ガラス越し厚さ60cm

 現代において、社会人とは実に苦労の多い存在である。ストレスの波に飲まれ己のことすら満足に幸せにできないという人も少なくはない。

 今回語る話の中心人物である彼もまたその例外ではない。人生に疲れてしまった一人の社会人なのである。


「あぁ、俺はダメな男だ…」


 所謂一般男性の彼は大学を卒業後すぐに広告会社に就職が決まった。

 当時はやる気に満ち溢れたエネルギッシュな新社会人として新しいスタートを切ったが、入った会社が世に言うブラック企業。彼は二年のうちにすっかりと入社時の輝きを失い次第に無気力な人間になっていった。


 現在は無理が募り心も体も壊したことで無事退社できたものの、歳若いうちに鬱を抱えて田舎の実家に帰り、仕事も趣味も無い無気力な毎日を過ごしている。こうなるとこれはこれで在職中と変わらない。


 今も彼は自室の窓の外の田んぼを眺め、田植え機が行ったり来たりする様子を口を半開きにして見つめている。否、その目に捉えてはいない、ただ目に映している。


 そう、彼が負ったダメージは小さなものではない。

 夜はすぐに眠れないし、起きたくもないのに二年分の習慣と強迫観念みたいなもので早朝に起きてしまう。母親が食事を用意しても「なんの仕事もしていない俺は食べる資格がない」と自己嫌悪に陥る。両親が必死になだめてようやく一日一食ほどの食事を取るところまできた。


 こんなことではダメだ。

 そんなことは本人が一番理解している。

 

 両親は身も心もズタボロになった息子を心配して「自分ができると思ったらまたなにか始めればいい」と暖かい言葉を掛けてくれるが、これ以上迷惑を掛けられないと感じることでまた自己嫌悪感が日に日に募る。そんな負の連鎖が彼を蝕んでいた。

 

 変わらなければ。


 変わらなければ。


「そうだ外だ、外に出なきゃ、外に出よう、家から出たい」


 不意に、彼はそう思い立った。

 それはある日突然のことだった。


 これまでも外に出るべきとは考えていた彼だったが、今日までは両親が自殺でもするのではないかと一人での外出はさせてもらえないでいたし、「出るべきだ」と考えるだけで「出たい」とは思わなかったので大人しく引きこもっていたのである。


 だがこれは変化、良い傾向であることは掛かり付けの精神科医からも言われている。

 彼がそのように両親に伝えると、二人は少し悩みつつも息子が立ち直ろうとしている様を見て、「どうせ早くに起きてしまうなら犬の散歩でもしてもらうのはどうだろう」と提案した。

 これは、万が一彼が道路に飛び出すなどの危険行動に及びそうになったとしても、飼い犬を連れている手前ではさすがにしないだろうという希望的観測であったり、仮に主人が自棄になった時に微力ながら助けてくれるかもしれないといった考えからでた答えだった。


 効果はまぁまぁ。


 とは言え、こうして何かすることで自分は何かの役に立っていると自己認識することができる。これにより彼の食事に対する罪悪感が消えてきたのは光明である。


 徐々に、そう徐々にだが回復に向かっている。


 そんな時、彼は散歩中の商店街にてとある求人広告が目に止まり、徐ろにスマートフォンを取り出しQRコードを読み込んだ。


 詳細ページに飛ぶとその概要が書いてあった。


“ジャパリパークで清掃員の短期アルバイト募集!

あなたはけものはお好きですか?多種多様なフレンズさん達と触れ合いながら私達みんなと一緒に働きましょう!


交通費、宿泊代はパーク運営で全負担

滞在期間二週間 週休二日 特定の場合でのみ残業あり。”


 広告内での条件は彼の元いた会社とは雲泥の差である。肝心のお給料も時給換算ならばこちらの方が高いほどだ。


「ジャパリパーク… 清掃員…」


 どこか目を引いたその求人広告を見て、彼は衝動的に情報入力画面に飛んで次々とその内容を埋めていった。


 そして。


「父さん母さん、俺はジャパリパークで短期のバイトがしたい、もう応募も済んでる」


 彼の言葉を聞いた両親は心底驚いたし不安だった。が、また働こうと思えるほどに立ち直ってきた息子の意思を無下にはできない。快く送り出すことを了承した。


「まぁ短期だし、何より自分でやると思ったのなら頑張ってくるといい」


 父親は息子の選択を尊重してそう言い、母親は息子が必死に戦う姿を見ると涙を浮かべていた。

 こうして若干の鬱を抱えたままの彼は再び社会人としての一歩を踏み出したのである。

 

