オハリコヒメ

@sakamono

第1話

 カヤの部屋の机の上に待ち針が一本ころがっている。カヤは服飾の学校に通っているので部屋に待ち針やら縫い糸やらがころがっていても別に不自然なことではない。机の上には端切れも何枚か散らばっている。不自然なことではないけれど小さな頃から母親のマチに道具の扱いを厳しく躾られてきたカヤにしては、それはめずらしいことである。マチは縫製の仕事をしていて、そうした職人肌の仕事に就く人間の常通り道具の扱いには厳しかったから。

 今は真夜中でカヤはベッドで眠っている。だから待ち針の丸い頭がわずかに身震いしたことをカヤは知りようもない。窓から淡く差し込む月の光に待ち針が照らされるばかりである。身震いは次第に大きくなる。右に左に。とがった足先を中心に半円を描くように転がる。行きつ戻りつ。そんなもどかしい動きをしばらく続けた後、ついに待ち針はくるりと一回転、円を描いた。二回転、三回転と回り続け、その勢いを利用して待ち針は不意に立ち上がった。直立不動。気をつけの姿勢のようである。

 その時、端切れの下から二本目の待ち針が顔を出した。要領は分かっていると言わんばかりに、素早く回転して立ち上がると最初の待ち針の隣に並んだ。それが合図だったのか、端切れの下から次々に待ち針が現れる。やがて待ち針は数十本の群れとなり、最初の待ち針を先頭にすべるように机の上を走り始めた。机の上を何周も。走るというより泳ぐという方が適当かもしれない。群れ泳ぐ小魚が鱗を光らせて身をひるがえすように、待ち針の群れが身をひるがえすたびに月の光で針が銀色に光る。

 その様子を身を起こしたカヤがぼんやり眺めている。いつ起きたのか。寝つきのいいカヤは一度寝るとたいてい朝まで目を覚まさない。待ち針の群れは物音をたてているわけではないので、何かの気配みたいなものがカヤを起こしたのだろう。カヤは夢かうつつか判断しかねるといった表情で身じろぎをする。そのわずかな動きに待ち針全員が反応した。動きを止めて身を固くする。一拍の後、待ち針たちは一列になって猛然と駆けだした。向かう先は針刺しで、その手前で一本ずつ順番にジャンプすると行儀よく針刺しに刺さっていった。全員が針刺しに収まると後には夜中のしんとした空気だけが残った。

「ちんちんこばかま夜も更けそうろう」カヤは小さな頃に母親から繰り返し聞かされた昔話の一節を、呆けたようにつぶやくと布団にもぐり込んだ。


「走り回ってたの、待ち針が」

 翌日の夕方、バイト帰り。カヤは、バイト仲間の佐崎君と駅に向かって歩いていた。怪訝な顔をする佐崎君にカヤは急いで付け足す。

「えっとね、夢の話なんだけど」

 カヤは夕べの出来事の顛末を話した。カヤには夢ではないという確信があったのだけど本当のこととして話すのは気がひけた。それでも同い年の佐崎君とはこんな話を気軽にできる間柄で、たぶん気が合うのだろうと思っていた。もう一年、同じ職場でほぼ毎日顔を会わせているのだし。

「昨日は月が明るかったよね。僕はどこか知らない街を俯瞰してたんだ。路地を歩いてた小柄な小母さんが、立ち止まって一軒の家の窓を見上げてた」

「何の話?」

「夢の話。その窓からカヤが見えた。机の上で何かが光ってた」

「えー、のぞいてたの?」

「だから夢の話だよ」

「ふうん。あ、そういえば今日、店長機嫌が悪かったでしょ。奥さんとケンカしたんだって。小山さんが言ってた」

「おお……そっか」

 佐崎君はこの出来事についてもう少し話したい様子だったけれど、気まぐれにころころ話題の変わるカヤのおかげで、話はバイト先の店長のケンカの原因に移っていった。

「この道を通ると駅まで近いんだよ」

 店長のケンカの話、学校の課題の話を終え、今日の夕飯の話をしていたところでカヤは言った。そこは道といっても人が一人歩けるくらいの道幅で、密集した家と家の間にできた細長い空間だった。迷路のように入り組んでいて、とりあえずどこかへ抜けられるので結果的に道として機能している。そんな場所は都会の住宅密集地にいくらでもある。

