第4章 この悲しみをまき散らす獣と天地創造を踊っている


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 僕の人生は思うほど幸福でもなければ思うほど不幸でもない。

 と思ってたのは、ガキの頃まで。

 僕は僕以外の人生を知らなかっただけ。

 これがフツーだと、標準だと思っていた。

 違ったのだ。

 僕は母親の顔を知らない。

 僕の一番最初の記憶は、姉と兄が僕の顔を物珍しそうにのぞきこんでいる情景。

 遠くで父親の声がした。

 その父親だって僕と何の血縁関係もなかった。これはあとで自分で調べて確信をもったが、そもそもまったく似ていなかった。父親だけじゃない。姉も兄も、後から来た妹だって。僕らは誰にも似ていなければ、誰とも血縁関係がなかった。

 簡単だ。

 僕らきょうだいは、どこからか拾ってこられた。

 父親に聞いたことがある。僕はどこの誰なのか。

 父親は、なんでそんなことを聞くんだという顔をしてこう云った。

 お前は私の子だと。

 そんなことが聞きたいんじゃない。僕は本当のことが知りたかった。

 僕が傷つくと思ったのだろう。でも本当のことを隠される方が余計に傷つく。

 僕は食い下がった。僕はどこの誰から生まれて、どういう経緯でこの家に来たのか。

 父親はまた同じような顔をしてひとこと。

 お前がどこの誰だろうと、私の子であることに変わりはないと。

 そうじゃない。

 そうじゃないんだ。全然わかってない。全然伝わらない。

 父親は僕を拾うだいぶ前に、自殺未遂をしたらしい。

 そのときに何か決定的なものが壊れたんだろう。話がいっこうに通じないのは。

 姉も兄も自分たちの出生に興味がないようだった。

 妹に至っては、人格が二つあってそれこそ厄介極まりない。

 なので僕は早々に、誰とも口をきかないことに決めた。

 知り合いはこの画面の向こう側だけ。利用価値があるものもこの画面の向こう側にしかない。

 そんなときに出会った。

 桓武衡宜。

 彼もほどよく壊れていた。

 でも。

 僕ほどじゃなかった。





 第4章 この悲しみをまき散らす獣と天地創造を踊っている



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 傑作すぎてはらわたが捩れそうだ。

 絶対に買えないはずの高嶺の花を全財産はたいて買ったらすでに売約済みだったとか。

 莫迦莫迦しくてやってられない。

 とんだ出来レースじゃないか。

「下らない」声が漏れた。「面白くないから帰るよ。ホテル代払ってあるからゆっくりしてけよ」

「義兄さん、あの」

「僕は君の兄貴でもなんでもないよ」

 ベッドに転がってる方もほぼ全裸。義弟も下半身露出なので追っては来れないだろう。

 ああ、しまった。

 終電行ってるじゃないか。

 エレベータホールで義弟から電話が来た。「義兄さん、いまどこですか。たぶん電車ないんじゃないかと思うんで」

「隣の部屋で寝ろって? 莫迦云うなよ。顔に出てないだろうから云うけど、僕はいまおかしくなりそうなくらい気分が悪いんだ」

「じゃあ俺が出て行きます。もともと義兄さんがとった部屋です」

「ようやく想いが実ってよかったじゃん。僕の方が邪魔だと思うけど?」

「ツネなら寝てますよ」

「だろうね。君が抱いてあげれば寝るんだろ?」

「義兄さん」溜息。

 醜い意地の張り合いだ。

 仕方がない。年上が折れてやろう。

「わかったよ。僕の部屋に入るなよ?」

「プライバシーは守りますよ」

 嫌味か?