 当日、両親に駅まで送ってもらいお弁当や心配の声などもらいながら港へ向かった。大きめのリュック一つで港に着くと、すぐにパークの人間が応募者達を集めているのを見付け、彼も簡単な受付と挨拶を済ませると早々に船に乗り込んだ。


 ここからが彼にとっての新しいスタートラインだ。


 初日は二週間の寝泊まりをする寮、そして現場と仕事内容の説明。本格的な仕事は翌日からである。

 彼は新しい自分への第一歩という期待、そして与えられた仕事を満足にこなせるかという不安を胸に抱き床に着いた。


 尤も染み付いた習慣、そして緊張で熟睡することはなかったが…。


「では、あなたはこちらをお願いします」


「はい、わかりました」


 清掃という仕事は読んで字の如くであり、言ってしまえばそう難しい内容ではない。ただし清掃員とはなかなかに体力仕事である。

 元デスクワークな上しばらく引き込もっていた彼にとってその仕事は決して楽なものではなかったが、それでも何故か楽しいと彼は感じていた。仲間達とも気が合い、やり甲斐があったのだ。


 海獣ブースの方の清掃を任された彼は、大きな水槽を背に誰もいなくなったそのエリアをひたすら掃除に励んだ。水槽に目を向けるとたまに泳いでいるフレンズを見ることができる。イルカかアザラシか、はたまたペンギンか… 看板などを見るとそれらのフレンズの紹介が書いてあるが、今の彼にはそれらを判別する余裕はない。

 そもそもガラス越しに一瞬見掛けるだけなので、求人広告にあったような“触れ合い”というほどのことはまだ体験していなかったのだ。


 だが強いて言うのであれば。


 本当に素早く通り過ぎていくのでこれは彼自身も気の所為かもしれないと思っていることではあるが、たまにタイミングが合えば目が合う子がいる程度の干渉である。ただしこれを干渉と呼ぶかどうかは人それぞれだろう。


 彼は、「まぁ実際こんなものか」と落胆こそしていないのだが、フレンズとはどんなものなのだろうか?という好奇心がなかったわけでもない。しかも聞くところによると、ここ海獣ブースではなく他のエリアの担当している同僚によれば彼らはちゃんとフレンズとの触れ合いがあると話しているではないか。


「せっかく来たんだから、面と向かって話してみたいよな…」


 彼は少しだけガッカリしていた。

 そうして二〜三日そのような日々を過ごして一日休みを挟み、また仕事が始まる。


 同じことをほんの数回繰り返せば彼も慣れたもので、休み明けもマニュアル通りせっせとモップ掛けをしていた。だがその日はいつもと何かが違っていた。

 その違和感も始めはただ慣れで視野が広がり色々な情報を処理できるようになっただけだろうと彼は判断していた、だがそれは誤りであるとやがて気付いた。


 彼はふと背中に注がれる熱い視線を感じとったのだ。


 見られている?


 とそう思いつつも、彼はすぐには振り向くことができなかった。少し前までお客様で賑わっていたこの場所だが、清掃の時間は閉館時間を過ぎている為無人。流れていたBGMも止まり、ブーンという何かの機械音や僅かに聞こえる水の音が響く。

 それらの情報は彼の恐怖心を煽り、振り向くことを躊躇させていたのである。


 何より、彼の真後ろは水槽である。

 ガラスの厚さは60cm、その向こうはおびただしいほどの水。 


 誰がいるというのだ。

 そんなところに人がいるはずがない。正社員の人間が水槽の水に潜り彼を監視しているとでも言うのだろうか?