「ここ分かりにくいんだよ。いつも迷いそうになる」

 佐崎君の言う通り、そこは似たような家の並ぶ見通しの悪い細い道で、曲がる角を間違えるとあみだくじ的に突拍子もないところへ出ることがある。今のような夕暮れ時は特に危険なのだった。

 頓着せずにその道に踏み入ったカヤの後に佐崎君も続く。

 迷いのない足取りで歩くカヤの足が止まったのは道なりに右へ曲がった直後、目の前に高い板塀が現れた時だった。

 行き止まりだ……どこで間違えたかな。カヤが振り向くと後ろには佐崎君ではなく小柄な小母さんが立っていた。

「あれ、行き止まりだねえ」笑顔で言う。

 小母さんはカヤより頭ひとつ分背が低く、今時見かけない白いかっぽう着姿で、これも今時見かけない赤いカラービニールで編まれた買い物かごを提げていた。買い物かごにはたくさんの麻糸が入っている。

「あんたについて行けば抜けられると思ったのに」

 小母さんはくるりとカヤに背を向けて足早に歩きだす。

「ちょっと待って! 佐崎君――男の子を見ませんでしたか?」

 カヤの声が届いているのかいないのか、小母さんの歩く速度が上がった。

 カヤが今歩いているこの道、実はほんの少しだけ下っている。人が気がつかないくらいのわずかな傾斜で、歩いているとそうとは知らないうちに自然と早足になる。そうしたわけで小母さんは今や転がるような小走りになっていて、そして徐々に縮んでいくように見えた。追いかける格好になったカヤは、最初は目の錯覚だと思っていたけれど、打ち捨てられたように置かれた錆びた三輪車の横を小母さんが通り過ぎた時、小母さんがその三輪車にジャストサイズに見えた。

「ちょっと小母さん、縮んでるよ!」カヤは叫んだ。

 小母さんはますます小さくなりながら角をひらりと左へ曲がった。

「縮んでる! 縮んでるって!」

 自分でも何を言っているのか分からない。小母さんの姿が見えなくなって焦ったカヤは慌てて自分も同じ角を曲がった。その途端――

「冷たっ」

 カヤは水に足を突っ込んだ。

 水たまり? にしてはちょっと深い。

 恐る恐る顔を上げたカヤの目の前は広々とした湖で、見慣れない生き物がちょこんと立っていた。いや、よくは知らないけれど図鑑で見たことあるぞ、カヤは思った。イタチじゃないしカワウソでもない。ハクビシンでもない。あの特徴的な口元……そうだ、カモノハシ! ようやく思い至った時、カヤはカモノハシが赤いカラービニールで編まれた買い物かごを提げていることに気がついた。

「小母さん?」

 そうつぶやいたカヤにカモノハシがにっこりと笑いかける。振り返ると深い森で、自分が今走ってきた路地はどこにも見えなかった。

「人手が足りなくてね。手伝って欲しいの」カモノハシが言った。

「しゃべったーっ!」

 驚くカヤに頓着せずにカモノハシは続けた。

「私たちは水に潜って食べ物を得たりもするけれど、元々は陸に棲む者なの。居心地のいい水辺で暮らせるのが一番で、この湖は条件がぴったりだった」

 何を聞かせられるのだろう。カヤは身構えた。

「それがこの十年ほどで湖の水かさが異常に増えてしまって。周りの森にあふれた水は草木をダメにしてしまったし、寝床も水浸し。今では多くのカモノハシが木の上に巣を作ってる。まったくカモノハシが木の上で寝るなんて!」

 カモノハシは自分を落ち着かせるように少し間を取った。

「水はまだ増え続けてるの。今私たちはこれ以上の浸水を食い止めようとしてる。見て」

 指差す先には別のたくさんのカモノハシがいて、水辺を埋め立て土を高く盛っていた。土手を作っているのだ。

「私にもあれをやれ、と?」

 くらくらする頭を抱えてカヤはやっとの思いで言った。

「違うの。あなたには腹巻きを作って欲しいの」カモノハシは言う。「この作業でみんな長い間水につかってるから冷えてね。体長を崩す者もいて、まず防寒対策を立てないと」

 理路整然と説明されてカヤにも理性が戻ってきた。

「いくつか聞きたいのだけど。ここはどこ? 私がちが通ってきたあの路地はどこに消えたの? それと佐崎君は?」

「ここはカモノハシの棲むところ。あの路地はあなたがなすべきことをすればまた現れるはず。それとあの男の子はミソサザイの棲むところにいると思うわ。そっちに縁のある顔してたし、ドブにはまって私たちと逆方向に流されてしまったから」