 結局僕がソファで寝て、義弟と藤都巽恒がベッドを使った。

 翌朝早く、義弟は始発で帰った。

 たいらの声が聞きたくなったので連絡したけど、この時間だと衡宜のキャンバスか。

「あの、連絡頂いていたようなんですが」たいらは割とすぐにかけ直してきた。思いがけない僕の着信が入っていて吃驚したのだろう。

 声が裏返っている。

「別に急ぎの用じゃないけど、今日暇?」

「あ、えっと」

「暇かどうか聞いてる」

「あ、はい。特に外せない用事もないです」

「ちょっと付き合ってほしいとこがあるんだけど」

「はい。あの、僕でいいんですか」

「僕が電話した相手はお前しかいないけど」

「え、あ、はい。すぐに支度して向かいます。ちなみにどちらへ」

「京都にいる。藤都巽恒に会ってた」

 たいらが無理矢理唾を飲み込んだ音が鼓膜を刺した。

「お前こっち住んでたんだろ? 案内しろよ。観光とかできてないから」

「わかりました。すぐに向かいます」

 電話を切った。

 寝室から藤都巽恒が顔を見せた。「おはようさん」

 来たときの和装。顔色も昨日よりはよさそうだった。

 義弟に嫉妬はしてない。嫉妬する理由もない。

「払い損の無一文ですよ、まったく」皮肉を云ってみた。「あいつのどこがいいんです?」

「さあなぁ」藤都巽恒が苦笑いしながら首を傾げる。「ねちこいとこやろか」

「朝食はどうされます?」

「朝は喰わへん主義やね」

「誘っているんですが」

「ああ、そか。お前に所有権あるさかいな。ええよ。ジュースしか飲まれへんけど」

 レストランは静かだった。朝食はよくあるビュッフェ形式。

 藤都巽恒は先に席についてグレープフルーツジュースを飲んでいた。本当に固体摂取はしないらしい。

「お前、身体ちっこい割にむっちゃ食べはるんやね」僕の皿を見て鼻で嗤われた。

「こっちの栄養ですよ」頭を指さす。

「これから伸びはる、わけあらへんな。遺伝と違うん?」

 窓の外が見える。

 冬特有のぱっとしない天気だった。

「なあ、桓武建設の」

「たいらが何です?」不覚にも顔を上げてしまった。オムレツが皿に落ちる。

 藤都巽恒の口からたいらの名前が出るとは思わなかった。

 藤都巽恒は、眼を細めて窓を眺めていた。

「これから来るんか」

「聞いてたわけですか」

「でっかい声で話さはるさかい、聞こえてもうたんや。監視盗聴上等の誰かさんと一緒にせんといて」

 口に入れ損ねたオムレツを咀嚼する。

「あいつが俺の兄やんて、知ったはるやろ? お前が買うたんか」

「助言だけですよ。跡継ぎが使い物にならないから出来のいい養子を探してるって相談を受けたので」

「せやけどお前の好みなんと違うん? 金髪碧眼の天然もんやで」

「仰りたい意味がよくわかりませんが?」

「わからへんならええわ。ぎょうさん喰わはったらええよ。待っとるさかいに」

 横顔がどことなく。

 たいらに似てる気がした。

「待ってなくていいですよ。帰ってもらって結構です」

「連れて帰らへんの?」藤都巽恒は意外そうな顔をした。「半日規制なん、独占禁止の方便やさかいに」

「義弟を喜ばせるだけじゃないですか。それともまだやり足りないですか」

 藤都巽恒は厭そうに口の端を下げた。「足代出してくらはったら出張でもなんでもしたるえ?」

「そうですね。気が向いたら」

「ほんなら、さいならね」

 レストランの入口に黒い巨体がのぞいた。番犬が迎えに来たらしい。

 めちゃくちゃ睨まれたから微笑み返してやった。

 たいらから到着の連絡が入った。駅は観光客でごった返しているのでホテルのラウンジで待ち合わせた。

「お待たせしてすみません」たいらは今日も文句なしで視線を集める。

 一緒に歩くのは本当は嫌だが、お前くらいしか誘える奴がいなかった。

 て云ったら喜ぶだろうから云ってやらない。

「あの、行きたいところとかご希望はありますか」

「お前の家ってまだあるの?」

「どうでしょう。あったとしても面白くないかと」

「面白いかどうかは僕が決める」

「すみません」たいらは少し困ったような顔をして首を振った。「僕は売られた身の上なので、あの家に顔を出すことはできません。どこか他の場所を」

 そこそこカネを持っていそうな二人連れの女がたいらを見てひそひそやっている。かなりカネを持っていそうな妙齢の女がたいらを見て溜息を漏らしている。

 そうか。

 女相手に商売を始めてみるのもありか。

「お前さ」

 こいつが本題。

「たいらを殺すんだろ?」

 僕が、衡宜もたいらもどっちもたいらと呼んでいた理由に。

 ようやく行き当たったんだろう。

「どうなの?」

「やはりご存知でしたか」たいらは安堵と罰が悪い中間の顔をした。「ええ、衡宜の兄のことは」

「兄? いるの?」

「あれ? ご存じなかったですか」たいらは意外と驚愕の合わさった顔をした。「はい、僕と同じ学部にいたらしいです。といっても知り合ったのは春なんですけど。向こうが声をかけてきて」

「なんでそれ黙ってたの?」

 春?

 一年経つじゃないか。

「すみません。とっくにご存じだと思っていて」

 衡宜の兄?

