コスモ・イン・てのひら
東
掌の中の宇宙
あっ。
と。
突然に、その瞬間は訪れる。
「昨日彼氏とご飯行ったんだけどねーー」
例えば私に関わる人間をいくつかのカテゴリに分けたとすると、仲のいい、というカテゴリに分類される彼女は、茶色く染めた髪をきれいにくるくると巻いていて、流行りの細眉にアイシャドウ、キツめのリップをその女らしい顔に纏っていた。街で歩いているのを見かけたら、少し目を惹くような女の子。
「どこ食べ行ったの? 神戸ってことはーー」
これまた仲のいい、というカテゴリに分類される内の一人である彼女は、髪は染めない黒のままのストレート、前髪は切り揃えていて、メイクも茶髪の彼女ほどしっかりしているわけではない。しかしその実、どんな女の子よりも計算してその眉の角度は描かれているのである。清純そうに見えて、実は肉食系、と言ったところだろうか。
「そうそう、そこでね、あいつったらーー信じらんないんだけどーー」
そして、その間に挟まる、私。私である。「私」であるという他に何も特筆すべき点がない、カテゴリに分類することすら出来ないような、私。服はマネキン買い、髪は美容師さんにおまかせ、メイクは雑誌に載っていたものをそのまま流用しているだけ。へえ、そうなんだ、それはひどいね、と、言われたことを反芻しただ頷くだけの、土産屋に置いてある不細工な赤べこにも劣る、そんな私を自覚する。
そういう時は決まって、切り落としたいな、と思うようになる。私を、切り落とす。頭の先から爪先まで、一つ残らず丹念に切り分ける。頭、眼球、鼻、唇、耳、首、鎖骨、二の腕、前腕、手首、手の指、胸部、腹部、下腹部、太腿、 向こう脛、ふくらはぎ、足首、踝、踵、甲、土踏まず、足の指、あとは、十万本もあるらしい髪の毛、それらを全て、一つ一つ丁寧にパック詰めしていく。ラベルを貼って、いつでも出荷できるよう、巨大な冷蔵庫の中で部位ごとに保存する。そうして分類された「私」が、顧客のニーズに合わせて、ベルトコンベアの上を流れて運ばれていく。そこで初めて、「私」は初めて価値を持つようになる。
私が「私」であることを決めるのは私ではない。
今ここにいる、「私」という個体が「私」であると私が認識しているのは、私ではない別の誰かの認識によるものだ。
きっと明日にでも、私の周りの百人が私のことを「お前は魚だ」と言えば、私は魚になるのだろうし、「お前はえら呼吸ができるんだ」と言えば、えら呼吸ができるようになるのだろう。だって、ほんの数百年前までは、私たちの世界では太陽が地球の周りを回っていたんだから、ある日突然ヒトが魚になったって、なんら不思議はないはずだ。たぶん。
耳とか髪の毛の先端は、私の触覚よりもずいぶん遠いところにあるから、切り落としても痛くないような気がする。だから、初めに切り落とす。そうして、片耳が聞こえなくなって、茶髪の彼女の声が聞こえなくなる。彼女じゃなきゃ似合わないのだろうな、と思わされるような、極彩色をのせた唇が笑う。大きく口を開けて笑っても、不思議と下品にならないあたり、それはこの子の才能なんだと思う。
ぶつり。
次に両耳とも聞こえなくなって、黒髪の彼女の声が聞こえなくなる。彼女の笑い方はとても綺麗で、例えば駅の企業広告に載っている女性社員のような、お手本のような微笑をする。聞いた話によると、毎日一時間鏡の前で自分とにらめっこをして、完璧な笑顔の角度を研究しているらしい。すごいな。すごい。私はそんな風にはなれないよ。私は、そんな風には。今まで一度も、そんな風に、何かに熱中したことなんてなかった。
ぶつり。
そうして私の耳は、この世の全ての音を遮断する。音を受け取る器官がなくなってしまったのだから当たり前だ。切り落とした二つの肉の塊は、「私」という身体から切り離されたせいだろうか、ふよふよと重力に逆らって宙を浮遊する。晴れた日の、少し埃っぽい部屋にいる時みたいに、それらをぼうっと目で追いかけていくと、やがて私のものではない身体の部位が、同じように宙に浮いていることに気が付く。
浮いている部位は様々で、それは眼球だったり、きれいに整えられた爪であったり、少しカサついた唇だったりした。それらのパーツを数えた分だけ、私は他人の痛みを知る。会ったことも話したこともない、顔も知らないような誰かの人生を、少しだけ推し量ることができる。ああ、あのピアスをつけた小さな耳はきっと、いつも月曜日三限目の講義で一番前の席に座るあの娘のものだ。お昼ご飯の後の、一番眠たい時間の講義にも関わらず、あの子はいつもキラキラした瞳で、呪文のような文章の羅列を書き写していた。このピアス、友達とお揃いなんだって、嬉しそうにはにかむのを横目で見たから、知っている。あの、いつもキラキラ輝いているみたいな娘にも、どうしても聞きたくないことがあるんだ。だからああやって、お揃いのピアスのことも構わずに、自分の耳を切り落としたのだろう。わかる。わかるよ。痛いほどわかる。
