バッチャが飛び立った!
伊東へいざん
バッチャが飛び立った!
「小森のバッチャ、今日も病院だしか?」
「
「 んだしか」
話はそこで途切れた。内陸線車掌の秋山雪乃は、合川の病院に通う小森町子にいつものように声を掛けて “おや? ”と思った。小森町子は今年67歳になる元気なバッチャだ。バッチャの家はこの鷹巣のはずだが “家さ帰る ” とはどういうことなんだろうと思った。しかし雪乃は業務があるので、それ以上の詮索はやめにした。
秋田県内陸部を南北に縦断して走る秋田内陸線は、鷹巣から阿仁合を経て角館に至る94.2キロメートルの路線である。日本三大銅山の一つ、阿仁鉱山で産出される鉱石輸送を機に敷設され、路線は徐々に延伸されて角館に至っている。過疎高齢化の影響もあってか、これまでに何度も廃線が囁かれる中、2012年には愛称公募で『 あきた❤美人ライン 』に、2017年からは『 スマイルレール秋田内陸線 』の愛称を付けるなど、イメージ努力も続けられている。
突然、電車の速度が落ちた。周囲の乗客は何事かと一斉に運転士に目をやった。バッチャは怖くなって、孫の
「家さ帰る」
その時、誰かが窓の外を覗いて叫んだ。
「きれいね!」
乗客は思い思いに周囲の紅葉を堪能し始めた。秋の内陸線は近県や遠方から観光客がやって来る。路線の中で人気のある撮影スポットでは、徐行の乗客サービスもしている。
今、バッチャが恐怖を覚えている徐行場所は、
天候に左右された古の阿仁川水運から、陸路の阿仁街道、そして夢の鉄道敷設に至った輸送の歴史を物語っている。
内陸線が動き出し、バッチャは少し安心した。不安になったのは車掌の雪乃である。病院の最寄・合川駅はとっくに過ぎているが、バッチャは降りなかった。目的地が病院じゃないとすれば、どこに行くつもりなんだろうと思った時、バッチャは答えた。
「家さ帰るどごだし…」
雪乃は驚いたが、その返答は自分にではない。バッチャは誰かを見ていた。
バッチャの目の前には、幼い頃に祖父から聞いた伝説のマタギたちが立っていた。大格闘の末に熊を仕留めた背負い投げ西松、俊足で山を渡り歩く疾風の長十郎、狙った獲物は百発百中の一発佐市ら三人だ。いつか会いたいと憧れた伝説のマタギたちが、バッチャの目の前に現れた。
「バッチャ、 おめば山さ連れでってやる」
「山菜採りにか?」
「熊だよ」
「熊!
「んだ!」
「行く!」
この先の
マタギの狩猟には「ひとりマタギ」と「巻狩り」がある。集団で行われる「巻狩り」は、シカリ、ムカイマッテ、セコ、ブッパと呼ばれる4種類のメンバーで構成され、指揮はシカリが執る。ムカイマッテは全体を見張り、シカリの指示を正確にセコに伝える役割を果たす。セコには3種類あり、獲物を沢沿いに追い上げる “沢セコ”と、斜面の途中から追い上げる “中セコ”、そして、終盤になって尾根沿いを追い上げる “片セコ” が、リレーによって熊との体力差を縮める。更に、同士討ちを防ぐためにセコたちは鉄砲を持たず、専ら熊追いに努める。万が一、熊が逆襲してきた場合などに備えて “ナガサ ”を携帯している。ナガサとは、この地域のマタギ衆が代々創意工夫しながら完成させたマタギ独特のサバイバルナイフだ。特徴は切っ先にあり、引き抜く時にも獲物にダメージを与える形状になっている。また、握りが金属の筒状になった “フクロナガサ ”というのもあり、筒状の柄に長い枝を刺せば、獲物と距離を取って槍のように使うことも出来る。いずれにしてもブッパだけが鉄砲を構え、セコたちの追い上げて来る獲物をじっと持つのである。
バッチャ組は、背負い投げ西松がシカリとムカイマッテを兼ね、疾風の長十郎と一発佐市はセコを務めることになった。憧れの伝説マタギたちに特別の山入りを許されたのだが、バッチャは祖父の伝説に登場する醜女と謂われる山神(さんじん)様の祟りが怖かった。
古来、山神様は自分より美しいものに嫉妬する。その嫉妬を鎮めるために、姿の醜い「やまおこぜ」の干物を御守として携帯したり、神棚に祀るなどしてきた習わしもある。バッチャは逸る気持ちはあったが、マタギの狩猟は女人禁制なので、やはり狩りに行くのは遠回しにでも遠慮しようと思った。
