ウ・ゴ・ケ・ナ・イ

村上 ガラ

第1話

目を覚ますと、カーテンの隙間から朝の日差しがまぶしく差し込み、俺の顔をじりじりと焼いていた。


 ――――もう梅雨も終わりだろうか。


 俺は寝ぼけた頭で、そんなことをぼんやりと考えた。


 今日は暑くなるな、と俺は思った。


 いつものように、急いで着替えて階下に降りた。


 「おはよう、母さん。いってきます!」


 「ちょっと、祐介!ご飯は!」


 「無理!間に合わない!」


 俺は高二で朝が苦手だった。


 いつものように家を出るのがぎりぎりになってしまった。いつもの道を、いつものように、自転車を飛ばす。


 いつものように、通勤途中のオバさんを追い越しながら、挨拶はしておく。「おはようございます!」


 そのオバさんはびっくりしてわきによけるだけで、挨拶を返してくれることは無い(だからつい、脳内で『オバさん』呼ばわりしてしまう)。代わりに、その前を行く、やはり通勤途中らしい、三十代くらいのサラリーマンが「おはよう!」と返してくれる。いつも通りの朝の風景。


 そして、いつものように、あの角を曲がって………。





『祐介!祐介!』『何でこんなことに!』『お兄ちゃん!嫌だ!お兄ちゃん!』………どこか遠くで声がする………。動けない。………動けない。……ウ・ゴ・ケ・ナ・イ。…………ここはどこだ?


 その時、か細い女の声が聞こえた。


『ああ、苦しい、苦しい!死ぬってこんなに苦しいことだったの?』


 誰だ?


『ああ、でも、やっと、やっと死ねる!ずっと、ずっと死にたかった!ずっと消えたかった!生きていたころから………』


 声は消えた。ここは何処だ?俺はどこにいるんだ?………動けない。首を動かすことも。腕もあがらない。まぶたを動かすことさえ。これは………何なんだ?


 その時、何処からか低く唸るような声が聞こえた。


   ----犬猫九匹、人間は一人-----








 雨にも何度も打たれた。大嵐の日もあった。雪の積もった日もあった。そしていまは………とても暑い。


 夏だ………。俺がこの場所に立ち続けるようになって一年がたとうとしている。


 この一年の間に目の前で何度か動物が車に轢かれ、命を失った。一匹目の事故の後、俺は瞼が動かせるようになり目を開けることができた、二匹目の事故の後には、わずかながら首が動かせるようになった。


 それでようやく、周りを見渡すことができた。…………ここは、俺が毎日通っていた通学路だ。


 あの頃と同じように毎日小学生がランドセルを背負って通る。あの追い越していたオバさんも通る。





 なぜ、俺はこんな目にあうんだ?いったいなぜ?





 そんなある日、ふと気づくと、俺の母親が、花束を持って泣きながら、俺の前にたたずんでいた。


 「かあさん!かあさん!」


 いくら呼びかけても母は気付きもしなかった。俺は声が出てないのだろうか?


 母はいつの間に、俺の目の前に来たのだろうか?


 俺はこの状態になってから、しばしば、眠る、というわけではなく、意識のなくなる時間を持つことがあった。


 母が俺の目の前で泣いているというのに、俺の言葉は届かないし、俺はその肩に手をかけて慰めることもできない。


 泣き続ける母を前に、無力感にさいなまれていた時、父親と妹がやってきた。妹の真菜は小学生、育ち盛りだ。しばらく見ないうちに少し大きくなったようだ。


 父は母に、


 「………祐介と話は済んだかい?………もう、家に帰らないか?………祐介の事故からもう一年もたつんだな……。ここはあの事故以来、みんな初めて来たな。真菜も怖くて通学路を変えてしまったし」


 父はそう言って優しく母の肩を抱いた。


 真菜は小さな花束を、地面に置いた。そして「お兄ちゃん、お兄ちゃん…………」としゃくりあげながら何度も俺のことを呼んだ。








 俺はやっと事態が呑み込めた。


  ------俺は、ここで事故にあい、死んだのだ。そしてここに縛られ動けない、地縛霊になったのだ。





 夏が終わり、また秋になり冬になった。





 夏の終わりに一度、若い母親に手を引かれた小さな女の子が「お兄ちゃん、どうしたの?」と話しかけてきたが、母親が青ざめ、女の子を引っ張って………行ってしまった………。





 それからさらに月日は流れた。


 最近、お役所の人間らしき人物がよく俺の近くに立つが、向こうは全く気付かない。 


 今日も役所の人間が来ている。水道管の工事でもやるのだろうか?


