【9】
緊張した。はしっこの香車をつまみ上げ、ひとつ前に置く。玉が端っこに潜っていく、穴熊という戦法。四間飛車と組み合わせて、四間飛車穴熊だ。固さに任せて攻めまくるイメージがあるが、独特な感覚が求められる、実は繊細な戦法だ。
春の大会で敗退して、色々と悩んだ。そして出した結論が、「自分なりの戦法を見つけよう」ということだった。兄さんの真似をしても、どうしても無理が生じてしまう。それに四間飛車対策は、皆それなりにできている。だから私らしい、こまごまとしたポイントを稼ぎながらも、終盤間違えてもなんとかなる戦法、そして研究しがいのある戦法ということで、四間飛車穴熊はピッタリだった。
早速相手は、うかつな駒組みをしてきた。兄さんのノートにも書いてあった、安易な歩突き。金を盛り上がっていくことによって、その歩は取られそうになる。穴熊から駒を離していく攻めなので、盲点になりやすいのだ。
そう、兄さんはなぜか自分が穴熊に組む変化まで詳細に調べていた。実際には指すことはないのに。どうやら兄さんは、四間飛車にまつわる戦法のマニアになっていたようだ。私はそこに、独自研究を付け加えていった。穴熊戦では、「勝手読みによる」対応が多くみられる。それに対していかに効率よく咎めるかを研究とておけば、本番で悩む時間が節約できる。
インターネットで実戦を積み、その棋譜の分析もした。定跡を外れる率の高い戦法は、外れてからいかに良さを積み上げていくかが勝負のカギになる。大振りの悪手は、こちらが間違えれば好手として通用してしまう。どれが悪手なのか。どう咎めればいいのか。それをシステマティックに理解して、実戦で考える時間を取られないようにするのが私の作戦だった。
相手は急戦を狙ってきた。が、手順が甘い。こちらから角道を空けて、駒がさばける。相手は攻めに使おうとした銀が立ち往生だ。この後は暴れさせないように、王手をかけさせないように指していく。バランスを保って。時間も残して。
相手の焦りが、盤上から伝わってくる。穴熊をする人は、とりあえず組んでしまって、という場合が多い。だから慎重に指し進める穴熊には、面食らってしまうことだろう。そこら辺の心理状態までも、計算の内だ。
相手の攻めの糸口がなくなり、こちらの駒が前進していく。そのまま一歩ずつ進み、勝利を手にした。
ベスト8突破。トーナメント初勝利。
ただ、あくまで目標は一番上。一つ関門を突破したに過ぎない。そして次の関門は、望月。再戦だ。
当然のように貴島も勝ち残っている。次勝てば、決勝で対戦できるはず。
少しの休憩時間を挟んで、準決勝が始まった。振り駒をして、後手に。
望月の太い指が、勢いよく駒を進めてくる。今回も、四間飛車穴熊へ。相手は、銀冠。有力で一番厄介な作戦だ。
局面のバランスはなかなか崩れなかった。流石に上位常連なだけあって、定跡もしっかり知っている。そしておそらく望月も、貴島に勝つための努力をしてきたはずだ。貴島は、兄さんのいない大会で、突然現れた優勝していった。望月にとっては想定外の悔しい出来事だったに違いない。
いつも以上の気合いを感じる。そして私も、それに応えた。勝ちたい気持ち、貴島と対戦したい気持ちは私も負けない。
玉がいる側で、ごちゃごちゃとした戦いが始まった。こうなると、穴熊といえども流れ弾に当たりやすい。神経を使う戦いだ。けれども、こちらが悪いわけではない。間違えなければ、必ず相手にほころびが生じる瞬間が来る。それを見逃さないように。
8筋、9筋と続けて歩が突き捨てられた。一見厳しくそれっぽい手だったが、私のセンサーは反応した。歩を渡し過ぎたのではないか? こちらから手が作れそうだ。ただし、失敗すればまたこちらに反動が来てしまう。
ここが、決め所。
