第三種接近遭遇 4/9


 というわけで、まずはそこから始めなければならなかった。


 一番時間がかかったのもそこだった。励ましてもなだめても、女の子はなかなか顔を水につけることができなかった。ところが、ずいぶんかかってようやく頭全部を水の中に入れることができるようになると、そこから先は早かった。プールの縁につかまって身体を伸ばす練習をして、バタ足の練習をして息継ぎの練習をして、いよいよビート板を使った練習に移った。


 そして、中学二年の夏休み最後の日の午後九時を、十分ほど過ぎた。


 そして、そのころにはもう女の子は、ビート板につかまってなら15メートルを泳げるようになっていた。バタ足のひざが曲がっているので盛大な水しぶきが上がる割にはずいぶんなノロノロ運転だし、放っておくとどんどん右に曲がっていく。とはいえ、まったくのカナヅチからのスタートだったことを思えば長足の進歩だ。もともと運動神経がいいのかもしれない。


 教える方の浅羽も最初はおっかなびっくりで、女の子がまた鼻血を出したらそこですぐにやめにしようと思っていた。が、女の子の上達の早さにどんどん欲が出てきた。女の子は相変わらずもくで、あさの言葉にもうなずいたり首を振ったりするだけだったが、何かひとつのことができるようになるたびに表情が少しずつ明るくなった。


「すごいよ。この調子でいけば来週には水泳部のエースだ」


 女の子は、少しだけうれしそうな顔をした。ここ一時間ほどの間に、浅羽はこの「少しだけ」の微妙な差をどうにか読み取れるようになっていた。今のこの顔は、これまでで一番嬉しそうな顔だ。


「じゃあ、そろそろビート板を卒業だ」


 途端に女の子の表情が固くなる。


「大丈夫だって、もうひとりで泳げるって。もうビート板なんかあってもなくても一緒だよ」


 女の子はこくっとうなずく。が、それは言われたことに納得しているわけではなくて、浅羽を失望させたくない一心からのものであるようにも見える。


「あ、あのさ、」


 浅羽はあっという間に妥協して、


「それじゃまずは、ぼくが手をつかまえてるからさ。それなら平気でしょ?」


 浅羽はそう言って両手を差し出した。


 今度は女の子も納得したのか、少しだけ安心したような表情を見せた。自分から両手を伸ばして浅羽の手首をつかむ。浅羽の手は、女の子の手首をつかむ形になった。


 そして、浅羽はやっと「それ」に気づいた。




 そのしゆんかんに女の子も、浅羽が気づいたことに気づいてぎくりと身を固くした。たった今まで、自分の手首に「それ」があることを、女の子は自分でも忘れていたのかもしれない。


 浅羽は指先で、女の子の手首を探る。


 何か、硬くて丸いものがある。


 ゆっくりと、手首を裏返してみた。


 卵の黄身ほどの大きさの、銀色の金属の球体が、女の子の手首に埋め込まれていた。


 女の子がじっと見つめてくる。


 水の動きに身体からだが揺られている。


 現実が水に揺られて、再び遠のいていく。


「痛くないから」


 そう言って、手首の金属球が浅羽によく見えるように両手を差し伸べて、女の子が近づいてくる。


 生の疑問。何をおいてもまず最初に聞いておくべきだったこと。


 君は、だれ


「なんでもないから」


 優位は逆転していた。今、おそれるなと言い聞かせているのは女の子の方だった。あさは後ずさりしようとするが、ひたむきなその目にじっと見すえられ、外国語のようなひびきをもつその口調にじゆばくされている。後ずさりの最初の一歩がどうしても踏み出せない。


「なめてみる?」


 女の子はもう、目の前にいた。


 女の子と浅羽の顔の間には、もう、銀色の球体が埋まった手首があるだけだった。


「電気の味がするよ」


 だれもいないはずの夜の学校が、誰もいないはずの夜のプールが、星の光が、見知らぬ女の子が、何もかもが、現実の出来事とは思えない。




 いきなり、パトカーのサイレンが聞こえた。




 おどろきのあまり、浅羽の口から情けない悲鳴がもれた。


 本当にすぐ近くから聞こえた。学校の中か、あるいは外だとしてもグランドの周囲をめぐっている通りのどこか。体育館の窓に点滅するパトライトの照り返しが見える。一台や二台ではない。


 女の子は無言だった。


 表情の動きもあるにはあったが、浅羽の目には、自分の十分の一も驚いているようには見えなかった。そのことが浅羽のパニックをさらにあおる。とにかく自分が何とかしなくてはならないのだ。何が何だかわからないままに、浅羽は女の子の手を引いて無我夢中でプールから上がろうとした。


 そして、浅羽がプールのふちに行き着くよりも早く、その男は現れた。


 更衣室のスイングドアから、ゆっくりとプールサイドを歩いてくる。


 背の高い、ねんれいのよくわからない男だった。


 スーツの上着を肩に引っかけて、もう片方の手にはバスタオルを持っていた。ネクタイはしていない。顔つきは若くて、タレ目で、いつも下品な冗談を言ってはひとりで大笑いしていそうな感じがする。しかし、何かにひどく疲れたような、すり切れたような雰囲気がどこかに漂っていた。


