は一種の洞窟のような場所、敢えて違う言葉を使うとするなら「房」に連れて行かれた。思えば生まれた場所も「房」であった筈だ。
「房」は、普通の洞窟と違い、全てが10角形と直角で形成されていた。房は南北に細長い10角形で、その地面も10角形だった。角は全て直角で屹立する壁面も直面になっていて、曲線や不規則な面はない。天井もまた細長い10角形である。唯一、曲線を描いているのは飯が運ばれて来るときに使われる太い管のみであり、この管は複雑な形をしていた。かくの如き規則的な10角形の多さに吾輩は神経を病みそうに感じたが、後にふれる同房の雌仔君に言わせると、そういう形のほうが二脚獣にとっては掃除のやり甲斐があり、房を清潔に保つのに役立っているという話である。
壁面には西側と東側に、これも縦長な10角形の大きな穴が幾つか空いていて、その穴が房の採光や通風の装置の役割をしていた。これらの穴も全て直線と直角形からなる。大きな穴と房の間には二脚獣が歩くための直線の道によって隔てられ、我々が大きな穴に直に近寄ることは不可能であった。大きな壁穴の外にはタケタケの木の梢が見えた。
房の中央にも、二脚獣が歩くための道があり、道に沿って幾つもの我々が暮らすための小房が作られていた。その各房は10角形の石或いは粘土板のようなもので仕切られており、仕切りの高さは大柄な者なら前脚をそこに乗せて隣の房を眺めるのには丁度良いが、我々がその仕切りを越えて行くことは出来ない高さでもあった。房と房の仕切りは石だけでなく、以前いた所で母者を囲っていた筒棒と同じようなもの、その筒棒が縦に何本も等間隔に並び、上下と真ん中には横向けに筒棒が走っていた。我々はそれを「柵」と呼んでいた。柵は隣の房の同輩と話をするのに便利な装置であった。
房の中は、入り口に近い方は平らで大きな10角形の石が敷いてあり、その奥は木片などを砂のように砕いたおが屑がたっぷりと敷き詰められていた。
房の入り口の左右には、我々の飯が入る容れ物がそれぞれ2口分ずつあった。飯は奇妙な形の大きな管を伝って飯の刻になればやって来る。水を飲む場所も石を敷いた所にあった。地面に出っ張りがあり、そこを押すと水が出てきた。房の同輩達はその出っ張りをして流れてくる水を飲んだり、元気な者ならもっと強く出っ張りを押して勢いよく出て来る水を浴びて敷石の上でぬた打ち回って遊んでいた。
そこはやはり房であり一種の洞窟なので東西にある穴以外からは太陽の光は差し込まず暗い筈なのだが、不思議なことに天井にはこれも細長い灯りがあり、日没後しばらくは我々を照らしていた。
居心地は悪くない。丸いものや不規則なものがあまりない不気味さを別にすれば、水も食糧もあり、季節は冬だが地面が暖かい。外の景も見える。
母者から離された我々きょうだいが連れて来られた場所はこういう感じの所だった。
房内には同じような大きさの、我々と同じ種の獣が大勢居た。皆、母者から引き離されたばかりの乳臭い匂いのする稚獣である。親の違う同種の獣を間近に見るのは初めてのことであり、吾輩は恐怖した。幸い同じ房には同腹のきょうだいが2頭いたので我々はきょうだいで集まって房の隅の方に集まっていた。
まあ、見るといろいろな同種の獣がいる。耳が立っている者、耳が垂れている者、毛の色が白い者、褐色の毛色を持つ者。そして母者の所に居たときと大いに異なるのは、そこに居る同房の稚獣達は皆、ほぼ同じ体格だった。母者の所に居た兄者姉者のような大きな稚獣は居なかったし、震え仔の弟者のような極端に小さく弱い者も居ない。
稚獣達は、そのまま房の片隅で昼寝をする者もいたが、多くは争い合い、戦いは果てることはなかった。違う匂いのする同輩に攻撃精神を持つのは、我が種の獣の性質の一部である。同じ体格の同輩同士で、唯匂いが違うという理由だけで戦い合うのだから決着が早々に着く筈がない。1対1で、或いは1対2や2対3で戦い続ける。地面がおが屑なので屑が煙となって舞い散る。あちらでぶうぶうこちらでうぅうぅと啼きながら戦っている。相手に少しでも自己の臭いを付けようと口の中を唾液でいっぱいにしている。10本の牙が抜き取られていたのが幸いで、怪我をする者はいない。
