イワクツキ

上山流季

イワクツキ

 その本の噂は何度か耳にしたことがあった。読んだ人間は死ぬ。読んだ人間は発狂する。読んだ人間は殺人を犯す。どれもこれも使い古されたでっちあげの売り文句キャッチコピーだと思った。

 だからその本が証拠品として押収されてきても、署内同部署で俺だけが恐れなかった。他の同僚たちはきゃあきゃあと黄色い声を上げたり、直接『怖い』と口にせずとも本に触れようとはしなかったが、俺はその本を『怖い』とは思わなかったので手に取った。同僚たちは息を呑んだが、特段、何も起こらなかった。

 証拠品として押収されてきたのだから一応目を通す必要があると思う。そう上司に提案してみると、なんと恐れ多くもこの俺がそれを担当することになった。いわゆる『いわくつき』とされるこの本に、事件に関係する手がかりがないかどうか調べてもよいのだそうだ。

 光栄なことだ。

 俺は今日の仕事を一通り終え、深夜、デスクに座って本を片手にコーヒーを飲んでいた。甘いものは得意ではない。インスタントのブラックをうっかり証拠品にご馳走ちそうしないよう注意をしつつ、PC画面に事件の調書を表示しつつ、本の表紙をめくることにした。

 問題の事件というのは殺人事件だった。マンションに住む若い女性が同棲相手の恋人を包丁で殺し、そのままベランダから飛び降りたのだ。殺人――というより無理心中か。男は失血多量で死んだ。女はしばらく生死の境を彷徨さまよっていたが、昨日死亡が確認された。今のところ動機は不明とされているが、男にはいくらかの借金があったことがもう調べで分かっている。浮気相手として別の女がいたことも、明日には確定するだろう。顔と名前と住所の割れているその女から直接、事実を聞き出せば済むことだ。だから俺には同僚たちが『この本』を恐れる理由がいまいちピンとこないのだった。

 黒い、上質な革で覆われた表紙だった。題名はない。いや、読めない。表面に金の印字があるにはあるが、それが英語なのかフランス語なのか言語の特定ができないのだ。……まあ、中国語ではないだろう。その文字列には漢字のような法則性を感じられない。日本人の俺が読めずとも無理はないというわけだ。ひょっとして、『文字』でない可能性もある。いわゆる『狂人の落書き』――それも相当手の込んだ――であるとか。

 問題の無理心中だが、この本が原因ではないかというゴシップが署内で囁かれるのには一応理由があった。浮気していた(推定)借金のある(確定)被害者の男が、なんと周囲に対し『最近怪奇現象に悩んでいる』と相談していたというのだ。

 はぁ、なるほど、そうですか。そう言って聞き流せばいいものを、同僚の、特に女性警官たちが楽しそうに喧伝するものだから、調書にまで『怪奇現象』の文字が躍っている。

 馬鹿馬鹿しい。

 本を開いて中身を一枚一枚確認する。遊び紙、タイトルと思しき落書き、目次、本文。中身はどうやらアルファベットで書かれている。しかし、それは『英語』ではなかった。表紙と同じく、俺では言語の判別ができない、とても特殊、あるいはマイナーな言語。しかし中身を理解する必要はない。俺はただ、ページに特徴的な書き込みがないかだとか、ページとページの間に怪しげな――この場合事件に繋がるような――メモ用紙が挟まっていないかどうか確認するだけでいいのだ。

 中身が一行も読めない本など、置物か、もしくは『少年心をくすぐるアイテム』程度にしか役に立たないと感じた。まして、怪奇現象を引き起こすなどと言われても。

「失笑だな」

 俺は小さく呟いて、コーヒーを口にした。

 どろ、と黒い液体が有り得ない粘性を持って喉に纏わりついた。

「! ごほっ」

 思わず、椅子から跳ねるように立ち上がってコーヒーを吐き出そうとした。しかしそれはべとべとと喉に張り付くばかりで一向に吐き出せない。マグカップの中身を確認する。そこには黒い液体が波紋を散らしているだけで何の変化もなかった。というより、俺が先程一口飲んだとき以降、このカップに近付いた人間はいない。異物の混入を疑ったが、そんな隙はないはずだった。喉にはまだぬるつく違和感がある。