「そしたらブッパが えねべひ」
「ブッパはバッチャにやってもらう」
「テッポだば撃ったこと ねもの」
「佐市さんが おひでけるんて、なんも心配 さねてもえ」
断り切れなくなったバッチャは正直に話すことにした。
「山神様の祟りが おっかね」
「 んだべ」
そう言うと、一発佐市はバッチャに呪文を唱えてくれた。
「ナムアブラウンケンソワカ(三唱)、バッチャに山神様のお許しと鉄砲の技を与えたまえ! これで大丈夫だ」
「 んだが!」
バッチャの時代、「ナムアブラウンケンソワカ」の呪文は無敵だった。子どもたちは転んで血が出ても、祖父母や両親からこの呪文を唱えてもらった。
「ナムアブラウンケンソワカ(三唱)、 いでどご《痛いとこ》、いでどご、飛んでげ!」
呪文の手が空の彼方を指すと勇気百倍、誰もが泣き止んだ。
内陸線急行が次の比立内駅まであと少しのところで、バッチャは急に立ち上がってキョロキョロし出したかと思うと、頼りない足取りで車内を行ったり来たりと歩き出した。車掌の雪乃はバッチャを見て、これはもしかしたらと思った。
「バッチャ? 何してるの?」
「熊っこ獲って家さ帰ろうと思ってな」
「熊っこ?」
「 んだな。 おめも 山さえぐのが?」
雪乃は確信した。バッチャは間違いなく認知症を発症している。この急行もりよし3号が角館駅に到着するのは16時34分。業務があるので、角館に到着してから対応するしかないのかと迷っていた。もし、途中駅で降りられでもしたら、どうしようという不安も過った。
急行電車の車掌の業務は、特に秋の観光シーズンの場合、車内販売から、該当する駅毎の観光アナウンス、更に内陸線沿線の宣伝パンフレットの配布、そして殆どが無人駅のホームに出て乗降客の改札、それら全て一人でやらなければならない。それでも車掌の雪乃は、何とか合間を見て内陸線本部の阿仁合駅か、バッチャの住む最寄・鷹巣駅に連絡しようとタイミングを見計らっていた。
秋田県の高齢化は世界一といわれ、それだけ県民の認知症に対する意識は高い…はずだ。しかし、認知症患者への対応となると、他都道府県民同様、身近に患者が存在したその日から、患者と家族の双方にゴールの見えない過酷な毎日が容赦なく襲い掛かる。蟻地獄のような介護の深みに嵌り、社会から孤立し、共倒れという最悪の結末が口を開けている。
認知症の約7割はアルツハイマー型認知症と言われている。その次に高いのはレビー小体型認知症で、アルツハイマー型は女性の発症率が高いのに比べ、レビー小体型は男性が女性の約2倍と言われている。活動的だったバッチャは、そのレビー小体型認知症を発症したばかりだった。初期の段階のバッチャは、これまでにもたびたび記憶障害より幻視や妄想など視覚に異常を来していたが、家族が気付くまでには至っていなかった。
「バッチャ、ブッパは動いたらダメだ」
「 なして?」
「熊に感付かれないようじっとして待たねばならね」
「んだが… ひば楽だな」
「楽 でね。早速 “木化け ”の訓練するべ」
ブッパは天候の急変する山では、獲物が現れるまでジッと待つ「木化け」の術を使う。それは、追い詰められて狂暴になった熊が近付いて来る恐怖との闘いでもある。訓練と言われて心が躍ったバッチャは、一発佐市のいうとおり電車の通路に座ったまま動かなくなった。雪乃は心配になってバッチャに声を掛けた。
「バッチャ、具合でも悪いの? また血圧上がって来た?」
バッチャは雪乃に静かにするよう、口元に人差し指を一本立てた。
「どうしたの?」
「 熊っこさ気付かえる《熊に気づかれる》」
「熊っこ居るの?」
「今、木化けっこの訓練してるどごだんて…しーっ」
バッチャの人差し指は一層強く口元を押さえた。次の停車駅が近付いて来た。雪乃はバッチャに頷いて車内アナウンスに向かった。
急行もりよし3号が比立内駅に到着すると、背負い投げ西松が号令をかけた。
「よし、山 さへえる!」
突然、バッチャが電車を降りて危なげな急ぎ足で駅舎を出た。ホームに出て降りる客の改札をしていた雪乃は焦った。慌てて運転士の笠井に事情を話し、取り敢えず内陸線本部のある阿仁合駅に緊急連絡を入れて善処してもらうことにした。
