オハリコヒメ ――始まりのこと――

@sakamono

第1話

 かつて世界の半分は、水に覆われていた。残りの半分は、一枚の大きな大陸で、深い森を抱いていた。大陸の東の隅には泉があり、湧き出る水が世界を満たしていた。


 森には翼を持つものと四足で歩くものが多く住み、互いに適度に干渉し合って暮らしていた。

 そのように、それなりに秩序だった生活が営まれるようになるまでは、諍いも多かった。それは一頭の荒ぶるクマ――荒クマが森の支配者として君臨しており、諍いの多くは荒クマの横暴さに起因することが多かったからだ。森に住むものたちは、いく度となく集まっては策を講じたが、その集会は愚痴を言い合って終わることが常であった。それも仕方のないこと、何しろ森で荒クマより力の強いものはいなかったのだから。荒クマに次いで力が強いと思われた大イノシシが、荒クマに立ち向かって返り討ちにあってからは、そうした集まりも次第に行われなくなっていった。だからといって森に住むものたちが、日々泣き暮らしていたわけではない。大きな力を持つものが君臨しているという状態が、森にある程度の秩序をもたらしていたのだ。

 そのような状況のある時、「我コソハ森ノ王」と名乗るものが現れた。

 それは翼を持つものだったが、その姿を見たものは、皆一笑に付した。その丸い体は、荒クマの握りこぶしの半分にも満たない。愛らしいつぶらな瞳に、ピンと立てた長い尾羽だけが誇らしげだった。そんな体で、どう荒クマに抗するつもりなのか、誰もが思うところであった。その翼を持つものはミソサザイと呼ばれる鳥だった。

 ミソサザイは森の王として認められるため、衆人環視の中、荒クマを倒せる機会をうかがっていた。ミソサザイには勝算があったのだ。

 よく晴れた昼下がり、水辺には多くのものが集まって、思い思いに食事や昼寝をしてくつろいでいた。

 そこへ荒クマが水を飲みにやって来た。機会をうかがっていたミソサザイは「我ガ意ヲ得タリ」とばかりに木陰から飛び出し、荒クマの顔の周りを飛び回りながら、「ヤアヤア、我コソハ森ノ王!」と呼ばわった。荒クマはうるさそうに手で追い払うが、ひらりひらりとかわしながらミソサザイは飛び続ける。周りのものの耳目が集まった頃合いを見計らって、ミソサザイは急旋回すると、素早く荒クマの右の耳から飛び込んだ。周りのものが息を飲む。間を置かず、荒クマは焦点の合わない虚ろな目となって、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。周りのものが成り行きを見守る中、左の耳からミソサザイが勢い良く飛び出した。手近な枝にとまったミソサザイが、「我コソハ森ノ王!」と勝鬨の声を上げると辺りは歓声に包まれた。


 一方、世界を覆っていた水は森の滋養を豊富に含んでおり、そこには水底を這うものと水に泳ぐものが暮らしていた。水に住むものたちは、のんびりとした質のものが多く、また水の世界は広大だったので、互いに干渉することは稀であった。そんな中、水際に住むもののうちで、陸に興味を持つものが現れた。そのものたちは水の中で暮らすことを旨としていたが、四足で歩き、乾いた空気を吸うこともできたので、陸に興味を持つようになったのは、自然の成り行きだったかもしれない。そのものたちはカモノハシと呼ばれていた。

 ある時一頭のカモノハシが水辺を離れ、森に向かって歩き出した。

 元々水辺に暮らしていたカモノハシは、森に住むものの中に見知った顔が多かったから、森の中を歩き回っていても、特段不思議にも思われなかった。カモノハシは森の中を流れる川に沿って歩いた。あの滋養あふれる水はどこから来るのだろう、と思ったからだった。時々川の水を飲み、やはりうまいと思った。長く水辺を離れることのないカモノハシにとって、川べりを歩くことはとても快適だった。深い森はややもすると方角を見失ってしまう。そういう意味では、川に沿って歩いたカモノハシはとても賢明だった。

 やがてカモノハシは、こんこんと湧き出る泉にたどり着く。泉の水は、深い水底までを見通せるほど澄んでいて、神秘的な青に染まっていた。底には大きな岩が数個、踊るようにぶつかり合っている。よく見るとそれは、底から湧き出る水の力で弄ばれるように、岩が動かされているのだった。絶えずぶつかりあっている岩は、角が取れてほとんど丸くなっていた。