「おにいちゃん、おねえちゃん、怖いよう」
隣の房から震え仔の弟者の声がした。見れば弟者の居る房は我々の房の同輩よりも小さな体型の獣が集まっている。たいていは気弱く片隅に集まっているがほんの少しの稚獣がこちら房と同じくおが屑を巻き上げ争っている。
「よしよし、いい仔だからねえさんにいさんと一緒にいましょう」
同房の姉者があやす。我々きょうだい10頭は柵を挟んで集まった。
「おい、そこの奴等。怖いのか。俺っちと戦わねえか、弱虫め」
そう言われて戦わないわけにはいかない。姉者が最初に大声を出して喧嘩相手に飛びかかったがやがて負けて帰って来た。兄者はしばらく相手と同等に戦ったがやはり負けた。最後に吾輩も戦わざるを得なくなったが吾輩は無気力に戦い即座に負けた。どうもこの同腹のきょうだいは皆、喧嘩が得意ではないらしい。 やがてあちらこちらで、今度は互いに鼻で接吻をし口と口とを咥え合う姿が見られた。吾輩も見知らぬ同輩と何回も接吻をさせられた。一同は同じ匂いを持つ仲間となった。
夕方となり不思議な管が音を立て、容れ物に白い粉飯が積もった。混乱と秩序を交えながら同房の輩等は飯の容れ物に口を突っ込み食べ始めた。
以降の生活は落ち着いたものだった。飯が管を伝ってやって来る。房には30頭ぐらいの同輩が居たが飯の入れ物は10個しかないので交互に口を突っ込んで食べる。まあ食べる。食べる。食べる。同輩の獣達は食べることに貪欲で口の周りを粉で汚しながらたっぷりと食べる。同輩達に言わせると粉飯の方が、母者の乳よりも甘くて旨いし腹持ちも良いとのことである。
飯の順番を待つ間は、走ったりしゃべったり水を飲んだりして過ごす。最近まで母者の乳を飲んでいたので粉飯だけとなった今はやたら喉が渇く。鼻先に黒い痣を持つ1頭の雌仔獣は、水を大きく撒き散らし敷石の上で水遊びをしていた。
便所は飯の容れ物から一番離れた位置、外の景が見える場所と決まっていた。おが屑を掘ってそこに埋める。
飯が終わると遊戯の時間となる。同輩達が特に好んだのは、尻尾や耳を掴んでの追いかけっこや、鼻を使っておが屑に穴を掘ることだった。鼻を使っての穴掘りも我々の生得概念からなされる業であるが、おが屑は穴を掘っても何も出て来ない。若干、地面が暖かくなるだけである。なのに同輩達は出来るだけ大きな穴を掘ろうと夢中であった。
穴を一通り掘り終えると次は昼寝の時間となる。掘った穴を整えながらそこで眠る。
「わあ、お昼寝の時間だ。待ち遠しかったんだ」
「寝るより楽はなかりけり。起きて遊ぶ阿保(アホ)が居る」
そう言いながら眠りに着く。
他の房でも稚獣達の眠りで少し静かになる。
やがて不思議な管が昼飯を運ぶ音が遠くから鳴れば、同輩達の耳は動き、ゆっくりと起き始める。
1日はそのような生活の繰り返しであった。二脚獣は真ん中の道を歩きながら、我々が食べ散らかした粉飯を綺麗に掃除をしてくれた。太陽が沈んでも天井の細長い灯りが点る。夜のおしゃべりが終わり、獣達が入念におが屑を均して就寝準備をする。やがて灯りが消えると皆は気持よさ気に眠る。
吾輩は、同輩の如き凡獣になれなかった。
吾輩は食べることも眠ることも苦手で、穴掘りや水浴びは大嫌い、仲間とつるみ じゃれるのはもっと嫌いで苦手という、この種の獣として奇妙な動物であった。
吾輩は粉飯を上手く食えない。口の奥に粉がついて気味が悪い。粉飯に粒飯が混ざるようになると、どの頃合いをみて呑み込めばいいのか分からなくなった。
穴を掘ると吾輩の鼻におが屑が入り痛い。水浴びなんぞ冷たくて出来るものではない。
吾輩にとって睡眠は精神の放棄であった。
眠っている間は主体的な思考は出来ず、しばしば夢という奇妙な現象に精神が囚われることすらあった。
なぜに同輩達はこうもすやすやぐうぐう眠れるのか不可解であった。この房には以前の房のような、小さな太陽がないので、眠るときは同輩同士で集まって眠らなくてはならなぬ。気の合わない者と一緒に眠るのも苦痛の種であった。