 元居た会社の圧迫感を思い出していた、過去の想像で恐怖に駆られ、彼はどうしても振り向けずにいた。気付かないふりをしてひたすら掃除の為に床を見つめていた。


 だが彼はやがて過呼吸に、そして滴り落ちる汗。


「ごめんなさい… 申し訳ありません… すぐに、すぐに終わらせますので…」


 呪文のように過去に毎日発していた文言を呟きながら、耐えきれずにその場を離れ遠くにあるベンチに座り込んでしまった。


「はぁ、はぁ、ふぅ… はぁ~…」


 呼吸を整え、落ち着け落ち着けと己に言い聞かせた後、彼はようやく背後にあったはずの水槽に目を向けることができた。

 そうして遠目に見た時、彼は視線の正体を遂に目の当たりすることになった。


「あ、あれは…?」


 当然、そこには監視のためにわざわざスキューバダイビングをしている正社員などいない。もちろん、元いた会社の頭の硬い上司もいるはずがない。そこにいたのはなんのことはない、目の当たりにしてみればそこにいて当然の存在だった。


「フレンズさん?凄い、初めてちゃんと見れた」


 そうフレンズ、いつもは通りすがるだけの彼女達のうちの一人がユラユラと水中を優雅に泳いでいたのだ。


 走り去った彼が戻るのを待っているかのように珍しくゆっくりと泳ぐ彼女はバンドウイルカのフレンズ。身内は親しみを込めてドルカと彼女を呼んでいる。

 見ない顔の男性が自分の散歩コースに現れるようになったので興味が湧いたのだろう。

 彼はその姿を見て安心するとベンチからゆっくりと立ち上がり持ち場へ戻る。そして彼女が何者であるかを看板で確認した。


「えっと… イルカかな?そうか、バンドウイルカ?へぇ、凄い本当に女の子なんだ… へぇ…」


 彼は改めて彼女を見た時に思った。

 

 たまに目が合っていた子だ… と。


 彼女、バンドウイルカの方も彼が戻った事に気が付くとスイスイと泳いで彼の前に、そう今度は向かい合う形で彼の前に戻ってきた。


 作業着姿で帽子を深く被る彼を興味深そうに見つめ、「あっ!」と何か気付いたような表情を浮かべるとニコニコとしながら彼に手を振った。挨拶をしているようだ。

 フレンズの多くはこうして初対面でも気さくに対応する子が多いが、彼女はその中でも特に気さくな方でもある。


「はは、やぁ?」


 一度帽子を脱ぎ、 ぎこちない笑顔を浮かべながら彼も手を振り返した。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 会話もできず触れ合うことも決してないのだが、この時確かに2人はお互いを認識した。


 友達ができた。

 何故かお互いにそう通じ合っていたように感じていた。


 翌日から2人は必ず決まった時間に顔を合わせた。


 彼が掃除で水槽の前に来る頃、彼女もそれに合わせたように泳いで現れる。

 お互いに顔を合わせると、ニコリと笑い手を振り合い挨拶を交わし、彼が清掃をしている間彼女は彼に合わせて泳いで並走し、そのエリアの清掃が済むと「また明日ね?」と言うように再度お互い手を振り合ってその日は別れる。そんな毎日だった。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 会話はない。

 なのにとても濃い時間を過ごしていたように2人は感じていた。


 直接会って話したことはないのに…。


 それから休み明け。

 彼が仕事でエリアに訪れるとなにやら少し不機嫌そうに彼女が現れた。

 背を向けたまま着いて泳ぐ姿を見て「何かしてしまっただろうか?」と思わず仕事の手を止めガラスへ近付いた。大きなイルカの尾ひれがユッタリと揺れている。

 チラリと振り向いた彼女の表情はやや眉が吊り上がっており、やはり少々不機嫌であることを彼に伝えるのに十分な判断材料となった。


 彼女、バンドウイルカは彼の休みを把握していない。


 それを知らずにいつも通り彼に会いに行くとパークスタッフが清掃に入っており彼女は困惑した。そしてどこを泳いでもいつもの彼は現れなかった。


 つまり、寂しかったのである。


「どうしたんだろ…」


 ただし、彼女が彼の休日を知らないように彼が彼女の心中を知る術はない。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 近いようで遠い、そんな距離が2人の間に広がっていた。


「ご、ごめんなさい」 


 彼自身何かをしたつもりもないし実際何もしていないのだが、彼女の態度を目の当たりにしたことでブラック企業勤めの悪い習慣であり鬱の根底にある加害妄想みたいなものが、彼に謝罪という行動を取らせた。