雪乃の心配を残し、内陸線は比立内駅を発車した。雪乃は車窓からバッチャの姿を追った。駅舎前の上り坂を国道105号線に向かうバッチャの姿が見えた。無理矢理でもいいからバッチャを連れ戻したい衝動に駆られながら、バッチャが小さくなっていく姿を見つめ、後悔と不安がのしかかっていた。
この時期、熊は頻繁に里山や民家に出没する。山ブドウやアケビ、民家の栗の木などを狙うだけでなく、昨今は人間をも狙うようになった。熊は狂暴であり、臆病であり、利口な獣だ。前年の餌場とその味を記憶し、それを代々に受け継ぐ。営林署が撤退してから、森と里の緩衝地帯がなくなり、人間を怖がるどころか、餌として認識するようにすらなった。年間を通して熊による犠牲者が絶えない。
熊はどんなことを考えているのだろう…
春…人間は八幡平の “根曲がり竹 ”に群がる。オレたちはタケノコ狩りと人間狩りができる。夏…人間は観光でオレたちの猟場に入って来る。やつらの食べ散らかした珍味狩りと、隙あらば人間狩りができる。秋…山はキノコや木の実で豊かになる。万が一その年が不作でも、キノコ採りで深山に迷い込む人間狩りは出来る。里に下りれば、人間が蓄えた餌がたっぷりある。抵抗する人間は喰えばいい。鉄砲を持った人間なんてざらにはいない。それさえ知っていれば、無理に食い溜めして冬眠する必要だってないんだ。春に目を覚まして、冬眠でやつれた苦しみを味わうのはもうご免だ。余程里を荒さない限り、動物愛護団体だってオレたちの存在を守ってくれる。幼いうちなら、うまいこと捕えられれば、『くまくま園』で一生餌の心配などしないで過ごす道だってある。
内陸線最寄・阿仁マタギ駅から車で10分程のところに『くまくま園』がある。園ではこの地域を含め、本州と四国の33都府県に生息する種の “ツキノワグマ ”と、北海道全域に生息する種の “ヒグマ ”を飼育している “ 熊だけ ”の動物園だ。その熊たちが両手を上げたり拝んだりして餌をねだるのを見る限り、愛らしい動物にしか思えない。しかし、午後4時閉園後の檻の中では、凶暴さを剝き出しにした凄まじい餌の奪い合いが繰り広げられる。荒い息の奥から絞り出す唸り声を聞けば、その愛しさは一気に冷める。
駅舎を出たバッチャはひとり山に向かった。いや、バッチャにとってはひとりではない。伝説のマタギ衆3人と一緒だ。
登坂路に続くブナの森にクマゲラの鳴き声が響いている。樹冠からは何本もの光の帯が射して、まるで別世界への入口のようだ。しかし、山の日暮れは早い。4時を過ぎると薄暗くなり、そこから闇が速足で迫って来る。
「熊獲って家さ帰る?」
日が陰り始めて不安になったバッチャは、マタギ衆に聞いてみた。返事がない。振り返ると、一緒のはずのマタギ衆は一人もいなくなっていた。バッチャは頭が真っ白になった。山神様が現れはしないかと恐ろしくなった。仕方なく歩いて行くと、山の入口に小屋が見えて来た。入口から何度呼んでも応答がないので、バッチャはソーッと中を覗いてみた。留守のようなので家の前で待つことにした。
バッチャが訪ねた家は、主が帰るわけもない山の入口に展示されているマタギ小屋だ。バッチャはその軒に腰を下ろした。遠くに広がる刈入れの近い田圃を見ているうち、子守唄を口ずさんでいた。
「♪ 目っこもバッチャ、耳っこもバッチャ、鼻っこもバッチャ、
バッチャの表情が変わった。孫の有香から貰った買い物袋がないことに気付いた。
「ね… 袋っこね…あ、 カッチャ、迎えに来て けだが?」
「んだよ」
「私、やっと家さ帰れる」
「あまり おひもんで、 むげに来たでば」
「ね… ねぐした」
「なに ばねぐした」
「袋っこ、ねぐした」
「とにかく帰るべ、町子」
「んだども、袋っこねぐした」
「きっと誰かが届けて けるんて」
そう言うと、バッチャの母は消えてしまった。
「カッチャ! カッチャ!」
バッチャが立ち上がると、足下に百足や爬虫類が寄って来た。
「蛇おっかね、蛇おっかね!」
バッチャは追い立てる幻視に鳥肌を立てながら夢中で逃げた。どこをどう通って辿り着いたのか、この地の自治体が古くから管理する30基ほどの墓地に居た。その一角の墓前に備わった1畳ほどのコンクリートのスペースに座って、バッチャはじっと動かなくなった。