吾輩は昼間は皆が便所に使う隅の方で1日を過ごすようになった。同腹のきょうだい達は吾輩から離れていった。吾輩は孤独であった。同輩達は吾輩を胡散臭さ気に見る。吾輩の鼻はどうやら同輩達のそれより若干長く、容姿の方面でも目立って敬遠されていた。吾輩は房の中の決まり事、便所の場所やら寝る場所やらの指定がどうしても守れず、同輩達からは身勝手だと批判を受けていた。吾輩は同輩に対して窮屈さを感じながら、同輩達が便所に使う房の隅で外に見えるタケタケの梢や雲を見ながら1日を過ごした。
ある日、吾輩は自己の蹄をじっと見つめて続けていた。蹄には中央に2つの大きな蹄と、その両脇にそれぞれ小さな蹄があった。全部で10本である。我々は脚も10本有している。
顔を前にあげると房もまた、10角形である。10角形は執念深く、10角形の柵が大勢並んで我々と隣の房との間を隔てている。10角形は房の至る所を支配し、吾輩を窒息に追いやった。吾輩は房内の10角形の世界から目を逸らした。
次に吾輩は地面に目をやった。足元のおが屑には、1つひとつの粒に黒い斑点上の影がある。おが屑が全面に暗い影を帯びているのなら、吾輩の目も耐えられただろうが、数知れないおが屑の粒が影を引き連れおが屑の一粒ずつが、黄色い粒と黒い染みと目に写り、微風がおが屑の黄色と黒を絶えず動かしている。吾輩の目は、蠢く黒さに触れて溶け、黄色の煌めきに、眩暈がする。
吾輩が、そのような狂気の思考をこの房の上に漂わせ同輩俗獣の生活から心身を離しているとき、どこからともなく「あなた。あなた。お兄さま。私の王子さま」と呼ぶ、幼い雌獣の声が聞こえた。吾輩は本当に狂気に魅入られたようだ、幻聴だろうと、その声にも聞き入りながら房の外のタケタケの木の梢を見つめていた。雌 仔獣の声は次第に吾輩の近くで大きく明瞭なもとなって来る。幻聴は、吾輩の孤独が産んだ私生仔である。その筈であった。
ところが吾輩の視界と嗅界に突如、雌仔獣が入って来た。雌仔獣の口から明確に「あなた、さっきから呼んでいるのに」という言葉が放たれた。
「好き好き大好き、仲良くしましょうよ。王子さま」
「そなたは一体、何者ですか」
雌仔獣は吾輩の間近に来た。
「同じ房の者よ。私は女の仔なの、ぶぅぶぅ」
と、低いきれいな声で答えた。
この雌仔獣には見覚えがある。時々、吾輩の方を見つめているからだ。全身の血色がよく肌は薄紅だが鼻に醜い黒い痣がある。よく水浴びをしている、あの雌仔獣だ。
この雌仔獣とは、これまで話をしたことはない吾輩である。
「それにしても、そなたは吾輩のことを、ええっと、言いにくいですが『好き』だと確かおっしゃいましたね。一体、吾輩がどんな輩なのかご存知なのですか。吾輩はそなたを全く知りませんよ」
「あら、私はいつもあなたを見つめていましたのよ。気がつかなくって。そりゃそうでしょうね。あなたはあなた自身の崇高な思考に専念してましたよね。驚かしてごめんなさい」
雌仔は元々血色のよい肌をますます紅潮させながら答えた。吾輩にとって、婦女仔との付き合いなんぞ現実界の事象は没交渉でありたい。
「私はあなたを尊敬します。あなたは、他の方々が食べたり水浴びをしたりおが屑に穴を掘ったり狭い房で追いかけっこをして遊んでいるときでも、外の風景を見つめながら何か雄大な思想に没頭されてますもの。もし知性に憧れる若い雌なら、あなたと親しくなりたいと思いますわ。あなたは、孤高で高潔で純粋で真摯で知的で付和雷同せず現実的な快楽よりも内面の充足を求め、堅忍不抜なお方ですもの。見ていて分かります」
「何だって。もう一度、言って下さい」
「ぶぅぶぅ、まどろっこしいお方ね。でもその鈍感さもあなたの魅力の1つだわ。じゃ、繰り返し言います。あなたは孤高で高潔で純粋で真摯で知的で付和雷同せず現実的な快楽よりも内面の充足を求め、堅忍不抜なお方で」
「その、けんにんふばつ、とはどういう意味ですか。吾輩は初めて聞く言葉です。もしやそなたが覚え間違ったりそなたが作った言葉なのですか」