「ミソサザイ?」

「そういう鳥。昔から揉め事があってね。彼らとはずっと対立してるの」

「カモノハシの国とミソサザイの国で争ってるの?」

 カヤは少しだけ不安になって聞いた。

「クニというものはよく分からないけど……争うといっても、私たちの毒針をお見舞いするようなことはしないわ」

 分かるような分からないような。そんなふうに思っていたカヤは、ドブにはまった佐崎君の間抜けぶりも手伝って、質問を続ける気力も萎えた。

「水を一杯ちょうだい」

「目の前にあるこの水を好きなだけ飲むといいわ」

 カモノハシが胸を張って応えるのでカヤは小さくため息をついた。


 翌朝カヤが目を覚ました時、寝床として案内されたほら穴の天井が目に入った。授業で使う布が鞄に入っていたのでカヤはそれを体に巻きつけて一夜を明かしていた。昨晩カヤは夢なら覚めるはず、と思って寝入ったのだけど、夢ではないことをどこかで確信していたから、この結果に異論はなかった。まあ、そういうことですよね。カヤは思った。

「おはよう」昨日のカモノハシがやって来た。

「おはよう。あのー、カモノハシ、さん。何て呼べばいいかな?」

「名前はたぶん、あなたたちには発音できないと思うの。適当に呼んで」

「それじゃカモさん、ハシさん……。あ、ハーシーにしよう! どうかな?」

 自分のネーミングセンスに満足しながらカヤは自慢げに言った。

 カモノハシは口の中で何度か「ハーシー、ハーシー」とつぶやいて「うん、悪くないわね」と言った。

 そうしてそのカモノハシはハーシーになった。

 朝食にカヤの見たこともない得たいの知れない果物がどっさり出された。こわごわ口にしてみるとその味はマンゴーに似ていてとても美味だったので、カヤは三つをたいらげた。

 朝食が済むとハーシーがたくさんの布と麻糸を運んできた。布はジャージのように伸縮性があってウェットスーツの素材に似ていた。そういうところちゃんと考えてるんだ、意外にも。カヤは思った。でもミシンはないだろうなあ。この厚くて固い生地を縫うには「畳屋さん縫い」しかないなあ。

「ここには三百のカモノハシがいます。全員分の腹巻きを作って欲しいの。カヤのペースでいいけどなるべく急いでね」

 そう言うとどこかへ行ってしまった。きっと土木工事に加わるのだろう。私のペースでと言いつつも「急いでね」と付け加えるところがしっかりしている。

 カヤはため息をひとつついた姿勢でしばらくじっとしていた。そして「よしっ!」と自分に気合いを入れると鞄の中をかき回して裁縫道具を取り出した。針に糸を通す。

「あれ? 指ぬきがない」

 カヤがたいそう気に入っている母親手作りの指ぬきが見あたらなかった。色とりどりの絹糸で幾何学模様をあしらった細かい細工の指ぬき。大事にしている指ぬきは機能的なことだけでなく、縫い物をする時のカヤの気持ちを集中させてくれるお守りでもあった。カヤはミシンを使う時もその指ぬきをはめている。鞄の中をひと通り探してみても見つからないので、カヤは指ぬきなしで腹巻きを縫い始めた。「なくしたらお母さんに怒られるなあ」

 昼の休憩をはさんでカヤは日が暮れるまでに二十枚の腹巻きを仕上げた。このペースだと単純計算で十五日かかることになる。

「こんな生活を続けてたらダイエットになりそう」

 二日目の夜、ほら穴の中で布にくるまって横になりカヤはそんなことを考えた。マンゴーに似た味の果物ばかりを食べていたから。

「縫い終えるまで帰れないとしたら十五日間も。お母さん心配するだろうな。あ、佐崎君はどうしるんだろ」

 不安な気持ちを募らせながらも生来楽観的なカヤは、ほどなく眠りに落ちていった。

 カヤは同じペースで一日に二十枚の腹巻きを仕上げていったので五日目には三分の一のカモノハシが腹巻きをつけて土手作りに携わることができた。一日の作業が終わると腹巻きをつけたカモノハシがカヤのところへ立ち寄って、口々にその出来映えを褒めそやし、まだ腹巻きを支給されていないカモノハシは、それとなく催促するのだった。褒められれば悪い気はしないもので、カヤは早くすべてを縫い上げようと夕食後も仕事をするようになった。

