第5章 この悲しみを取り除いてくれる王子様なんかいないし、壁も剥がれて鏡が割れ、獣は死に絶えた

     1


 病室で眼が覚めた。

 朝の5時。

 まずい。行かないと。

 キャンバスの時間だ。

 つながっている管を引き抜いて、ベッドから降りる。

 靴がない。

 スリッパでいいか。

 よく知ってる病院で助かった。

 帰り路がわかる。

 門は開いていた。

 雪が溶けたので血痕はなくなっている。

 地下への扉も開いている。

 いつも通り衡宜たいらぎの部屋に入る。

「遅かったね」衡宜が背を向けて立っていた。

「ごめん」

「お前もういいよ」

 服を脱ごうとした手が止まる。

 アズマさんの顔がよぎった。

 違う。

「遅れたのは謝ります。でも」

「だからもういいんだって」

 木製のベンチの上。

 なんだ。

 それは。

 だれだ。

「ああ、これ?」衡宜が振り返る。「あまりに遅いから代用」

 黒い髪が見えた。

 衡宜がひっくり返す。

 毒々しい絵の具が塗られた、それは。

「ちょっと眠ってもらってるんだ」

「アズマさん!?」駆け寄る。

 触れようとした手を払われる。

「触らないでよ。まだ乾いてないんだから」

「生きてますよね?」

「なんでアズマさんを殺さないといけないの?」

 胸は微かに上下している。

「僕が代わるから。そもそも僕の役割です。アズマさんを解放して下さい」

「なんで?」

 なんで?て。

「アズマさんを巻き込む必要なんかない。僕が、代わります。僕が」

「時間に遅れてくるやつなんか要らないよ」

 そこで。

 眼が覚めた。

 機械の音。

 液体の音。

 寝息。

 カネに物を云わせた個室なので家族も泊まれるように他にもベッドがある。

 隣のベッドに黒い頭が見えた。

「アズマさん?」

 起きない。

 起こすのも忍びない。

 生きてるならそれで。

 時計を確認する。

 深夜3時。

 日付けを確認する。

 あの日から三日経っている。

 カネに物を云わせた個室なので浴室が付いている。

 シャワーを浴びる。

 身体が冷えたので湯船に浸かる。

「この三日で何があったか知りたい?」カーテンの向こうから声がした。

「すみません。起こしてしまって」

「いいよ。いろいろあって寝れないし」アズマさんが息を吐く。「麿坂マロサカはずっと昔に社長に条件を出してたんだ。代わりのキャンバスが見つかったら、衡宜をまともな世界に連れ戻して、後継者にするってね。お前殺されそうになったろ? 僕も殺されかけた。昨日葬式したよ。たぶん、衡宜を燃やした」

「麿坂は生きてるんですか」

「逃げたか、自分で死んだか、社長かお前を殺そうとどこかで狙ってるか」アズマさんが息を漏らす。「背後に注意した方がいいよ。僕も気をつけるし」

 半分冗談で、残りが本気だろう。

 カーテンを開けた。

 アズマさんの眼の下に隈があった。

「なんだよ」

「僕が殺されないように見張っててくれたんですか」

「そう思いたいならそれでもいいよ」

 僕が服を着るまでの間、アズマさんはベッドに座ってタブレットをいじっていた。

 フットランプしかつけていなかったので、アズマさんの顔だけ薄ぼんやりと明るい。

藤都巽恒ふじみやヨシツネを買った」

 息が詰まる。

 喉の異物感。

「なんか云えよ」

「欲しかったからですか、それとも、僕への当てつけですか」

「どっちでもないの、わかってるだろ? 義弟への嫌がらせに決まってる」

 買った理由なんか実はどうでもいい。

 あんな問い、正気を保つために口走った意味のない音にすぎない。

 買った?

 彼は買えるのか?

 見せびらかすための非売品じゃないのか。

 何があったんだろう。

 何かがあったのだ。僕の知らないところで。

「お前が聞きたいのは、抱いたかどうかだろ?」

 シーツの端を掴む。

 アズマさんがこっちを見た。

「いまのとこ僕のだし、どうするかは僕の勝手だよ」

「こっちにいるんですか」アズマさんの元に。

「近いうちに呼ぼうかと思ってる。一泊くらいはさせられるだろ」

「呼んでどうするんですか」

 アズマさんがあきれたような顔をする。「だから、僕の勝手だろそんなこと」

「アズマさんは、巽恒をお気に召してるわけじゃないんですよね?」

「お気に召してたらどうするわけ?」

「それは」

 どうにもできない。

「やっぱお前そうゆう顔いいよ。これだけで買った甲斐はあった」アズマさんが手招きする。

 乱暴に押し倒される。

 顔のすぐ横のタブレットが眩しい。

 眼を細めていたら目尻を撫でられた。

「お前をヨシツネと絡ませたら失った分稼げるかな」

「巽恒を使って儲けようとすると存在を消されます。絶対にやめてください。お願いです」

「お前、自分がやりたくないからそんなこと云ってるの?」

「違います。本当です。信じてもらえないかもしれませんが、本当に」

 アズマさんの冷たい指が、僕の首筋を這う。

 画面の光が眩しくて、顔がよく見えない。

 抱いて。

 くれるだろうか。

 胸に空いた穴が痛い。

 傷を。

 アズマさんが爪の先でなぞる。

「結果的にさ、麿坂はお前を救ってったんじゃない?」

 意味が。

 わからなかったけど、口を塞がれたので呑み込んでしまった。

 眼が覚めたらアズマさんはいなくなっていた。

 代わりに、讃良ささらが病室の隅に座っていた。

「退院でしょ? 迎えに来たよ」

「朝早くにすみません」

 大した荷物はない。僕が着替えればいいだけ。

「後ろを向いていてもらえますか」

勇和いさわに会ったの?」讃良は背を向けている。

「ええ、まあ」

「私のこと、なんか云ってた?」

「いいえ、特には」

「そう」

 面識があったのか。

 それはそうか。婚約者なんだから。

 衡宜と幼馴染なら、知らないわけないか。

 ああ、じゃあ。

「ぜんぶ、知ってたんですか」

 こうなることも。

 こうなったことも。

「待ってたのに。結局帰ってこなかった。ウソツキだよ」

 退院の手続きを済ませて病院の外に出る。

「ここでいい?」讃良が云う。

「ありがとう。いろいろ」

「むしろこれから長い付き合いになるよ。改めてよろしく」

「こちらこそ」

 讃良と眼が合う。

「一個だけ聞いていい?」

「なんでしょうか」

 車椅子の老人を一人やり過ごした。

朝頼トモヨリくんのこと好きなの?」

「答えがほしいんでしたら、ええ、そうですね。想いが届く予定はないですが」

「あいつは、君を不幸にしかしないよ」

「残念ながら、不幸の定義があなたとは違うようです。アズマさんに忘れられて相手にされないことが、僕の不幸に相当します。なので、アズマさんに厭きられない限り、僕は不幸にはなりません」

 讃良は何か云いたそうに僕を見たが、溜息だけついて先に帰ってしまった。

 僕も帰ろう。

 家に帰る気がしなかったけどそこしか帰るところがないから。

 門は閉まっていた。

 鍵で開けた。

 屋敷は異様に静かだった。

 いつもは針を落としても駆けつけてくる執事も、口うるさく目ざとい家政婦もいない。

 なんで?

 人の気配がしない。

 まだ夢の続き?

