花屋の店先に並んだ

という歌詞で始まるあの有名な「世界に一つだけの花」は
よく偽善だといわれるらしい。
似たことを歌う「チューリップ」の歌詞「どのはなみてもきれいだな」は
そんなことを言われなかったのに、時代は変わった、ということなのか。
でもその時代にも変わらないものはある。

「世界に一つだけの花」が花屋さんの花、
「チューリップ」が花壇の花を歌ったものならば、
この作品は(実際にそうであるかは別として)野生の花、を描いているように読んだ。
野生の花は逞しさの象徴として扱われることもあるが、
それだけじゃないんだろう。
生きにくさの象徴でもある、とこの作品を読んで思った。
この作品には野生の花の生きにくさが描かれている。
それも野や山に咲くそれではない、町に咲く野生の花だ。

小説には現実にはそうそう起こり得ないような事件が現れ、
それは小説を読む醍醐味でもあるんだろう。
現実にはありえない不幸を読んで楽しむ、いじわるな言い方をすれば、そうだ。
でも本作に現れているそれは、等身大の形をしている。
だから同じようには読んで楽しめない。
しかし得ることが読書ならば、失うこともまた読書と呼んでいいはずだ。
それは満たされることを求めている。

反出生主義。
それ自体について、特にアイデアも意見も希望も絶望も持っていない。
ただ、作中に現れている「野生の花」の、受け継がれない姿が、同じように、
本人に起因するものではない生きづらさを宿しているように思う。
たとえば、生駒さんに、真亜沙に、鳴海さんに、潤吾に、知佳に、
子どもが生まれたとして、それは何の救いになるものではない。
それでもその未来の姿が、描かれてもいないのに作品を締める「了」の向こうに見える気がした。