春の浜辺

中澤京華

春の浜辺

―はじめての一人旅は昔から高知県の土佐と決めていた。


坂本竜馬に心奪われたのはいつの日のことだったろう……?


手垢が染み込むほど何度もページをめくった司馬遼太郎の『竜馬が行く』を手にとり、舞の胸は熱くなった。


―明日には土佐の海が見れる。竜馬がはじめての剣術修行のために江戸に向かう前夜に浜辺で見た淡く光る細い月を私も見てみたいな―。


そう思いながら、土佐の海が自分を呼んでいるような錯覚に包まれて舞の胸の鼓動は高鳴った。


何かが待っているような予感に包まれ、高校時代のことをふと思い出した。


吸い込まれるような浅黒い肌から滲み出す汗を感じさせないほど爽やかに風を切って走る森本先輩の姿を見つめながら走り抜けた日々が鮮やかな虹のように美しく脳裏を通り過ぎた。


―そうだった……去年の今頃、先輩とふたり浜辺を歩いたんだった……静かな春の浜辺を……。


思い出せば、いつでも涙が溢れ出しそうになるのに、大学で友人たちと過ごすめまぐるしい日々に埋もれるように忘れ去っていた心の痛み―。


念願の大学に晴れて入学し、大学のカリキュラムに乗って日々を過ごすうちにあっという間に一年は過ぎていた。


―あれからなんだかいろいろなことがあったな―。


そう思いながら、肝心な物を荷物の中に入れるのを忘れていることを舞は思い出した。


―i-Pod―。一人旅のときくらい、好きなだけお気に入りの曲が聴きたい―。


―ふふ、そういえば高校時代、英語の授業中に音楽聴いていてもなんにも注意されなかったっけ。先生に指されると「ここだよ」とさっと英文を指で指して教えてくれた花梨は今頃、どうしているかな。辛いときにはいつでも傍で黙って悩みを聞いてくれて、一緒にいてくれた花梨は―。


 花梨のことを思い出すと知らず知らず心がじんわりとしてしまう。花梨の勇気が自分の激しく苦しい思いを温もりに変えてくれた。浜辺で先輩と過ごしたあの優しいひとときを与えてくれたのは花梨だった。花梨は今頃―そう、思いながら、ふっと胸が詰まった。


―もう、随分と顔を合わせていない友人たちのことが思い出され、その中でもうつむき加減に目を伏せた花梨の顔が胸の中を覆い尽くすように思い出された。卒業のあと、泊まりに行ったり、卒業旅行もずっと一緒だったけど、それぞれ大学入学後はずっと会っていない―。でも、たぶん、また会えば、きっと話も弾むだろう。笑顔を見せてくれるだろう。だけど―。


舞はそこで考えるのを止めた。

―もう、眠ろう。明日のために―。


そう思いながらも、明日からの一人旅のことを思うと興奮で胸がいっぱいで眠れない自分にいらいらし、舞はふとんから這い出し窓を開けた。春の夜風はあたたかかったが、静かな闇に包まれた夜空はどんよりと曇っていて星ひとつ見えない。


―明日は雨かな―。


舞はさっと窓を閉めるとふとんに入って目を閉じた。


―眠ろう、眠ろう―。


 心の中で何度も呪文を唱えるように呟きながら、舞はいつの間にか深い眠りについていた。


―気がついたら、朝だった。窓辺に立つと柔らかな春の雨が音も無く降っていた。


舞はさっさと食事を済ませると、玄関先に立って空を仰いだ。雨に濡れた庭先は気のせいか草木がしなだれたように見える。


それでも雨の中の出で立ちというのもなかなか風情があるかもしれない。


お気に入りの一風洒落た花柄の傘を手にとって開くと、どんよりとした景色ににわかに花を添えるように華やかに映る。


軽めの薄いピンクのコートを羽織り、荷物を手にすると舞は母に向かって「いってきます」と小さな声で呟いた。


母はいつもの笑顔で「一人旅、楽しんでらっしゃい」と愛想よく答えた。


母は舞が決めたことに対して大概のことは何も言わない。結果を見て時には怒り、時には涙するが、決心した段階では何も言わない。


ただときとして、「自分のしたことに対しては責任を持ちなさい」と厳しく言い放つが。


今回の旅行についても旅費も自分でアルバイトして溜めたし、母は舞の思いをまるでわかっていたように


「やっと一人旅ができるようになったのね。よかったわね」と笑顔を返してくれた。


まるで長年の旧友のように―。


 


 舞は行きは思いきって飛行機に乗ることにした。実を言うと無計画な一人旅だった。そんな風にあてどなく旅をしてみたかった。先ず、行き先は高知だ。


 飛行機では偶然にも窓際の席に座れた。離陸とともに小さくなっていく街並、道路、車の波、行き交う人々、街路樹―どんどん、どんどん、小さくなって、階下はまるでミニチュアの世界のようになっていく―そして空の向こうに地平線が遠く映る―青い海が見える―拡大した地図のように半島が見えてくる―そして、そして、飛行機はいつのまにか雲の中に。一面の雲に包まれて白い雲と空の中を飛行機と一緒に心もふわふわと漂っていく―。