 いや、そうじゃないとは思いたいが。

 地下に通じるドアが閉まっている。

 ここの鍵は持っていない。

 自室に入る。

「おかえり」社長が僕のベッドに座っていた。

 後ずさったのを社長は見逃さなかった。

 ドアから出ようとしたところを捕まえられる。

「放してください」痕になりそうなくらい強い力で握られた。

「何もしないさ。ちょっと見てほしいものがあってね」

 社長の部屋に移動する。手首は放してもらえなかった。

 壁に抜け穴ならぬ地下への階段がある。

「逃げないので放してください」

「市長の娘と結婚できるかい?」社長が力を緩めて振り返る。

 窮屈な螺旋階段。

 あの地下につながっている。

 衡宜のアトリエ。いや、もともと社長のだったのか。

「できるできないじゃなくて、そのために僕を買ったんじゃないんですか」

 政略結婚。

「わかってくれてるならいいさ。息子達が迷惑をかけたね」社長が木製のベンチに眼を遣る。

 なにが。

 のっている?

 僕じゃない。アズマさんでもない。

 とするなら。

「一番最初の状況に戻しただけだよ」社長がその白い腹部を撫でる。「私の個人的な趣味を息子に取られてしまったからね。ようやく取り返せた」

 妙に白い。

 人間の肌の色じゃない。少なくともそれは。

 生きていない。

 物体で人形。

 衡宜の形をしていた。

「燃やしたのは長男のほうさ。あれに用はない」

「僕を買ったのは、こうするためだったんですね」

 麿坂を消して。

 衡宜を手に入れて。

 僕を。

 自我の延長にする。

 社長が衡宜を膝にのせて笑う。「いままでご苦労だったね。これからは来なくていいよ」

 指が。

 僕の胸部を差す。

「キズが残ったんじゃないか。傷モノに商品価値はない」

 衡宜のキャンバスから解放されたことは喜ぶべきことなのだが。

 ああ、また。

 僕は。

 必要とされなくなってしまった。

 麿坂のアパートは空き室になっていた。

 あのときの喫茶店に入った。

 老紳士が僕を見つけて頭を下げた。

 なるほど。

「副業だったんですか」

「先日お暇を頂戴いたしましたので、晴れてこちらが専業になりました」

 気づかなかった僕の落ち度だ。

 彼は、

 執事だ。

「勇和様のご自宅はわたくしが片付けさせていただきました」

「自分で死んだんですか」麿坂は。

 執事が首を振った。「結果は同じです。あなたが、廟晏びょうあん様が正式に桓武カンム家の跡継ぎになられた」

 コーヒーのにおいがする。

 客は相変わらず誰もいなかった。

「二度と来ないほうがいいですかね」

「わたくしからは何とも」

「さようなら」

 駅に戻る道すがら、見知らぬ少女に呼び止められた。

 真っ黒の髪。

 全身真っ黒の。

 小さい顔の半分を覆う真っ黒のサングラス。

柏原氏胤カシハラうじたねさん」

 なんで。

 僕の昔の名前を知っているんだろう。

 少女から距離を取る。

「警戒なさらないで。わたくしは」

 まだ梅にも桜にも早い。

 春はだいぶ先。




     2


 ヨシツネさんが電話を耳に当てる。「あかん、出ぇへん」

「トイレとかすかね」

「用足す程度で電話置いてくかいな? 留守電ぶちこんどったらええやろ」

 サダさんへメッセージを残す。

 一泊二日留守にする、と。

「あと頼むさかいにな」

 本当は駅まで送って行きたかったが、ヨシツネさんに断られてしまった。

 タクシーが到着した。

「ほんなら」

「はい、いってらっしゃいませ」

 ヨシツネさんは、いまから朝頼トモヨリアズマのもとへ行く。

 いまのところ所有権があるとのことだが。

 これが最初で最後になるだろうと、ヨシツネさんは云っていた。

 あれから約3ヶ月。

 ヨシツネさんの体調が回復しつつある。

 それまでの辛抱なのか、そこからが地獄なのか。

「あれ? もう行っちゃった? お見送りしたかったのに」妃潟キサガタが廊下をのそのそと歩いてきた。

 大あくびを見せつけられる。

 ヨシツネさんの安眠に、妃潟が必要なくなったのはいいことに違いないが。

「もういい加減諦めてよ。僕は君の知り合いでもなんでもないんだから」妃潟が後ろを振り返る。

 屋島が、妃潟の腰に張り付いている。

 能登を連れ戻しに来た日から、そのまま居ついてしまった。大学は春休みらしいが、能登と一緒じゃないと帰らないと頑として譲らない。

 ヨシツネさんも半ば諦めて好きにさせている。そうせざるを得ないってのが本音だろう。

 あの日から。

 屋島はヨシツネさんと口をきいていない。

 妃潟が溜息をつく。「ヨシツネがいない今がチャンスだと思ったんだろうけどね、そういう問題じゃないんだよ? 僕は能登くんじゃないんだから、帰るとか帰らないとか、そうゆうのじゃないんだって、何度云ったら」

 屋島は黙って首を振る。譲る気はないってことだろう。

 もうこんな問答を何千回も何万回も繰り返している。

「とにかく離れてよ。買い物行かなきゃいけないんだから」

 屋島が頷く。一歩後ろに下がった。

群慧グンケイくん、送ってよ」

 いつもの買い出し。屋島は留守番。

 駐車場待機の間に、念のため、師匠に連絡しておく。

 妃潟が両手に買い物袋を持って車に戻ってきた。

「ヨシツネも、どうせ手放す気ないんなら、さっさと送り返すなり、殺すなりすればいいのに。邪魔でしょうがないよ。知ってると思うけど、彼が来てから欲求不満でね。ヨシツネもさすがに彼にはそうゆうの見せたくないんだろうね。どう? せっかくご主人さまがいないんだし、僕の相手してくれない?」

「冗談やめろ」

「冗談で云うと思う? ちょっとどこか寄ってこうよ」妃潟が俺の手に自分の手を重ねる。

 冷たい手。

 無視してアクセルを踏んだ。

 昼食を終えて自室で筋トレをしていたら、妃潟が入ってきた。

「朝云ってたことだけど」

 無視して腹筋を続ける。

「連絡あった? ちゃんと着いたかな」妃潟が俺のケータイを手に取って、俺の上に座った。「君のとこにもないとなると、実はあんまマメじゃないよね。それともそんな暇ないくらい盛り上がっちゃってるかな」

「どけよ。重しにもならねえ」

「意味ないならのっててもいいじゃん。部屋にいるとあの子がうるさくってさ。家事してても周りちょろちょろしてくるし、ちょっと避難させてよ。気も休まらない」

 ただ座ってるだけならいいか、と思って放置しておいたが、気のせいじゃない。

 明らかに体重をかけてきている。

「君だって相手してもらってないでしょ? ストレス発散の一つだと思ってさ」妃潟が上体を傾ける。「大丈夫だよ。ヨシツネには黙ってるから」

「やる気ねえよ。発散も要らねえ。退け」

「怖い顔するね。そもそもの顔はこっちなのかな。爪も牙も引っこ抜いて、役に立つかわからない力のほう育てて、触われる見込みのない華を眺めてる。この一年、虚しくなかった? 得られるものはあった?」