 いるのか?

 僕の記憶にはないが。

「なんで兄がいるのにお前を養子にしたんだ?」

「それは」たいらが俯く。「僕もそう思います。すみません、もっと早くアズマさんにお伝えしていれば」

 急に現れた衡宜の兄。

 名は。

 麿坂勇和というらしい。

 ちょっと探りを入れたほうがよさそうだ。

「なに? どういう手筈になってるの?」

 たいらは、春にあった出来事を順序立てて話し出した。

 呼びつけておいてなんだが、京都観光どころではなくなった。

 早々に麿坂勇和とコンタクトを取る必要が出てきた。

 僕の予感が正しいなら、この計画には裏がある。

 たいらを助ける気は毛頭ないが、僕の望まない方向に転がって行くのは面白くない。

「あの、アズマさん?」たいらが沈黙に耐えかねて僕を呼んだ。

「大丈夫。何も心配ないよ」

 衡宜と心中する?

 正気の沙汰じゃないだろう。

 どうやら世の中には。

 僕よりおかしい奴がまだまだ存在するらしい。



     2


 僕が桓武衡宜と会ったのは、いつだったか。年齢が二桁になったかどうかの辺りだったと思う。

 新興宗教団体・白竜胆会がこの地に根を下ろすに当たり、挨拶しておかなければならなかった企業、団体の一つ。

 桓武建設。

 名代というわけではないが、年齢が近かったこともあり、僕が御曹司と“仲良く”する指令を受けた。

 姉と兄が似たようなことをしていたのかは知らない。適材適所で僕にこの手の交友関係の仲介をさせようと白羽の矢を立てたのは間違っていないので、特に文句もなかった。

 でかい屋敷だった。広い敷地も然ることながら、家自体も周囲と一線を画するものがあった。

 むしろわかりやすかった。

 金と権力はここに集結している。

 いまどき執事とメイドを住み込みで雇わせている家なんかあるんだろうか。

 執事は、坊ちゃんは手が離せないのでここで待っていろと云って席を外した。

 坊ちゃん?

 夏目漱石じゃないんだから。

 アポを取って来ているのにあまりに待たされるので、トイレに行こうとして迷ったという作戦の下、坊ちゃんとやらを探しに行くことにした。

 広い。

 白竜胆会の本部もこことは違う意味で広いが、あれは住居とはほど遠くテーマパーク的な非日常感があるので人の気配がなくても何らおかしくはないのだが、ここは。

 家の大きさに対し、住んでいる人間の数が少なすぎる。

 そりゃ執事とメイドが必要になる。だって、誰もいない部屋が多すぎる。

 部屋の多くは鍵がかかっていた。指紋をつけずにドアノブを触って回った。

 家の見取り図を脳内で組み立てながら探検を進めたのだが、どうやら地下がありそうだ。

 僕の予想が間違っていなければ、坊ちゃんとやらはそこにいる。

 ただ、鍵の問題がある。

 だいじな坊ちゃんのいる部屋だ。鍵をかけないわけがない。

「おや、君は」

 後ろから声がして吃驚した。

 顔だけはよく知っている。桓武建設現社長。

 坊ちゃんとやらの父親。

「お邪魔しています。ご挨拶が遅れました。僕は」白竜胆会の名を出せば悪い印象は与えないだろう。

 あとは僕の笑顔次第。

「そうだったのか。君が。いや、よかった。たまたま帰って来ていてね。ゆっくりしていくといい」

「衡宜くんはどこですか?」

 父親が急に現れたので多少面食らったが、だいじなのはそこじゃない。

 彼が、どこから現れたのか。

「どうだろう。好きな絵画展にでも行ったのかな」

「それはあり得ません。僕はきちんと約束をして訪問させていただいています。お部屋はどちらですか」

 異物である僕の声が存外響いたのか、執事が駆けつけてきた。

 主に頭を下げて僕を客間に連れ帰った。

「申し訳ございません。坊ちゃんを呼びに伺ったところ、具合が悪いとのことで」

「僕は約束をしてたんですよ?」

「申し訳ございません。後日改めてと坊ちゃんも」

 仕方ない。初回は大人しく引こう。

 しかし、二度目の訪問でも三度目の訪問でも同じことをされた。

 三度目の正直、仏の顔も三度まで。

 さすがに僕は抗議した。

 白竜胆会次期総裁(当時)の父親を間に挟まなかったのが吉と出たのか凶と出たのかはわからないが、桓武建設現社長直々に謝罪という名目での招待を受けた。

 この間の適当な(それでも相当に豪勢で広い)客間なんかじゃなく、親族のみが入れるプライヴェイトルーム。

 執事はドアの前で早々に立ち去った。

 社長は僕の正面に立った。

「息子が失礼をした。私から謝ろう。そのお詫びと云ってはなんだが、君に見てほしいものがある」

 隣の部屋から、地下に降りられるようだった。

 暗くてよく見えなかったが、階段の壁に額入りの絵が飾ってある。原色がメインの荒々しい筆使い。一つや二つじゃない。美術館か駅の宣伝ポスターのように連綿と壁伝いに展示が続く。