「いやだぁ吾輩さんたらご謙遜なさって。堅忍不抜とは、あなた、吾輩さんのことですわ。意思が強くって下らないことで心を動かしたりしない方のことなの。雪中松柏とも言います。あなた、雪ってご存知でしょ。その白い雪の中にあって緑の葉を保つ常緑のマツマツやカシワカシのように、冬の寒さにもびくともしない者のことです。きっとタケタケの木のようなのでしょうね」
吾輩は、それは相手を間違っていますという言葉を飲み込んだ。果たして吾輩のどこが堅忍不抜か。吾輩は見たことはないが生得概念の中にある、雪の中のマツマツやカシワカシみたいな性質なのか自信はない。若い雌仔におだてられて、それを否定するような意思の強さは堅忍不抜ならぬ吾輩にはなかった。それにしても何という語彙の豊かさなのだ、この仔雌獣は。
「で、雌仔さん。あなたはどうしたいのですか」
「わたくしとお友達になって下さらない、吾輩さん」
雌仔からは微かな香り佳い体臭がした。吾輩は雌仔の臭いで思考の自由を失いそうに感じていた。故に鼻に醜い痣を持つ雌仔ではあるがその希望を拒絶できず、肯き声を出した。
「まあ、吾輩さんがお友達になって下さるの。嬉しいわ。ぶヒぶヒちゅうちゅう」
雌仔は痣のあるその鼻で吾輩の横っ腹に接吻を何度もし始めた。ぬくもりと湿り気のある鼻での接吻は、心地良い皮膚感覚を通して吾輩の理性をますます鈍らせた。
「ねえねえ吾輩さん、好きになるって眠たいことなのね、ぶうぶう。私、お鼻が気持ちよくなって瞼が重くなって来たわ。むにゃむにゃぶうぶう」
「雌仔さん、こんな所で眠るのはよくありません。ここは景色はよく見えますが獣達の排泄をする場所ですよ。他の者に悪く言われます」
吾輩は鼻先で雌仔を押した。
「吾輩さん、意外とお優しいのね。むにゃむにゃ」
雌仔は眠気で足元が覚束ない。吾輩は雌仔の尻を押し続ける。吾輩まで鼻から快感が伝わり眠くなる。
「ここなら眠ってもいいでしょう」
吾輩は非力な方なので鼻がくたびれてきた。
「ふにゃふにゃぶうぶう吾輩さん、ありがとう」
雌仔はそのままおが屑の上で眠った。吾輩も疲れと快感による睡魔によって意識が支配され、雌仔と並んで眠った。2頭で夕飯の刻まで眠った。
その後、雌仔は何かと吾輩の面倒をみるようになった。吾輩が前脚で耳の後ろを掻こうとすると雌仔はすぐさまやって来て、舌で吾輩の耳を嘗めまわす。吾輩が水を飲むため出っ張りをやっとの力で押していると雌仔は横から蹄を延ばし出っ張りを押すのを手伝う。
飯時になると雌仔は他の朋友と連れ立って食事がやって来る容れ物の所へ行き顔を突っ込んで飯を食うが、それが終わると白い粉で鼻の周りを汚したまま大きな大きな声で「吾輩さぁん」と呼ぶ。吾輩が仕方なく近寄ると雌仔は尻と顔を振って他の同輩を近づけまいとする。そして吾輩が来ると自分が居た場所を譲ってくれる。 吾輩はいつも戦うことなく飯にありつける。
吾輩が朝飯を苦闘するように食べている間、雌仔は水の出る出っ張りを押して水が冷たいにも関わらず水浴びをする。雌仔の行動はまさしく俗獣のそれであった。
「吾輩さん、朝御飯が終わったのね。あなたはじっくりとお独りで考え事をなさるのがお好きですものね。私達は吾輩さんの邪魔にならないよう、気を付けて遊びますわ」
雌仔は小声で言って吾輩から離れる
「じゃ、後でゆっくりお話ししたいわ、吾輩さん」
雌仔はそのまま同輩達の所へと消えた。雌仔の脚は軽い跛行があった。
雌仔とは、こういう経緯があって、以後はよく話をする間柄となった。
ある時、吾輩はいつものように外が見える壁穴の側で思索に耽っていた。穴からはタケタケの木の梢の先が見え空や雲が見える。今暮らしている房は以前に居た房よりも高い位置にあるようだ。向かいには、直線と直角から成る岩山があった。吾輩の暮らす房と同じく規則的に10角形の大きな壁穴が開いている。
隣から吾輩の気持ちを乱す、よい匂いがする。何者かの触感が毛皮を通して伝わって来る。雌仔であった。
「考え事してらっしゃるのね」