「カッチャ、どごさ えた? 手、動がねぐなったでば」
その頃、バッチャの自宅、鷹巣の小森家の留守電には阿仁合駅から連絡が入っていた。バッチャの消息は比立内駅で途絶えたが、その後の目撃情報はなかった。なにしろ過疎の集落である。日が暮れ始めると外を歩く人など殆どいない。それでなくても一日中テレビの前で過ごす高齢者も多い。
墓地は国道105号線からは死角になっており、薄暗くなれば近くの民家からもその姿を消してしまう。心細くなったバッチャは、茜色の空を見上げた。
「家さ帰る」
バッチャの婿養子で大工の岳夫は、仕事現場の
比立内の駐在・西根鉄男に連絡が入ったのは夕方6時を回っていた。制服を脱ぎ、晩酌でも始めようとした西根は、ステテコ姿のまま自転車を駆った。ペダルを漕いではいるものの、行方不明になったお年寄りがどこにいるかなど当てがあるわけでもない。兎に角、最悪の事態を想定して、山や川の現況を熟知しているマタギ衆の家々を回った。あっという間にマタギ衆や地元消防団による捜索隊が結成され、山沿いと阿仁川の二手に別れて動き出した。
午後7時を回った頃、比立内駅止まりの電車が入って来た。この集落で一軒しかない民宿「シカリの宿」の若女将・松橋千恵子が、宿泊客を出迎えるために駅舎前に車を停めて待っていた。横にはいつも車と一緒に走る猟犬の秋田犬・ブルが行儀よく座っていた。
宿泊客がトランク片手に駅舎を出て来た。彼はこの土地出身の俳優・松橋龍三だ。両親は他界し、この地にあった家屋敷も既にない。
昭和38年、内陸線の前身である国鉄時代の旧阿仁合線が、比立内に終着駅を開業することになった。そのため、数年前から龍三の家は立ち退きを余儀なくされていた。父の他界はその矢先だった。一家は、龍三が小学5年生の夏休みに鷹巣に引っ越し、墓だけが残った。
時が経ち、貧困と片親が職探しに不利な時代、就職活動の差別に嫌気がさした龍三は、思い切って上京した。たまたま転がり込んだ芸能界で女神が微笑み、それから40年以上が過ぎ去った。久々に訪れた墓は時が止まっていた。
その昔はどの家も、阿仁川から運んで来た石を積み上げて、埋葬した死者を弔った。その川石が緑深く苔生すほどに放置されていたのは、龍三の家の墓だけだった。兄たちはもういない。龍三は、せめて墓石を建立して両親に詫びるしかなかった。年に一度の墓参までは、あの森吉の尾根を臨んで待っていてもらおうと…
「お待ちしてました!」
「今年もまたお世話になりますね」
千恵子はふと、駅舎のベンチに置かれた荷物に目が行った。
「あれは龍三さんのじゃないですよね?」
千恵子の指す先には、紫陽花の花柄の買い物袋が置かれていた。
「さすがにオレ、花柄は…誰かの忘れものかな…」
「この土地には盗る人いないから、思い出したら取りに来るわね」
ふたりが車に乗ろうとすると、ブルが駅舎の買い物袋に唸った。駅舎に入り、臭いを嗅いでから、また龍三に一声吠えた。
「どうした、ブル?」
龍三が話し掛けると、ブルは誘うように振り向きながら、駅舎から国道105号線に向かった。
「どうした? どうしたんでしょうね、女将」
「龍三さんに来いって言ってるけど…ブル、散歩はダメよ」
ブルは、クゥクゥと文句を言い出した。
「ブル! 龍三さんは宿に行くんだから散歩はダメ!」
きつく否定されたブルは堰を切ったように吠えた。
「反抗期かしら?」
そう言って、千恵子は屈託なく笑った。
「あの買い物袋と何か関係があるのかな?」
「とにかくお疲れでしょうから宿へ…」
車に乗ろうとするふたりを見て、国道に立つブルは何度も吠えた。龍三たちに少しだけ走り寄っては、また国道に立つ。それを何度も繰り返した。
「気になるな…ブルに付いて行ってみようかと」
「すみません、ブルのせいで…一年ぶりだっていうのに毎回龍三さんに甘えて…」
「女将は先に宿へ…荷物だけお願いします」
「そうはいきませんよ、それなら私もブルに付いて行きます」
集落はもうすっかり暗くなっていた。国道には街路灯がなく、駅前の商店は早くに閉まり、コンビニなども勿論ない。疎らな民家の小窓から心細い明かりが漏れているだけだ。
