愛しのニーナ
フランク大宰
第1話
満天の星空に浮かぶ満月、それにより空の色は暗い紫色に輝く。なぜ紫かと言えば、遠くの海岸沿いの道に沿って植えてあるヤシの並木が燃えているからだ。砂浜ではイルカに似た仇が青く光った四足を持つ奇妙な生き物が二匹連なって、紅白の台に乗りカラフルな衣装をまとった、顔を白く染めている道化師に芸を仕込まれている。道化師にとって遠い場所の火事などどうでもよいのかもしれない。火が迫ってきて自分と愛する商売道具であろう奇妙な四つ足の生き物がただの燃えカスになるとしても。
高橋義男はこの絵を「ニーナ」と名付けた。彼は十九のときこの絵を描き、日本美術界はこの奇異なる若い画家を一気に時代の風雲児に押し上げた。
彼は今、サンクトペテルブルクを拠点として活動している。彼は「ニーナ」を描いた十九のときから数百にも及ぶ作品を残してきた。彼がなぜサンクトペテルブルクを拠点においたかと言えば
まずこの街が古都であるということ、そして川が流れていることが理由だ。彼は京都の鴨川流域に生まれた。彼の家は江戸の時代から続く古い旅館であった。京都の古都とロシアの古都が似ているとは思えないが、彼から言わせればどこであれ、古都には同じ風が吹いているということだ。彼は今年、四九歳になる。
彼は風景画を得意とし、一枚として人物画を描いたことがない。彼はあくまでリアルな風景を描くことにこだわる。しかし、彼の描く場所の多くはこの世に存在しない。
ところで、なぜ例の絵は「ニーナ」というのか。そのことについては誰も知らない。彼自身もそのことについて説明したことはなかった。しかし、私はこの絵と関係を持っている。
そして彼に尋ねた。
「先生はあの絵のアイディアをどこで得たのでしょう?」
「夢です。十九のとき見たね。しかし、この質問はもう何百回も答えたはずだが」
「ええ、これは形式的な質問です。私が聞きたいのはニーナについてです」
「私がそれについて一度も答えたことがないのを君も知っているだろう」
「だからもう誰も聞かない」
「私はニーナについて有力な情報を知っています」
「有力な情報?」彼は苦笑して言った。
「なぜ、君が私の夢について有力な情報を知っているんだい」
「私の家系は陰陽道なのです」
もちろん嘘だ
「そうかい。なら、その情報とやらを聞こうじゃない」
「三つあります」
「一は世間一般に言われているようなニーナという女性が先生にとって愛し女性というのは間違えであること」
「二目はもう一人重要な女性がいること」
「三目はあなたが大きな罪をせおっているということ」
しばしの沈黙の後に、彼はポケットから外国産の両切り煙草を取り出し、オイルライターで火をつけた。私もポケットからキャビンを取り出し行きつけのバーのマッチで火をつけた。
「紙タバコを吸うのは日本にいるときだけだ」
彼は煙草を吸い煙を天井めがけて吹いた。
「加藤君と言ったね、君は運命というものを信じるかい?」
「ええ、多少は」
「僕は運命というものの力は善悪の概念ではどうしようもないと思っている。たとえその力が悪しきことを起こしたとしてもしょうがない。」
彼は煙草を強く吸ってから再び天井めがけて煙を吹いた
「もちろんその罰からも逃げられない」
彼は何かを悟ったようだった。そして記憶をかみしめるように話し始めた。
「ニーナが夢の中に出てきたのは僕が一九の時だ。美大の課題を書き上げて、そのまま椅子にもたれて寝てしまったんだ。夢の中で僕は当時友人だった佐藤と海辺のヤシの木で作ったバーで働いていた。
そこはおそらく日本にあるものではなく、どこか南国のようだった。海にいる人々は上半身全裸の色の濃い日焼けした黄色人種と色とりどりの水着を着た白人種。時刻は夕方から夜にかけてで、見る見るうちに太陽の色は濃くなりながらそして消えていき、代わりに月が昇っていく。僕らは白人の女のためにダイキリを作っている。しばらくすると色の白いおそらく日本人と思われる水着を着た少女が入ってくる。僕は彼女を木屋の裏に呼んで彼女の首すじに触れて顔をうずめる。その時の首筋の匂いと感触は今でも忘れない。どこか南国的で甘いにおいがして、それに少女特有の薄いけど、どこかとげのある匂いが混ざっている。触れた感触は柔らかさと硬さの混ざったこの世のものとは思えないもので。それらはあいまって魔性的な首を作り出している。