「あまり無理しないでね」

 ハーシーが毎晩声をかけていった。


 十日目の朝、朝食にマンゴーに似た味の果物を食べながらカヤは仕事の進捗具合を考えた。夕食後も仕事をするようにしたので予定より早く縫い上がりそうだ。白々と夜が明け始める時間。ここ数日、夜遅くまで縫い物をしていて睡眠時間は短いのだけど気分が高揚していて早くに目が覚めてしまう。湖のほとりで対岸から昇る朝日を眺めていた。

 湖の水で顔を洗っているとカヤの目の前を一羽の鳥がすーっと横切って水辺の岩の上にとまった。スズメほどの大きさのその鳥は短い尾を立てた姿勢で小首をかしげカヤの方を見ている。そのまま岩の上を両足で跳ねてカヤの方へ近づいて来た。

「まさか……」

「毛ノナイヤツガイル」

「しゃべったーっ!」

 ここ数日、カモノハシと普通に会話していたにも関わらずカヤは自分が驚いたことに驚いた。同じ哺乳類だからカモノハシの方が受け入れ易いのかな、やっぱり。そう思うカヤだった。けれどその感覚も少々ズレている。

 驚くカヤを尻目にその鳥は「チリリリリ」と高い声で鳴きながら飛び去った

「おはよう。早いわね」起きだしてきたハーシーに声をかけられるまでカヤはその場に座り込んでいた。

「ああ、おはよう。あのね……」

 カヤは言いよどんだ。しゃべる鳥がいたの、としゃべるカモノハシに言うのはどうなんだろう?

「なあに?」ハーシーが訝る。

「『毛ノナイヤツガイル』って言われたの、鳥に」

 要領を得ない言い方だったけれどハーシーにはピンときた。

「どんな鳥? 大きさは?」

「茶色っぽくてスズメくらいで尾っぽをピンと立ててた」

「ミソサザイだわ、それ」

「あれが」

 対立しているというものだから猛禽類のような鳥を想像していたのだ。

「こんなに朝早く。きっと斥候だわ。みんなに知らせなきゃ」

 ハーシーは回れ右をして森の中へ戻っていく。

「ほら穴に隠れてて。今日は仕事はなし!」


「あんな鳥のどこが怖いのかな」

 身を隠すほどの脅威は感じられないもののカヤはハーシーに言われた通りほら穴の中に座り込んでいた。何しろここでのことはさっぱり分からない。

「どんなことになってるのかなあ」

 時々ほら穴から顔を出して辺りをうかがう。あれからカモノハシの姿をまるで見ない。すっかり昇った日が木々の間から差し込んでいて物音も聞こえない。

「よしっ!」

 気合いを入れて立ち上がるとカヤはほら穴を出て水辺へ向かった。水辺には三百のカモノハシが一列に並んで手に手に長い笹のようなものを持って空を見上げている。ミソサザイの襲来に備えているのだろうと想像はできるものの七夕に短冊を吊すようなそれが何かの武器になるのだろうか。その上カモノハシは皆、ヘッドフォンのような耳当てを付けている。敵襲に備えるというには著しく緊張感を欠く姿である。

「ハーシー!」カヤはハーシーを探した。

「カヤ!」

 ようやく見つけたハーシーもやっぱり耳当てを付けていて笹のようなものを持っていた。青々とした葉が揺れる。

「隠れててって言ったでしょ。危険よ」

「ミソサザイが襲ってくるの?」

「彼らはね私たちの築いた土手を壊してしまう。土手から枝や苔や土をくわえていってしまう。それにほら」

 ハーシーが自分の首あたりの毛をかき上げた。毟られたように円く毛のない部分があった。十円はげのように。

「どうしたの?」

「毟られたのよ、彼らに。ただ彼らに私たちを攻撃しているつもりはないらしくて、スザイを集めてるだけみたいなの」

「スザイ?」

「巣材。巣の材料。私たちの毛は防水性もあるし丁度いいのでしょうね」

 ミソサザイはここへやって来て枝や苔やカモノハシの毛を奪っていく。巣材にするために。

「マジで?」

「マジよ」

「湖があふれたらミソサザイも困ると思うけど」

「彼らには翼があるから。どうなのかしら」

 ミソサザイはバカなんだろうか。

「あんな小さな鳥がハーシーたちに脅威なの?」

「うん、彼らはね――」

 ハーシーが言いかけた時、遠くでどよめきが起こった。カヤは声のする方、そして湖の対岸を見た。対岸の空にこちらに近づいてくる黒い影があった。ミソサザイの群だ。

「カヤ、戻って」

「う、うん」

 ハーシーの緊張した物言いに気圧されてカヤはほら穴へ走った。振り返ると先陣を切って飛来したミソサザイの一群にカモノハシが笹を振るって応戦している。短い手足をばたつかせ笹を振り回すその姿はまるで奇妙な踊りのようでカヤはやっぱり深刻になれない。