千恵子は車から懐中電灯を取り出し、龍三と一緒にブルの後に付いて行った。ブルは国道を宿とは反対方向の北に向かった。100メートル程のところで右に折れ、内陸線の線路を横切ると、もう真っ暗になった。
「うちの墓があるほうに向かってる」
「誰か居る…わけないわよね」
ブルは龍三の両親が眠る墓地に真っ直ぐ向かって姿が見えなくなった。千恵子の懐中電灯を頼りに、ブルの消えた先を目指して歩いた。人ひとりがやっと通れる農道の藪が開け、薄らと墓石群が浮かんできた。
「やはり、うちの墓地だ。どういうこと?」
その時、人とも獣ともつかない声がした。千恵子はとっさに龍三の腕を掴んだ。地元で暮らす千恵子の緊張が伝わり、龍三も初めて危険を感じた。千恵子が恐る恐る声のした方に向けた懐中電灯の明かりの中に、突然、白い顔が現れた。千恵子は思わず懐中電灯を落としそうになった。
「ジッチャ、 むげに来て けだが?」
老婆の声に龍三の腕を掴む千恵子の力が一層強くなり、震えが伝わって来た。声の傍らでブルが一声吠えた。
「ブル?」
「女将、幽霊じゃないよ。どっかのバサマだよ」
「ほんとにそうなの?」
「女将、腕痛い」
「あら、ごめんなさい」
ふたりはホッとして老婆の近くに歩み寄った。
「おばあちゃん、どうしてここに居るの?」
「家さ帰る」
その言葉で千恵子はピンと来た。このおばあちゃんは認知症なのだ。祖父母の認知症の介護で慣れていた千恵子はすぐに対応した。
「んだな、おばあちゃん、家さ帰るべな」
千恵子が話を合わせると、バッチャは素直に従った。とにかく宿に連れて行くことにした。バッチャを立たせようとして手を添えたが、立てなかった。右手はだらんとして左手しか動かせない。龍三はバッチャを “ お姫様だっこ ”して連れて行くことにした。
思い出した。小学生の頃、初恋の女の子が転んで膝を擦り剥いた。泣き止まないのを見兼ねて、龍三は豪く緊張しながら “ お姫様だっこ ”して家まで送って行ったことがある。女の子から伝わってくる体温にドキドキしながら無言で歩いた。重かった。バッチャはその女の子よりずっと軽い。腕に冷たい感触が沁みて来た。
宿に着いてみると、バッチャはあちこちに転んだらしき怪我を負っていたので、すぐに救急車を手配した。
「頭打ってないといいけど…」
千恵子母娘がバッチャの汚れた下着をオムツに替えてやったり、すり傷などの応急手当てをしている間も、バッチャは落ち着かない様子で二言目には “ 家さ帰る ”を連発していた。やがて駐在の西根鉄男が現れた。
「夜分にどうも、実はね…」
「西根さん、丁度いいとこに来て けだしな《くれましたね》」
「あ?」
「どこかのおばあちゃんが龍三さんとこのお墓で迷子になってたんですよ」
「それだよ、それ!」
「え?」
「そのおばあちゃんを探してたんだ! 墓に えだったしかー《居ましたか》…して、今どこ さえるしか《に居ますか》?」
「奥の座敷で休んでもらってる」
「どんたら塩梅だしか?」
「怪我してるみたいだったもんで、救急車を呼びました」
「 んだば、 えがった…ほんと、えがった」
千恵子の母に付き添われて横になっているバッチャを確認した西根は、捜索隊と鷹巣の本部に行方不明者発見の報告を入れた。
警察庁が認知症の行方不明者数の統計を取り始めたのは、平成24年からである。以後、その数字は毎年過去最多を更新している。行方不明者の生存例では、届け出から翌日までに7割、翌々日までに9割が発見されている。しかし、死亡例では3割が発見時に既に死亡しており、ほとんどの死因は低体温症または溺死とされる。バッチャはそうした危険と背中合わせだったのだ。
「申し訳 ねがたしな《なかったですね》、龍三さんも…あれ? 龍三さんが、なしてここに?」
「今年も両親の墓参りに…」
「ああ、もうそんな時期だしな」
その時、救急車の近付くサイレンが宿の前で停まった。
「随分早く来るようになったね、救急車」
「お年寄りが行方不明になったんで、取り敢えずそこの役場に待機してもらってだんだ」