「そうです。吾輩は、あの雲について思考しているのです。雌仔さん。雲が見えるでしょう。あの雲の上には何があるのか、あなたはどう考えますか」
空には淡く紫めいた重い泥色の雲が浮いていた。
「雲の上ね」
雌仔は目を細めて眺めた。おが屑の匂いに混じってボンジャシャブーンの臭いがあり、それが雌仔の香りと混じる。
「雲の上にはお花がたくさん咲いていますわ。柔らかくてきれいな色と香りで、どれも食べられるお花ばかりなの。私は吾輩さんと一緒にお花を食べるわ。空はたぶんお水があるわ。私はそこで泳ぎますの。でも空から落っこちたりするわ。ぶフフ」
雌仔は自分の考えを笑いながら言った。声だけは低く美しい。
「雌仔さん」
吾輩は呆れて言った。
「雌仔さんは吾輩の考えを聞きたいのでしょ。ならば自分の意見ばかり言わずきちんと吾輩の考えを聞いて下さい」
「ごめんなさい、吾輩さん。ではあなたのお考えは」
「現実をもっとよくご覧なさい。雲の上にはさらに雲がありその上には小さな雲が沢山あります。実際は小さな雲も大きいけれど、我々から離れているから小さく見えるのだと吾輩は思考します。あの雲の大きさに比べれば、我々の存在は小さくむなしいものです」
「素晴らしい考えですわ、吾輩さん」
雌仔は吾輩の言うことなら何でも褒める。
「確かに私達の周りで起こることは、あの雲から見ると小さなことだわ。聞いて頂戴、吾輩さん。私、今朝、朝ご飯を食べていたら後ろから鼻先で私のお尻を突く奴がいたの。場所を早く譲れって。私、無視したわ。すると今度は私にもっと近寄って、歯で私を噛むのよ。本当に朝から嫌になっちゃうわ。でも吾輩さんのお話しを聞いて、心が落ち着きました。ありがとう」
「雌仔さん、あなたは本当に吾輩の話を聞いていない」
吾輩は雌仔を押さえて持論を述べた。
「吾輩は、あの雲から見れば我々の生活は虚しいものだと言っているのです。そんなpositiveな思考を、吾輩は話していません。それに何ですか、女の仔が『奴』などという言葉を使ってはなりません」
「ご忠告ありがとう。吾輩さん、大好き」
その時、後ろで「ピピちゃん、追いかけっこしようよ」という声がした。
「吾輩さん、ごめんなさい。また別の機会にじっくりお話し聞きたいわ」
雌仔は跛行しながら他の雌と一緒に去っていった。
そのまた別の機会のとき。
「雌仔さん。意識と存在は独立した事象だと思いませんか」
雌仔は答えた。
「まあ、私、そんなこと考えるの大好きですわ」
「そなたはまた、吾輩の質問に答えていません」
「じゃあ、吾輩さんのご質問を考えてみるわ。たぶん、存在と意識は相互に関係しているのだと思います。つまり」
雌仔は長々と持論を展開した。吾輩にはどうでもよかった。
雌仔は吾輩を知的な者だと慕っているが、雌仔も知性では吾輩に劣らない。そんなに知的な話が聴きたいのなら、自分で独りごとを言って聞いていれば宜しい。
「雌仔さん、今度は吾輩の意見を聞いて下さい。我々の意識に対して、現実社会の存在は没交渉なのです。我々の意識、すなわち食欲や闘争心や願望と、周囲の存在との関係は独立しているのです」
「まさか。そんな筈ないわ」
「あなたは吾輩の見解を否定するのですか。だけどタケタケの木がいい例です。ここの同輩達は多くはタケタケの木なぞ気にしません。我々に食べることの出来ないタケタケの木なぞ存在しないのも同然なのです。しかし、そなたの目にも今、青々としたタケタケの枝や梢が見えてますよね。存在は意識から独立しているのですよ」
「なるほどねえ」
「だから現実社会に対して我々が、ああだこうだと願望を述べるのは無駄なことなのです。やれ飯の量が少ないだのもっと粒飯が混じって欲しいだの言ったり考えたりしても、ここの房の不思議な装置が我々の意識を汲むことはあり得ないのです。あるがままの現実を受け入れるのが賢い生き方なのです」
しかし、実際は、現実の存在は我々の意識や願望を反映するようになった。
あの不思議な管が吐き出す1回の飯の量は日ごとに多くなり、粉飯に対して粒飯の量が増えてきた。
「わーい。デントデンコーンコンとマイロマイだ」
