マーメイドは鳴かない

 深夜1時過ぎ。静まりかえった住宅街から一人の男が息を乱して現れた。袖や裾は赤く染まっておりズボンにいたっては少し滴っていた。手には包丁を持ち明らかに殺人犯の風体である。その表情は現実を受け止めることが出来ず、ただただコンクリートのように強張っている。

 男は近くの公園のトイレに入ると隠していたカバンから黒いパーカーとグレーのチノパンを引っ張り出すとベルトを急いで外しにかかる。つつがなく段取り通りに進んでいるはずなのに手汗が止まらない。指が震えてベルトとボタンがうまく外せない。誰もいなくて静かなはずなのに責め立てられているような錯覚に陥っている。スタジアムの真ん中で全員からブーイング受けているみたいに逃げ場のない重圧が畳みかけてくる。

 ようやっと着替え終わったが呼吸は整わない。カバンに汚れた服と新聞紙でぐしゃぐしゃに包んだ包丁をカバンに入れるとそのまま公園から出ようとする。すると、不気味なほど涼しい風が顔にぶつかってくる。

 額ににじみ出ていた汗が風で乾く。乾いた笑みがこぼれる。目からは臨界点を超えた涙がこぼれる。

「ねえ、そこの君」

暗がりの一声が男を悪夢から現実に引き戻す。瞬間、頭の中にグレネードをぶち込まれたように意識が吹っ飛んだ。数秒後、強制シャットダウンされた今までの甘い記憶からぬぐい去りたい過去が頭にリブートされていく。

 冷静になったところで恐る恐る横を向く。街灯の加減で足下しか映し出されていない。しかし、男は目を見開き、口を阿呆らしく開いた。その靴は初めて彼女と一緒に買い物に出かけたときに見立ててもらったものと瓜一つだった。

「なんで泣いているんだい」

毎日聞いているような声に返事することが出来ない。喉が喋らせないようにせき止められている。男はそのまま答えずにこの場から逃げようとする。

「無駄だよ。何をしたところで君が好きだったあの娘は帰ってこないんだから」

後ろから細い糸で引っ張られるかのように足が止まる。

「なんで彼女を知っている。いつから見ていた」

顔が見えない男は幸せそうな声で

「そんなことよりこの前俺の彼女が誕生日でさ~。ゴディバのトリュフチョコあげたらめちゃくちゃ喜んでくれてさ~」

唐突なのろけ話を始めた。

「話を逸らすな。なぜ知っている。答えろ」

「彼女は殺せても、あんたは俺を殺せない」

啖呵を切ると続けざまに顔の隠れた男は

「その腕の中でもがいて、しがみついて必死に抵抗した彼女の姿はどうだった」

そう彼女は男に包丁を手首と脇腹を切られながらも裾を気力と意地でつかみ。必死にもがいた。男の青白いシャツは真っ赤に染まった手で握りしめてグシャグシャになった血の跡がこびりついていた。女は泣きながら男に懇願した。「やめて」と繰り返し、繰り返し何度も口にした。そして男はその首筋に刃を突き立てた。

 男は次第に先ほどに惨劇と同様に息が荒くなってきていた。

「ねえ、思い出してみなよ。去年彼女と出会ったときのこと。彼女と話したこと。告白したこと。一夜をともに過ごしたこと。いっしょに祝いあったこと」

全部男にどれもこれもとってかけがえのない思い出である。初めて手を触れて温もりを知ったことも、くだらないことで笑いあったことも全部が鮮明に残っている。

「それから、彼女から別れ話を切り出されたことも」

唐突だった。そんな素振りを一つも見せず、LINEで二言。

[もう限界かも。]

[別れよう]

男は理由を訊いた。しかし、判然としないまま答えをはぐらかされて彼女は男の元から去って行った。

「何なんだよッ!!てめえッ!!」

男は冷静さを欠いて声を荒げる。けたたましい声は真夜中の公園にこだまする。姿が見えない男は「大声を出すとバレるよ」と注意を促し、

「俺は砂時計の魔法使い。お前を見ていた」

突拍子もない申し出に頭が白黒する。

「そんなこと言って俺をどうするつもりだよ。イミフなことほざいて殺人犯を突き出す算段かよ」

顔は見えないながら男は嘲笑ってみせる。

「しないよ」

魔法使いの真意が姿と一緒で全く見えない。

「君は捕まるまですこーし時間がかかるみたいだし、それまで今までの行いを振り返りなよ」

「馬鹿にしてんのかよ。てめえ」

男は当然と言いたげに鼻で笑った。

「馬鹿になんてしてないよ。それは君の立派な人生だ。今の俺が言える言葉なんてないよ」

「嘘つけ。さんざん言っておいて何いってやがる」

魔法使いは溜息を吐く。

「今の俺はつったろ。未来の俺がこのことをどう思っているかなんてしるわけないだろ」

魔法使いがそう皮肉を言い放つと再び言い知れないプレッシャーが男の周囲から囲むように襲ってくる。

「もう行きなよ。君は一生この恐怖からは逃げることなんて出来やしないんだから」

 男が瞬きをした瞬間忌々しい靴の姿が足跡もなく消え去っていた。

 公園にまた一人きりになった男は目を閉じる。そしてゆっくりと開けるとカバンを力一杯握りしめて闇夜に飲まれていった。

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