色彩短編集
鹽夜亮
第1話 黒
空は暗澹としている。雨は降り止むことを知らない。ザアザアと耳障りな音が鼓膜を揺らす。足元に目を向ければ、荒れた道路はどこもかしこも雨水に濡れている。
シャッターだらけの商店街では鴉の群れがゴミ袋を突いている。その横では、不吉な猫が小汚い通りを横切り、それを見た女学生が眉を顰めている。
私はそれらを横目に、走り去る車達のタイヤをぼうっと眺めていた。
くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる。
私にはそれが不思議と愉快だった。タイヤは濡れた地面の上を、ただどこまでも無機質に回り続けていた。
眺めることに飽きを感じ始めた私は、街角の古びたカフェに入った。年季の入った薪ストーブが、カフェ全体を温めていた。それはずぶ濡れになった私のレインコートにはありがたいものだった。供されたコーヒーを見つめながら、その香りを漠然と感じた。コーヒーの横に添えられた、付け合わせの安物らしきチョコレイトはそれに相応しい単純さで私の舌を楽しませた。久しかった安直な甘味は優しさではなく、味覚に対する明瞭な刺激であった。
壁にかけられた燻んだ古時計が、十七時を告げた。ゆらゆらと揺れる振り子に、言い様のない不気味さを感じた私は、苦味の過ぎるコーヒーをそそくさと飲み干すと、日も暮れ掛けたカフェの外に逃げ出した。
暗澹とした空は、さらにその色を深めていた。いよいよ視界の至る所は、闇に侵され始めた。雨音は強さを増している。カフェ前の歩道は、溢れかえった雨水で川のようになっていた。靴下まで水が染み入るのを感じ、私は不快に思った。
大通りを離れ、バス停へと向かっていた私の前に、喪服を着た女が立っていた。女は、ただこちらを見つめている。微動だにせず、瞳孔を異様に開かせながら、ただ私を見つめている。私も、それに倣って、足を止めた。
数秒お互いを凝視した後、それにも飽きた私は女の横を目指して歩き始めた。距離が近づいても、女は私を凝視し続けた。女の横を通り過ぎる時も、女は顔と体を正面に向けたまま、その拡大した瞳孔だけを動かして私を見つめ続けた。
やがて私は、市街地の外れにあるトンネルへと辿り着いた。数年前に旧道となったそこは、どこに続くとも知れぬ井戸のような口を、あんぐりと広げていた。通る車も人もいないトンネルは、冷たく静まり返っていた。ただ雨音だけが周囲を支配している。他には何もなかった。
照明さえ消えたトンネルの中をただ真っ直ぐに歩きながら、ここを出たら私はどうしようかと考えていた。私には行く宛がなかった。トンネルの先には、明かりの少ない峠道と、それを囲い込むようにそびえる林があることを、私は知っていた。それを思い返した時、目的地は自ずと決まった。のみならず、私の手には既に目的を遂げるべく、必要な然るべき道具も持たれていた。私は私がすべきことを今の今まで忘れていたかのように、亡霊の如く街を彷徨い歩いていたことに、ここで初めて気が付いた。それは私の無邪気な現実逃避と言えない事も無かった。
永遠に続くかと思われたトンネルは終わった。出口の先はただただ暗闇だった。道路の両側には見通しの利かない林が広がっていた。私の次に向かうべき場所は、明確ならざるとも決まっていた。
私は、陰鬱な峠道から林の中へ向かい、ズルズルと沈む泥へ足を踏み入れた。
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