拝啓、衛星より

救難信号を受信


 シークレット・コード、L-691。分類記号RTW2JMD547。

 西暦二〇一八年八月三十一日。

 星の悲鳴が聞こえる。

 

 今日もどこかで何かが死んでいるのだ。

 それは人に限らず、動植物などの有機生命体から、はてはコンクリートやアスファルト、鉄の塊のような無機的なものに至るまでが、その命を終える。

 だからこんなにも悲鳴が聞こえるのだろう。

 蝉の鳴き声だけでは済まされないほどの痛ましい悲鳴。

 これ以上苦しまされないように、安物のイヤホンで耳を塞いだ。

 今日も世界は平和である。

 

 西暦二〇一八年十月三十一日。

 星の悲鳴が聞こえる。

 

 それはもしかすると救難信号であるのかもしれなかった。

 死に絶えたものは星になる。

 星にすらなり得ないものは宇宙の藻屑と消える。

 そうした、きっと数え切れないほどの無数のデブリのうちの一つに過ぎない小さな塊たちが、魂の底から叫んでいるのかもしれなかった。

 その二一グラムをかけて。

 私はここだと。

 私という存在が、確かにこの宇宙に存在していた証を、残そうとしているのかもしれなかった。

 そんなことはわたしには関係ない。

 世界にだって、きっと関係ない。

 その割れるような悲鳴とは全く関係なく、大通りでトラックが横転した。

 今日も世界は概ね平和である。

 

 西暦二〇一八年十二月十五日。

 星の悲鳴が聞こえる。

 

 東京で初雪が降った。

 その日から、降り積もる雪が止むことはなかった。

 あの白い塊がもたらす美しい静寂と静止は、全てのものを阻んだ。人の往来、交通手段、通信手段、とにかくそういった、おおよそ人間が暮らしていくために必要な全てのライフラインが、冷ややかな綿に包まれて停止した。

 どこにも行けず、物資も届かず、自分の住処から一歩も動けないまま、人々はいずれ死んでゆく。史上類を見ない異常気象に対していくつもの研究が重ねられたが、生きていく上で必要なものすら賄えないような状況で、成果など出るはずもなく、成す術もなくただ雪は降り続けた。気象庁から特別警報が発令され、全国的な厳戒態勢が敷かれることになった。その間も雪は降り続けた。線路や道路が雪で完全に埋もれ、除雪車すらも動かせない状態になった。その間も雪は降り続けた。気温は下がり続け、日本に四季がなくなった。発電所や輸送ラインが停止して、餓死者や凍死者が出始めた。その間も雪は降り続けた。人々はパニックになり、空き家や店などを襲うようになったが、パニックが連鎖する間もなくほとんどの人は寒さの中に倒れていった。その間も雪は降り続けた。人口は減り続け、減り続け、減り続け、減り続け、減り続け、減り続け、減り続け、やがてこの世界から雪の積もるしんしんとした音以外は何も聞こえなくなり、何をしても、しなくても、雪は降り続け、人は死に、そして世界はゆるやかに終わりを迎えていった。

 私は。

 私は。

 この雪が、まるでこの星を守っているようだと、そう思った。

 息が止まるほど白く美しく静かなそのヴェールで、乾ききった地表を埋め、癒やすように。

 初雪の降ったあの日から、星の悲鳴は聞こえなくなったのだ。

 

 西暦二〇一八年十二月三十一日。

 年とともに世界の終わる日。

 その時私は世界の始まりを見た。

 

 屋根の上に男が立っていた。

 ぼろ切れのような服を身にまとっていながら、その佇まいはどこか凛としている。穴の空いたつばの広い帽子から覗く目は気怠げで、とうとう全てが雪に埋もれてしまった世界を見下ろしていた。

 私はなんとなく、もしかすると、この人が全ての原因なのかもしれないな、と感じた。証拠はない。理由も、ない。だから本当は、彼もただの被害者のうちの一人で、もうどうしようもなくなった末にこの屋根の上まで登ってきているのかもしれなかった。けれど、その眼。街を覆い尽くす、眼下に広がる白の塊を思い起こさせるような、冷たい眼。それを見ていると、私にはどうしても、彼がただの人だとは思えなかった。