「怒らせたいなら無駄だ。やってんのは身体の強化だけじゃねえんだよ」

「ふうん」妃潟が顔を離した。「じゃあ勝手にやらせてもらうけど、問題ないよね」

 押しつけてくるだけならまだ無視できたが、ファスナを下ろして直で触ってきた。

「動じないでね。そうゆう鍛練してるんでしょ?」妃潟が口を開けて深く咥える。

 唾液の絡まる音がうるさい。

 屋島に見られるわけにいかないが、いっそ気づいて止めに来てくれればいいのに。

「そろそろ?」妃潟が舌を出しながら云う。

「溜まってんじゃなくて、俺に嫌がらせしたいだけだろ。いい加減やめろ」額を押しのけた。「痛って」

 離し際に先端を噛まれた。

 唾液の糸が伸びて切れる。

「へえ、いいの? むしろこんな中途半端で」妃潟が勿体つけて口の周りを舐めた。「どうせ自分で抜くんなら、僕がやったって同じだと思うけど」

 言葉じゃ埒が明かないので、振り切って部屋から出た。

 すぐ後ろに気配。

 飛びのいて距離を取る。

 襖を背に、白く長い髪の男がいた。

「どーもー?」男はべろりと赤い舌を出して嗤う。

「誰だ」

「はじめましてで悪ィんだけど、ゲッスーなら罠にはまって逆さ吊りしちゃってっよ?」

 師匠はいつも岩場を突っ切って塀を乗り越えてくる。

 そのルートを知っててかつ、師匠を手玉に取れる実力。

 背筋がぞくりと冷えた。

「誰だって聞いてる」

 部屋から出たばっかの俺の後ろにいた?

 なんで?

 どこから来た?

「ゲッスー如きの弟子だかの身分で俺と戦ろうって? 命の無駄遣いっつーんだよ」

 速い。

 狭い廊下を効果的に使って、俺を床に貼り付けた。

 何をされたか気づく前に。

 あの世に逝ってる。

「はいはーい、抵抗おしまいちゃん。キサっちの生き映しくんにちょいっと用があってさ。ちゃんと返すから。ああ、ニンゲンの形してっかどうか保障できねーけど?」

 動かそうとした筋肉を先読みして止められる。

 足、手、肩。

 俺の部屋だ。

 俺の部屋にいたのは。

「妃潟! 逃げろ、能登!!」

「だいじょーだいじょー。いまごろ車ン中でおねんねだっての」上から声が降ってくる。

 白い髪が光で反射する。

「なんもしなきゃなんもしねーからよ。大人しくしといたほうが身の為よ?」

 果たして云う通りにして約束を守ってもらえるタイプだろうか。

 妃潟を攫った?

 俺が部屋から出てすぐ。

 て、ことは、一人になるのを張ってたてことか。

 悲鳴も物音もなかった。

 どっちも出ない方法で、窓から入ってきたってことか。

「あー、ツネちゃん留守なんだっけ?」

「知ってて来たんだろうがよ」

「どーだかね。いたっていなくなって、生き映しくんにはご同行願ってたけどね。床に貼り付いてるニンゲンの数が増えるだけよっと」

 やっと男が俺の上から退いた。

「妃潟、じゃない、能登をどこにやった?」ヨシツネさんがいないから能登と呼んでもいいだろう。

 ヨシツネさんの前では、

 あれは、

 妃潟だ。

「そーゆー名前なわけね。ふんふ、ふん」白い髪の男がこっちを見る。

 間合いが。

 広すぎる。

 男の意に反する動きを一ミリでもしてみろ。

 次の瞬間、自分が息をしているか自信がない。

「俺の主人がやろうとしてっことがあってね。詳しくはヒミツだけど、ツネちゃん帰ってくるまで待ってていい?」

「ダメつっても居座んだろ。それにここは俺んちじゃねんだよ。ヨシツネさんに許可取ってくれ」

 ヨシツネさんにかけた電話がつながらない。



     3


 朝イチで、支部に知らない女がやってきた。

 ショートの黒髪。喪服みたいな上下。

 少なくとも客の顔をしていない。

 3月末は時期的に忙しいが、支部で管理してる物件はそこまで多くないので、いつもどおり俺と事務員だけで捌き切れる。

「ご指名よ」事務員の奥陸オクリクが目線を寄越した。

「支部長の岐蘇キソです。どのような御用向きで?」

「弟のことで少しご相談がありますの」女が云う。「朝頼トモヨリアズマは私の弟ですわ」

 朝頼アズマの姉か。

 確かに貫禄というか圧力が並みでない。

「こちらにどうぞ」応接室のドアを開ける。

「秘密のお話ですの」

 またこの展開か。

「実は、ビル全体に穴が空いてまして」朝頼アズマの眼と耳があることを暗に伝えた。

「じゃあデートしていただける?」

 奥陸が小声であら、と云った。

 あらじゃない。

「申し訳ありませんが、今勤務時間中でして」

「家族行事よりお仕事を優先なさるのかしら? KREクレの福利厚生に一言ご助言したほうがよろしくて?」

「御用向きは本当に家族行事なんですか?」

 客が来たので中断になった。

 朝頼姉は根気強く壁際のソファで待っている。

 客は鍵を取りに来ただけだったので、入れ違いで再度攻撃が開始された。

「手が空きましたでしょう?」朝頼姉がカウンタ越しに身を乗り出す。「義姉の私の相談には乗っていただけない?」

「そうは云っていません。現在業務中でして」

 頼むから面倒事を持ってこないでくれ。

 朝頼姉が支部に突撃したことはすでに朝頼アズマの耳に入っている。

 桓武建設御曹司のときの二の舞だ。24時間俺を監視中の朝頼アズマが口を挟んでくるに決まっている。

 それが一番厭なんだ。

「ご心配なく。アズマさんならお客様の応対で忙しいの。来やしませんわ」

 いや、来なくたって録画でこの状況をあとで知るだろう。

 それが嫌なんだって。

「ですから、デートしましょうとお伝えしてますわ」

 なんだそういうことか。

 逆立ちしてもデートなんか誘わなさそうな女がデートとか云ったから吃驚した。

 ケータイは例の件があってから機種変したので、俺自体に耳が仕掛けられている可能性はもうない。

「あの、奥陸さん」

「なによ、キモチワルイわね。行ってきなさいよ」奥陸が手で追い払う。「支部長ご指名のアポがないんならいいんじゃないの? つまるところ、本社の呼び出しみたいなもんでしょ」

 朝頼姉にKREをどうこうする権利はない。

 でも、行かないともっと面倒になりそうな予感がひしひしと。

「すまない、ちょっと外す」

「最初からそのご返答が聞きたかったですわ」朝頼姉が満足そうに頷く。

 しかし、行き先が。

 朝頼姉の自宅とはこれ如何に。

「そちらにかけて下さいな」ソファに案内される。「緑茶と紅茶、どちらがよろしいかしら」

「いえ、特にお構いなく」早めに切り上げたい。

 部屋の至る所にある、見たことのない種類の観葉植物が気になる。

 小、中、大、特大。

「アズマさんのことですけど」朝頼姉が対面に座った。

 結局紅茶にしたようだった。テーブルに置かれる。

「何か、嫌がらせを受けていませんこと?」

「それを義姉さんにお伝えすることで、嫌がらせが改善されるのであればいくらでも」

 朝頼姉が紅茶を口に含む。

 ソーサに戻すまで待っていた。

「単刀直入に申しますわ」朝頼姉が云う。「アズマさんは、次期総裁に指名されていますの。いまはまだ、次期ですけれど、万一、総裁の身に何かあればすぐにでも、お鉢が回ってきますわ」