 声が聞こえてきた。


「じゃ来週から工事入りますんで、よろしくお願いします!」「はい、よろしくお願いします。」


 なんの工事だろうか?


「大きい仕事もらえてよかったですね、社長!」


「ああ、頑張っていいものにしないとなあ」


 社長と呼ばれた年配の男性が答えた。


 そして続けて、


「今後、あんなふうに悲しむ家族がでないようにな」と小声で付け加えた。


 本当に、と相手の男も小声で相槌を打ち、続けて言った。


「二年くらい前でしたかね、高校生の男の子が。自転車乗ってて。出会いがしらにトラックとぶつかって」


「ああ。よく挨拶するいい子だったってなあ」


 ----俺のことだ。


「そのまえは五年くらい前でしたかね、女子高生が」


「ああ、あれは事故じゃなく自殺だっていう人もいたけどな」





 それを聞いて、俺は自分が事故にあった時に聞こえてきた、か細い女の声を思い出した。


 ------『ずっと消えたかった!生きていたころから』


 あの言葉の意味が、今ようやく理解できた。


 俺のおかげで成仏できたその人を思い、少し救われるような気がした。





 社長とその部下らしい二人は、会話を続けた。


「それだけじゃなく、小さな事故も結構ありますしね、ここ」


「ああ。犬だの猫だの車に轢かれるのも多い」


「いやになりますねえ」


「それであの男子高校生の母親が学校や町議に働きかけてここの改善案がやっと通ったんだ。もう事故が決して起こらないように、って。悲しむ家族は自分たちで終わりにしてほしい、ってな」


「泣けますね」


「ああ、わが子失った母親がね、頑張ったんだからね」


 そして言った。


「この工事が終われば間違いなく事故は無くなるよ。見通しがきくようになるもんな」





 ------なんだって!


 俺は動けないからだの中に怒りが充満してくるのを感じた。


 --------母さん!なんてことしてくれたんだ!


 季節の移ろいだけを唯一の変化とし、それをほぼ二回り経験する間ここに立ち続けて、ようやく悟ったことがある。それは、ここに縛られたものは次の者が現れないかぎり解放されることはないということだ。次の犠牲者が出ない限り。


 命の重さに違いがあるかどうかはわからないが、『ここ』ではその重さの違いにあるルールがある。


 それが『犬猫は九匹、、人間は一人』つまり『犬猫九匹=人間一人』。この場所で何らかの非業の死を遂げる物の数、犬猫なら九匹、人間なら一人死ねば、俺はやっと解放される。やっと本当に死ねる。つまり成仏できるということだ。


 猫二匹でようやく首が動かせるようになった。そのあと犬が一匹ひき逃げされ、指が動かせるようになり、次にまた猫が車に轢かれ腕が上がるようになった。


 あと五匹、あと五匹と思っていたのに………。


 工事が終わったら事故の起こりやすさは激減するだろう。次の事故はいったいいつになるのか!


 もうこうなったら、待てない。人間ひとりでいい。


-------------人間一人、人間一人、人間一人、人間一人、人間一人、人間一人…………………。





 俺の足元には一匹の犬と三匹の猫がうずくまっていた。その中の猫の一匹はまれに前足を動かしていた。残りの三匹のうちの猫一匹は時々まばたきし首を動かすことができ、そして、犬は瞬きをするだけ、残りの猫一匹は微動だにしなかった。





 翌週になり、さまざまな、建築資材が運び込まれ、工事用車両や機材も運び込まれた。そしてその週のうちに工事の初日となったのか、十数名の作業員がやってき、安全祈願が行われた。





 祈願が終わり、仕事が始まると、作業員たちは雑談を始めた。


「なあ、きいたか?」


「なにを?」


「あれ?知らねえの?」


「ここって見える人には見えるっていうよ、これが」


 一人の作業員が、両手を胸の高さに挙げて手首をだらんと下に向けて笑いながら言った。


「よしてくれよお、俺、駄目だよ、そういうの」


 相手の男は怖がりのようで、困り顔で言った。


-------おかしいかよ。


 のんきに笑い話として交わされる、自分に関する噂話に、俺は怒りを感じた。


 お前たちにわかるか、ここに縛られ動けないことが。地縛霊の辛さが、恨めしさが………。





 俺はわずかに動かせる腕を使って、少しずつだが、材料のブロックを動かし始めた。


-------ゆるさねえ……………!


 せめてもう一匹、猫でも死んでくれれば、もう少し動けるのに、と思いながら。





 --------人間一人!こいつらの中からだれか!!

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