第12話 最後の訪問者

 劉備は蜀漢の皇帝となるや、呉を攻めることを宣言した。

 慌てた孫権は孔明の兄である諸葛謹しょかつきんを送り、劉備の翻意を求めた。


糜芳びほう士仁しじんの両名を引き渡してもよい」

 呉からの提案に劉備は頷いた。

「それは当然だ。だが、東征は行う」

 諸葛謹も、これ以上の交渉が無駄だと悟らざるを得なかった。退出する兄に、孔明は頭を下げた。その間、二人は決して目を合わせようとはしなかった。

 蜀と呉の交渉は決裂した。


 国内から精兵を選りすぐり、大軍を編成した劉備は進発の準備を整え、地方の太守に任じていた張飛の合流を待つばかりとなった。


 だが張飛は来なかった。

 代わりに一通の書状が届けられ、張飛の横死が伝えられた。部下二人に襲撃されたのだという。劉備は幽鬼のような顔で、黙り込んでいた。


 あまりの不祥事に、東征の延期さえ劉備の頭をよぎった。

 しかし、張飛殺害の下手人が呉に逃亡した事を知り、劉備は激怒した。



「みなさん、すごくお若いんですね」

 東へ向かう軍を見送りながら、蓮理さんは呟いた。僕もそれを感じていた。

 兵士はもちろんだが、それを指揮する将軍たちも本当に若い。

 関羽、張飛だけでなく、馬超と黄忠もすでにこの世を去っていた。五虎大将軍と称された上将軍たちの中で、残るのはもはや趙雲だけになっていた。

 その趙雲も東征に反対したため、孔明と共に成都に留まる事になった。

 でもまだ魏延ぎえんとか呉懿ごい陳到ちんとうと云った歴戦の将軍も居るのだが。

「陛下は、全軍を自ら指揮されるつもりなのだ」

 孔明が言った。だから、あえて大将軍クラスを連れて行かないのだ、と。


 これは劉備の、あくまでも個人的な仇討ちなのである。


 ☆


 蜀軍の連戦連勝が成都に伝えられた。

「劉備さまって、こんなにいくさがお強い方でしたっけ?」

 蓮理さんが疑問を呈した。

 言えている。何かが、おかしい。


 だが、やがて戦況は膠着した。呉軍を指揮する陸遜りくそんは持久戦に持ち込もうとしているらしかった。日々、小競り合いのみが繰り返された。

 自然と蜀都への新規の情報も途絶えがちになっていった。


 そんなある日、劉備に付き従う参軍の馬良から、孔明あての急使が訪れた。

 呉の領土へ攻め込んだ蜀軍は、続く暑さにやられて川沿いに陣を敷いている。危険を訴えるのだが、劉備はとり合ってくれないと云うのだった。


「船でも馬でも良い。とにかく一刻も早く、わたしを陛下の所へ連れて行けっ!」

 孔明は立ち上がり、叫ぶように言った。


 ☆


 蜀軍大敗、いや、壊滅の報が成都に届いた。


 川沿いに敷いた陣を寸断され、各個に包囲殲滅されたのだ。危険を報じてきた馬良も命を落とした。

 劉備は、殿軍しんがりを務めた向寵しょうちょうの奮闘によって、辛うじて蜀領の白帝城まで落ち延びる事が出来たが、そのまま床につく事になった。


 国内の動揺を抑えるため成都で治安維持にあたっていた孔明だったが、劉備に呼ばれ、永安えいあんと名を改めた白帝城へ向かった。

 彼を迎えたのは、見るかげもなくやつれた劉備だった。

 震える手で孔明の袖をとった。

「丞相よ、わしは……馬鹿だったな」

 かすれた声で自嘲する劉備に、孔明は優しく語りかける。

「あなたは、劉玄徳として為すべき事を立派になされました。それが失敗に終わったからといって、誰があなたを嗤うことが出来ましょうか」

 劉備は天井を見上げた。

「わしが死んだら…」

 再び、呉と同盟を結んでくれ。劉備は言った。静かな声だった。

「丞相には世話を掛ける事になる……」

 孔明は黙って首を振った。


 それから間もなく、劉備は息を引き取った。


 ☆


 はあぁー、僕はため息をついた。

「どうしたんですか、均くん」

 赤ん坊を抱えた蓮理さんが不思議そうに僕を見た。

「いえ。兄はいつ帰って来るのかな、と思って」

 僕は赤ん坊の頬を突っついてみる。

 この赤ん坊はせんという。孔明と蓮理さんの子供である。決して僕の子ではない。たとえ兄より僕の方が、蓮理さんといる時間が長いとしても。

 誓ってもいい。事故が起きたのは、あの時だけなのだ。


 いま孔明は、五丈原という場所で、魏の大軍と対峙している。それまで何度も兵糧の不足から撤退を余儀なくされてきたが、今回は蓮理さん考案の水陸両用馬車を使って、大量の兵糧を送ることに成功していた。

 だが魏の将軍、司馬懿しばいは合戦に応じなかった。対峙したまま、いたずらに時が過ぎた。


「孔明さまの身体が心配です」

 蓮理さんも表情は晴れない。やはり蓮理さんも、以前から孔明の体調が悪いことに気付いていたらしい。

 僕がおかしいとは思ったのは、孔明が北伐の前に書いた『出師すいしひょう』を読んだ時だった。

 あの兄が、こんな名文を書ける訳がない。絶対どこか悪いに違いないのだ。

 あの時孔明を止めていればと、僕は何度も後悔した。


「星が綺麗ですね……」

 蓮理さんは夜空を見上げ、小さな声で言った。ぶるっと身体を震わせる。


 流れ星がひとつ、北の空に消えた。


 ☆


 僕はひとり年老いて、寝台に横たわっていた。

 かつて孔明や蓮理さんと暮らした部屋だ。そのどちらも、すでにこの世に亡い。

 あの夜空を見上げた翌朝、蓮理さんは微かな笑みを浮かべ、冷たくなっていた。何日かして孔明の死が伝えられたから、もしかしたら二人同じ時に亡くなったのかもしれない。


 哀しいより先に、妬ましいと感じた事を僕は覚えている。だがこれで、孔明を訪ねて来た人はみな、僕の前から去って行った事になる。


 そのはずだったが。

「孔明どのの旧宅はこちらですか」

 何やら、偉そうな武人が案内されて来た。魏、いや今はしんという国名だったか。そこの大将軍だという。最近、こんな奴が多いのだ。孔明の話を聞きたいらしい。困ったものだ。あんな男の事など。


 だから僕はいつも、耳が遠い振りをして別の話をするのだ。


 ええ、あの方はそこまで優れて美しい訳ではありませんでしたよ。

 一見、どこにでも居そうな人でした。


 でも僕にとって、かけがえのない人でしたよ、と。



 了

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孔明はうちの兄ですが、何かご用ですか。 杉浦ヒナタ @gallia-3

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