言わなくてもわかること、言わないとわからないよ

枕木きのこ

言わなくてもわかること、言わないとわからないよ

 ワイシャツに腕を通す。今日のネクタイはフラミンゴの柄。

 リビングに顔を出すと、醤油のいい匂いが鼻をく。覗き込むと、フライパンの目玉焼きに回しいれたところだったようだ。

「おはよう」

 里香はこちらを見ないまま挨拶をくれ、今しがた完成した目玉焼きを、ふちにグレーの二本線が入った大皿に載せた。チン、と音がしてトーストが飛び出てくる。それを腕を伸ばして取りつつ、左手ではレタスとトマトで飾り付けを。いかにも、僕の好きな朝食のセットである。

「ん」

 敷かれたランチョンマットの上に、僕がテーブルに着くのと同時に皿を乗せる。

 時計を確認したあと、

「あ、やば。私もう出なきゃ。ゴミよろしく」

「ん」

 バタバタと部屋を出ていく里香の後姿を、トーストをかじりながらぼんやりと眺めていた。


「いいなあ、先輩の弁当うまそうっすね」

 昼休憩に入って、缶コーヒーを買って戻ってから、デスクに弁当を広げて両手を合わせたところ、山下くんが頭上からそう言った。僕はいただきますの邪魔をされて、わざとらしくしかめっ面をして見上げる。

「わあ、すいません」

 まさしく棒読みです、という口調で、口を開けたままにしているので、

「すません、じゃなくて、すません。うっかりほかの人に使うなよ?」

「わあ、」今度は向こうがわざとらしく強調する。それから、「いいなあ、俺も弁当作ってくれる嫁さんほしいっすわー」

「うーん。うちのは嫁というか、姉というか、母というか……」

「口うるさいってことですか?」

「いやあ、そんなことはないんだけど」

「いいじゃないっすか。わ、そのハンバーグうまそうっすね」

「あ、これはダメ。お気に入りなんだから」

「子どもっぽいっすわー」

「うるさいなあ、早くどっか行きなよ」

 意に反して、山下くんは隣のデスクに腰を下ろすと、がさがさとビニール袋を机上に載せた。

「今日は買ってきたんすよね。俺もこれ、お気に入りなんすけど」と言って袋からいちごサンドを取り出し、「なんでか近くのコンビニ置いてなくて」

「あんま変わんないじゃないか」

「いやいや、先輩には負けますよー」

「こういう時は先輩を立てなくていいんだよ!」


「よっ! いい飲みっぷりですね。ささ、ぎますよ」

 仕事のあとに、以前取引のあった会社の榎本さんから飲みに誘われ、うっかり上司にそのことを漏らしてしまって逃れられなくなった。連絡先こそ交換していたが、僕はこの榎本さんという人がなんとも苦手で、できれば一緒に酒など飲みたくない。でも、会社の意向として付き合いを続けておけ、ということなのであれば、末端は従うしかない。

 榎本さんはビール二杯をぐっと呷ってからは、ちびちびと日本酒を啜っていた。僕は日本酒を飲むとその飲みやすさですぐに調子に乗ってしまって、気づくと家のトイレにいる、ということがしばしばあったから、できればこれも遠慮したかったが、榎本さんは有無を言わさずお猪口をひとつこちらに寄越して、さあさあ、などと促すものだから、もうすでに、思考は泥濘していて、記憶も断片的だ。

「河崎さんの奥さん、美人ですよね」

 銀縁の、な眼鏡をくいと上げると、胡乱な目が僕のほうを向いた。

「あれ、榎本さんって妻のこと見たことありましたか?」

「覚えてないんですか? 前にご一緒したとき——ああ、あの時は河崎さんだいぶべろんべろんだったからなあ」はっはっは、と呼吸困難な犬のように笑い声をあげた。「これが嫁! 俺の嫁なんすよ! ええ! いいでしょう! って、さんざん絶賛してましたよ」

「——記憶にございません」しゅん、と一瞬、酔いがさめる。「本当ですか?」

「嘘ついて何になるんですか。嫉妬してるぞっていうアピールですか?」

「まあ、意味ないですね」

「でしょう?」先ほど直したばかりの眼鏡をはずし、少し汚れた手拭きで顔をごしごしと拭きながら、「幼馴染なんて、本当に、絵に描いたようで、うらやましいですよ」

「はあ、まあ」

「二十年くらいの付き合いって話でしたっけ? もうあれでしょ。阿吽の呼吸というか、言わなくてもわかる的な」

「まあ、そうですね」ぐっと残りを飲み干すと、すかさず次を注がれる。「たぶん、年々私の口数は減ってると思いますよ。ん、とか、おう、で済んじゃうというか」

「へえ。本当に、阿吽の呼吸なんですね」

「今日もほらこれ」ネクタイを掲げて見せる。「妻がね。毎日服から飯から、なんでも用意してくれるんですけど。今日はこれだなって、妻の中で僕のカレンダーができているというか。わかってくれてるんですよ」