そうやって、他人の痛みがわかるだなんて、善人ぶってみるけれど、しかしその実単に、乱雑に切り落としてしまった傷口が痛みを発し始めているだけ、なのかもしれなかった。自分の痛みを、他人のものと勘違いしているだけ。それってなんて愚かなのだろう。
じくじくと傷跡が痛む。血が出て、固まって、膿が出来て、腐り落ちる。
あ、まずい。出血多量による眩暈と焦燥。このままだと、「私」を全て切り分け終える前に、私の体が全部溶けて腐ってなくなってしまう。「私」の価値がなくなってしまう。浮遊していた私の耳は、いつの間にか地面へと打ち上げられていた。染み出した血液がアスファルトを染めていく。汚い。汚いものはこの世に存在してはいけないから、そういう風に決まっているから、早く、拾わないと。半ば夢遊病のように、地面に落ちた肉の塊に手を伸ばす。
「ねえ、大丈夫?」
その瞬間、まるで手品みたいに周りの音が蘇ってきて、私はそんな友人の声を聞いた。
「顔色悪いよ、休もっか?」黒髪の彼女が言う。
「そだね、うん、ちょっと、……しんどいかも」
「マジ? そんなん、早く言いなよね。今年、熱中症とかヤバイらしいからさあ」
アタシ飲み物買ってくる、と、茶髪の彼女が走り出した。それを見て、黒髪の彼女があっ、と声を上げる。
「もう、旭ちゃんったらすぐどっか行っちゃうんだから……」
腰に手を当て、怒ったように頬を膨らませる。だがそんなポーズも束の間、すぐに彼女は身動きの取れない私の側で身をかがめる。
「美咲、歩ける? そこに日陰あるから、頑張って移動しよっか」
「うん、ごめんね、要」
肩を貸してもらいながら、私は言う。
「私、そこは『ありがとう』の方が嬉しいわ」
「……ありがとう」
「素直でよろしい」
手を引かれ、公園のベンチに座らされる。そこには夏の終わりらしいゆるやかな風が吹いていて、そこでようやく自分が汗だくであることに気が付いた。びしょ濡れの首元が急速に冷えていく。そんな私に気が付いたのか、美咲はごそごそと鞄の中を探り出し、可愛らしいハンドタオルを取り出した。
「はい、これ、使って。そのままじゃ気持ち悪いでしょ」
「え、でも……汚れるよ」
「いいの、洗えばおんなじでしょう」
ほら、と、有無を言わさずハンドタオルを押し付けられ、私は渋々ながらもそれを受け取った。そのままでいると、彼女はじっと非難の目でこちらを見てくる。どうやら汗を拭くまで彼女の機嫌は好転しなさそうだ。「わかった、拭く、拭くから、ちょっと向こう向いてて」私がそう言うと、彼女はいつもの完璧な笑顔でくすりと笑って、「私、旭ちゃんが何買ってきたかチェックしてくるわね。また倒れそうになったら電話して」とだけ言い残し、スカートを風になびかせながら、先ほど茶髪の彼女が走り去っていった方へと歩き出した。
「……」
身体中にまとわりつく汗を拭く。頭上ではざわざわと木々が揺れる音がする。タオル越しに耳を触った。それはなんの変哲もない、ただ私の側頭部にひっついているだけの感覚器官で、今となっては正常に私の周囲にある音を拾っていた。少し離れたところにある遊具の周りにいる子供たちのはしゃぐ声。その隙間から、我が子を見守る母親たちの談話が聞こえてくる。蝉の鳴く音は、もうしていない。そういえば、いつ頃からだろう、あの音が聞こえなくなったのは。つい最近まで、あのジワジワとうるさい音を聞いて、夏が来たな、なんて思っていたはずなのに。季節が巡るのは早い。うかうかしているうちに、私を置き去りにしていってしまう。そんなことばかりだ。いつも、誰かに、置いていかれて。私は、「私」が、わからなくなる。
誰かに見られないよう、こっそりと服の中の汗を拭い終わったあたりで、友人二人が肩を並べてこちらに手を振っているのを見つけた。片手を上げて返すと、二人ともが安心したように微笑む。旭なんか、私の方にとてつもないスピードで走り寄ってきて、「美咲、生きてっかー!?」なんて大声で言うものだから、「もう、美咲しんどいんだから、そんなに大声出しちゃダメでしょ」と、また要がたしなめるように言う。そんな二人の様子をぼんやりと見ていると、「そうだ、これ、はい」と、旭からスポーツドリンクを手渡された。ひんやりとした感触に少し身震いをする。
「美咲、無理しないでね」
「アタシたち待ってるから」
つーかさっきの話の続き聞いてほしいし、まだその話するの、だって聞いてよあの男ったらさあ、なんて言葉の応酬が、私を挟んで交わされる。この二人はいつもこうやって、私を挟んで三人で座るのだった。
空を見上げる。まだ見ぬパック詰めの人体に、切り離された苦しみに、心の中で声をかけた。
ねえ、たぶん、私も、あなたも、きっと、……いつまでもこんな苦しみを味わい続けるんだろう。考えるだけで嫌になるし、今すぐにでも逃げ出してしまいたくなる。全部やめちゃえって、頭の中で声がしていると思うんだ、ずっと。その度に、私たちは自分自身を見失う。
それでも。
それでも、きっと。
コスモ・イン・てのひら 東 @kisalagi000
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