 どうせ自分が悪い、また自分が何かヘマをしたのだ、自分の軽はずみな行動で相手に迷惑を掛けてしまったに違いない。


 そんな感情を抱えている彼はすぐに帽子を脱いで深々と頭を下げた。「大変申し訳ございません」という謝罪の模範解答のようなキッチリとしたその一礼は、一向に振り向こうとしなかった彼女を逆に申し訳ない気持ちにさせるのに絶大な効果を発揮させた。


 振り向いた彼女はその姿に大慌てな反応を示した。バタバタと身振り手振りで「こっちこそごめんね!」ということを伝えたいのだが、水中で声を発せるはずもなければ得意のエコーロケーションも人間の彼には伝えることができない。

 

加えて彼は深く頭を下げたまま彼女を見ていない、「もういいよ」「私も悪かったよ」そう言いたいのに彼は気付いてくれない。


 急にいなくなったからただ寂しかっただけ。


 そう伝えてしまいたいのに。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 見えない壁が2人を阻む。


 その時「そうだ」と、声を出せない彼女、バンドウイルカは水槽内で閃いた。


 彼女は頭を下げ続ける彼にゆっくりと近付き、ガラスに手を触れるとそこで止まった。


 コンコン。


 ガラスを叩くと音がでる。

 彼女の音が彼に伝わる。

 音を聞いた彼は彼女を見る。


 とても単純なことだが、今の二人にとってそれが最高のコミュニケーションツールとなった。

 音に気付いた彼が顔を上げると、ガラスに手を付けられるほど近くに来ている彼女に気が付いた。吸い寄せられるように歩き出した彼は、彼女がしているのと同じようにガラスに手を伸ばし、彼女の手の平に合わせるように自分も手を付けた。


 ニコりとはにかんだ笑顔を浮かべる彼女を見た時、加害妄想で押し潰されそうになっていた自分の心に光が差し込んだような気持ちになり、思わずホロリと涙が溢れた。

 それを見て慌てた彼女に「大丈夫、ありがとう」と笑顔で答えた彼。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 その声は届かないかもしれない。

 けれど、彼の伝えたいことはちゃんと彼女に伝わっているのだろう…。


 それから、そのガラス越しに手を合わせるという行為が2人の中だけのルールみたいなものになっていった。


 彼がそのエリアの清掃を終える時を見計らい、彼女がガラスを2回叩く。それが合図となり、手を付けて待つ彼女の目前まで近付き彼も合わせて手を付ける。

 2人で短く笑い合うと「また明日」と言うように手を離し、お互いにその場を後にする。と、このようなルールだ。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 ここまで近付くことができても、未だ2人の手が本当の意味で触れ合うことはない。


 彼の次の休み明けの出勤。

 何故だか今日はお互いにどこかソワソワとしていた。


 彼が清掃に入った時、彼女は先に来ていたようで既に彼を待っているような状態だった。いつもは大体同じ時間に2人が揃う。

 今回は彼女も彼が休みであることを察していたのか、一日明けてから拗ねて背中を向けているようなこともなく彼を見るなり照れくさそうな笑顔で小さく手を振っていた。


 彼はまさか待っていたのかという事にやや驚いたのと彼女の仕草の可愛らしさに思わずニヤケ顔を浮かべてしまったので、帽子を深く被って顔を隠しながら小さく手を振り返した。


 清掃が終わると、それを見計らっていつものように彼女がガラスを2回叩いた。手を付いて待っている彼女のどこかうっとりとした表情に、彼の鼓動が少しだけ早く大きくなる。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 隔てて合わさったお互いの手が、指が、そちらへ行きたいとガラスを撫でている。