「帰る時間だ」


 立ち止まり、プールサイドから女の子をまっすぐに見つめて、男はそう言った。


 現実は、女の子の鼻血と一緒に、プールの排水口に流れ込んで消えてしまったのだと思う。


 何が何だかわからないし、混乱していたし、怖くないといえばうそもいいところだ。しかし、浅羽は虚勢を張った。一歩前に出て、女の子を背後にかばう位置に立った。


 男はそれを見て、思いがけないものを見て感心したかのような、おっ、という顔をする。


 女の子が背後からささやく、


「だいじょうぶ、知ってるひと」


 あさはそれでも男から目を離さず、肩ごしに、


だれ?」


 男がそれに答えた。


「──そうだな。まあ、その子の兄貴みたいなもんだ。君は?」


 浅羽はつばを飲み込み、わざと不機嫌そうな声を作った。


「この学校の生徒」


 です、と言ってしまいそうになるのをこらえる。男は周囲をぐるりと見回して、


「なんでまた。こんな時間に」


「泳ぎたくて」


 浅羽のそのひと言に、男はいきなり顔中で笑った。


「──っかそっか。なるほどな。今日で夏休み終わりだもんな」


 男はプールのふちにしゃがむ。ニタニタ笑いながら浅羽を見つめて、


「おれも昔よくやったよ。おれのいた学校にゃ住み込みの用務員がいてさ、これがまたとんでもねーカミナリおやじでな。泳ぎに行くっていうよりダチ同士の度胸くらべさ。大さわぎしながら泳いでるし、二回に一回はおやじがほうき持ってすっ飛んでくるんだが、こっちだってはなからそのつもりだからそうそう捕まりゃしない。で、うまく逃げおおせたらおやじんところにイタズラ電話入れてさ、『あー、ながさわくん』これ校長のものな、長沢ってのはおやじの名前な、『あー長沢くん。あれかね、チミは、プールに忍び込んだ生徒を捕まえることもできんのかね。そんなことじゃクビだよチミ』。おやじもーカンカンに怒ってなあ。あれは面白かった」


 プールの外に複数の人と車の気配。静かなエンジン音、タイヤが砂利をむ音、ドアをたたきつけるように閉める音。


 囲まれている。


 なのに、この男以外には誰もプールの中には入ってこない。


 この男もまったく得体が知れない。話のわかる兄貴分という雰囲気が、うわべだけの作り物のようには見えない。浅羽には、そのことが逆にうす気味悪く思えた。


「あの、」


 生の疑問再びだった。


 あんたたちは何者なのか。


 そして、女の子と同じように、この男もまた、そんな疑問に明快に答えてくれるとは思えなかった。浅羽の言葉は出だしでいきなり失速し、男がそこに先回りをする。


「今でもありがたいと思ってるよ。長沢のおやじはさ、おれらガキどもの遊びにちゃんとつきあってくれてたんだよな。毎度毎度悪さをするメンツなんて知れてるしさ、捕まらなくたっておれらの名前なんか割れてたはずなんだ。けど、おやじはおれらのこと先生にちくったりしなかった。──だからまあ、おれは今でも、君みたいなイタズラ坊主にはわりと寛大なわけさ」


 そう言って、あさをじっと見つめる。


 お前がここにいたことはだまっていてやるから、お前の方も何も聞くな。


 そう言っているのだ。


 浅羽はそう理解した。


 男を見つめて、浅羽は小さくうなずいた。


 男はにかっと笑った。上着のポケットから無線機のような物を取り出して、


「いま終わった。Cが1、これから出ていく」


 早口にそれだけ言って、背伸びをしながら立ち上がった。


「さ、もう上がれ。ビート板ちゃんと片づけろよ。あと目も洗え。ところでお前、」


 女の子にむかって、


「泳ぐのなんて今日が初めてだろ?」


 浅羽の手を借りてプールから上がった女の子は、ひと言だけ、


「教わった」


 男は、へえ、という顔をした。女の子の頭にバスタオルを投げかけ、


「そいつは世話になったな。お前もほら、」


 そう言って、バスタオルごしに女の子の頭を乱暴にぐいと押しておをさせた。


「君がまず先に出てくれ。外にいる連中は、何も危害は加えない」


 頭の中は混乱していた。


 言いたいことは、聞きたいことは、山のようにあった。


 おぼつかない足取りでプールサイドを歩き、更衣室のスイングドアを押し開け、そこで浅羽は背後を振り返った。男が小さく手を振った。女の子はそのとなりで、バランスの悪い人形のように立ち尽くしている。頭にかぶったバスタオルの陰から浅羽をじっと見つめている。


 すべてが、現実の出来事とは思えなかった。


 ビート板を片づけるのも目を洗うのも忘れていたが、男は何も言わなかった。

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