せめて白昼を舞う蝶であれたら

 せめて白昼を舞う蝶であれたら。


 そらんじながらただ漠然と夜の道を歩いている。

 初夏の空気はほんのわずかな冷たさと湿気を含んで、深く鋭く私にまとわりついてきて離さない。

 ほんのわずかに風が吹けば、短くしすぎてしまった髪がそれでも揺らいで肌を撫でる。


 せめて白昼を舞う蝶であれたら。


 私が生み出したこの言葉に、オリジナルは存在しない。感情が込められているようでいて、ほんとうにそこにあるのは空虚な願いひとつだけ。そしてそれを知っているのは私一人。その事実に酔ったように、私は幾度となくその言葉を繰り返す。

 

 初めて私がこの言葉を覚えたのは、いつのことだったか知れない。つい最近のことだったようにも思えるし、ずっと昔のことだったようにも思う。記憶の距離感はとてもあいまいで、だけど口に出すたびに浮かぶイメージだけが嘘みたいに鮮明だった。


 夜を切り取ったように昏い色の羽をはためかせて、空を舞う蝶。

 ふと見かけるたびに、なぜだかその姿が目に焼き付いて離れなかった。


 手の届くほど近くを飛んでいるくせに、触れることさえできないような不思議さと、そのくせふとした瞬間に亡骸なきがらの見つかるような儚さと。

 けれどそれでも、素知らぬふりをしてまた次の年も現れる、その確かさと。


 そんな、ごく当たり前の美しさは、私にはとても程遠いものに思われて仕方がない。


 だから私は繰り返す。

 せめて白昼を舞う蝶であれたら、と。

 ただ美しく、そのままに果てることができれば、と。


 だけど、それは叶わぬことだと知っている。

 それがどうしようもないことだと。

 切り離しようもない私の本能は、ただ無慈悲に私に囁く。故に私はこうして、夜を彷徨い歩く。


 白昼には吸い込まれるように感じる闇色も、宵闇に紛れてしまえば瞳に映ることはない。それを理解していて、それでも白昼に在れない私は、ただ縋るように、不器用に、偽物の幸福に引き寄せられてしまう。


 絶対に手が届かないのに、手が届くように錯覚して。

 手を伸ばして、だけど届かなくて、やがて力尽きて地に落ちてしまうような。

 それが今の自分の姿なのだと、私は知っている。


 不幸せだとは思わない。

 それが私の生き方なのだろうから。

 ただ、幸せでない、というだけで。


 尽きることのない欲望を抱えて。切りすぎた髪を風に揺らして。

 ただ空虚だけを抱えながら、閉じた暗闇の中を、誘蛾灯に導かれながらあてもなく歩く。

 この瞬間の孤独と、どうしようもない本能を、私はただ私のものとして知っている。


 せめて、白昼を舞う蝶であれたら。

 ただ、ありのままの美しさと、手の届く限りの幸せだけを伴ってそこに在れたら。


 そんな、叶わぬ願いを口にしながら、私はただ一人、夜に溶け込んでいく。

 はじめから叶わないと知っていた失恋を後ろに引きずりながら。

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空を知っている。 九十九 那月 @997

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