図と地の反転

 小説は、文字という一次元の媒体を用いた表現手段です。

 もちろん、文字が表す概念は読者の脳にダイレクトに働きかけ、記憶や感情を想起させるため、小説を読んだ際に内的に立ち現れる世界は豊かな次元を含んだ世界となるでしょう。

 

 それでも、文字が持つ「一度に一つの情報しか語れない」という性質は、表現の幅を著しく狭めているかのように思えます。


 小説で情景描写をしようとすると、密度を高めるのが非常に難しく、それに対する対策として前に描写したシーンを想起させる方法があるというのは、「走馬灯のように去来するイメージ」や「同じテーマの繰り返し」で取り上げた通りです。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888318676/episodes/1177354054889595865

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888318676/episodes/1177354054890933176


 ここでは、時間的な密度を高めるのではなく、主人公が行動をしている「図」を背景だった「地」が侵食してくることによって、空間的な広がりと密度を高める手法である「図」と「地」の反転を取り上げます。


 この手法は、いわばエッシャーのだまし絵の小説版とも言えると思います。


以下の文章をパトカーのサイレンに注目して読んで見てください。


あたりは暗く、当たり前のように誰の姿もなく、遠くの物音が意外なほどはっきりと耳に届く。いつまでも鳴り続けている電話のベル、①何かを追いかけているパトカーのサイレン、どこかで原チャリのセルモーターが回り、誰かがジュースを買って自販機に礼を言われた。

 秋山瑞人(2001)『イリヤの空UFOの夏 その1』p13

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795/episodes/1177354054885590321


(中略)


更衣室入り口のドアノブを両手で思いっきり回す。磨耗まもうしきった金属がこすれ合う「がりっ」という感触を手に残して、ロックはひとたまりもなく外れた。

 ②そのとき、パトカーのサイレンが聞こえた。

 まさか自分に関係があるはずはないとわかってはいても、浅羽は思わず身体からだをこわばらせて息を止めた。

 ③まただ、と思った。さっき焼却炉の陰に隠れていたときにも聞こえた。

 サイレンは溶けるように遠のいていき、唐突に途絶えて消えた。

 今夜はやけにパトカーが元気だ。何か事件でもあったのだろうか。そう言えば、夏休みの少し前に「北のスパイが付近に潜伏せんぷくしている可能性があるから気をつけろ」という回覧かいらん板が回ったことがある。スパイには夏休みもクソもないのだろうか。

 秋山瑞人(2001)『イリヤの空UFOの夏 その1』p16

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795/episodes/1177354054885590321


(中略)


「なめてみる?」

 女の子はもう、目の前にいた。

 女の子と浅羽の顔の間には、もう、銀色の球体が埋まった手首があるだけだった。

「電気の味がするよ」

 だれもいないはずの夜の学校が、誰もいないはずの夜のプールが、星の光が、見知らぬ女の子が、何もかもが、現実の出来事とは思えない。


 ④いきなり、パトカーのサイレンが聞こえた。


 おどろきのあまり、浅羽の口から情けない悲鳴がもれた。

 本当にすぐ近くから聞こえた。学校の中か、あるいは外だとしてもグランドの周囲をめぐっている通りのどこか。体育館の窓に点滅するパトライトの照り返しが見える。一台や二台ではない。


 秋山瑞人(2001)『イリヤの空UFOの夏 その1』p36

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795/episodes/1177354054885590455




 ①では、パトカーは純粋に背景として扱われています。

 浅羽も読者もとくにパトカーに注目をしているわけではなく、遠くの物音によって静けさを強調して田舎の夜の雰囲気を見事に描き出しています。


 ちなみに主題からは外れますが、この直前の

 「あたりは暗く、当たり前のように誰の姿もなく、遠くの物音が意外なほどはっきりと耳に届く。」

 というフレーズは、冒頭で韻を踏んでいることもあり、

 少しずつ分節の文字数が増えていくことでリズムを作っていることもあり、

 リズムもイメージも非常に美しい一文です。


 さて、①では徹底して背景だったパトカーは、②においては、不法侵入をしている浅羽の緊張感を煽り、浅羽の住む園原市がスパイの跋扈する現代日本とは少しズレた世界であることを提示するための装置として使用されています。

 

 ①と比べると、若干、浅羽や読者の意識にパトカーが上り、背景が「図」に近づいている印象を受けます。

 また、③において、①にも言及しており、このパトカーがただの背景ではなく何か意味を持ったものとして機能しているという伏線張りも行われています。


 そして、④において、パトカーのサイレンは、唐突に、浅羽のいるプールのすぐそばまでやってきます。

 それまで背景として犯罪者やスパイを追っていると思っていたパトカーは、プールサイドで出会った謎の少女を追っていた、という「図」と「地」の反転は、丁寧に読まなければ読み飛ばしてしまうほどさり気なく描写されています。

 

 こうした描写は、秋山先生にとっては、息をするほど自然に思いつくことなのでしょうか。


 一つ一つのシーンでも、パトカーはそれぞれの役割を十分に果たしています。それでいて、一番重要な日常が反転するシーンの伏線ともなっていた、という構成をさらりとやってのけていることに、戦慄を覚えずにはいられません。


 同様の「図と地の反転」は、『イリヤの空UFOの夏 その4 南の島』でも使用されており、決して偶然の産物ではないことがわかります。


 秋山先生の小説では、複層的に物事が描写されることが多く、一次元である小説表現の限界を見事に打ち破っていると感じます。

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