「命の源だ」カモノハシはそう直感した。淵をのぞき込んでいたカモノハシは、魅入られたようにふらふらと二、三歩前へ出ると、そのまま水へ飛び込んだ。水の中で見る一面青の世界は、自分の体まで青く染まりそうで、カモノハシはたちまち不安な気持ちになり、入ったことを後悔し始めた。しかしそんな気持ちも、水底から噴き出す水の奔流を見ていると、次第に薄れてくるのだった。

 そのカモノハシは、時間が経つのも忘れて魅入っていた。息継ぎをするために、あわてて水面へ泳がなければならなかったほどだ。息継ぎを終えるとまた潜る。そんなことを何度も繰り返した。それほどその情景に魅入られてしまったのだ。カモノハシは思った。「この泉をいつも見ていたい」というように。

 それからというもの、そのカモノハシは毎日水辺から川沿いを歩き、泉に行くのが日課となった。泉に行って潜り、上がって日光浴をする。木漏れ日がこんなに気持ちのよいものであることを、そのカモノハシは初めて知った。そしてまた潜る。そんなふうにして一日を過ごし、夕暮れが近くなると川沿いを歩いて水辺へ戻った。そんな毎日を送っていると、周りのカモノハシたちが訝しく思い始めた。

「お前は毎日、森へ何をしに行っているのだ」ある日そう聞かれたカモノハシは、なぜ自分はこの素晴らしい体験を、他のものにも伝えなかったのだろう、と不思議に思い、一緒に連れて行くことにした。翌日に、四頭のカモノハシを引き連れて泉へ向かうことになった。四頭のカモノハシは、それぞれが最初のカモノハシと同じ体験をして一日を終え、そして水辺へ戻った。ただ最初の時と違ったのは、最初のカモノハシを除く四頭が、それぞれに泉の素晴らしさを、身近なカモノハシに語ったことだった。そうなると泉のことを知るものは、ねずみ算式に増えていき、それに伴って泉へ向かうカモノハシの数も増えていった。

 数日の間に、多数のカモノハシによる泉への往還は大行列となり、森に住むものたちの目にとまるところとなった。森に住むものたちは、泉にやって来ては、ただ潜ることを繰り返すカモノハシたちを、もの珍しそうに眺めていたものの、特に何か意見をするわけでもなかった。何かの迷惑行為をすることもなかったから。

 そんな大行進がしばらく続いた後、一頭の若いカモノハシがこう思った。

「川を堰き止め、流れを変えて、森のもっと奥深くまでが水辺となれば楽だなあ」

 それはとても名案に思えたので、その若いカモノハシは周りのものたちに提案した。泉までの行進に一種宗教的な、深い敬虔の念を抱いていた、一部の年老いたカモノハシたちの反対はあったものの、大方のカモノハシはその意見に賛成だった。灌漑はカモノハシが最も得意とする技術だ。腕をふるってみたいと思うものも多かった。

 それからというもの、森の中でカモノハシを目にする機会が頻繁になった。土を掘り返して運び、枝を広い集め、場合によっては小振りな木を切り倒した。そのような事態になれば、さすがに森に住むものたちに見咎められないはずがない。かと言って、森に住むものたちも、どうしたらよいか分からなかった。今までお互いが住む場所に、干渉しあったことがなかったから。そのため、森の中は奇妙な緊張を伴った空気に、次第に変わっていった。

 ある日そんな様子を眺めていた荒クマが、カモノハシに声をかけた。鬱憤でも晴らしたいのか? 森に住むものたちは、また事が荒立つのだろうか、と色めきたった。

 皆が見守る中、荒クマは、何とカモノハシの作業を手伝い始めた。ミソサザイに負けて以来、荒クマはすっかり丸くなっていたのだ。荒クマが手伝いを始めたことで、工事はみるみるうちに捗っていく。何しろ荒クマは力自慢だ。荒クマにとっては、ある意味、鬱憤晴らしだったのかもしれない。

 そのように工事が進行していくと、森に住むものたちも、カモノハシが何をしたいのか、おぼろげながら分かってきた。

「彼らは水辺を広げているのだ……」

 今や泉の周りは森の中にも関わらず、湿地のような様相を呈していた。そうなると森に住むものたちは、森の奥深く、泉より小高い場所へ移動せざるを得なかった。


 そのような事態になるまで、森の王たるミソサザイは何をしていたのか。彼らには羽があり、主に木の上で生活していたため、地上が水浸しになっても、それを不便さとして実感していなかったのだ。また森に住むものたちも、王というものをよく分かっていなかったので、ミソサザイに解決策を求めることもなかった。

 やがて世界は、その三分の二を水で覆われることになる。ミソサザイは、この時のことを一族最大の汚点として、代々語り継ぎ、水の世界から大地を取り戻すことを心に誓ったのだった。

 その伝承を佐崎君が知ることになるのは、ずっと後のことである。

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