「あの」

 私は自分のいたところから、彼のいるところまで、屋根から屋根を伝って歩いて近付いていった。近付けば近付くほど、彼からはおおよそ人間らしい、何かぬくもりとか、情のようなものが、ほとんど伝わってこないのが、ありありとわかるようだった。

 私は無意識のまま、彼ーー彼?ーーに言葉を投げかけていた。

「あなたは、なんですか」

 誰、ではない。何。正直に言うならば、私にはもはや、彼が人間であるという確証がなかった。

 冷たい風が吹き付けて、彼が来ているぼろ切れがはためく。そんなに薄着で、寒くないのだろうか、彼は表情一つ変えないままだ。

「……。さあね」

 気の無い返事だ。しかし私が気分を悪くすることはなかった。それは突き放すような響きではなく、本当にわからないから、ただ曖昧に笑っているだけのような、そういう風に聞こえたからだった。

 私は無知を責めない。無知は罪ではない。

 しかしーー自身の無知を知らぬこと、その上に驕り高ぶることは、罪である。

「星の悲鳴が聞こえる」

 呼吸が。

 止まるような錯覚に陥った。

「毎日毎日俺の頭を割らんばかりに劈いていた、あの悲鳴が」

 なぜってそれは。

「この真っ白な雪に埋められて、ようやく静かになったんだ」

 私がいつも考えていたこと、感じていたことと、一言一句そのままそっくりの言葉だったからだ。まるで、心でも読んだかのように。彼は超能力者なのだろうか、だなんて、突拍子もない考えまで浮かぶ始末だった。けれど、雪が降り続けた結果世界が滅びるなんてことが起こっているのだから、超能力者の一人や二人、いたって不思議はないのかもしれないけれど。

「こんな、人間が暮らしようもない環境になって初めて、息がしやすくなるなんて、皮肉なもんだよね……」

 自嘲するように笑う男を、私はただ見つめていた。それしかできなかった。先程から胸が高鳴って止まらないのだ。まるで初恋の人を目の前にした少女のような。ーー恋? こんなところで、こんな状況で?

 頭がおかしくなったのではないかと思う。この絶望的な状況で、とうとう狂ってしまったのかもしれない、などと。しかしそれを言うならば私はこの初雪で初めて死人が出たときからずっと何も感じてはいなかったのだから、ただ今までは毎月毎週毎日毎時間毎分毎秒私の頭を割らんばかりに鳴り響いていたあの悲鳴が聞こえなくなったことに、少し安心していただけで、だからその時から私の頭はもうおかしくなっていたのに違いない。それでも理性は私を引き止める。ここで止まれと、私に警鐘を鳴らす。けれど、いくら冷静になろうとしたところで、心臓の鼓動が鳴り止まないのだ。どくどくと、その生を主張するように。

 これは恋ではない。きっとそうだ。そうでなければならない。この不思議な高揚感は、きっとーー彼が、私を理解できる、唯一つの人間なのだと、そう思ったから。そうに違いないのだ。

 きっとこの雪の下には数え切れないほどの人間の死体が埋まっている。

 そんな場所で、恋など、許されるはずがないのだから。

「一緒に行く?」

けれども彼は、そんな私の心中などまるで知らぬというように、私にその白く細い手を差し出すのだった。ほつれて糸が飛び出ている裾から、骨と見紛うほど細い手首が覗く。

 この手を取れば、私はもう戻れないのだろう。儚くとも美しい、死の匂いに包まれたこの星に、もう帰ってはこられない。

 その手に手を伸ばした。彼の被っていた帽子が、北風にさらわれて遥か彼方へと消えていった。帽子の鍔に、何か書いてあるのが見えた。それはアルファベットと数字で構成された文字列のようだった。RTW2JMD547。機械の製造番号のようだな、と思ったので、もしかすると彼はアンドロイドなのかもしれないな、なんて、物語じみたことを考えた。しかし、もし彼がアンドロイドであるならば、こんなにも握った手が温かいはずはないと思った。

 時間すら凍って動かなくなったこの世界で、世界は終わり、私は新たな世界の始まりを見た。

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