西根は過去に、初動の油断で苦い経験を負っていた。今回はそれは許されないと自責の念で動いていた。
「右腕を骨折してるみたいなんです」
救急隊員はバッチャの右腕を固定してから担架に移し、車内に収容した。
「頭打ってるかもしれないのと、認知症の兆候があるんで気を付けてやってください」
「分かりました。どなたが付き添いますか?」
西根は一瞬戸惑ったが、ステテコ姿に躊躇している場合ではなかった。
「私が…」
救急車は、西根の付き添いで合川の市民病院に向かって行った。救急車が去ると、ブルが龍三に纏わり付いて来た。
「お手柄だったな、ブル。明日、墓参りに付き合うか?」
ブルは嬉しそうに吠えた。
「良かったね、ブル! 龍三さん、夕食の前にお風呂に入ります?」
「んだな、そうさしてもらうか」
龍三はひとり、湯に浸かって、他界する時の両親のことを思い出していた。息を引き取る前の父の高鼾や、ICUの母の心電図が一直線になる瞬間を偶然目撃したことなどが頭を駆け巡った。
最近になって、妻の姉が認知症で施設に入った。面会に行って初めて認知症が普通の病気とは違うことを知った。妻は姉のあまりの変貌におろおろするばかりで、どう接していいか分からぬまま施設を後にした。認知症の本を読み漁っても、結局、何も対応策は得られなかった。何故ならば、認知症の症状はその人の歩んだ人生によって違うからだ。傍に寄り添っている人が解けるかどうかの謎の行動だらけだ。分かったこともある。認知症は本人にとって不安と恐怖の連続だということだ。
幼い頃、何から何まで面倒見てくれたお年寄りが、普通ではなくなっていくに従って、身内から随分と粗末に扱われる光景を目にすることも多かった。龍三はそれを見てこっそり泣きもした。大人たちは、認知症になれば何もかも分からなくなるから、本人より周りが大変だと言っていた気がする。そうではなかった。一番大変なのは本人なのだ。
今頃、あのおばあちゃんはどうしているのだろう…
中学生になる孫娘の有香は、内陸線とバスを乗り継いで、やっと合川の市民病院に駆け付けた。救急車で搬送された小森町子は精密検査を受けていた。
薄暗い病院の廊下を小走りで来た有香の足が急に止まった。ステテコ姿の男が検査室の前に立って、こっちを見ている。
「ご家族の方? 自分は比立内の駐在です! …えーと、この格好はですね。誠に急だったもので…」
そこに、担当医師の徳永が現れて、有香と西根巡査の間の不穏な空気は解けた。
「小森さんの?」
「はい、孫の小森有香です」
「おばあちゃんは何度か転んでますね。右上腕骨を骨折しています。問題は頭を強く打ってることです。硬膜下血腫で…これから血液が徐々に溜まって脳を圧迫する可能性が…」
有香の心臓が俄かに暴れ出した。一所懸命、落ち着こうと頑張った。
「おばあちゃん、どうなるんでしょうか?」
「できるだけ早く手術をしたほうがいいんですが…」
「どんな手術なんでしょうか…手術をすれば、またちゃんと元気になれるんでしょうか!」
徳永医師は迷ったが、有香の真剣な眼差しに、手術の過程を説明することにした。
「大丈夫だから、落ち着いて聞いてね…手術は局所麻酔でやるので術後の負担を少なくできます。頭蓋骨に直径1センチほどの穴を開けて、脳を覆っている硬膜を開いて、溜まった血液を出してから内部に細いチューブを入れれば手術終了です」
「・・・・・」
「明日、頭部のCT写真で改善が確認できればチューブを抜きます。それから1週間ほど入院してもらって様子を見て、その後の検査で合併症などの異常がなければ退院できます」
「そうなんですか…」
「手術には同意書が必要なんですが…お父さんはまだでしょうか?」
「あの…手術の同意書って私じゃダメなんでしょうか?」
「有香さんはおいくつ?」
「14歳です」
患者が認知症などのケースで、成人に達している身内が居ない場合に於いては、家庭裁判所で法廷後見人をつける必要がある。法廷後見人は弁護士や行政書士になってもらうのだが、今その手続きの時間はなく、有香は父親の連絡を待つしかなかった。
「父が来なかったらどうなりますか?」
「えっ? お父さん、来れないんですか?」
「何度も電話してるのに連絡が取れないんです」