 あなたの手に触れたい、君の指に絡めたい、その手の温かさを知りたい。


 2人はいつしかそう想うようになっていた。時間など忘れてこの僅かな距離をもどかしそうに見つめ合った。


 もう戻らないと、でもまだこうしていたい。


 お互いにそんな気持ちを抱えてガラス越しに手を合わせ続けた。


 その時。


「おーい?そっち終わってるかい?」


 パークスタッフが中々戻らない彼を呼んだ。驚いた彼は瞬時に正気に戻り「はい!すぐ戻ります!」と返事をしてあたふたと走り去ってしまった。


 残された彼女、バンドウイルカは残念そうにガラスに額を当てて溜め息をついた。泡となった吐息と共に、彼女もゆっくりとその場を後にした。


 それから。


「おつかれさまです」


 ある時彼が作業着ではなく私服を着てその場に現れた。休みである。


「おやおやどうしたんだい?今日は休みだろう?忘れ物でもしたのかい?」


 彼の非番の日に入る普段は別エリアを転々と担当している正パークスタッフが彼を見てそう言った。仕事の流れを彼に教えたのもこのスタッフだ。

 そのスタッフに言われたように、休みの日なんだから休むのは当然なのだが、前の会社では休みの日でも電話が鳴ったり何かあれば出勤になったりととにかく名ばかりの休日を強いられていた彼にとってその言葉がどれほど暖かいものなのかは彼のみぞ知るところだろう。


 そんな彼がこの場に現れたのにはもちろん理由がある。


「いえ、明日で終わりなのでなんだか名残惜しくて」


 彼のアルバイトは短期である。

 契約の二週間が終わりを迎えようとしていた。


「もうそんなに経った?早いなぁ、君はよく働いてくれるから助かったよ」


「いえとんでもないです、もう一日ありますけど、お世話になりました… それで、少し中を見ていっていいですか?」


「あぁもちろん、小一時間は開けておくからその間は見てきても構わないよ?まぁ、この時間は見て回ってもフレンズさんいないんだけどね」


「あはは、ですね。ありがとうございます、じゃあ少しだけ失礼します」


 本来なら彼が普段彼女と会う時間は過ぎているが、もしかしたら… という期待を胸に抱き彼はこの場に現れた。時間を無駄にしたくなかったのだ。


 いつもの場所に向かう彼。


 そこに着いた時、やはり彼女の姿はなかった。当然… と言えば当然で、彼自身「まぁいないよな」と小さな溜め息をついた。

 トボトボとガラスに近寄り、いつも彼女と手を合わせる場所に手を付いた。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 それは今鏡のように彼だけを映し、あからさまに落ち込んだ顔を己に見せている。


 だが。


「なんて顔してんだよ… いや、ついこの間までの俺よりましか」


 もう、鬱に悩んで心がくたびれていた彼はそこにはいなかった。彼はこの仕事での経験を通じていつしか鬱を克服していたのだ。

 彼は明日の仕事を最後に実家に帰り新しく勤め先を探すことになる。だが今の彼ならきっと大丈夫だろう。ブラック企業で身も心もボロボロになった経験も、ここジャパリパークの海獣ブースでの日々も。彼を大きく成長させていた。


 唯一の心残りと言えば。


「君のおかげだ、君が居なければ俺はきっと今も…」


 彼女、バンドウイルカの存在が彼の心で大きくなりすぎていた。本当はもっと一緒にいたいが、彼は帰らなくてはならない。かと言って、気軽にまた会いに行けるような場所でもない。二度と会えないというほどではないのだが、次会えるのはいつになるのか…。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 今向こう側に彼女はいない。

 彼はガラスに額を当てて彼女との日々を思い出していた。

 今日ここに来たのは少しでも長く彼女との時間が欲しかったからだ。彼女との絆が深まるほどその分別れが辛くなるだけだが、それでも彼はそうしたかったのだ。 


 そうしてしまうほどに、彼女への想いを募らせていた。


「まだ、明日もある」


 明日、最後に彼女に別れを伝えてそれっきりだ。彼は本土からただのアルバイトで派遣された人間。一方彼女、バンドウイルカはここジャパリパークという島でしかフレンズというヒトの形を取れない儚い存在。


 彼女を連れて帰るわけにも、彼が無理矢理残るわけにもいかない。


 中途半端なことをしては彼女にも良くない、明日きちんと仕事を終えて、それで帰ったらもうきっちり忘れよう。

 

 そう固く決めると、彼は潔くガラスから離れ寮に帰るため踵を返した。


 が…。

 その時だった。


 コンコン


 ガラスを2回叩く音がした。 


 思わず振り向いたその先には、ガラスに手を当てて彼に熱い視線を注ぐ彼女の姿があった。

 驚いた彼は急いで戻りすぐに彼女の手に重なるように自分の手をガラスに付けると、彼女も少し驚いた様子で嬉しそうに笑った。


 彼女も同じだった。


 今日彼がいつもの時間に現れなかった時点で本来なら諦めるところを、彼女もまた「もしかしたら」という僅かな可能性に期待してしまいつい行ったり来たりとしていたのである。そんな2人のタイミングが合ったのが今だった。