「総裁に死相でも出てるんですか」

「まあ、歯に衣着せない方ですのね」朝頼姉が上品に笑う。「さすがに死相はわかりませんけれど、もう一つ、総裁を合法的に引きずり下ろす方法がありますの。不信任決議ですわ」

「はあ、義兄さんは近々総裁になるわけですか。地獄ですね」

「地獄は同感ですわ。ですけれど、それを防ぐ方法が一つだけありますのよ。協力していただきたいの」朝頼姉が両手を広げる。「不信任決議は、反対票が10票以上あれば無効になりますわ」

「俺にも権利があるんですか?」白竜胆シロリンドウ会の信者でもないのに。

「あなたは私の弟ですのよ。総裁の息子でしょう?」

 それはそうだが。

「もし俺が義兄さんの立場だったら絶対文句云いますよ? 部外者のくせにって」

「よかった。まだアズマさんから聞いていませんのね」朝頼姉は構わず話し続ける。「総裁の子である私たちは他の信者の方と違い、一人5票持ってますの。義弟のあなたが私に味方していただけたら、何ら問題ありませんわ」

「血縁ボーナスがあるなら、俺じゃなくて」

 朝頼アズマは4人きょうだいだ。

 他のきょうだいに云ったほうが確実だろうに。

「マズルさんは、アズマさんに殺されたも同然ですの。サズカさんも私には懐かず、アズマさんの云うことばかり聞く。おわかりかしら」

 よくわかった。

 朝頼姉に味方がいないことが。

「義姉さんに協力者が必要なことはわかりました。しかしですね、義姉さんに協力する利点が今のところ俺には見当たらない」

 それにまず前提として、朝頼アズマに逆らうとあとが面倒くさい。

 朝頼姉がもう一口紅茶をすすった。「どうぞ?」

「なんか入ってるでしょう。義兄さんの姉なら、充分やりそうな感じなんですけど」

 カップが落ちた。

 のを眼で追った。

 隙に、義姉が倒れかかって来た。

 お陰でよけるタイミングを見失った。

「何のつもりですか?」手の遣る場所に気をつける。「ご気分でも?」

「あなたの5票をどうしてもいただきたいの。そのためならどんな手でも使いますわ」

 どんな手とかいうとんでもない手で。

 なんつーとこをまさぐってるんだ。

「申し訳ないですが、愚策ですよ。俺のことをあまりご存じないようですからお伝えしますけど」

「ええ、知ってますわ。でもそんなことどうだっていいことですのよ」肩に腕が回される。「私が女で、あなたが男ならそれで」

 ちょっと待て。

 なんだこの見たことしかない展開は。義兄も大概ならその姉も大概すぎる。

 引き剥がすにしてもなんでこんなにべっとり貼りついてくるんだ。とりもちかこの女は。

 もがいてソファから落ちる。後頭部は守ったが朝頼姉が全体重に重力を味方につけやがった。

 やばい。

 これなら朝頼アズマのほうが一億倍もマシだ。じっと耐えてれば終わる。

 でもこっちはじっと耐えてるわけにいかない。

 何を犠牲にしても最後までやるわけにいかない。

 突き飛ばして床を転がる。観葉植物の鉢に頭をぶつけた。

 痛いが。めっちゃ痛いがそんな場合じゃない。

 逃げないと。

「あなたもアズマさんの味方をしますのね」朝頼姉が云う。前髪の間から黒い眼が見えた。

「味方も何も、ご存じの通り、俺は義兄さんから脅迫を受けているわけでして」

「どうして、誰も私の味方をしてくれないの?」朝頼姉が床に座って泣き始めた。

 脅しは脅しでも、泣き脅しか。

 このきょうだいは揃いも揃って、俺に嫌がらせすることしか考えていない。

「あの、帰らせていただきますね」早足で玄関に向かう。

 電話が震えた。

 こんなときに誰だ。

 表示を見て端末を落としそうになった。

「生きてはる? ほんならね」ツネからだったがたったそれだけ云って。

 切れた。

 かけ直しても、電源が切れてる云々でつながらない。

 何があった?

 生存確認にしては一瞬すぎる。こっちは一言も喋ってない。

 電話がつながるかどうかだけ確かめたかったのか?

 俺の電話がつながらなくなるような状況を、ツネが予測したということなのか?

 意味がわからない。

 何が起こっている?

 支部に戻ったら、奥陸が客の応対をしていた。

 好奇の眼線を寄越されたが無視。

 何もなかったんだ。堂々としていよう。

 メールのチェックをしていたら、また客が来た。今日は客足が多い。

「いらっしゃいませ」

「どうも、支部長さん」

 誰かに似てる。誰だろう。

 背が低くて、童顔で。

「兄がお世話になってます」

「ああ、ええと? すいませんけど」誰だ。

「屋島の双子の弟です。会うのは初めてでしたっけ?」

 そうか。やっとわかった。

 屋島と同じ顔だ。

 弟は兄と違ってちゃんと喋るから記憶が結びつかなかった。

「どうされました? KREにご用ですか」

「もし勘違いだったら申し訳ないんですが、兄がどこに行ったかご存じないかと思って」

 鎌掛けか。それとも確信か。

「年末に京都に行くと云ってそれっきり、連絡が取れなくて」

「そうなんですか」

「京都ってことは、ヨシツネさんのところでしょうか」

 弟はわかってて聞いているのだろうか。そこが読み切れない。

 さすがは無表情の屋島の双子の弟だけある。

 まったく表情が変わらない。

「年末ってことは、もう3ヶ月経ちますね」俺に関係なさそうな事実だけ話そう。

 奥陸が応対していた客が帰った。

「ノリウキと連絡が取れないとか云ってたようにも思うんですが」屋島弟が云う。

「どうしてこちらに?」

 白を切り続けるのはできなくないが、屋島弟の狙いを先に知りたい。

「僕がぐーだったら、支部長さんのところに断りに来るかな、て思ったので」

 奥陸が椅子を勧めたが、屋島弟は長居しないので、と首を振った。

「何か知りませんか?」

「お兄さんから連絡は?」

「意外かもしれませんけど、僕とぐーはそこまで頻繁に連絡を取り合う関係じゃないんですよ。いまは大学が別なので一緒には住んでいませんし。そのぐーが、わざわざ京都に行くって連絡をくれてから、その後3ヶ月一切沈黙してるのが妙で。ノリウキの兄貴からも連絡もらってて。本当に何も知りませんか?」

 奥陸がお茶を淹れてくれた。客にだけ。

「支部長さん」

 まずいな。

 本当のことを教えてやってもいいが、支部には朝頼の眼と耳がある。ツネに関係する情報をむざむざ渡したくはない。

 あ、ひらめいた。

「ちょっと待っててもらえるか」

 カウンタの上を狙うカメラはないので、筆談にすればいい。

 屋島は能登と一緒にいるが、どこにいるのかは云えない。小さめの字で書いて屋島弟に渡した。

 屋島弟の顔色が変わる。

「悪いが、ここに書いてくれるか」

 兄とノリウキは無事ですか?と、屋島弟が書いた。文字に動揺が見られた。

 無事だとは思うが、俺も正月明けにこっちに戻ってきたから、それ以降は知らない。と書いた。

 屋島弟と顔を見合わせる。

 実は僕はそんなに心配してなかったんですけど、ノリウキの兄貴が病的に心配性で。警察が役に立たないからだいぶストレス溜めてるんですよ。僕にも圧力かかってたわけで。と、屋島弟が書いた。