「カスカスやオカラカラも混じっている」
母獣に教えてもらったのか、やたら飯のことに詳しい連中がいて、説明してくれた。連中に言わせると、白や黄色の粒がデントデンコーンコン、赤褐色のものがマイロマイということだった。苦いが乳に味が微かに似ている粉はオカラカラという名前だった。
吾輩はオカラカラ以外の物を好まなかった。あまりありがたくない現実であった。
朝飯と夕飯の量が増えた。それに比して昼飯が減って来た。同輩達は遊んだり寝たりしながら、だらだらと飯を喰う。時々、ミカンカンという黄味がかった赤色の果物が二脚獣によって配られる。同輩達は争ってミカンカンの実を得ようとする。吾輩の分は、例によって雌仔が吾輩の足元まで鼻や後ろ脚を使って投げ渡してくれた。だが吾輩は、雌仔の親切心にさして感謝しなかった。吾輩はあまり食べずあまり動かずあまり眠らずの生活を好んでいた。遊び動けば腹が減る。腹が減れば争って飯を喰うことになる。遊び疲れれば惰眠を貪ることとなる。吾輩は、そういう同輩俗獣の生活を軽蔑し始めた。
「雌仔さん。そなたは、同輩と暴れたり水遊びをして楽しいのですか。吾輩はもっと落ち着いて物事を考えたいのです」
「吾輩さんのお気持ちもよく分かるわ。でも私は女の仔なの。仲間から離れると仲間外れにされちゃうわ。そうなるとお食事のときも困るのよ。場所を誰も譲ってくれなくなるの」。
吾輩が歌唄い君と邂逅し、短いながら印象的な交際をしたのは、この時分のことであった。
真夜中、雌仔も同輩達も熟睡していた。雌仔は「吾輩さん、大好き」と寝言を言いながら、吾輩に寝小便をかけて来た。吾輩は雌仔や同輩達が漏らした小水や大便で若干身体が汚れて寒さを感じた。水は冷たいが身体を洗うしか仕方がない。吾輩は同輩らを踏まないように気を付け、水を出す出っ張りへと向かった。我々一族は視力は弱いが夜の暗闇でも目が効く。
水の音が止まり吾輩が身体を洗い終えたとき、どこからともなく、ボゥボゥと声が聞こえた。吾輩と同獣の声らしい。声は節をもって歌となっている。吾輩はおが屑を使って身体の水気を拭き取った。おが屑も同輩達の排泄物や何やらで悪臭を放ち始め、色も淡いながら黒ずみかけていた。
月の明るい夜だった。例の壁の大きな穴には夜になると「帳」と他の者が呼んでいる、薄いものが穴を塞いでいる。その帳と穴の隙間から冬の月光が差し込む。吾輩は歌声のする方へと歩いて行った。
声の主は隣の房、あの震え仔の弟者がいる房の者だった。この房の稚獣達は我々の房の者達よりも身体が小さく、元気もあまりない。それでも彼ら彼女らをいじめる大きな獣もいないので伸び伸びと生活しているようだ。弟者の震える病気は治ったのか、今では他の稚獣達と同じぐらいに発育している。弟者と吾輩が話をすることは最近なくなっていた。
歌声は美しく、歌詞は詩歌の類に近い。他の同輩達は飯の前、あるいは飯のときに『まっ白な粉飯の前じゃ、どんなヤンチャやおてんばさんも静かに黙る。粉飯さんはエラい奴』などという類の歌を歌うぐらいなものだ。連中は最近では「デントデンコーンコン賛歌」や「マイロマイ節」などという歌を作って歌っている。
が、聞こえてくる歌は、そういう歌と全く違った歌だった。
『おいで おいで 星の世界へ
ここなら夢があるさ
おいで おいで 僕の世界へ
失くした夢を一緒に探そうよ
星空に鼻を伸ばしてごらん
宇宙の匂いがするだろうよ
ここは悲しみのない世界
病気も喧嘩もない穏やかな世界さ』
隣の房の者が1曲歌い終えたところで、吾輩は思い切って声をかけた・
「ブラボー ブラボー。本当に吾輩まで星空へ飛んでいきそうな綺麗な曲だね」
歌唄い君は恥じらった。
「やあ、すまないね。お隣さんを起こしてしまって」
「いや、かまわないんだ。吾輩はちょうど目が覚めたところなのだから、お隣さん」
これが吾輩と歌唄い君の最初の出会いだった。
吾輩は隣の房との仕切りである柵で、もっと話をしたいと歌唄い君に言った。
「こんな歌が聞けて吾輩は嬉しいな。もっと歌ってくれないかい」
