蝉と蟻

百戸喜智

蝉と蟻

 夕暮れの中、一匹の蝉が鳴いている。

 ――喧しいな。

 辰吉は眉を顰め、心中で毒づいた。

 額に汗を浮かべ、精悍な顔を歪めているこの男は、堺の砂糖商家巽屋の手代・辰吉である。今年で十七になる。商才を店主に見込まれ、若くして手代に引き立てられたのだ。

 そんな将来有望な手代は、羽織が汚れるのも構わず、鬱蒼と草木の生い茂った雑木林で人目を避けるように腹這いになっていた。辰吉の双眸は、木々の合間からわずかに覗く二人の男女を捉えて動かない。

 二人は辰吉のよく知る相手だった。

 男の名は、六松。辰吉と共に丁稚入りした男で、辰吉にとって同じ釜の飯を食ってきた無二の友である。目尻がやや垂れ下がった六松の顔は、彼の温厚な気質がよく表れている。口数の少ない六松は、辰吉ほど機会に恵まれず、未だ丁稚のままであった。現在の彼の表情は固く、しきりに周囲を見回している。

 その原因は、六松の腕に抱かれている女にあった。巽屋の一人娘、おねである。

 商家において、娘という存在は神聖視される。それは、商家が優秀な婿を取ることで家系を保っていたからであった。加えて、娘の婚姻には父たる店主のみに留まらず、株仲間の許しを得る必要があった。商家における婚姻とは、商いに強く影響を与えるものであり、私的なものではなかったのである。

 その娘を、給金もなく、結婚のできる身分でもない丁稚が抱き留めている。

 辰吉の前に広がる二人の姿は、とても許されるものではなかった。そして、おねの父親――店主も、それを許していなかった。

 ――ああ、喧しい。

 蝉がけたたましく鳴いている。

 辰吉は歯噛みした。

 おねの婚約相手が決まったのが、昨晩。夜明け前には、おねと六松が姿を消していた。丁稚だけではなく、手代の辰吉にまで二人の捜索が命じられた。

 しかし、辰吉に与えられた命は、他の手代に与えられたものとは異なる。辰吉と六松の間柄を、店主が知らないはずはなかった。

 誰かが言う。金のない丁稚が駆け落ちしても後がない。金の当てでもなければ、そんな危険を冒すはずがない、と。要するに、友人の辰吉が金の工面をしたのだと思われていた。

 辰吉はそれを聞いたとき、鼻で笑った。

 ――あれは人を頼らない、意固地な男だ。

 事実、何の相談もなかった。六松とおねの駆け落ちを辰吉が知ったのは、日が昇ってからだった。とはいえ、周囲はそう思ってはいないようだった。辰吉は拳を固く握り締めた。

 六松の人柄が理解されていないのは、彼の口下手が災いしていた。もっとも、おねは違ったようであったが。

 ――それはそれで災いか。

 口の端を吊り上げ、辰吉は自嘲した。

 二人を連れ戻さなければ、これ以上の出世は望めない。おねの婚約相手は、他所の商家の番頭だった。辰吉が協力したか否かの真偽はどうであれ、巽屋としては示しをつける必要があった。

 辰吉は、己の腹の底で、濁った感情がとぐろを巻いていることに気付いた。額の汗を拭うため、わずかに視線を下ろした。すると、それが辰吉の視界に入った。

 蟻である。

 二匹の蟻が、蝉の羽を持ち上げ、辰吉の前を横切ろうとしているのだ。

 辰吉の脳裏に、幾年も前の情景が蘇った。

 蔵がある。大切な砂糖を蓄えておくための、蔵である。その蔵に、まだ顔に幼さの残る二人の丁稚が、荷を運び込んでいた。一方は小柄で騒々しく、もう一方は大柄で大人しい。二人は同じように体中から汗を流しながらも、足を止めない。

 小柄な丁稚が言った。

 ――いつか、おれはのれんを分けてもらうんだ。店主がおれで、大番頭はおまえだ。

 大柄な丁稚は何も答えなかった。振り返り、視線を合わせ、ただの一度、頷いただけだった。その丁稚は、何も言わずに頷いたことは絶対に守る男だった。

 蝉の叫び声は、いつの間にか途絶えていた。

 辰吉が再び視線を上げると、六松と目が合った。

 ゆっくりと辰吉は立ち上がった。おねが辰吉に気付き、狼狽した様子で六松に縋りついた。辰吉は二人の間に木々を挟んだまま、それ以上近づこうとしない。

 不意に、辰吉が懐から巾着袋を取り出し、六松の方へ放った。

 六松が片手でそれを受け止めると、金属同士の擦れる音が響いた。六松が辰吉を見た。

「十倍にして返せ」

 六松は何も答えなかった。ただの一度、頷く。

 雑木林の中を、そよ風が駆け抜けた。そこには、草木のざわめきと、一人の手代だけが残った。

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蝉と蟻 百戸喜智 @kakinasaiyo

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