 手で促され、するっと日本酒を飲む。酔いがさめ始めているのがバレているのか、もっとしゃべらせようとしているのか、定かでない。

「いいじゃないですか。そういうの。美人な嫁。しかもよき理解者。カアー、俺も欲しいなあ、そういうの」

「どうなんですかねえ?」

「贅沢ですよ。お子さんはいないんでしたっけ?」

「まあ。妻が欲しがらなくて」

「はあ。お二人のお子さんなら、さぞかしかわいい子でしょうね」

「そんな、またまた」


 結局終電までの四時間ほどを一緒にいたことになる。正直なところ、今日に関しては飲みすぎた。気づいたら家のトイレにいて、本当に良かった。

 ようやく這い出てソファに横になると、里香は「飲んだ後に!」と書かれた小瓶と水をテーブルに置きながら、

「とりあえず水飲んで。大丈夫そうならこっちも」

「ん」

 指示を出すと、寝室から毛布を取って掛けてくれる。

「明日、ちゃんと起きてね」

「ん」

 そのまま、ずっと頭で円を描き続きているような、エレベーターが止まる瞬間の、——ひゅん、という感覚のまま、眠りの中に入っていった。


 案の定、起きれなかった。正確に言うなら、起こしてもらうまで、目を覚まさなかった。

 朝だよ、と声が聞こえた時、なぜだか遅刻だ! と慌ててしまい、こちらを覗き込んでいた里香の頭に思い切り頭突きをしてしまった。いったー、と額を押さえながら後ろに手を突いた里香に、わあ、と驚きながら、手を伸ばして一緒に頭を撫でていると、

「朝ごはんと服、置いてあるから。もう行くね」

 力なく、里香はそう言って立ち上がり、よたよたと玄関に消えていった。

 やってしまった、と思ってはいたものの、こちらは前日からの頭痛に、あまり余裕がなかった。会社に連絡をして、今日は休もう。もうだめだ。

 

 再び目を覚ましたのは、十二時過ぎだった。すごく深い眠りに入ってたのか、もっと時間が経っているものだと思っていたが、思ったより早かったので、少し得した気分になる。

 テーブルに置いてあったごはんは、メモだった。

 ——スープがあるから温めて飲んで。

 宝探しでもあるまいに、メモを片手にキッチンへ移動すると、小鍋があった。玉ねぎのコンソメスープのようだ。

 それから、昨日そのままで寝てしまったからしわくちゃになったシャツに気づいて、着替えようと寝室のほうへ行くと、ワイシャツもネクタイも、準備されていなかった。さては怒っていたから嘘でもついたのか——などと推理していたが、きれいにたたまれたスウェットが視界に入り、途端に、——ああ、ぼんやりと、世界が歪んでいく。

 里香には何もかもお見通しだったわけである。

 そして僕は、自分の情けなさが、ようやく見通せた。


「ただいまー」

 まずい、と思った。

 扉を開く音がして、まず里香は、——え? と言った。

 彼女の眼前、すなわち僕との間には、花束が置かれている。柄にもなく、バラの。

「やあやあ、おかえり。ぴったりでよかった」

 慌てた様子が見透かされないように放った言葉は、しかしたどたどしくなってしまう。もしかしたら里香に対して、久しぶりに「ん」以外の言葉を発したせいかもしれない。

「えー、すごい!」それから里香は、ダイニングテーブルに置かれたオムライスとポトフを見て、驚いた。「作ったの?」

「そりゃ、実は宅配ですとは言わないよ」

「わー!」言いながらジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれにかけると、「食べよ食べよ!」

 手を洗いに一度キッチンへ行って、すぐにテーブルに着く。

「あー、えー。それなんだけど——」

「いただきまーす」早速ひと口頬張り、「うん、なるほど——天才だ! これはもう天才的に——」

「大丈夫、言わなくてもわかるよ」もちろん先ほど味見をした僕もそう思ったところだからだ。「無駄な出費だったかも。ごめん」

「まあ——控えめに言って、無理はしなくていいよってことで」

 里香は口角を上げて、へへっと笑うと、もう数口だけ食べて、ラップをして冷蔵庫にしまった。鍋を占領している残りのポトフも、そのまま突っ込む。

「捨てちゃいないよ」

「いやあ、さすがにもったいないよ」

「好意が?」

「食材が」

「だよね」

 と言って、僕たちは久しぶりに目と目を合わせて大きく笑った。それはもう、親が変な顔を見せた時の赤ちゃんのように、箸が転がった時の女子高生のように、馬鹿みたいに、腹を抱えて。

 ひとしきり笑いあって、落ち着くと、里香は台所に立った。手際よく晩ごはんの支度を進めていく。

 僕はそれを洗いものだけ手伝いながら、手が空くとじーっと眺めていた。

 ——なんでこんなことを?

 と、里香は聞かなかった。

 ——いつも感謝してるよ。

 と、僕は言わなかった。

 たぶん、お互いにわかってるんだろうな、と甘えてしまう自分を自覚しつつ。今更、愛してるよなんて、言わなくてもわかる。

「——なに?」

 たぶん、あまりにも顔を見すぎていたのだろう、照れくさそうにして、里香は顔をそむけた。

「んーん」

「言わないとわからないよ」

 コンロ下の調味料を取るため、屈んだ里香の頭上から、

「ああ、俺、子ども欲しいかも」

 声を掛けると、驚いて立ち上がろうとした里香の頭にフライパンの持ち手がぶつかって、危うくこれもダメになる——どころか、いろいろダメになりそうだった。

「あっぶな」

「ごめん」慌てる、を体現するパントマイムみたいに、嘘みたいに慌てながら、「だって」

 と言うので、もう一度同じことを言うと、今度はまんざらでもないような顔をして、すっと菜箸をシンクに置く。この話はもういいから洗い物をしろ、ということだ。

 おそらく、二人とも、こういう関係がずっと続いていくのだろうと、なんとなく、理解している。でもそれは、後輩みたいに自然発生の延長ではないし、取引先のように利益があるからではない。だから、こういう関係をずっと続けていきたい、ということは、言葉にしないといけないのだ。

「明日も早いんだから。ちゃっちゃと作ってちゃっちゃと寝るよ」

 決してこちらを見ないまま、でも怒っているわけでもなく、ともすれば恥ずかしそうにしながら、里香はせわしなく手を動かしている。

 それをわざわざ、言及するのは野暮というもので、だから僕は、

「ん」

 とだけ返事をした。

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言わなくてもわかること、言わないとわからないよ 枕木きのこ @orange344

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