「そうだね。皆が目を覚ますといけないから、明日、また違う歌を歌うよ」
それ以来吾輩は、歌唄い君と柵越しで会話を交わすようになった。歌唄い君は小声ながら新しい歌を歌ってくれた。歌唄い君の歌には、争いのない希望の世界を歌ったものと、彼に言わせると《管理に満ち溢れている》という、現実世界への怒りの歌があった。
『いつも無表情にただ歩いている二脚獣くんよ
君は笑わないのだね
物を食べたことがないね
毎日まいにち触手に何かを持って
忙しそうにしている
僕たちはそんな獣に生まれなくてよかったさ
だけど僕らも いつか無気力な成獣になるのだろうか
だったら僕は大きくなりたくない』
吾輩は、歌唄い君に比べるとあまり現実社会のことを考えていない。吾輩は歌唄い君に尊敬の念を抱いた。吾輩は雌仔では得られなかった、会話をする喜びを歌唄い君から得ることが出来た。
いったい吾輩は、歌唄い君とどのぐらいの間、一緒に過ごしたのだろうか。随分長い付き合いにも1日限りの出会いにも思えて来る。
ただ歌唄い君は身体が弱くて会話の途中で息が切れることがあった。吾輩は、そんな歌唄い君を決して急かさずに歌や話を聞いていた。
吾輩は、交際好きでない偏狭な性格の持ち主だが、乳獣の頃、震え仔の弟者と一緒だったためか、こういう身体が脆い者との付き合いには、これが吾輩であるとは信じられない程の、優しさや友情が自然と湧いて出る。
吾輩は歌唄い君との交際を2頭だけのものにし、例の雌仔を交えて付き合うことはしなかった。しかし、その歌唄い君との友情もすぐに中断されるときがやって来る。
寒い日が続く。同輩達は誰も水遊びをしなくなったし、飯の後、深く穴を掘ればそのままその場で群れで固まって眠ってしまった。穴を深く掘るほど、寒さは和らぎ暖かさが増した。吾輩は雌仔や同輩達と同じように、おが屑を掘った穴の中で昼間も眠っていた。眠るより他に方法はなかった。
房と外を繋ぐ10角形の穴には昼間でも、枯葉のような色をした帳が霧の如く外界の景色を隠していた。外からは風の高い音が聞こえてきた。
その頃は不思議な管が運んでくる飯は一日2回になり、ほぼ完全な粒飯になっていた。吾輩は新しい飯が歯と口と胃袋に合わず苦しんでいた。
二脚獣は、ある日、壁の穴に掛かっていた10角形の帳を取った。外には我々の生得概念でいう《雪》が積もっていた。同輩同獣達は寒いのに珍し気に穴の方に近寄り、外の風景を集まって見ていた。
「まあ、雪中柏松だわ。カシワカシやマツマツじゃなくてタケタケね。まるで意思が強くて真っ直ぐであなたみたい、吾輩さん」
雌仔は明るい声で言う。
吾輩は腹が張って動けない。全身の倦怠が強い。
「ねえ、吾輩さん。おやっ」
吾輩に近づいた雌仔は、吾輩の身体の異常に気付いたようだ。
「これは大変。何か悪い病気だわ。二脚獣さんを呼びましょう」
雌仔はけたたましく啼く。二脚獣が吾輩に近寄る。やがて二脚獣は吾輩を同輩達のいる房から連れ出し、丸い10本脚を持つ、変わった獣の背中に吾輩を乗せた。
吾輩が二脚獣によって運ばれた場所では、広い房1つが吾輩1頭に宛がわれていた。
見ればどの房にも、吾輩と同種の獣が1頭ずついる。大きなふぐりをつけた雄成獣や吾輩より齢上の雌獣などいろいろな同輩がいる。そのどれもが、独特の病臭を放ち目にも活気がない。この病身の同輩達は細くて長い奇妙な管や蔓に繋がれていた。吾輩も痛い棘を二脚獣によって刺されたり管を身体に着けられたりあげく尻の穴から棒を突っ込まれたりした。飯は粉飯や粒飯や流動飯などが出て、吾輩の腹の調子はみるみる様子がよくなり、身体を繋ぐ管も抜けた。
いつものように二脚獣によって身体を引っくり返されたり触られたりした後、少し休んでいたら、入り口が僅かに開いているのに気付いた。吾輩は退屈していたので、鼻で入り口を弄っていた。穴掘りは好きではないが、鼻先でこういうことをするのは祖先からの生得概念の力に由るものだ。
入り口が開いた。だから吾輩は外に出てみた。
両側に病気の同輩同獣のいる道を歩いていくと、前に白の帳が垂れていた。吾輩は何気なく帳をくぐり、その向こうへと行った。