 なるほど。

 あなたが帰ったら次は、能登兄が来ますか?と書いた。

 可能性はあります。何も知らないみたいだとは報告しておきますけど、どうでしょうね。と屋島弟が書いて苦笑いした。

 屋島弟は筆談した紙を置いてとっとと帰ってしまった。

 能登兄は来なかったが、昼休みの時間を見計らって、朝頼アズマから電話が来た。昼休みなんだから自室に戻ったっていいだろう。

「姉さんが迷惑かけたね」朝頼は明らかに笑いを堪えていた。「相手にしなくて正解。不信任決議も気にしなくていいよ。百パこっちの事情だし。ところで」

 朝頼の「ところで」ほど、嫌な予感しかない言葉もない。

「身構えなくても大した話じゃないよ。藤都巽恒をこっちに呼んだ」

 ほら、云わんこっちゃない。

 嫉妬というより、ちゃんと家に返すかどうかが心配だが。

「さっき謎の電話行ったんじゃない?」朝頼が云う。「自分の置かれた立場とかそっちのけで、他人の心配するのとかって、ほんと」

「ツネは無事なんですか」

「どうだろ。あ、お前の態度とか全然影響ないから心配しなくていいよ」

 壁のカメラを睨みつける。

「俺に教えたのは、俺がこうゆう顔になるのを期待してですか」

「それもあるけど、ちょっと面白そうなことになりそうだから、報せといてあげてもいいかな、て思っただけ。義兄さんの気まぐれな優しさって感じかな」

「次にその気まぐれな優しさをいただけるのは、百年後ですか」

「え、僕そんなに優しくない? すげー心外」

 カメラに背を向ける。

「義兄さんいま、家ですか」

「来たって無駄だよ。この件はお前関係ないんだから。大人しく真面目に支部長やってなよ」

 食い下がっても、無理矢理押し掛けても、むしろ逆効果だろう。

 何が起ころうとしている。

 何を起こそうとしている。

 これ以上、ツネを痛めつけないでほしいのが本音だが。

 敢えて口にしないほうが、ツネの生存確率が上がるような気がするのはこれ如何に。

 朝頼は俺が嫌がることを率先して選択してくるわけだから、無関心を装うのは一つの手。

 でも、その感情の抑圧ごと見抜かれているだろうからあまり意味がないのかもしれない。

「御曹司は知ってますか」

「なんでたいらに云わないといけないわけ?」朝頼が莫迦にしたように吐き捨てる。「ああ、巽恒を僕が構ってるから、あいつの嫌がる顔が見れるね。そうゆうこと?」

 御曹司はこの件は無関係か。朝頼の独断ならいつも通りで逆に安心する。

 音は、朝頼の声のみ。静かな環境で電話をかけているということか。本当に朝頼の自室なのか。

 近くにツネがいるのか。

 朝頼の側にツネを殺すメリットはない。

 壊すメリットならあるかもしれないが。

「昼休み終わるよ。じゃあね」朝頼からの突然の電話は唐突に切れた。



     4


 黒の学ラン姿を見慣れていたせいか、似合いすぎる和装が逆に浮いて見える始末。

 藤都巽恒を出張させて、白竜胆会本部の地下に連れて来た。

 地下は総裁の縁者以外立ち入り禁止で、総裁の執務室と、マチハ様の私室と、預言者の部屋と、僕ら4人きょうだいの宿泊用個室がある。

 自宅だと邪魔が入るかもしれないし、壁だってそこまで分厚くない。僕は本当は自宅に他人を入れたくない。たいらは僕の身体の延長みたいなもんだから気にならないけど。

 ニンゲンはひどく気持ちが悪い。

 絡みつく正への力動が果てしない吐き気を催す。

 義弟への嫌がらせの電話を切って部屋に戻る。巽恒はケータイを持って室内をうろうろしていた。

「なあ、電波どないなったはるの?」

「ここ地下なんで、むらがあるんですよ」僕はベッドに腰掛ける。「そんなに義弟が心配ですか」

 危機を察知した巽恒が僕の眼を盗んでこっそり連絡を取ったのが、まさかの義弟。

 てっきり。

「妃潟さん?でしたっけ? そちらのほうが最優先かと」

「そっちは護衛つけとるさかいにな」巽恒が諦めたようにケータイを懐に仕舞う。「おま、なにが狙いなん?」

「僕と一緒に世界を滅ぼしませんか?」

「は?」巽恒が莫迦にしたように嗤う。

 そして時間差で、何かを悟ったように息を吐いた。

「おわかりいただけたみたいで嬉しいです」巽恒との距離を詰める。「僕は近日中にここを手に入れます。手に入れることが目的じゃありません。手に入れるということは、ここを、白竜胆会をどうこうする権利の一切合財が手に入るってことです。あなたが自由になるためのお金だって、引き続き用意できます」

「俺にちょっかいかけはるんは、社長さんへの嫌がらせと違うん?」

「それもありますけど、それだけじゃなさそうなんですよ、どうやら。他人事みたいですけど、僕は僕を客観的に見てるんであえてそう云いますけど、たぶん、僕はあなたを、僕と同じ地獄に引きずり落としたいらしいんです」

 地獄なぁ、と巽恒が口の中で云ったのを見送った。

「あなたにまつわる諸々を、たいらに出力させました」僕はタブレットをいじくるふりをする。「あなたの実家はいわゆる裏社会を牛耳ってる組織ですね。年端もいかない少年を攫ってきて、使い物にならなくなるまで身体で稼がせる。稼いだ金をどうするか。組織の長は、つまりあなたの母親ですけど、人体蒐集のご趣味があられる。気に入った男との間に子をもうけたあと、中身をくり抜いて人体模型を造る。マネキンの展示室があるらしいじゃないですか。あなたの父親についても知ってますよ」

 巽恒の表情をつぶさに観察していたが、聞いているのかいないのか、どうでもよさそうな顔を崩さず、中空を見つめていた。

「育ての親は、攫ってきた少年をそれこそ使い物にするためにメインテナンスのようなことをしていた上層幹部ですね。遺伝子上のほうは」

「結論ゆうてくれへん?」巽恒がこっちを見た。

「あ、まだるっこしかったですか? すみません。僕の悪い癖ですね」タブレットを膝の上で伏せた。「おかしいんですよ。あなたの置かれた境遇とか、過去に体験したことを総合すると、気が触れるか感情が死ぬか、いずれにせよまともな社会でまともな生活を送れるわけがないと思うんですが」

「そんなん個人差やろ」

「そうですね。その通りです。あなたの感情は生きてるし、圧倒的に正気です。だから僕は考えた。というか推論ですね。なぜ、あなたは、あなただけはおかしくならなかったか。跡継ぎになることが決まっていたから手心が加えられていた? 違います。あなたが客の元から帰ってくる拠点に、あなたの心の支えがあったんですよ。それが」

「そんなんとっくに死なはったわ。知ってはるやろ?」巽恒は食い気味で云った。

「ええ、ですからあなたは彼、妃潟氏に生き映しな能登教憂ノトのりうきに眼をつけた。彼を、能登教憂をこちら側に引きずり込もうと。洗脳したんですよ、言葉巧みに、優しさにつけ込んで。あなたは能登教憂を殺した。妃潟氏、本名、乃楽祝ナラしゅう氏を蘇らせるために」

 巽恒が僕を睨んだ。

 僕は笑顔を返した。

「一応、罪悪感みたいなものはあるんですよね? だからこそ、あなたは眠れなくなった。あ、もう改善されてるんでしたっけ? 随分と顔色もよくなってますしね。義弟が役に立ったようで、義兄の僕も鼻が高いです」