 しばらく2人で互いを見つめ合っていると、お互いに隔たれた感覚にもどかしさを覚えしきりに指を動かしながら切ない表情を浮かべていた。


「…」


 彼は、言い出せなかった。

 そもそもこの隔たれた状態で彼女にどう別れを伝えればよいのだろうか。明日もあるのだし、最後に常駐のスタッフによろしく伝えてもらうなどしてもらえばよいのではないか。


 そんな風に言い訳ばかりが頭に浮かんでいた、面と向かって伝えるのが怖かったからだ。己の口から彼女を傷付けるのが耐えられないと感じていたいたからだ。


 これはまたいつもの加害妄想をしているだけなのかもしれない。もしかすると彼女はそれほど自分のことを想ってはないのかもしれない。だけど…。 

 彼がそんなふうに悩んで悩んで、罪悪感みたいなもので目を見れずにいることなど彼女には伝わっていないのだろう。


 そんな姿を見ていた彼女は、ほんの少し悩んだ末すぐに考えを行動に移した。


 コンコン


 彼がしっかりと自分のことを見るように、間近にいながら再度ガラスを2度叩いた。

 再び目が合うと、彼女はモジモジとした汐らしい姿を見せながら上目遣いに変わる。


 彼はそんな彼女の姿に高鳴る鼓動を抑えられず、思わず生唾を飲み様子を伺っていた。

 そして次の彼女の行動に、彼の鼓動はピークにまで達した。


 彼女、バンドウイルカは両手をガラスに着くとグッと前に乗り出しガラス面に唇を押し付けたのである。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 届くはずもない。

 そんなことは彼女自身わかりきっていることだが、どこか不安げな彼の表情を読み取り愛を伝えるのを躊躇わなかった。


 この時彼は、彼女も自分と同じでお互いに想いを秘めていたのだと認識することになった。即ち両想いであると。


 ガラスの向こうの唇の柔らかな感触が直接触れずとも彼の脳内に直接届いているような、そんな刺激が彼を包み込む。


「好きだ… 好きだ好きだ好きだ!」


 思わず声に出てしまうほど彼の想いが溢れ出し、彼もその誘いを受けようと身を乗り出した。


 …がその瞬間。

 彼の悪癖がそれを拒んだ。


「できない… だって俺はもう君とは…」


 自分の仕事は明日で最後。

 明後日の早朝から船に乗り地元に帰ることになっている。

 こんな風に無責任に君を受けれ入れるなんて…。


 そんな思考が彼の邪魔をして、彼は思わずガラス越しの口付けを拒んだ。一度離れると背を向けてしまい、その後は彼女を見ることにも罪悪感を感じ振り向くことができなくなってしまった。


 彼女… バンドウイルカは。

 彼のその姿を見て自分の気持ちは彼に拒まれたのだと思い。


 涙を水中に溶かしその場を泳いで去ってしまった。


 彼もまた、振り向けぬままその場を後にした。


 これでいい。 

 これでいいんだ。


 そんな風に自分に言い聞かせながら。


 彼が寮に帰るため海獣ブースを出る際にスタッフに声を掛けると、どうも来たときと違って酷い表情だったのだろう。


「おや、もういいのかい?って大丈夫かい?そんなに名残惜しかった?」


「いえ、はい… 大丈夫です、明日も頑張ります」


 そんな会話を一言二言残し寮へ戻った。



 翌日。

 勤務最終日。


 彼のもとに、彼女は現れなかった。

 当然だろうと割り切ったつもりだが、しばしば後ろを振り向いたりガラスの方へ視線を向けてしまっている自分を隠しきれないでいた。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 何もない。

 夥しいほどの水に、くたびれた彼の姿が映し出される。

 