「お母さんは?」
「母は…数年前に…」
「そうでしたか…他に、連絡してお願いできるご兄弟とかご親戚はいませんか?」
「私は一人っ子ですし、あとは父に聞かないと…」
「そうですか…」
「あの…もしこのまま手術できないと、おばあちゃんは死んじゃうんでしょうか?」
「・・・・・」
「先生!」
「とにかくいつでも手術ができるよう準備してますので…」
手術の同意書に法的根拠があるわけではない。術後のトラブルを円滑に避ける意味でその存在は特に病院側から重要視されている。徳永医師は、手術が急を要しても父親が現れなかった場合のことを考えて、病院のケースワーカーに連絡してくれた。
一先ずバッチャを病室に移して様子を見ることになった。病室のバッチャは急にそわそわし出し、何度も起き上がろうとした。有香はそんなバッチャをなだめて何とかベッドに寝かせたが、バッチャのそわそわは一向に治まらなかった。
「バッチャ、どうしたの?」
有香が何度聞いても、バッチャは答えなかった。バッチャはまるで有香を避けるようにしている。目の前のバッチャはバッチャだけど、本当のバッチャじゃないと思うと、有香は思わず涙が溢れ出た。
民宿「シカリの宿」の龍三は、風呂でさっぱりし、夕食に向かっていた。
「龍三さん、酒っこは? 例のお気に入りの日本酒 “ またぎ一代 ”ば入れといたよ」
「去年、酒やめたんだ」
「なして! 悪さでもしたか?」
宿の主・輝幸は、今年も龍三の口に合う日本酒を準備してくれていた。龍三は輝幸の厚意に申し訳ないと思ったが、昨年暮れあたりからぴったり酒を受け付けなくなっていた。
「この年でだば、なんもでぎねでば」
「 ひば、からだ壊した?」
「 なもなも、急に飲めねぐなってな」
「んだったしかー…残念だなー…」
「輝さんがやってよ、一升瓶オレの奢り!」
「おっ、気前 えなー!」
「瓶だけね、中身は自前で頼むよ」
「あっちゃー、やられだな。したら まじ、ゆっくり食ってたもれ」
龍三にとって「シカリの宿」の膳は、この地で暮らした幼い頃が蘇る。春に採った山菜の漬け戻し…龍三は山奥にある父親の炭焼き現場によく連れて行かれた。その帰りに山菜採りを手伝った。阿仁川で獲れたイワナの酢味噌和え…夏休みが嫌だった。初恋の女の子と教室で会えなくなるし、それに、泳げるようになるためにと、父親に川に放られる。水が怖くて30代頃まで金槌だった。主の輝幸が仕留めた熊鍋や猪の燻製…小学校の裏山に隠れ家を作った。杉の香りがするといつも隠れ家を思い出す。麹で漬けた大根の鉈漬け…母を手伝って大根を一口大に切る鉈が、幼い龍三には重かった。「シカリの宿」の膳には、龍三の両親が生きていた。
ブルが吠えた。行ってみるとバッチャが歩いていた。
「おばあちゃん! こんな夜遅くに、どごさ えぐ?」
バッチャは龍三には応えず、どんどん歩いて行って比立内の駅舎に入った。龍三は夜間保線の電車に撥ねられでもしたらと、慌てて追い駆けた。駅舎に入るとバッチャが待合ベンチの前で哀しそうな顔をして立っていた。
「どうした、おばあちゃん?」
「孫に申しわげ ねふて、申しわげねふてな」
「何が申し訳ないの?」
バッチャが龍三に振り向くと、その姿がフッと消えてしまった。待合ベンチには夕方見掛けた紫陽花の花柄の買い物袋が置かれたままになっていた。龍三は跳ね起きた。
「夢…」
久々に寝汗をかいた。秋なのに蒸し暑い夜だった。ふと、夢に出て来た紫陽花の花柄の買い物袋のことが気になった。
有香の父・岳夫は国道105号線の笑内駅手前辺りで事故を起こして立ち往生していた。突然向かって来た猪に激突し、危うく横転しそうになったが、運よく態勢を立て直した。しかし、片輪が蓋のない側溝に深く嵌ってしまい、クレーンで引き上げてもらうしかない状態だった。猪は横でピクピクしていたが、すぐに起き上がってどこかへ走り去った。
岳夫は焦った。車は全く通らない上、衝突の時に携帯電話がどこかへ飛んでしまい、暗がりでは探せず、連絡の付けようもなかった。民家に助けを求める手もあるが、この辺りの民家は国道から結構離れていた。この先には国道沿いから西に抜けるトンネルがある。そこを抜けると四方が山に囲まれたマタギ発祥の