 巽恒は何か云いたそうにしているが、云ったところで相手が僕だから、云わない選択肢が最善だとわかったようで口を噤んでいる。

「準備ができたらしいです」僕はタブレットを巽恒に渡した。「こちらをご覧ください」

「何が始まるん?」

「さあ」

「さあ、て。とぼけたとこで、おまがやらはったんと」

 実は本当に知らない。

 だからこそ、推論が活きる。

「ここに誰が映ったら、あなたは取り乱しますか?」

 巽恒の表情が冷えた。タブレットを握りしめて映像を見守る。

 横からのぞき込めなくなったので、ベッドサイドのモニタにも出力する。

 天井からの定点。牢のような格子と、人間の頭。

 解像度はそこそこ。人物特定はそう難しくない。

「キサ!?」巽恒が叫んだ。

「能登教憂でしょう」

「おまが」

「ですから、僕は出力に協力しただけで」

 画面の向こうから声がして、巽恒から更に表情が剥離する。

 いまから起こり得る最悪の状況を想像したに違いない。

「ここ、どこなん? なんでキサが」巽恒が僕の肩に掴みかかる。「おまがやったんやろ? 俺はどないなってもええさかいに、キサを、キサを解放したって」

「何度も云いますが、僕はこの件に無関係なんですよ」

「嘘ゆわんといて。おまに決まっとるやろ? おまが」

 格子を掴んで揺らす。必死に助けを求めている。

 能登教憂ではないのか。

 僕が知ってる能登教憂の声ではない。喋り方も、一人称ですら違う。

「僕じゃない唯一絶対の理由をお教えしますよ。もし僕だったら、彼をここに連れてきます。あなたの眼の前で、彼に危害を加えます。誰かに任せるんじゃなくて、僕が自らやります。あなたが泣いて懇願する顔、ああ、そんな顔があるんならですけど、それを直接眺めたいので」

「まあ、せやな。おまがやるにしてはえらく間接的やな」巽恒は、僕を責めても事態が好転しないことをようやく理解したらしかった。

 タブレットの音量を限界まで上げた。室内の微かな音を拾って場所を特定しようとしている。

 妃潟氏の悲痛な声が耳をつんざいた。

 画面上方のドアが明け放たれて、鎖に繋がれた獣が全速力で牢の格子に突進した。

 獣?

 犬にしては大きいし、毛がまばらに生えている。いや、毛が生えた部分を移植したのか。

 元は何の生き物だ?

 僕が知っている限り、そんな動物は存在しない。

 獣が格子に体当たりするたび、空間が鳴動する。

 立ち向かう術はない。逃げ道ももちろんない。

 妃潟氏は格子から離れて壁に張り付いてじっとしている。諦めて立ち去るのを待つしかない。

「キサ!」巽恒も、音声が双方向じゃないのをわかっているが、叫ばざるを得ない。

 画面上方のドアがゆっくり開いて、男が現れた。

 男?

 体格からそう判断したが、ニンゲンと云うのはそんな奇妙な形をしていただろうか。衣類の一切を纏っていないのに、肌の色がニンゲンのそれとは違う。体毛というよりは、ぬらぬらと鱗のように湿っていた。

 妃潟氏が男に助けを求める。当然だ。獣よりも人語が通じそうだから。

 聞こえているのかいないのか、男はそれに応えずドア脇のスイッチを押した。

 低く唸るような音がして、格子が床から浮く。その隙間に獣が体を捻じ込ませ、妃潟氏に襲いかかった。

 妃潟氏の悲鳴が、大音量で断続的に響く。

 快楽殺人鬼なら堪らない光景と音声だろうが、生憎と僕も巽恒もそうじゃない。

 あまりにひどいのでモニタの音声は絞ったが、タブレットは巽恒の手にあるのでそのまま。

「やめ、やめたって。なあ、なんでこないな」巽恒が画面に映った映像を否定するがごとく首を振る。

 僕は、モニタの電源をオフにした。

 獣に喰い荒される妃潟氏を見ているより、半狂乱の巽恒を見ている方が興味深かった。

 ああ、あなたも。

 そう云うニンゲンらしい顔をするのか。

 悲鳴が聞こえなくなってきた。悲鳴を上げる器官を喰い千切られたのかもしれない。

 巽恒は、すでに嗚咽を通り越して絶望で呆然としている。

 ちら、とタブレットをのぞく。

 床に黒い染みが拡がって、獣が妃潟氏だったものに覆いかぶさっている。

 食べているんだったらまだ良かったが、これは。

 挿入して腰を打ちつけていないだろうか。

 妃潟氏は動いていない。うつ伏せなので判然としないが、首周りが真っ黒だった。後頭部にもべっとりと黒が塗りたくられている。右腕から先がなく、床に真っ黒の池ができていた。

 突如、獣から黒が飛び散って動きが止まった。

 地鳴りみたいな音がした。格子を開けた男が獣の頭を撃ち抜いたのだ。

 男が獣を片手でひょいと掴んで妃潟氏だったものから剥ぎ取る。

 眼を逸らしたくなる惨状がそこにあった。

 シャツもズボンも喰い千切られ、ほとんど裸体なのに、肌の色が拝めない。黒と赤を極限まで煮詰めてまき散らしたグロテスクな色彩だった。内臓も飛び出ている。

 時間差で、脚の間から垂れ流れて来た大量の粘液の色を見て胸糞が悪くなった。

 やっぱりそうだったか。

 獣を放り投げた男は、妃潟氏だったものの傍らに屈みこんで、勢いよく食らいついた。

 今度は食べている。

 この短時間で遠隔的に見せられたものを羅列すると、獣姦と屍姦と人肉喰い。最悪だろう。

 妃潟氏と初対面の僕でも、あんまりだと思うんだから、巽恒にしてみれば。

 これが、地獄か?

 僕が想定していた方向とは幾分が違う。いや、大幅に違う。

 巽恒が、ベッドを踏み抜かん勢いで脚を振り下ろした。タブレットを手放さないのは妃潟氏につながる唯一の手がかりだから。僕に八つ当たりしないのは、僕に八つ当たりしたところで何の意味もないことを、どこか冷静な部分で理解しているから。

 僕だって異を唱えたい。完全にとばっちりの巻き込まれだ。

 妹が部屋に入ってきた。もちろん、画面の向こうの出来事じゃない。

「ノックくらいしてくださいよ。取り込み中だったらどうするんですか」

 僕の声で侵入者に気づいたのか、巽恒が殺意に満ちて血走った眼で、妹を射抜いた。

 その顔が見れただけで、出力を手伝った甲斐があったというもの。

「ああ、妹ですよ」僕は巽恒に解説をする。「似てないでしょう? 遺伝子的に何のつながりもないもので」

 巽恒は妹の一挙一動を睨みつけている。

 妹は緋のワンピースを着ていた。俯いたままドアを背に動こうとしない。

「何の用ですか?」妹が何も云わないので僕が尋ねるしかない。

「観賞会は終わりまして?」

 風が通過する。

 巽恒が妹に掴みかかった。「お前がやらはったん?」

「ええ」妹は一も二もなく肯いた。

「なんで」

「云っていたでしょう? 地獄に落としたいのだと」

「せやったら俺に、俺に直接。なんで、なんでキサを巻き込んで」

「あれは妃潟ではありませんでしょう? それに、能登教憂さんを巻き込んだのは、他ならぬお兄様ではなくて?」妹がにっこりと微笑む。

 巽恒の手が、妹の肩から離れる。

 巽恒の視線が、僕に向けられる。

「誰が、僕の妹だって云いました?」僕もにっこり微笑み返す。「あなたの妹ですよ。会うのは初めてですか?」

 巽恒が妹から距離を取る。

 相変わらず危機察知能力に長けている。

「はじめまして、お兄様」妹がワンピースの裾を持ってお辞儀する。「わたくし、斎市朱咲モノマチすざきと申します。故あって、お兄様を地獄に落とすために遠路遙々参りましたの」