 ある程度離れた場所まで来たカヤはさして身の危険も感じられないのでほら穴には入らずに大きな岩の上に座って戦況をうかがっていた。争っているというよりカモノハシがミソサザイを追い払っているだけのように見える。時々倒れ込んだカモノハシが数羽のミソサザイに毛を毟られていた。

「痛そう」

 カヤは自分の首筋あたりをなでた。

 しばらく眺めていると笹にはたかれた一羽のミソサザイがカヤの目の前に落ちてきた。目を回しているようだった。

「あの、大丈夫?」

 カヤはミソサザイに声をかけ両手でそっと拾い上げた。ミソサザイはすぐに目を覚ましカヤの顔を見上げると

「毛ガナイ!」と叫んだ。

 そのまま飛び上がりカヤの目の前でホバリングするのでしばし一人と一羽が見つめ合う格好になった。その時――

「耳をふさいでーっ!」誰かの声がした。

 その瞬間、ホバリングしていたミソサザイが素早く身をひるがえしカヤの耳に飛び込んだ。途端にカヤは目の前が真っ暗になり意識が徐々に薄れていった。

 あ、カモノハシの耳ってあそこなんだ。薄れていく意識の中でカヤはそんなことを思った。


 自分を呼ぶ声がする。カヤはぼんやり思った。意識が次第にはっきりしてくる。でもとても不安だった。目を開けているのに何も見えない。真の闇。

「――カヤ」

「誰? その声、佐崎君?」カヤは声のする方へ話しかけた。

「そうだよ」

「佐崎君! あれからどうしたの? どこにいたの? ここはどこ? もしかして私たち、死んだの?」

「いっぺんに聞かないでくれ」

 憮然とする佐崎君に、それでもカヤはとてつもなく安心した。見知った人の声を聞くことがこんなにもホッとするものだったなんて。状況はあまり芳しくないのだけど。

「あの時僕はドブにはまってミソサザイの国に落ちた」

「何でドブにはまったの?」

「話の腰を折るなよ。僕はミソサザイの指図で穴掘りしてた。湖からあふれてくる水をよそへ逃がす水路を作ってたんだ」

「そっちも水害に困ってたの? だったら何で土手作りのジャマをするんだろう」

「カヤの言う通りなんだけど理屈通りにはいかなくて。ミソサザイにジャマするつもりはないみたいなんだ。そうせずにいられないってところなんだろうな」

 普通のことのように話すけれどさっぱり話が飲み込めない。カヤは話題を変えることにした。

「それじゃ、私たちは死んだの?」

「カヤはミソサザイに耳に飛び込まれたんだろう。彼らは生き物の耳に飛び込んで魂を抜くのが特技みたいだよ」

「て、ことはやっぱり……」カヤの不安が戻ってくる。

「死んだわけじゃないよ。あの世とこの世の境ってところかな。あの路地とこの世界の中間と言ってもいいと思う。そのうちに戻れる機会が来るよ」

「何でそんなことが分かるの?」

「聞いたんだ、ミソサザイから。それと縁あって親からも少し」

 そう言われてもやっぱりカヤは釈然としない。

「まあとにかく、とりあえずはここから抜け出さないと」

 佐崎君はきっぱりと言った。

「そういえば、佐崎君もここにいるってことは」

「そう、僕もミソサザイにやられた。ちょっと彼らの気に沿わないことを言ってね」

「案外短気なんだね。何て言ったの?」


 ちょっと油断してたんだな。彼らの仕事を手伝うのは体を動かすから毎日たくさんの汗をかく。夕方に仕事が終わると川に飛び込む。それから夕食に果物を食べた。マンゴーみたいな味がした(「あ、それ知ってる」とカヤが言った)。それで心地よい疲労感でぐっすり眠れるんだ。そうすると仕事が楽しくて。仕事自体より体を動かす楽しさかな。彼らと気軽に話もするようになった。で、たぶん彼らのタブーに触れてしまったんだ。