―舞はイヤホンを耳にあてるとお気に入りの音楽を聞きながら、心の中で思い出の浜辺に立っていた。


 森本先輩との口付けを思い出す。ただそっと唇に触れただけなのに胸が締め付けられるように苦しくなって、舞は蹲って泣いてしまった。蹲っている舞を先輩は見下ろし、しばらく、ただ立ち尽くしていた。震える肩を抱き締めてくれることもなく、ただ黙って見つめてくれていた。涙がおさまるまで。ただそれだけで救われた気がした。ふたりきりでそんなひとときを持てただけで思い出を胸に歩いて行けると思った。はじめからずっと舞の片思いだったから。―それでもいつだって真剣に思いをぶつけてきたから、後悔はなかった。先輩の彼女は穏やかで静かな女性だったし、そこに割り込むつもりはなかったけれど、激しく押し寄せる波のような思いをどうすることもできなくて、その思いを胸に駆け抜けたような日々だった。


―思いというのは雲のように遷ろいやすいように見えてなぜか変えられないものがある―。それは雲の上にいけばいつだって雲しか見えないようなそんなようなものなのかもしれない。窓辺に広がる雲海を見つめながら、舞はそんなことを思った。


 ぼんやりとそんなことを考えているうちになんとなく景色は流れ、高知空港にあっという間に着いていた。道路に降り立ちふと空を見上げると、高知の空は晴れ渡っていた。


 宿泊先を決めるより、先ず海に行きたかった。とりあえず、行き先を土佐に定めてバスと電車を乗り継いだ。そして、土佐駅で駅員さんに興津岬までの行き方を教えてもらい、そこへ向かってみることにした。土佐湾は見渡す限り、エメラルドグリーンの海だった。春の海は穏やかで波飛沫もゆるやかに流れている―舞は海辺で靴を脱ぐと波打ち際を裸足で歩いた。足跡が波の訪れとともに消されていく感じがなんだか楽しく、おもしろ半分にどんどん歩いた。


 ふと目の前に立ち尽くしている青年の姿に気付き、舞は歩みを止めた。背格好と横顔が偶然、森本先輩に似ていてドキっとした。―と、その瞬間青年は振り向き、舞を見つめた。舞はその一瞬を逃さず、手持ちのカメラを差し出すと「写真を撮ってくれませんか?」と青年に頼んだ。


その青年は一瞬、躊躇したような表情を見せつつもカメラを受け取り、さっさと用件を済まそうとするかのように愛想もなく「そこに立って」と呟き、カメラを構えた。


―そんな青年のしぐささえ森本先輩に似ていることに、内心、舞は驚いた。そしてその一方で舞は少し緊張し、カメラの方に視線を落とした。


「ほら、肩の力抜いて」

そう、言いながら、無言でシャッターを何回か押すと青年はカメラを舞に返した。


「上手く撮れているかわからないけど」


そう言って、青年がその場を去ろうとした瞬間、舞は小さく叫んだ。


「待って」


青年は少し怪訝な様子で振り返ると「なにか他に用があるの?」と聞き返した。


「あなたの写真を記念に撮ってもいいかしら?友人に似ているものだから―」


「別にいいけど……」


そう言うと青年はニコリともせずに海をバックに立った。


「少し笑ってくれない?」


「俺、笑うのって苦手なんだ」


「うん、なら、そのままでいい」


舞は2回シャッターを押すと青年の方に向かって言った。


「あのさ、写真送るから、住所教えて」


「え?」


「旅の記念になるでしょ?あなたも一人旅?」


「そうだけど……」


青年が口を告ぐより先に舞はメモ用紙とペンを取り出して青年に差し出した。


「はじめての一人旅のはじめての友だちの記念の写真を今、撮ったのよ」


青年はふっと微笑んだ。ほのかに滲み出すような静かな微笑みだった。


「ありがとう……。俺の彼女も喜ぶよ」


「そう。嬉しいわ」


「君も一人旅なんだ……」


「そう、はじめての一人旅よ」


「もう少しだけ一緒に旅してみようか」


「そう、気が合ったね。そうできたらなって思ってたの」


ふたりは思わずどちらからともなく微笑んだ。


青年が住所を書き終えると


「旅の道連れができた記念に先ずはおいかけっこしない?玉木君」


と舞はさっそくその青年をけしかけた。


「もう、名前覚えたの」


「だって、そこに書いてあるから」


青年は一瞬狐につままれたような顔をしたがすぐに咳き込んだように笑うと


「OK。俺、走るのは得意だぜ」と意気込んだ。


「私も得意よ」


 静かな波が幾度となく寄せては返し、海鳴りが遠い思い出を運ぶようにふたりを包み込んでいた。知り合ったばかりのふたりはそれでも惹かれ合う糸を微かにだが結びはじめていた。写真と思い出が結びつけたふたりの小さな旅のはじまり。まるで旧友のような心の繋がりを導くかのように煌めいた偶然の出会い―。2匹の子犬のように無心に追いかけっこするふたりの心に最初の頃のわだかまりはすっかりなくなり、広い砂浜でまるで子どものように無邪気になってふたりは笑顔を交わし合っていた。

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