「お前が妹かどうかなん、いまはどないでもええわ」巽恒の眼が据わっている。「お前をぶっ殺してもキサは戻って来ぃひん。せやけど、お前をぶっ殺さんと気がすまへん」

「まあ、嬉しい。わたくしを殺していただけますの?」

 妹の笑った顔は、確かに巽恒との強い血縁を思わせる。

 支配者の顔をしていた。
















  家楼シリーズ 最終章 序章


        『天のあなたの美つくしき』







  登場人物一覧




桓武廟晏(カンム・びょうあん)桓武建設養子

桓武衡宜(カンム・たいらぎ)桓武建設御曹司、廟晏の義理の兄


麿坂勇和(マロサカ・いさわ)廟晏と同学部、衡宜の母違いの兄

讃良智崗(ササラ・ちおか)衡宜の幼馴染で婚約者、市長の娘


朝頼東春(トモヨリ・あずま)白竜胆会次期総裁

朝頼翡瑞(トモヨリ・ひずい)東春の姉

朝頼舞弦(トモヨリ・まずる)東春の兄

朝頼砂霞(トモヨリ・さずか)東春の妹


岐蘇実敦(キソ・さねあつ)KRE次期社長、現支部長、東春の義理の弟

奥陸秀良(オクリク・ひでら)KRE支部事務


左館七祖(ヒタチ・ななそ)美大生、ギャラリィ受付バイト


能登教憂(ノト・のりうき)工学部学生

屋島嗣信(ヤシマ・つぐのぶ)文学部学生、能登の親友

屋島唯信(ヤシマ・ただのぶ)音大生、嗣信の双子の弟




藤都巽恒(フジミヤ・よしつね)京洛ケイラクの檀那

群慧武嶽(グンケイ・むえたけ)護衛

妃潟閑祝(キサガタ・ならしふ)家事手伝い


奥檀那禎楽(オクダンナ・さだらく)巽恒の育ての親

菅(スゲ)群慧の師匠













      *****


 僕は、タブレットをのぞき見る。

 二足歩行の鱗男はいなくなっていた。

 残っていたのは、食い散らかされた肉片と骨と血だまり。これがもともとニンゲンの形をしていたとは、到底思えない。

 なにか。

 引っかかる。

「巽恒さん、ちょっと」

「あ? お前も同罪やさかいにな。自称妹ぶっ殺したら、次は」

 巽恒の殺意が異様に心地よかったが、いまは優先順位が低い。

「言い訳するようで恐縮ですが、僕は本当に今回のことに関して、あなたをここに連れて来たことと、映像の出力を手伝ったことくらいしかやってないんですよ。要は、その方と協力関係にありましたが、魂までは売り渡していません。その僕から見てちょっと気になったことがありまして」

「なんや? 下らんことやったら、お前を先にしたるわ」

 良かった。僕の話を聞くくらいの正気は残っているらしい。

「ここに映っていたのは、本当に妃潟氏だったんでしょうか」

「意味がわからへんけど」と云いつつも、巽恒は妹を睨みつける。「お前がキサを攫って」

「頑丈な護衛を付けていたんでしょう?」黒くてデカイ忠犬のことだ。僕が云う。「彼が太刀打ちできない場合にだけ、妃潟氏の誘拐が可能になる。裏を返せば、彼が太刀打ちできない相手って、一体どこの組織のプロフェッショナルでしょうね」

「せやから、この自称妹の手足がやったに決まっとるやろ? ほんなら確実に」

 妹が、黒だと。

「あの映像を、ライブにする意味が、僕にはわからないんですよ」タブレットを拾い上げる。「ライブにする意味ってやっぱり、音声を双方向にして、あなたの未来の行動を制限する足枷にすることだと思うんです。ですが、さっきの映像は双方向どころか、天井からのしょぼい定点映像。切羽詰まった身内を誤魔化すには事足りたかもしれませんけど、大した面識のない赤の他人に近い僕には、あれを、替え玉にしてかつ、録画映像だとしたほうが、よっぽど筋が通っている。回りくどくなりましたけど一言で看破するなら、妃潟氏はもう死んでる。死んでる人間は、二度殺せない」

「先刻、わたくしの部下が能登教憂さんを攫いましたわ」妹が云う。「お電話で確かめてみてはいかが?」

「おまは俺の味方か、地獄に落としたいんかどっちや?」巽恒が眉を寄せて僕を睨む。「意味わからんこと叩きつけよったお陰で、ちょお落ち着いてきたわ。せやな、能登くんは俺の前でだけキサにならはるさかいに。俺がおらへんのにキサになっとるんはおかしいな。なんや、嗤えてきたわ。せやな、あれは、キサでも能登君でもあらへん。せやろ?自称妹」

 妹がふ、と口を緩ませて、ケータイを耳に当てる。「ええ、こちらは完了しましたわ。そちらはどうかしら? お兄様のお屋敷は制圧できましたかしら。抵抗されるようなら、ええ、お任せ致しますわ。お兄様? 元気ですわよ。今のところは、ですけれど。ええ、お話? 伝言ではいけないの? 仕方がないですわね。はい、お兄様」

「誰や?」巽恒が訝しがりながらもケータイを受け取る。「ああ。なんやて? は? ちょ、どうゆう」

「わたくしが用があったのは、能登教憂さんだけでしたのに。どういうわけか、お友だちが付いてきてしまったようですわね」

 能登教憂の友人。

 僕が真っ先に思い当たったのは、屋島嗣信だが。

「くそ、切れてはる」巽恒がケータイを妹に放り投げて、自分のケータイをいじる。「なんで俺のはつながらへんのか、お前にはわかっとるんかな?」

「ですからむらがあるんですよ、ここ、地下なので」

 屋島嗣信ヤシマつぐのぶは去年の年末から家に戻っていない。義弟と一緒に巽恒の屋敷に乗り込んだ。能登教憂を取り返すために。

 まさかとは思っていたが、能登教憂を連れ戻すため、ずっと巽恒の屋敷に居座っていたのか。

 そこまでして取り戻したいか。

 そこまでしても取り戻せていないじゃないか。

「お前のケータイ貸しや」

「番号覚えてるんですか?」身体検査をされても不快なだけなのでさっさと渡した。

「なんでかからへんの? おま、ええ加減に」

「能登教憂他一名がわたくしの手の内にあるのは変わりませんわ」妹が云う。「お望みでしたら、お兄様の可愛がっている番犬も、わたくしの管理する檻に入れてもよろしくてよ」