 カヤは闇に目を凝らして佐崎君の表情をうかがおうとした。けれどやっぱり何も見えない。


 僕はこう言ったんだ。「カモノハシのジャマはしない方がいいんじゃないか」って。その時周りにはたくさんのミソサザイがいたんだけど、一瞬で空気が変わった。凍りついたというか。それで僕はタブーを口にしたんだと理解した。だからその後、一斉にミソサザイに飛びかかられても「ああ、やっぱり」という気分だった。


「襲われたの?」

「あんな小さな鳥でもたくさんいると怖いね。口々に『カエレ! カエレ!』と叫びながら襲ってくる。僕は丸くなって頭と顔を守ってたんだけど、そのうち一羽に耳から飛び込まれた。後はカヤと同じ」

「分からないな。私もそう言ったと思う」

「ミソサザイには彼らなりの歴史があって、その中で積み重ねられた文化や慣習があってそうした中からタブーも生まれるだろう。そんなものの中には僕らのような異邦人には理解し難いものもあると思うんだ」

「よく分からないけど感心した。意外といろいろ考えてるんだね」

 カヤはにっこり笑ってみせたけれどもちろんその笑顔は佐崎君には見えない。

「で、何で元に戻れるの?」

「ミソサザイは『カエレ! カエレ!』と言ってたよね」

「はあ」

「そしてこの状態なわけだ」

「はあ」

「……」

「根拠それ?」

 カヤは半ば呆れてさっき抱いた「佐崎君を見直した気持ち」をこっそり取り消した。

「大丈夫。根拠はなくても自信はある。なぜなら彼らは誇り高い『森の王』だから。無碍に人を傷つけることはしないよ」

 相変わらず言っていることはよく分からないけれど佐崎君に自信たっぷりに言われるとカヤは妙に安心した。

「あ、きっとあれだ。来たぞ」佐崎君が言った。

 そう言われてもどこを見たらよいのか。カヤが適当に首を巡らすと遙か彼方に小さな光の点が見えた。「何だろう」

 カヤは光の点を見る。上下左右は分からないけれどそれは感覚的に足元のように思われた。次第に近づいてくる光にじっと目を凝らしているとそれがバスケットボール大の丸い玉だと知れた。玉は近づくにつれ速度を上げカヤの横をそのまま通り過ぎた。その時カヤは玉の後ろに銀色に輝く金属の棒が付いていることに気がついた。

「待ち針?」

 それはカヤの背丈ほどもある待ち針だった。通り過ぎた待ち針を茫然と見送るカヤの横を二本目の待ち針が通過していった。足元には小さな光の点が無数に見える。

「あれが全部待ち針?」

 カヤが不思議な気分で見つめていると佐崎君の声がした。

「あれにつかまるぞ」

 今までどこから聞こえてくるのか分からなかった佐崎君の声がいきなり顔のすぐ近くで聞こえた。隣に人のいる気配がする。

「次、来たぞ」

「マジ? 自慢じゃないけど運動神経は……」

 カヤはふわりと肩に腕がまわされしっかりつかまれるのを感じた。そしてそのまま前へ押し出される。カヤの目にみるみる大きくなる光の玉が写った。

「!」

 カヤは必死でその玉にしがみつく。その拍子にしたたか下アゴを打ちつけた。

「あたた……」という声を残してカヤは急上昇していった。


「痛いなあ、もう」

 アゴをさすりながら目を開けるとカヤはバス通りに立っていた。迷路のような路地に入った時に抜けようとしていた道だ。振り向くと路地の出口があった。佐崎君が手を振って歩いてくる。辺りはすっかり暗くなっていた。

「あのさ……もしかして同じ夢を?」カヤが笑った。

「たぶん」佐崎君も笑った。そして「はい、これ」と手を差し出す。

 カヤは不思議そうな顔で手渡されたものを受け取る。それは色とりどりの幾何学模様をあしらった細かな細工の指ぬきだった。

「これ、どこで」

「さて、どこでしょう」

 怪訝そうな顔をしていたカヤだったけれど大事な指ぬきが見つかったうれしさが次第に顔に広がってきた。そしていたずらっ子のような顔をすると指ぬきを左手の薬指にはめて言った。「ありがと」

 その時佐崎君は東の空に昇ったばかりの月を見上げていたのでカヤの左手を見ることはなかった。

 月が煌々と青く路地を照らしていた。

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