力とフリスビー
青紫の朝靄がかかった早朝5時、私はいつものようにあくびをしながら愛犬の散歩に出ていた。アラスカンマラミュートは犬ぞりで知られているであろうシベリアンハスキーと似ており、重い荷物を引きずりながら雪原を駆け抜けるタフな体力の持ち主である。そのため、約1時間は歩き回らないといけない。そして会社に遅れないようにするにはまだみんなが寝ているような時間に外出しないといけない。
すっぴんに眼鏡とマスクをつけて、力強く手綱を引っ張ってくる力に身を任せてフラつく足を動かす。シャッターが閉まっている商店街を歩き、駅の近くまで来ると折り返す。その頃には日が昇りはじめオレンジ色の光によって空が鮮やかな紫色に染まっていく。晴れた日にはいつも同じように綺麗だと重いながら軽く走っている。無邪気に早足で動き回る我が家のマスコットことダンの姿を見ると今日も一日頑張ろうという気持ちにさせてくれる。
橋を渡ると神社の前を通り過ぎて近くの公園に入る。そして、リードを柵にくくりつけてトイレに入る。便座に座ってまたあくびをする。朝日をもろに浴びているけれど眠気が完全に抜けきらない。すきま風が入ってくる個室の中で天井を見上げると蜘蛛の巣が虫やゴミの絡まっていて汚いと思った。だからといって出るわけでもなく、ただボーッとしていた。これは心の隅でまだ座っていたいという気持ちが私の中で居座っているからだ。
トイレの中で鬱屈な社会と自分の意識が切り離されそうなったと同時に外からダンの声が聞こえて我に戻される。…誰かいる?こんな時間に出歩いている人は思いつく限りではギリギリ新聞配達の人ぐらいしか出てこない。若干錆び付いた蛇口をひねって手を洗って外に出るとダンがお腹を空に向けていた。
その横には白い帽子に薄紫のジャージかウィンドブレーカーを着た小柄なおばさんがダンをなでながらしゃがんでいた。とりあえず散歩中に見かけるような人ではないことは分かる。
「おはようございます」
当たり障りがないようにさわやかに笑顔を作って挨拶を試みるが、いかんせんマスクと眼鏡ルックで顔の8割が隠れているからほとんど意味がない気がする。
「あらぁ、おはようございます。この子お宅のわんちゃん?」
「はいそうですー」
社交辞令を交わしつつダンに「気持ちいい?よかったねぇ」と頭をなでながら語りかける。このフサフサした生き物は気持ちよさそうに口角を上げた口の端から舌をだして、目を細めている。明らかに至福の時を過ごしているであろう表情をしている。
「アラスカンマラミュート?いい子だねぇ」
「よくご存じで!」
「前に飼ってて懐かしくてつい構ってあげたくなっちゃって」
初老であろうおばさんは談笑の最中でも容赦なくダンのお腹をワサワサと腹をかき回している。おそらく遠慮という概念がないタイプのおばさんなのだろう。ダンが気持ちよさそうにしているし別段我が子を取り上げる気はさらさらないけれど若干のジェラシーを感じる私がいる。私は笑顔の裏で少し慎んでほしいと思う。
「いつもこの時間に散歩されてるんですか?」
「たまたま朝早く起きちゃってねぇ。気が向いてね」
だから見ないわけだと心の中で合点だ!と相づちをうつ。
「この子を見かけてついね。もう5年くらい前にいなくなっちゃてね。長生きした方なんだけどね。新しい子を飼うのも気が引けてね。それで…」
怒濤のマシンガントークが低血圧の私を襲いかかってくる。右から左へ耳から耳へと垂れ流しになていることがこの人は分からないのだろうか。
腕時計をチラ見するともうかなりの時間になっていた。私は慌てて、
「もうこんな時間だ!?あー。このままだとコンビニ寄って会社で朝食になる!」
「あらまあ」
私はダンを縛り付けていたリードを柵から解いてあげて、
「それじゃ私はここで。また今度!!」
「あっ。ちょっと待って最後に言いたいことがある!!」
私は振り返るとおばさんが何かに反射した逆光で顔が見えなくなっていた。
「最後までダンの面倒見てあげてね!!」
「はーい。お気遣いありがとうございます!!」
私は手を振りながら駆け足で家に帰った。
通勤中におばさんがダンの名前を呼んだ気がしたけど、私言ったけかなと疑問が残ったが数時間後のハードワークのせいで帰宅後の私の中には微塵も残っていなかった。
砂時計と魔法使い 新森たらい @taraimawashi-guruguru
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