身近すぎて認知できない概念の存在

 心理学に所属する諸科学における一つの困難は、それらが扱う現象が身近いものであることにある。

―― エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928-)



 学問があれこれ細分化されていなかった頃には、コトバとはどういうものなのか、コトバはどんなふうに人の心の動きや変化を写し取り、どんなふうに思考の流れと性格と言う形を作っていくのか、そういうテーマが多くの知識人たちの普遍的な関心事だった。

 19世紀、チャールズ・ディケンズは「大いなる遺産」を一人称で記述し、人の言葉に影響を受ける人格の内面を描こうとした。人間の意識はイメージや観念が流れていくものであるという考え方、「意識の流れ」が小説を書く手法としても注目され、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」は代表格として常に引き合いに出される。日本であれば川端康成だ。

 

 しかし言語学者チョムスキーは、20世紀に様々な学問が細分化して、「言語学・哲学・心理学がおずおずと各々別箇の道を辿ろうとした」時、学生として感じた不安を打ち明ける。

 活発な研究センターの中であっても、人々は「基本的なところは解決済み、あとは今あるものを研ぎすまして改良していくだけ」という態度だった。優秀な学者が打ち出した理論に疑問を投げかける理由など無い。流行している観念を華々しく非難する人が現れても、発展には寄与してくれない。コンピューターが現れるから複雑そうに見えるものも解明されていくだろうという態度の人々には、納得はできるが覇気を感じられなくて寂しい……。


 私はそうした1950年代の初期のことを知らないし、「活発な研究センター」にも行ったことがないので何とも言えないが、身近なことには人は驚かず、自分に関することを人が自ら認知できない、そういうことになら大いに心当たりがある。

 現代の人はおそらく、一人の人間の意識の流れを追っていく「意識の流れ」手法にびっくり仰天するということはないだろうし、「ユリシーズ」のように語り手の視点が様々に入り乱れても驚くことなく小説を読んでいくだろう。ひょっとしたら若いうちには「へえ、面白いな」と感激したりもするだろうが、そのうち「ああ、これで書いているんだな」と思うだけになるのかもしれない。

 GoogleがすぐにWikipediaのページを表示してくれることにも驚かないし、スマートフォンで検索できるのだから大抵のことはわかっていると思うかもしれない。

 自分がどのような人間なのかということすら、自分にはよくわかっていて改めて人から教わることはないと考えているかもしれない。

 その口が「自分は恋人のことを最低だと思っている」と語っているのに指摘するとそんなことは思っていないと言う。それならまだしも「自分はなるべく働かずに給料を出してほしいと思っている」と語っているのに指摘すると「やる気があるのだ」と言う。

 それはちょっと違うのかもしれないが、認知できないことがあるのはよくわかる。


 チョムスキーは「現象が、ひどく身近いために、真実われわれの目に全く入らないことがあり得る」、「身近さが重要性をうやむやに葬ってはならない」と言う。



”ヴィットゲンシュタインは(中略)、「事物のわれわれにとって最も重要な面は、単純さと身近さのゆえに蔽い隠される(人間は、あることに気づくことが出来ない、――それが常にわれわれの前にあるからという理由によって)」と指摘している。”



”例えばヴィクトル・シクロフスキーは1920年代の初期に、詩芸術の機能は描出される対象を「奇異に見せる」機能であるという観念を展開した。「海辺に住んでいる人々は波のささやきに慣れてしまって、それが彼らの耳には入らない。同じ経緯で、われわれには自分たちの発する語が決してと言ってよい程耳に入らない、……われわれはお互いに見合うが、お互いがもはや目に入らない。われわれの世界知覚は萎え凋んでしまって、残っているものは単なる認知作用である」と。こうして、芸術家の目標は、描出されるものを「新しい知覚の領域」へ転移することである。例としてシクロフスキーは馬という身分の語り手の見地から描き出すという仕組みで社会習慣や制度を「奇異に見せる」トルストイ作の物語を引いている。”



 カクヨムでは、食品による一人称、物品による一人称の作品など、挑戦的な小説を読むことが出来る。その時にはやはり、私たちが知らないうちに当然すぎて認知すらしていなかった物事が、ハッと浮彫にされるような感覚が心地よい。

 チョムスキーは、古典的なテーマがやはり再び現れて、細分化された学問分野を相互に繋ぎ合わせたり、横断的なテーマや意義を考えさせてくれるのだと言った。

 それはそうだろう。シェイクスピアは古くから伝えられている話を翻案して舞台劇にした。私たちは今でもシェイクスピアと同じテーマを扱う物語を読み、心を動かされる。


 What? in a names that which we call a Rose,

 By any other word would smell as sweete,

 名前に一体何がある? 私たちがバラと呼ぶ

 それを別の名で呼べど やはり甘く香るのに

 ―― ウィリアム・シェイクスピア「ロミオとジュリエット」("Romeo and Juliet" by William Shakespeare, 1564-1616)

 

 個人的には深く考えることが好きだが、同時に、狭く考えすぎないこと、全体的にふわっとそのままの状態をありのままに認識することを大切にしている。


 最近、「AさんがBさんに責められ、怒ってCさんも悪いと言い出す」という負の連鎖の愚痴の中に巻き込まれてしまった。同僚(E氏)は急ぎの仕事をせずに親切に立ち回って解決してやり、「この業務の改善ポイントはこことここだ」と理路整然と最後まで付き合って対処してやった。そこまでしてやる必要があったんだろうか。

 最後に同僚(E氏)がこちらを向いて、「仲良くしてほしいよな。どう思った?」と聞いて来た。こちらの答は最初からずっと思っていたとおり、「原因は全員の虫の居所が悪かったことだ」と断言、「別に仲良くしてくれなくていい、どうせ虫の居所が悪いのをぶつけたりしに来ている連中なんだからお互いにぶつけあって成立しているのだ」と宣言した。何しろ同僚は急ぎの仕事を一緒にしてくれなかったのだ。


 このような日々の中に、言語と精神、そして認知に関する気づきのエッセンスが多くあるが、それを整然と整えてしまうことは難しく、やはり人間の意識はイメージや観念が流れていくものであるのだなと思って満足していれば良いのかもしれない。

 


【出典】

"LANGUAGE AND MIND"(Enlarged Edition) by Noam Chomsky, New York, Harcourt Brace Jovanovich, Inc., 1972.

「精神の研究への言語学の貢献(過去・現在・未来)」(1967年1月カフォルニア大学ベックマン記念講演に基づく1968年専攻論文モノグラフ「言語と精神」より/ノーム・チョムスキー著、川本茂雄訳、1980、河出書房新社)

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言語学ノオト 伊藤 終 @saa110

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