 俺は本を開いたまま周囲を確認した。確かに『違和感』があった。深夜、警察署内、デスク、俺以外には誰もいない、そこまではいい、ただ、照明の光度が先程よりも落ちている気がした。要するに薄暗いのだ。それは不気味な寒気と共に俺の周囲に漂っていた。

「おいおい、まだ六月だぞ」

 俺は部屋のエアコンが誤作動していないか確認した。エアコンは作動していない。電源が切れている。スマートフォンで外の気温を確認しようとする。電源が付かない。ホームボタンを何度押しても、緊急通報すら作動しない。調書を開きっぱなしにしていたはずのPCは画面が真っ暗になっている。処理落ちだろうか? 運が悪い。いや、

 こんな不運が立て続けに起こるものだろうか?

 流石にゾッとした。俺は、俺が今読んでいる本の『いわく』を思い出した。背筋に冷たい気配を感じながら、立ったままページを捲った。この本が原因なら、その原因の『解除』あるいは『解消』の方法が書かれているかもしれないと思ったからだった。しかし、俺にはこの本に書かれている内容が読めない読めない読めない読めない

「くそっ!」

 いらついて、デスクの上にあったコーヒーカップを手でぎ払った。カップはプラスチック製だから割れなかった。しかし中身であるインスタントのブラックは床に広がりぶちまけられる。その水面と目が合った。

「ひっ」

 水面に目が浮かんでいた。それは有り得ないはずの人間の黒い眼球。しかもひとつやふたつではない。俺がソレを認識し視界を水面全体にを広げた途端そこを覆い尽くすように一気に広がった。

「うわあああっ!」

 俺は腰を抜かし椅子やデスクにぶつかりながら尻餅をついた。手をついた床はひやりと冷たくしかし人肌を思わせる生々しい質感を持っていた。ぎょっとして床に目を落とすとそれは床ではなく人間の皮膚を持ったおぞましい絨毯じゅうたんだとわかった。そして俺のデスクの下には黒い革を皮膚とする人型だが手足の異常に長いソレが体を折り畳むようにして俺の様子を目も口も鼻もないのっぺりした顔面で眺めていた俺には分かったソレこそがこの本の『あるじ』であるとソイツは俺を観察し試している、! 俺がこの本にかどうかを!

「おい!」

 その声にハッとして顔を上げると、同僚の姿があった。同僚はデスクの上の本を閉じた状態で俺を見下ろしていた。

「大丈夫か? 叫び声が聞こえたから、急いで駆け付けたんだ」

 同僚のたくましい腕に支えられ、なんとか立ち上がる。そこには本を開いていたときのような恐ろしく冷たい雰囲気はなくなっていた。いつもの照明だったし、六月のじめじめした気温だった。俺は酷く汗をかいていて、異常に喉が渇いていた。

「お前は何も見なかったのか?」

「……? 何をだ? まさか、本当に、その、……この本が?」

「………………」

 俺は答えず、本を確認した。本には何も変化がなかった。黒い革の表紙。金色に印字された読めない題名。ただ、閉じられていた。

「……なるほどな」

 俺は小さく呟くと、大きく息を吐いた。先程まで喉の違和感でうまく呼吸できていなかったようだ。何度か深く呼吸していると、同僚が心配そうに「大丈夫か?」と声をかけてきた。

「ああ、大丈夫だ。ありがとう」

 俺はそう答え、同僚を安心させるように軽く笑ってみせた。同僚は「そうか、よかった」と笑い返したあと、零したコーヒーを拭くためにモップを持ってくると言って俺に背を向けた。

 俺はその背中に小さく悪態付いた。忌々いまいましげに。

「続きを読むには一人の部屋が適していると理解したよ、ありがとな」


 この本には確かに『いわく』があることがわかった。そしてそれは『本を開いている間だけ』ということも。だとしたらなんとしてでもこの本を入手し部屋でひとりで読めばいい幸い俺は女と違い一人暮らしだこんなに恐ろしくてこんなに興奮する本は今まで読んだことがない俺はこの本に選ばれたのだ女は選ばれなかった耐え切れなかった発狂したしかし俺は違う俺はこの本を最後まで読み切るだろう読み切ったあとはまた最初から読むだろう中身は恐らくラテン語だ辞書を買おう俺は中身を解読するすべてすべて読むだろう理解するだろうその果てに俺は、本の『あるじ』となる。

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