 有名な画家の絵だろうか。似た画風の画家が一人浮かんだが、彼の絵に必ず見られるサインが見当たらないのでまったくの別人だと思われる。

「恥ずかしながら、私が描いたんだ」社長が照れたように云う。「趣味の一環だし、人に見せるほどのものでもないからね」

 桓武建設現社長の趣味に、絵画(但し誰にも見せない)を追加する。

「僕に見せたいと云うのはこれのことでしょうか」

「いや、この先だよ」

 重い扉が開いた。

 橙色の照明。遅れて絵の具特有のにおいが鼻に届く。

 視界に入ったものの衝撃が大きすぎて、視覚以外の感覚が一段階鈍磨になる。

 ベンチに寝そべっていた物体が起き上がる。

「眼が覚めたかい?」社長がそれに話しかける。

「いま何時? あたま痛い」

「昼過ぎだね。薬を持ってこさせよう」

 それは、全身絵の具まみれだった。

 首から上も、指先、爪先までも。色が付いていないのは髪の毛くらいのもので。いや、髪というのはそんな色だったろうか。

「驚かなくていいよ」社長が僕を見て云う。「誰にも見せない理由をわかってくれたかな」

 それは誰にも見せられないだろう。人間をキャンバス代わりにしているんだから。

 顔が原色の点描になっていていまいち判然としないが、それは。

 僕が“仲良く”するはずの桓武建設御曹司・桓武衡宜だった。

 考えろ。

 お遣いのガキの僕なんかにこれを見せた理由。

「シャワーいく」桓武衡宜が覚束ない足取りで立ち上がる。

「いってらっしゃい」

 曇りガラスの敷居の向こうがバスルームのようだった。

 水の音が聞こえる。

「そんなに警戒しないでほしい。君にこれを見せたのは友好の印以外の意味はないよ」

「本当に個人的に描いているだけなんですか」

「どういう意味だろう」社長が木製の椅子に腰掛ける。

 ぎい、と気味悪く軋んだ。

「あなたはこれを何らかの商売にしている。現物は売れないから、画像か、映像か。体験教室とか」

 相当に胸糞が悪い。吐きそうだが、吐いていたら舐められる。

 札束の気配でむせるようじゃ、この先僕の理想の城は築けない。

「恐れ入ったよ」社長が渇いた拍手を贈る。「さすが、白竜胆会次期総裁自慢のご子息だ。君を私のところに遣ったのは父君の采配かな。見た目にそぐわず、食えない人物のようだ」

「来月に総会があります。ご都合がつけば是非ご参加をと父から」

「招待状はご子息直々の口約束かな」

「日程を知らない人間は招待を受けていないので」

「なるほど。替え玉も飛び入りも不可というわけだ」

 白い裸体が、ぼたぼたと垂れる水滴をタオルで拭いながら歩いてきた。

「こちらへ来なさい」社長が白い肩に手をのせる。「私の息子、衡宜だ。仲良くしてやってくれ」

 タオルで隠すでもなく全裸なんだけど。

 僕の方がおかしいのか?

「ねむい。ねる」

「疲れたろう。ベッドに行くといい」

「ここがいい。おやすみ」桓武衡宜は先ほどのベンチに横になってすぐに寝息を立てた。

 社長が「やれやれ」と云いながら、乾いたタオルを身体にかける。

「2回とも、こうゆう理由ですっぽかされたわけですね」

「だから私が謝ったろう。私の秘密を君に開示したことで相殺されるかな」

「大手を振って自慢できる趣味ではないですね」

「それなりに支持者はいるんだがね」社長が息子の髪を愛おしそうに掬う。「レプリカでよければ、総会の折に手土産として見繕わせてもらうこともできる」

「本部の美術や環境に関して僕の権限は及びません。直接事務局へお申し付けください」

 厭な。

 においだ。

 絵の具と血と粘液とカネと欲望が混ざった。

 最悪の悪臭。

 こんな汚濁の中でまともに息ができるほうがおかしい。

 それとも僕はこの悪環境でも泳げるように体細胞を進化させないといけないのか。むしろ退化か。

 身体より先に心が参りそうだ。

 社長の趣味とやらを実際に見ることはなかったが、見なくたって想像はつく。社長なりの未成年への配慮だったのかはわからない。僕に見せても何の金銭利益もないからだろう。

 社長がいないところで桓武衡宜に会うまで時間がかかった。社長は息子を自分の所有物だと思い込んでいる節があり、僕に奪られると思ったのかもしれない。

 じゃあ、望み通り奪ってやろうか。

 奪い取った結果に何の悦楽もなくっても?