「いいんだ… これであの子も俺なんかに無駄な時間は使わないで済む。いいんだ、いいんだこれで」


 強がりを何度も己に説き、無理矢理納得したつもりになり、大きな後悔を胸に抱きつつも。


 そうして彼は最後の仕事を終えた。





 翌早朝。

 彼はお世話になった寮の部屋と同僚達、そしてパークスタッフ達に挨拶とお礼を述べ港へと足を運んだ。

 既に迎えの大きな船が彼らを待ち侘びて海の上で僅かに波に揺られている。


「帰りの船にのる方はどうぞ1人ずつご乗船ください!短い間でしたがお世話になりました!」


 スタッフの一人の声で続々と同僚達が船へ乗り込み始めた。


 さよなら。

 いつかまた会うようなことがあれば、その時は面と向かって君に謝るよ… ごめんなさい。


 一度後ろを振り向き、未練を残したまま彼は皆に続いて船へと歩き出した。一歩歩く度に涙が一粒、また一粒と零れ落ちる。

 彼にとってジャパリパークの経験は初めてのことばかりだった。


 涙が出るほど一人の女性を愛したのも彼にとって初めてのことだった。


 やがて前を見るのも視界が滲んで来た頃。


「よし間に合った、ちょっと!君ちょっと待ってくれ!」


「え…?」


 呼び止められた。

 お世話になった例のパークスタッフだ。

 偉く急ぎの用だったのか、スタッフカーを雑に停車させながら大慌てで彼を呼び止めた。


「あの何か… っ!?」


 何事かと涙を拭いながら返事をした彼が振り向いた次の瞬間、彼はスタッフカーから飛び出した何かに強烈な体当たりをくらいそのままその勢いで海へと転落してしまった。港では、「人が落ちたぞ」と騒ぎが大きくなり始め、船は一時運航を停止して救助活動に当たろうとしている。


 海中では彼が取り乱して溺れる前に平常心を保ち、自分を海中に連れて来た者の正体を確認するためにゆっくりと目を開けようとしていた。


 おおよその予想はついていた。

 否、期待をしていた。


 頭にネズミ色のヒレ、末端に掛けてマリンブルーが輝く髪はユラユラと海中に揺れ、水色のセーラー服に似たデザインの服やスカート付近から伸びる大きな尾ビレ。


 温かい体温。

 華奢だが、自分を強く抱きしめる腕。

 

 そして。

 想像していた通りの柔らかな唇の感触を、彼は自分の唇で感じ取った。


 会いたかった…。


 心の底からでた想いと涙は、広大な海に溶けていく。 



 間もなくして海面から顔を出した2人はピタリとくっついたまま向かい合い、初めての言葉を交わした。


「あの…」


「私はバンドウイルカ!バンドウイルカのドルカだよ!」 


 しどろもどろな彼の言葉と、元気いっぱいな彼女の言葉。


「私はあなたが大好き!大好きで大好きで、駄目なのわかってて追い掛けてきちゃった!いけないことだけど、行ってほしくないの!やっとこうして会えたから!今度はガラス越しじゃなくてちゃんと触れ合って、ちゃんと言葉で伝えたいの!あなたの言葉も!気持ちも!ちゃんと聞かせてほしいの!」


 この二週間分の会話を一気にしているかのように、彼女は彼への気持ちを全て吐き出した。そして、こうして直接会うことで彼の気持ちを抑えるダムが決壊し、想いが滝のように溢れ出した。


「もっと早くこうするべきだった… 俺も君が好きだ、もう離さない!離れたくない!愛してるんだドルカ!」


 2人はそのまま強く抱き合い、再び口付けを交わした。長いガラス越しの関係が2人の恋を燃え上がらせた結果だろう。


 人目も憚らず愛し合う2人、そんな2人の邪魔をしては悪いと思いつつも彼に向かいスタッフが尋ねた。


「おほん、それでえーっと… どう?延長してみないかい?」


 はっと正気に戻り誰が見てもハッキリとわかるほどの赤面でドルカから目を逸らすと、スタッフの方を向き彼は答えた。


「えっ…とあの延長って?」


「アルバイトだよ!とりあえず延長一ヶ月でどうだい?その間に正社員試験の準備も進めてもらうからさ?どう?受けてみない?」


「は、はい!是非!よろしくお願いします!」


 覚悟を決め、一歩踏み出した彼の心にはもう以前のような病の影はない。そんな彼を救った彼女、バンドウイルカは彼の返事に嬉しくなりピタリと張り付いて決して離れることはなかった。


 ガラス越し、厚さ60cm。


 もう、2人の間にそれはない。






おわり。

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けものフレンズ恋愛短編集 気分屋 @7117566

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