もう、間違えない。ミスはするかもしれない。けれども、残念なことはしない。歩で形を乱し、桂馬を捨て、飛車を成り込む。この時歩が残っているのが大きくて、底歩などが利く。端攻めは怖いけれども、私の読みでは、間に合わない。
激しい応酬になった。けれども、望月の手つきから力が抜けていくのがわかった。強いからこそ、負けが見えるのだろう。こちらの玉は、絶対に詰まない形だ。そしてこちらの攻めは、切れない。もう反則をしない、それを気を付けた。一歩ずつ、着実に追い詰めていく。
「負けました」
そしてついに、望月が頭を下げた。気が付かなかったけれど、私の手は震えていた。
ついに来た。私は自販機に走り、缶コーヒーを飲んだ。
部屋に戻ると、貴島は席についていた。眼を細くして、盤に視線を落としている。すでに、極限まで集中しているのがわかった。
私も着席する。頬がけいれんしている気がした。ゆっくりと撫でる。息を大きく吸う。唇をなめて、息を吐き出す。
「始めるか」
貴島が、駒を振る。と金が四枚。私の先手だ。
「じゃあ……お願いします」
「お願いします」
することは変わらない。心を落ち着けて、角道を開ける。貴島も一定のリズムで指し手を進め、すらすらと組みあがっていく。私が香車を一つ上げる。貴島も一つ、香車を上げる。相穴熊。最も繊細さの求められる、そして最も根気のいる戦型だ。
相穴熊は、四間穴熊の方が囲いが薄くなる宿命にある。その分仕掛けを封じて、駒得を目指していくことになる。絶対に相手の思い通りにさせてはならない。
貴島は定跡通りに指し進めていく。さすが、全く隙を見せない。きっと彼ほどの棋力ならば当たり前なのだろうが、しかし、努力の跡が感じられて嬉しくなる。兄さんを目指していたら、兄さん以上の人に出会えた。この将棋はきっと、宝物になる。
研究通りの仕掛けから、細かい応酬が続く。歩の手筋を使い、少しずつ敵陣を攻略していく。相手も大駒を成り、こちらの攻め駒を攻め、均等が崩れないようにする。体も頭も疲れ果てていたけれど、最終的には、心地よかった。
多くの人が観ている。それはわかっているけれど、全く気にならなかった。ここにたどり着けたこと。決勝の舞台に来て、こんなに内容の濃い将棋を指せていること。貴島が全力で応えてくれていること。全てが私の心を癒してくれた。
ふわふわとした世界の中で、五感全てが将棋のことを考えているような気分になった。全力以上のものが出せている。普段は見えないような手まで見えるし、貴島の考えていることもわかる気がした。
終盤。どちらが勝っているのかまったくわからない。秒読みの中、お互いギリギリまで考えて着手した。最善手を指せているかなんて、問題にならなかった。心が折れたら負けだ。そして途中から、はっきりと気付かされていた。やっぱり、貴島の方が強い。同じだけ頑張れば、強い方が勝つ。貴島が手を抜かない限り、私はどうしても追い抜けない。努力や熱意、そういったものの積み重ねが実感できて、ああ、そっかと思った。私は兄さんや貴島を、まだ見上げているにすぎない。やっと同じ場所に立てたと思ったけれど、二人はもっと先まで見据えているのだ。決して立ち止まって、私に手を差し伸べるようなことはしない。
攻防の角が打たれた。いい手だった。私はその手が見えていなかった。負けるんだな、そう思った。私は負ける。悔しさはなかった。できるだけのことはしてきたから。今日だって、最高の力を出せているから。
「負けました」
すっきりとした声が出た。終わった。
「危なかった。いろいろ」
「あったかもね……でも、読めなかった」
「強くなったよな。四間穴熊も、あってる」
「ふふ。そうなの」
どっと肩が重くなった。今日だけではない。春から溜まってきた疲れが、一気に噴出してきたかのようだった。それでも、とてもさわやかな気分だった。将棋、楽しい。
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