「俺に用があらはるんなら、俺に直接ゆったらどうなん?」巽恒が言葉尻に怒りを滲ませる。

「直接ゆったらお断りになるでしょう? わたくしは思い通りにならないと不快ですの」

「俺がゆうこと聞いたら、俺以外に手ェ出さへんて約束」

「したところで、わたくしが裏切ってしまえば、お兄様が損をするだけですわ」妹がベッドに上品に腰掛ける。

 僕の宿泊用の部屋は、最低限の家具しかない。

 ベッドとテーブルと照明。安ビジネスホテルのほうが洒落ている。

「こちらにいらしてくださいな?お兄様」妹が云う。

「あ?何するつもりや?」巽恒は近づくどころか半歩後ずさった。

「近くでお顔を見せて頂きたいの。安心して下さいな。お兄様が警戒するような淫猥な振る舞いは決して」

「信用でけへんのやけど」

「では、どうしてわたくしがお兄様のお顔を見たいのか。それをご説明いたしますわ」妹が僕を見る。「ちょっと席を外していただけます?」

「構いませんよ。用が済みましたらお声掛けを」僕はさっさと部屋を出た。

 その足で隣の部屋に入る。

 兄の部屋。

 兄は、二度とここには来ないだろう。だから僕が鍵を預かっている。

 ソファに腰掛けて、タブレットにイヤフォンをつなぐ。

 白竜胆会本部で、次期総裁内定の僕に隠れて秘事を成すことはできない。

 すべての部屋と通路に、僕の眼と耳がある。

「ああ、素晴らしいですわ。やはりよく似ていますのね」妹は手を伸ばし、ベッドサイドに立った巽恒の頬に触れる。

「お前、何もんなん?」

 カメラは天井定点だけじゃない。

 四方の壁に埋め込んである。

「お兄様とわたくしのお父様が、どこにおられるかご存じ?」妹が云う。

「地獄やろ? それか、マネキンにされて」

「食べましたわ」

「は?」「は?」

 巽恒の声とハモった。

「食べましたわ」妹は先ほどとまったく同じトーンで云って微笑んだ。「この世に置いていった肉も、いずれわたくしの手に取り戻しますわ。あの方はわたくしのもの。誰にも、お母様にも渡しはしませんのよ」

 あの巽恒が嫌悪で絶句している。

 すごい。

 手を貸して恩を売っておいてよかった。

 あれだけ身体を汚濁に曝しながら一度も穢れなかった巽恒の心を壊せるとしたら、実の妹を置いて他にいない。

 僕はそれを最高の席で観賞できる。

 兄のにおいのしないベッドに倒れ込む。

 必死で笑いを堪えた。ここは存外壁が薄い。

「お前は」巽恒の声で、再度耳に集中を傾けた。「俺をどないしたいんやろか」

「あら?おわかりにならなくて?」妹は両手で巽恒の頬を挟む。「お兄様もいずれはお母様に連れ戻されて永遠にされてしまいますの。そんなこと、わたくしがさせませんわ。ですから」

「俺も喰らわはるんか」

「いいえ」妹が勿体つけて首を振る。「お兄様には、あの方を取り戻すまでの間、わたくしのぽっかり空いた心を埋めて頂きたく」

 急にドアが開いた。さすがの僕でも吃驚した。

 僕の、妹だった。

「なんです? いま取り込み中で」僕はイヤフォンを片側だけ外してタブレットを伏せた。

 緋袴じゃないから、サズカだろう。

 機嫌の悪そうな、冷めた眼は、サズカ。

「ケンダって結婚してんの?」声もサズカだった。

「ご本人に聞いては? それと、僕いま取り込み中なので出て行って頂けますと」

 ケンダというのは、総裁補佐の男のこと。

 白竜胆会の表向きの事務以外の総てを取り仕切る。要は裏方の汚れ処理役。

 すでに僕の奴隷同然だが。

「アズにいが構ってやらないから、あたしに手ェ出してくるとか最低なんだけど」

「それはそれは。あとで釘刺しときますよ」ひたすらにどうでもいい話題だ。「それと、三度目ですけど、僕は取り込み中なので」

「アズにいが女と一緒とか天地がひっくり返るんじゃない?」

「別に知り合いでもなんでもないんですよ。さ、用件は承りましたので、持ち場に戻ってください」妹の背を押してドアの外に放り出す。「姉さんが探しますよ?」

「ヒズイ様が様子を見てこいと仰られていたので参りました」サズカの声がワントーン低くなった。

 預言者だ。

 あしらうのに一番面倒くさい人格を、去り際にぶつけないでくれ。

「いちいち伝書鳩やめてください。それに呼ばれればすぐに行きます、と伝えてください。では」相手にするとドツボに填まるだけなので、無理矢理ドアを閉めた。

「死ねばいいのに」メイアの声がして足音が遠ざかった。

 本当に姉の云いつけで来たかどうか怪しくなってきた。

 メイアは僕を心底嫌っている。それこそ姉のそれを凌駕する。

 なんだろう。

 何か直接嫌な思いをさせた覚えはないんだけど。

 巽恒の反応を聞きとりたくてイヤフォンを両方嵌める。「はあ?正気でゆうてはるん?」

 タブレットの電源を切って、隣の部屋をノックする。

「用が済んでいませんわ」間髪入れずに、巽恒妹の声がした。「邪魔をなさらないでくださいます?」

 鍵はかかっていない。

 このドアを開けるか開けないかで、今後の巽恒妹の僕への信用度が変わるだろう。

 どうするか。

「どうせご覧になっているのでしょう?」巽恒妹が見透かしたように云った。「映像と音声で事足らないと仰りたいのならそれは、わたくしに対する妨害ですわ。それでもよろしくて?」

「それは失礼しました。隣にいますので、何かあれば」去ったほうがよさそうだった。

 イヤフォンを嵌めながら隣室に戻る。

 巽恒にしなだれかかった巽恒妹が、自分の目的を告げていた。

「わたくしは、お兄様に、あの方の身代わりをしていただきたいの」







   ―――――さふら、地獄が落ちてくる。






   *****


 床に薄く水が張られた細い通路を進む。

 カメラの類がないわけないので、進もうが止まろうが引き返そうが、命の残りに差はない。

 進行方向に仄かな明かりが見える。

 それが気になって、つい足を進めてしまっているだけ。

 天井の高い空間につながっていた。

 神殿みたいな太い柱が両側に規則的に並ぶ。

 タイヤが転がる音が近づく。

「迷い込んだネズミを獣が探していたけれど」車椅子に女が座っていた。「あなたのこと?」

 僕は首を振った。

 否定の意味ではなく、不明の意。

「そう。見張りの獣の五感が使い物になってないわね。放し飼いさせているだけみたいね」

 どこかで水が滴る音がする。

 車椅子の女は僕の真ん前で止まった。

「あなたの友だちならいまは無事よ。いまは、ね」

「どこ?」周囲が静かなのでなんとか頑張って声を出した。

 いま出さなかったら一生後悔する。

 この女は、教憂の居所を知っている。

「チューザが何か企んでるみたいで不快なの。わたしに協力してくれたら、お友だちを助けてあげなくもないわ」

 チューザというのが、教憂を攫った張本人だろう。

 僕は頷いた。

 教憂を助けるためなら、生きてここから救い出すためなら、僕はなんだってやる。

 その覚悟で車にこっそり忍び込んだんだから。

「いい友だちを持ったわね」車椅子が向きを変える。「付いてきて。わたしと一緒にいれば、獣は襲ってこないわ」

 女は爪先まで覆う、丈の長いスカートを穿いていた。

 僕にはわかった。

 この人には、脚がない。

 幽霊かもしれない。

 そうか。もう僕。

 死んだのか。















    家楼シリーズ 次章 最終話


     『おのれおのれ とも心亘こころわたル』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天のあなたの美つくしき 伏潮朱遺 @fushiwo41

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