「また来た」桓武衡宜が服を着ていることは稀だった。

 身体に色を塗られていた姿も少なかったが、単にタイミングの問題だろう。

 いつ来ても、あの独特のむせ返るような絵の具のにおいが満ち満ちていたので。

「外行ったりしないの?」

 学校に行っている様子が伺えない。地下から出ることがあるんだろうか。

「行かない」

「閉じ込められてるの?」

「ここがいい」

 望んでここにいるのか。それとも外に出ることが嫌なのか。

 色がとても白い。

 肉もとても薄い。

「ねる」

 会話がもたない。執事に顔パスで地下まで通されるようになったが、本人と話ができなければ意味がない。

 どうすれば、彼の心に踏み込めるのか。

 彼の興味のあること。

 絵か。

「展覧会とか行く?」

「だれの?」

 お。喰いついた。

「いまこんな感じ」用意してきた全国の展覧会情報を渡す。

 わざわざ会期と場所を見やすく文書でまとめた。手間をかけたという誠意が伝わるといいが。

「ない」床に捨てられた。

「じゃあ、誰なら行きたいわけ?」紙に絵の具が付いた。

 いまさら拾っても落ちない。染みこんでしまった。

 桓武衡宜が身体を起こす。今日は珍しく服を着ていた。それでもTシャツ一枚だったが。

 生白い脚が露出する。

「つれてってくれるの?」

 暗いので表情がはっきりしないが、僅かに眼に生気が灯った気がした。

 桓武衡宜のお気に入りの画家をメモって、展覧会開催の予定を日々監視することになった。

 運がいいのか、ツキが回っていたのか、まさかの翌週に情報を手に入れることができた。

 僕は早速前売り券を買って、桓武衡宜に見せに行った。

 そのときの彼の反応はよく憶えている。

 意外そうな、驚いたような。

「なんで?」

「なんで、て。行きたいって云ってたから」

「おぼえててくれたの?」

「一緒に行く?」

 桓武衡宜は外に出ると、余計に人間じゃない不気味感が目立った。人形の展示があったら紛れていても気づかれないのではないか。

 相当に興味のある画家だったのか、一つの絵に対し五分以上は見つめていた。背が低いのでそこが難儀そうではあったが。

 同じ速度での鑑賞に付き合ってられないのでほぼ別行動だったが、興味のある餌を提示して外に連れ出してくれたところが相当にお気に召したらしく、最初の外出以来、桓武衡宜は、すっかり僕に懐くようになった。

「ねえ、次は?」

 彼は、僕が顔を見せるたび展覧会の最新情報を求めた。眼も、初めて会ったときとは打って変わって、爛々とした生の輝きみたいなものが生まれつつあった。

 地下で飼われるだけの人形が、己が使命を取り戻したかのようだった。憧れの画家のように、自分も絵を描きたいと思うようになっていった。執事に云いつけてキャンバスとイーゼルを揃え、画材も求めるものを取り寄せた。

 しかし、それを面白くないと思う人物もいて。

 僕は、桓武建設社長に呼び出された。

「息子に会うことは構わないし、仲良くしてくれていることは私も喜ばしい。だけど、外に連れ出すことはしないでほしい。先に伝えなかった私に非があるが、次から気をつけてもらいたい」

 閉じ込めておきたいのは、父親の都合か。

 なぜ?