そうして僕がその首に取りつかれていると。どこかで叫び声が聞こえてくる。海岸沿いのヤシの木の並木が燃えている。僕は彼女を置いて火事を見に行くと。上半身全裸の白髪で長いひげを生やした男の老人が誰かを探している。
その男はその探している相手の名前を叫んでいる。最初それは独特なまりを持っていて聞き取れなかったが、しばらくするとその叫んでいる名前がニーナということに気付いた。
僕は老人と一緒にその名前を叫びながら海岸を走り回る。しばらく走り続けると海岸の最も先にあるコンクリート造りの高層ホテルから頭の真ん中で白髪の髪の毛がぱっくりと別れているとし老いた女性が手錠をかけられ、警察に引っ張られながら入り口の大きな回転ドアから出てくる。男は彼女にすがりつき、よかったよかったと言っているようだったが、警察はすぐに男を引きずり返離して、「この火事を起こしたのはこの女だ。こいつは放火の常習犯で、先日東京のホテルで起こった大火災の犯人もこの女だ」と日本語で言った。
「ここで目が覚めた。君のおっしゃるとおりニーナ以外に重要な女性がいる。」
「魔性の首を持った」
「そうさ、永遠に忘れることのできないね」
「あなたはその少女を、いやその首を探している」
「しかし、僕はその少女の顔は思い出せなかった。」
「手がかりは首だけ」
彼は新しい煙草に火をつけ、口にくわえ、煙を肺に入れた。
「人間の中には恐ろしく何かに取りつかれてそのためだけにしか生きられないのがいる。その何かは煙草を吸うことかもしれない古い切手を集めることかもしれない。ただその何かがいかれてるものだった場合地獄のような人生を送らなければならない。」
「あなたにとって必ずしもそれは絵ではなかったあなたに取りついたのは首だった」
「君はそれが性的なことだと思うかい?」
「ええ、少なくともノーではない」
彼は横を向いて窓から東京の街を眺めた。
「あの夢を見て以来、女の首を視ずにはいられなくなった。一つとして夢の中の少女のような首を持った女はいなかった。そのうちに僕は女を絞殺する夢を見るようになった。必ずそうゆう夢から覚めると。股間は怒張していた。僕は人としてそれが間違いであることはわかっていた。しかしどうにかなることではなかった。スケッチブックに何枚も女の首を描いたが、自分の求めているものは紙に書かれた絵ではなかった。芸術家の中には自分の狂った感情を作品で表現し満足する者もいるが、僕はそうではなかった。僕が求めたのは首そのものだったんだ」
「だからあなたは罪をおこしたと?」
「十年、我慢し続けた付き合った女性の中の何人かは自分の首を僕に締め付けさせてくれた。首を絞める感触、そして女の苦しがる声
それは僕にとってどんな名画よりも崇高で芸術的に感じるものだった」
「しかし、あなたはそれでは我慢が出来なくなった」
僕はこういいながら遠い過去に思いをはせた杉並木の道で僕の五歩先を歩く彼女は輝いていて、そこには少しの穢れもない。僕の目から見て世界は彼女を中心に回っていた。おそらくそれは杉並木の道のわきにブルーシートで作られた小屋にひっそりと住む年老いたホームレスの彼の目にもに同じだったはずだ。
しばらくすると彼女は後ろに振り返って僕に
問いかける。
「ねぇ、さっきの話どう思う」
僕はこの何気ない出来事を鮮明に記憶している。彼女が選んだ判断は結局として彼女を殺した。もし、彼女が生きていたらどうだったのだろうか。彼女も僕自身も。
おそらく彼女は幸せになったのだろう。あそこまで美しさとやさしさを兼ねそろえた女性が不幸になる可能性は天文学的確率だろう。彼女はたまたまその確立にはまってしまった。
彼女の死体を見たとき私は涙を流さなかった。あまりにも死体は美しかったし魅力的だったしかし、火葬された彼女の燃えカスはただの燃え燃えカスだった。彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。私は彼女の葬式で彼を見た。あの時のこの男の濁りを持った目。そんな目をしている人間はあの場にほかに居なかった。
「そのとおりさ、どうすることもできなかった」彼はどこともない方向を濁った目で見ながら言った。
「彼女はあなたの絵がとても好きでしたよ」
愛しのニーナ フランク大宰 @frankdazai1995
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