想い出は時に残酷である。岳夫は妻の
その時、やっと遠くから車のライトが見えた。行きたい方向は逆だが、事情を話せば二駅分ほど先の比立内までなら何とか戻ってもらえるかもしれないと、岳夫は道路の真ん中に立って必死に上着を振り回した。
バッチャの病室がノックされた。父かと思ったが担当医師の徳永だった。
「お父さんから連絡が入りました! 手術の同意が得られましたので、すぐに始めます」
そう言いながら、バッチャを見た徳永医師の表情が変わった。有香は俄かに不安になった。
「すぐに来ますから!」
徳永医師は慌ただしく出て行った。有香のスマホが振動している。しかし、有香はバッチャの様子に違和感を覚えて頭がいっぱいだった。
「バッチャ、なして笑ってるの?」
「空飛べるようになったもの」
「空飛んでるの?」
「んだ、ええ気持ちだもんだな」
変な会話の割にはさっきよりバッチャの頭がはっきりしている。そのことが更に有香の胸騒ぎを煽った。
「有香、ごめんしてけれな」
「なんで謝るの?」
「ねぐしてしまったもの」
「何ねぐしたの?」
「有香が けだ紫陽花の袋っこ、ねぐしてしまった」
「ずっと前の誕生日のプレゼントね。バッチャは紫陽花の花っこ好きだものな。きっと、どっかにあるよ」
「ごめんしてけれな、有香」
バッチャの目から涙がこぼれた。
「バッチャ、泣か ねで…大丈夫、どっかにあるから。有香が見つけて持って来てあげる」
「あれだば、バッチャの宝物だもの。有香が じぇんこ《おこづかい》貯めで買ってけだ宝物だもの」
紫陽花の花柄の買い物袋は、お母さんが生前に有香と一緒に探してくれた誕生日プレゼントだった。そのことを思い出した有香は、自分も泣きそうになってしまったが、堪えた。
「大丈夫、どっかにあるから」
「 おめだば《あんたは》優しくて、めんけわらしっこだな」
「バッチャの孫だもの。ねんねの時、いつも唄って けだべ」
有香はバッチャに唄ってあげた。
「♪ 目っこもバッチャ、耳っこもバッチャ…」
するとバッチャも、有香と一緒にか細い息で唄い出した。
「♪ 鼻っこもバッチャ、口っこもバッチャ、有香の面っこは、め~んけ、めんけ」
有香はバッチャの手をそっと握った。バッチャの手は白いし、細いし、力を入れると折れそうだ。そんな手でバッチャも握り返してくれた。堪えているのに有香の目からはポロポロ感謝が溢れ出てしまった。お母さんに会いたい、今ここに居てほしいと有香は思った。
「ジッチャ、来てけだが?」
「え?」
そのバッチャの言葉のすぐ後に、病室のドアがノックされた。いよいよバッチャの手術かと有香は振り向いた。ドアが開くとそこに父の岳夫が立っていた。
「お父さん!」
岳夫の後ろには、紫陽花の花柄の買い物袋を持った龍三も立っていた。到着して病室の前に着いた龍三は、名札を見て “ もしや ”と思い、岳夫にバッチャの旧姓を聞いてみた。 “ 川村 ”…川村町子とは龍三の初恋の女の子の名前だ。 いつか会いたいとずっと思っていた。やっと会える。あれから半世紀以上も経ってしまった。
そして、その初恋の人が今、目の前にいる。掛ける言葉がまとまらない龍三に、バッチャが話し掛けた。
「ジッチャ、宝物持って迎えに来てけだが?」
バッチャは少女のような表情になった。龍三は、バッチャのジッチャになって優しく頷いた。
「良かったね、バッチャ」
そう言って寄り添う有香を、バッチャはじっと見つめた。そして、その口元が愛おしく動いた。
「ゆ・か・・・あ・・・」
バッチャは大きく息を吸うと、穏やかに目を閉じた。有香と握っていた手の力がスーッと消えていった。
「バッチャ、ありがと―っ!」
有香は “バッチャ、死んじゃ駄目―っ! ”って叫んだつもりだった。バッチャは有香の声に包まれて、遠くの空に飛び立った。
♪ 目っこもバッチャ
耳っこもバッチャ
鼻っこもバッチャ
口っこもバッチャ
バッチャの面っこは
め~んけ、めんけ
〈 おわり 〉
バッチャが飛び立った! 伊東へいざん @Heizan
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