「ふーん。いいよ。ここにいるのは嫌じゃないし」桓武衡宜は冷めたような口調でそう云った。

 外出欲求は治まったものの、問題はそのあとだった。

 彼は、絵が描きたくなっていた。

 自分の思うまま描けばいい。素人の僕からすればたったそれだけのことなのだが、彼はたったそれだけのことに苦悩し、苛立ち、絶望していった。

 来る日も来る日もキャンバスは白いまま。

 とりあえず描いてみればいい、と素人考えでは思うのだが、そんな簡単な話でもないらしく。

「なんで? なんで描けないの?」彼は文字通り何本も何本も筆を折った。

 床に散らばる筆の残骸を踏まないよう、僕は注意して歩かなければいけなかった。

 彼の精神は少しずつ歪み、軋んでいった。

 そしてあるとき、彼は。

 唯一絶対の描画方法を思いつく。というか、思い出した。

 彼が知っている、慣れ親しんだ描画法はむしろこれだけ。

「ねえ、アズマさん」彼は白いキャンバスに手を当てて云った。「人間に絵を描くにはどうしたらいいんだろう」

 桓武衡宜が、たいらを人間キャンバスにしているのは、決して僕のせいではない。

 たいらは。

 桓武廟晏は。

 人間としてもはや使い物にならない桓武衡宜に代わって御曹司を務めるため、桓武建設社長が買ったのだ。

 生贄だった。



     3


 たいら伝手で麿坂勇和とやらと直接会う設定をした。

 内容が込み入ることがわかっていたので、あらかじめ音が漏れない環境を用意した。

 煙草と酒が嫌いな僕が思いつく簡易な個室が、カラオケくらいしかないのが安易だが。近隣の高い店を使う場合、僕の童顔と低身長のせいで白竜胆会の名義が必要になるので、後々総裁とか事務局に説明して回る手間が面倒くさいとも云う。

 麿坂勇和は、僕の想像していた人物像と著しい隔たりがあった。

「会うのははじめましてだな」彼は、なんというか。

 朴訥を絵に描いたような、面白みはむしろ素朴に掻き消される。そんな底の浅そうな平凡な感じだった。

 桓武建設社長とも、桓武衡宜とも共通点が見い出せない。育った環境でここまで違うだろうか。

「僕が知りたいのは一つです。あなたが本当に、桓武衡宜の兄なのかどうか」

 たいらは黙って僕の出方にすべてを委ねている。これはいつも通りか。

 たいらが淹れてくれたインスタントの紅茶(ドリンクバーのセルフ)が、ガタつくテーブルの上で冷めていく。

「嘘吐いたところで印象悪くするだけだな」麿坂勇和は真っ直ぐに僕を見た。「桓武衡宜てのは、本当は俺なんだ。麿坂勇和は偽名だ。同じ大学に通ってるなんてのもまったくの嘘っぱちだ。騙すつもりはなかった。警戒されると困ると思って、ついな」

 事前に調べていた通りのことを、彼は正直に喋った。

 麿坂勇和なんて人間は存在しない。

 たいらの通う大学にも、この世にも。

「いまの桓武衡宜は、社長のキャンバスとして生み出された可哀相な奴なんだ。正真正銘俺の弟だ。あいつは生まれたときから地下に閉じ込められてる。あんまりだって社長に抗議してたんだが、あんまりにもしつこいから、生活費の面倒を見てやるから、家から出てけと。要は勘当だ。社長としては、あいつをキャンバス兼跡継ぎにしたかったんだろうが、計算が狂ったんだろ? 無理もないわな。最初っから人間として育ててねえんだから」

 本当の御曹司は、こいつだった。

 僕も知らなかった。僕が桓武家に近づくよりももっと前に。

 麿坂とやらは、桓武家を追い出されているってことか。

「長いこと悪かったな。あとは俺が」

「桓武衡宜として、桓武衡宜を殺して、桓武衡宜をたいらに押し付ける、てことですか」

 たいらが云いにくいことを代わりに云った。

 麿坂とやらは、罰が悪そうに笑った。「まあ、そういうことになるか」

「たいらにぜんぶ押し付けて、あなたは一人だけ楽になる。いまの桓武衡宜は死にたくなんてないですよ。地下からも出たがらないくらいですからね」

「まさかここまで話させておいて、協力しないなんてことはないわな?」麿坂とやらが云う。

 僕と、たいらを順に見遣って。

「どうだ? 本当の御曹司になる覚悟、できたかい?」

 叫んでいるだけの下手くそな歌が聞こえる。

 カラオケで、上手な歌が聞こえたことなんてない。

「決行はいつですか」たいらが云った。

「社長が留守のときがいいわな。執事とメイドは俺の顔見りゃなんもできねえから問題ねえよ。もちろん、あんたの手引きが要る。あんたが俺を地下まで連れてってくれたら、あとは」麿坂とやらが、心臓の辺りに拳を置いた。

