一場春夢
石燕 鴎
其れは儚い、儚い夢のようなひと時でした。私はさるお方に嫁入りを致しました。その方は三十路を過ぎても独身でいらっしゃる旧家の美しいお方でした。
私は嫁入りの際に始めてあのお方の顔を拝見したのですが、そのお顔の美しさといったら。近年の歌舞伎役者とは比較にもならず、平々凡々な私とは全く釣り合わないものでした。何をお召しになってもお似合いになりますし、私はその艶やかさに骨抜になって行きました。
あのお方は性格も良く、私をよく気遣って呉れました。何分嫁入りしてきた身ですから、当家の仕来り等や御母様と御父様の接し方など分かりません。あの方は一つ一つにお気を配って下さり、私が家に馴染める様に、心を砕いて呉れました。
あるとき、私は縫物をしておりました。あの方は年甲斐もなく木に登りシャツを破いてしまったからです。からり、と音がして私が思わず振り返えりますとあの方がお立ちになっておりました。
「僕のせいで、すまないね。君にこんな細かなことをさせて」
あの方は風鈴を鳴らす様にさわやかなお声で私を労われました。私は細かなものを視るのが苦手で普通珍しい眼鏡をかけながら衣服の解れを直していました。私は艶やかなあの方と眼鏡をかけ、地味な姿の自分を脳裏で対比し、思わず恥ずかしくなってしまいました。そして労って呉れたのに対し、つっけんどんな返しをしてしまいました。
「いえ。大丈夫です。このくらいならすぐ直ります」
あゝ神さま、私はそんな返事がしたかった訳ではなかったのです。もっとはにかみながら夫婦らしいお返事をしたかったのです。私はここに告白致します。私は夫婦ながらあの方に恋をしていたのです。しかし、それはおそらく叶わないことだったのでしょう。
夜になるとあの方は私と一緒に就寝していました。しかし、私を×するわけでもなく、ただただ寝るだけでした。夫婦間にそのような関係がない、というのはどこかに原因があることでしょう。私は、その原因を探るべく行動を開始せました。と言ってもあの方に直接聞いたのでは×されて終わりになってしまう。あの方と気持ちが通じていないと私は厭だったのです。昼間はあの方は仕事に向かっています。昼間には何も問題はない筈です。問題は夜の間にあると私は確信しておりました。私は夜分にこっそりとあの方のご趣味のコーヒーメーカーで豆をひき、泥水のような味の水を啜ってから、あの方と一緒に褥に入りました。やがてするりとあの方が布団から出る音が聴こえて参りましたので、少したってから私はあの方の尾行を始めました。尾行なんて、探偵みたい。私は少し浮かれ気分であの方の後をつけていきますと、ある一軒家に入ってゆかれました。その一軒家にはそれこそほっそりとした手足を持つ美人の戦争未亡人が住んでいる家でした。
私は厭な予感がして、その方の家に耳をつけてみました。××に悶える×らな女の声が聞こえてきました。私は耐えきれなくなり、家に帰ることにしました。あゝきっと美しい人は美しいモノしか愛せないのだ、私はそんなことを考えていました。
あくる日、偶然美貌を持つ未亡人とたまたま井戸で出会いました。昨日の痕跡はなく、私があの方の嫁であるのに普通に声をかけられる。素晴らしい肝っ魂の持ち主だと思いました。私はこの日から私が消えたらあの方と未亡人が収まりの良い関係になるのでは、という恐ろしい考えが頭を支配していたのです。
私のこの手紙を見つけたらあの方に幸せになってほしい。私は儚いけれど幸せな時間を過ごすことができたとお伝えくださいませ。身勝手な理由でこの世から消えることをお許しください。
かしこ
一場春夢 石燕 鴎 @sekien_kamome
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