【10】

「ここか」

「うん」

 病室に入ると、珍しく兄さんは体を起こしていた。

「兄さん」

「お、佳乃子……に貴島」

 貴島の顔を見て、兄さんは目を丸くした。そしてその手に握られているトロフィーを見て、目を細めた。

「こんにちは。久しぶりっす」

「おう。まさかお前がこっち来るなんてな」

「自分でも思わなかったよ、まさかねぇ。それに幹太の妹と将棋することになるなんて」

「対局したのか」

「決勝でね」

 兄さんの目がさらに細くなった。

「惜しかったな、佳乃子。次は勝てるといいな」

「まあ、勝てると思う」

「言うねえ」

 兄さんの声が元気そうで、本当に良かった。きっと、そわそわしながら待っていたのだ。

「……なんかあれだな、その服、初めて見るな」

「初めて着た」

「かわいいんじゃないか。なあ、貴島」

「そう、俺も気になってた。佳乃子ちゃんそれ似合うよ」

 多分、私の目も細くなっている。こんなに幸せな時間があっていいのだろうか。そしていつかこの三人で、時間を忘れるぐらい将棋を指し続けたい。

「……二人はまだ一年あるんだな。貴島は全国もあるし……頑張れよ」

「もちろん」

「佳乃子は次こそだ」

「うん」

「ごめん、ちょっと横になる」

 兄さんは体を布団の中に沈めていく。それを見た貴島はトロフィーを地面に置き、体をかがめて兄さんの耳元でささやいた。

「待ってますから。また、指しましょう」

 数秒の空白の後、兄さんは微笑んだ。瞳を閉じたのは、涙を見せたくなかったからに違いない。




「佳乃子、どうしたの?」

 イヨリの質問にも、すぐに返事をすることができなかった。

「う、うん」

「ぼーっとしてる。将棋もしてないし」

「あ、うん。勉強もしなきゃね」

「勉強も、してない」

「あ、ばれてた」

 イヨリが、道路の向こう側を指差す。そこは、放課後たまに寄るドーナツ屋だった。

「少し、休も」

「あ、うん」

 自分でも情けないけれど、イヨリから言ってもらえて助かった。二人でドーナツ屋に入り、角の席に座った。

「何かあったんでしょ」

「あったというか……ずっと、ね」

「兄さんのこと?」

「うん」

 私の中に抱え込んでおくつもりだった。でも、吐き出してもしまいたかった。

「言ってよ」

「特に何がってことはなくて。でも、だんだん悪くなってるのはわかる」

「そうなんだね」

「最近、先のことを言わなくなったんだ。将棋のことも……」

「指してみたら?」

「えっ」

 イヨリの目を見つめる。いたって真面目だった。

「一日ちょっとだけでもいいからさ。二人で」

「私と、兄さんが?」

「そう」

 入院して以来、兄さんとは一局も指していない。時間的にも体力的にも、無理だと思っていたから。

 でもそれ以上に、早く追いついて、それから対局したいという思いがあった。勝ちたいのだ。

「でも……」

「一日ちょっとでもいいじゃない。一か月かけて一戦でもさ」

 そう。将棋は、いろいろと工夫してできる。

 ただ、私は怖かったのだ。いろいろと、怖かったのだ。



 なにも、言わなかった。けれども、返事はあった。

 昨日、新しい服の中にまぎれこませていた紙切れ。そこには、符号が書かれていた。兄さんなら、その意味が分かったはずだ。

 そして、取りにいった洗濯物の中に、同じ紙切れが入っていた。裏に、兄さんの字で符号が書かれていた。

 一日に、一手ずつ。

 何日かかるだろうか。毎日指せるだろうか。先行きは不透明だけれど、とにかく対局は始まった。

 私は、飛車先の歩を突いた。期待通りのことを、兄さんはしてくれると信じて。


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四間少女 清水らくは @shimizurakuha

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