「本気ですか」僕が気になるのはその一点。「あなたは、本気で心中なんか」

「最初からそのつもりで声掛けたんだったがな。そんなに信用ないかい?」

 信用とかそんな話はしていない。

 なんでそんなことを平然と提案できるのか、明日ちょっと遠方に出かけるみたいなていで実行に移そうとしているのか、意味が。わからない。

 人殺しの是非なら、間違いなく非なのだが、そういうことでもなくて。

 麿坂とやらの狙いが、たいらを救うことにあるとは到底思えない。

 彼が本当に、あの強欲な社長の血を引いているのなら。何かもっと。

 もっと、彼にとって。

 絶対に。

 世間一般で受け容れがたい欲望が含まれていると思うのだが。

 勘繰りすぎか。

「あの、アズマさん?」たいらは麿坂とやらと日程の打ち合わせをしていた。

 決行は。

 一週間後。

 たった一週間後に、僕が知ってる桓武衡宜は死ぬ。

「アズマさん?」たいらが心配そうに僕の顔をのぞきこんでいた。

 麿坂とやらは、自分の分の会計だけ置いていなくなっていた。

 なんだろう。

 ものすごく気分が悪い。

「大丈夫ですか?」

「お前はそれでいいの?」

「衡宜がいなくなってくれることに躊躇いなんかありません」

 そうじゃない。

 たいらも気づいていない。僕にもまだはっきりとはわからない。

 社長は、たいらを廟晏を、跡継ぎ兼、キャンバスにするつもりで買った。

 麿坂とやらが、すでに社長と通じている可能性。

「あいつ、本当に信用できる?」

「何か裏があると?」

「わからない。でもそんなことができるなら、もっと早くやってれば良かった。違う? こんな十年以上経って今更虫がよすぎる。善人なんかいないってのが僕の持論だから。たいら、あいつの云う通り、衡宜がいなくなったところで、お前が社長のキャンバスの代わりになるだけかもしれない。麿坂とやらが云いたかったのは、そういうことじゃないの? それでもお前」

「アズマさんが気にしてるのは、僕で儲けられなくなることですか」

「あのさ、そういうこと云ってんじゃなくて」

「お願いです。人間キャンバス以外の方法なら何でもします。何でもしますから、今回のこの計画だけは、お目こぼしいただくわけにいかないでしょうか」

「お前、何云ってんのかわかってる?」

 たいらが僕に歯向かった。ことに憤りを感じている。と勘違いしている。

 そうじゃない。

 伝わらない。伝えられないもどかしさでひたすらに気分が悪い。

「女を抱けって云うのならそうします。アズマさんが稼ぎやすい方法で僕を利用してくれて構いません。でも、衡宜のキャンバスだけは、本当に厭なんです。毎日毎日毎日気が狂いそうになる。もう狂ってるんです。僕は空虚で空っぽで何もないんです。その何もない僕を役に立ててくれたのは、アズマさんだけです。だから僕はアズマさんの役に立ちたいし、アズマさんのためなら何でもします。だけど、それでも、キャンバスだけは」

 たいらは必死に訴えていた。

 だから、たいらが可哀相になったとか同情したとかそんなんじゃない。

 そこまで云うなら、ていうやつ。

「わかった。他の方法を考える」

「ありがとうございます」

 但し。

 決行当日、僕の眼と耳を連れていくことを条件に。

 要は、義弟に仕込んでるあれと同じ。

 口を出す権利はないけど、見届ける権利くらいはあってもいい。しかも特等席で。

 その日は。

 1月だけど雪が降っていた。足跡が残るくらい積もった。

 たいらは、門の外で麿坂と待ち合わせて地下に向かった。

 朝。

 人間キャンバスの時間だ。

「見えますか?」たいらがこっそり話しかける。鞄の中のカメラに向かって。

「何も問題ないからうまくやれよ」

「ありがとうございます」たいらの声は嬉しそうだった。

 それはそうか。

 今日で苦しみが終わる。そう思っているのだから。

「だれ?」衡宜が麿坂を見た。「お前、だれ?」

「久しぶりだな」

「ねえ、誰これ。アズマさん以外に会いたくないんだけど」

「さすがに憶えてないか」麿坂が衡宜に近づく。「兄貴だよ。忘れちまってるかもしれねえが」

「ねえ、ちょっと、出てってよ。お前も、突っ立ってないで。てゆうかお前が連れて来たの?」

 衡宜の様子がおかしい。

 ひどく怯えた様子で後ずさる。

「長いこと一人にして悪かったな。一緒に行こう。俺も一緒だから」麿坂が距離を詰める。

「来ないで。来ないでよ! びょーあん!! なにこれ、早く、追い出して!!」麿坂は手近にあった画材を麿坂に投げつける。

 当たったとしても小石がかすった程度の威力しかない。

 麿坂は足を止めない。

「お前がこんなことになったのはぜんぶ俺のせいだ。俺さえしっかりしてればこんなことにはならなかった。廟晏さん?にも迷惑かけて。今更遅いかもしれない。な? 俺と一緒に」麿坂が伸ばした手を。

