第2話 緑

 初夏を迎えた木々は、瑞々しいその葉を鷹揚に伸ばしている。僕は、その光景を眺めながら、額に滲む汗を感じていた。太陽は暑い日差しを落としながらも、地表に季節と相応の爽やかさをもたらしている。

 僕は裏山を散歩している。窓から見た木々が、あまりにも美しく輝いて見えたからだ。普段は出不精の僕だが、今日ばかりは心が弾んだ。初夏という季節は、どこか若々しい、爽やかな青春とエネルギッシュさを持って、僕を感化する。

 裏山を横断する小道の左右には、乱雑な竹林がそびえている。サラサラと竹の葉が擦れる音が、涼しげに響いている。不思議なものだが、山にこうして足を踏み入れると、驚くほど外界の音は遮断されてしまう。車の音や、人々の話声は、遠いどこかへ消えてしまって、僕だけがこの世界に迷い込んだような、素敵な錯覚を覚える。

 竹林を抜けた先には、クヌギとスギの雑木林が広がっている。そのどれもが、竹林よりも背が高い。家から眺めている分にはなんて事のないただの雑木林だが、こうして木々の足元に佇んでみると、その偉大さが身に沁みる。木々の歩んできた歴史を考えれば、僕など赤子のようなものだろう。左手に見える小高い丘には、山神の祠がポツリと顔を出している。祠の左右には南天が植えられていて、適度に手入れされている事が見受けられた。丘には木々はなく、代わりに雑草や花が所狭しと肩を並べている。虫たちにとっては、きっと楽園だろう。そんなことを遠巻きに見つめながら、僕は考えていた。

 山道を歩きはじめて五分ほど経った頃、僕は幸福の中にいた。木々の音や鳥の鳴き声、山のざわめき。全てが僕をリラックスさせてくれた。額に流れる汗も、心地の良いものに変わりつつあった。

 急坂を登りきると、小さなグラウンドが眼前に広がる。地区の運動会などが開かれる、こじんまりとした場所だ。運動会の前後以外は、草も生え放題で、半ば自然と同化している。運動不足がたたって、跳ねる心臓を落ち着かせる。鼻腔に草の匂いが広がる。それは、どこまでも優しい。石垣に腰掛けて、なんとなしに視線を巡らせる。視界一面はすべて、完全な自然だ。特別な景勝があるわけではないが、単純にそれらが美しいと思った。風に時折揺れる木々は、心地よい音を運んでくるし、腰掛けた石垣に生えた苔は柔らかい。そこに或るだけで、美しいという自然に僕は、一種の嫉妬と羨望を覚えた。人間はそうはいかない。必死に取り繕って、なんとか体裁を整えているだけだ。素の状態で、何もかもが上手くかみ合って、静かに時間の歯車を回している自然のなんと美しいことか。小さな散歩には不釣り合いな、大袈裟な感動に僕は酔いしれていた。まるでウェルテルの気分だった。

 時間にしたら十分やそこらであろう。石垣でぼうっとしたのち、僕は行きと同じ道を自宅に向けて歩き始めた。歩く方向が逆になっただけで、こうも景色は表情を変える。行きとは違う木々の顔、高い梢の隙間からは、眼下の田舎町が顔をのぞかせている。

 家に着くころ、僕はすっかり新鮮な心持になっていた。少し汗ばんだ額を拭いながら、玄関にたたずんだ。家の中に入るのが、もったいないような気がして、振り向いた。視線の先には、自分が先ほどまで歩いていた裏山が見える。それは、僕がいない今も、何ら先ほどと変わらずに木々を揺らして聳えている。

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色彩短編集 鹽夜亮 @yuu1201

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