帳の向こうの房はもっと病臭凄まじく、吾輩の生得概念では説明しかねる奇妙な匂いに満ちていた。怖い。早くここを出たい。吾輩は駆け足になったが、途中、嗅ぎ覚えをある匂いとどこか見たことのある姿が吾輩の感覚に入り、吾輩は10本の脚の動きを止める。
「歌唄い君じゃないか」
確かに歌唄い君だ。姿はすっかり痩せ、醜い細い管と蔓が何本も複雑に彼の身体に付いているが、耳の形も鼻の特徴も身体の毛の色具合も間違いなく彼に相違ない。
「君はあのときの、夜のお客さんだね。よく来てくれたね。嬉しいよ」
声は掠れて小さかったが歌唄い君は嬉しそうに話してくれた。
「いったい、どうしたんだい」
「ごらんの通り。僕は病気さ。話すのも辛いよう」
「いつから。食欲とかはあったのかい。吾輩と話したので疲れたのかい」
「いや、いつのまにか、病気になっていた。前々から、身体もちいさかったし」
歌唄い君は話すのを止めた。疲れたらしい。
吾輩は歌唄い君の周りを囲う柵に吾輩の鼻を当て、歌唄い君に近寄ろうとした。
「僕は今から死ぬよ」
彼ははっきりと言い出した。吾輩は驚いた。
「死ぬって。なぜ」
「僕はね、ずっと生きるのが苦しかったんだ。今朝までは熱もあって息も荒れて苦しかったんだ。だけど少し前から急に身体も心も楽になった。たぶん死ぬのだと思う。二脚獣が安らかに死ねる特別な水を与えてくれたんだ」
それだけを言うと彼は口と目を閉じた。
「ねえ、歌唄い君、それは病気が治ってきたのだよ。やがてその、おかしな管も抜けて吾輩みたいに元気になる。吾輩だって少し前までは病気だったんだ。また歌を唄ってよ。吾輩と一緒にお話ししようよ」
吾輩が柵を動かしながら歌唄い君に言ったが、彼の肩は呼吸に合わせて上下していたのがやがて動きの幅が僅かずつ小さくなり、同様に呼吸に合わせて動く鼻も次第に動きが消えて行き、苦しそうに出していた舌もだらりと伸びた。
「ねえ、歌唄い君。歌唄い君」
吾輩は柵を揺らし続けていたが、気が付けば後ろから二脚獣がやって来て、吾輩を歌唄い君から引き離そうとする。吾輩は抗う。二脚獣の脛を鼻で押し押しし、後脚で立って二脚獣の指を噛み前脚の蹄で引っ掻こうとする。極しばらくの間、吾輩と二脚獣は争っていた。突然、二脚獣は吾輩を放って、歌唄い君の房へ近づいたのだ。
歌唄い君は死んでいた。
二脚獣は歌唄い君の房に入り、管や蔓やらを彼から抜き始めた。吾輩は別にやって来た二脚獣に連れられ元の房に戻った。
その夜、吾輩は再び食欲を失くした。せっかくの飯がそのまま残った。吾輩の目には歌唄い君の死んだ姿がまじまじと映った。あのとき歌唄い君は目と口を僅かに開けたまま動かず、口も鼻も呼吸のための運動を一切止めていた。
吾輩は生きて歌唄い君は死ぬ。そのことに何の違いがあるのだろう。吾輩の形而上学的思考は、そんな際に役立たずだった。吾輩も直ぐに死ぬのかと恐怖すらした。この世に打ち解けぬ者や不満を持つ者は死ぬのだろうか。死後の世界など吾輩の生得観念にはないが、生きるよりも死ぬことの方が嫌だと感じていた。
翌日、二脚獣は
「コレオクウカァ」
と啼きながら、白い二枚の皮の間に挟まった、キツキツネの毛皮の色に似た皮に木肌色の食い物を吾輩にくれた。それはとてもうまかったのを覚えている。
以来、吾輩は死ぬことなく、食欲が戻って来た。こうして吾輩は以前の同輩達がいた房に戻されてしまった。病気は治癒し、胃袋も歯も丈夫になり、同輩同様に粒飯が食えるようになっていった。
吾輩は、以前に比べて房の中は窮屈に感じだ。それは吾輩も同輩も、身体が大きく伸びて太った所為である。雌仔は吾輩を相変わらず「吾輩さぁん」と呼び、吾輩と噛み合わぬ会話をしては喜んでいた。
暖かくなったある日、吾輩と同輩達は房から出され、念入りに全身を洗われ、二脚獣に身体の大きさを測られ、そして分別され、新しい房へと移された。
歌唄い君の思い出は小さくなりやがて消えた。
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