 衡宜が振り払う。

 黒が。

 飛び散った。

 それは。

「来ないで!! 来るな!!これ以上来たら」衡宜はナイフを持っていた。

 なんでそんな危ないものが。画材の一種か。

 たいらは地下の出入り口に近いところで動かない。

「構わんよ。でも順序ってのがある」麿坂はナイフの刃の部分をつかんだ。「俺は後にしてもらわんと」

「やめろよ、なんなんだよ、お前。知らない。俺は、お前なんか」

 衡宜の頭がおかしくなりすぎて忘れているだけかと思ったが。

 もしこれが。

 本当だとしたら。

 いや、でもそうなるとますます麿坂の狙いがわからなくなる。

「たいら。嫌な予感がする。僕のことはいいからそこから離れたほうが」

 カメラが左右に揺れた。

 見届けたい気持ちはわかる。衡宜が絶命したことをその眼で確かめるまでは動きたくないだろう。

「ひどいことされすぎちまって、わかんなくなってるだけだよ。俺はお前を迎えに来たんだ。一緒に行こう。一緒に」麿坂が無理矢理衡宜を抱き締める。

 衡宜は床に落ちているものを手当たり次第麿坂の太い腕に刺そうとしているが。

「どけよ、どけって。びょーあん! 何見てるんだ。見てないで俺を」

「助けると思う?」たいらの声はひどく乾いていた。「僕にしたことはそんな程度じゃ晴らせない。だけど、いまここでいなくなってくれるんなら、それでいいよ。早く死んでよ」

 麿坂は上着から刃物を出して。

「悪いな。俺もすぐ行くから」という呟きを最後に。

 カメラが沈黙した。

 やばい。

 ほら、云わんこっちゃない。

 麿坂の刃物がカメラを破壊したと考えたほうがいい。

 なぜ?

 見られたくないことをするからだろう。

 見られたくないこと?

 衡宜を組み敷くとか?冗談きつい。

 しかし、たいらが心配だ。

 駆けつけたって間に合うかどうか。

 でも行くしかない。特等席ではなくなったけど野次馬くらいには。

 門は開いていた。

 真っ白い雪の絨毯に。

 赤い跡が点々と。

 門の外に出たのは手負いだ。

 地下に走る。

 たいらのケータイを鳴らしながら。

 出ない。

 地下に通じるドアも開けっぱなし。

 階段を駆け降りる。

「たいら?」

 来たのは久しぶりだった。オレンジ色の照明と、絵の具と獣のにおい。

 床に。

 たいらがうつ伏せで倒れていた。

「たいら!!」

 無暗に抱き起こさないほうがいい。血が。

 胸部に刃物が刺さっていた。

 救急車だ。

 何があった?

 そんなのはあとだ。

 執事とメイドは何をやっている。

「あ、ずまさん」たいらの口が開く。血も一緒に垂れ流れてくる。

「喋らなくていい。いま救急車」

「たいら、ぎは」

「ここにはいない。麿坂も。あんまり考えたくないけど、図られたんじゃないか」

「そ、うですか」

「何があったか、後で聞くから。いまは」

「だまされ、た」

 結果から云ってそうだろう。

 到着した救急車に乗って病院へ。

 手術中のランプがついてしばらくして、社長が切羽詰まった顔でやってきた。

「大丈夫かね」

 僕が連絡した。

「なぜこんなことに」

 廊下には誰もいない。

「君がいてくれて助かったよ。感謝してもしきれない」

 僕と社長以外誰も。

「屋敷にカメラがあったと思うんですが」音量を抑えて云った。「どうか早めにご確認されることを願います」

「これかね?」社長が僕の隣に座った。

 タブレットを膝にのせる。

 地下の入口を天井から映した定点カメラの映像。音声なし。

 たいらが麿坂と一緒に地下に降りて。

 その半時間後。

 麿坂が衡宜を抱えて出てきた。

「これを警察に」

「なぜ?」

「なぜって」

「だいじな息子は君のお陰で助かった。ああ、まだ手術中だったか」

「なかったことにされるおつもりですか」

「なかったこと? この映像がなんだと云うんだ。廟晏が友だちを連れて地下に降り、その友だちが帰るとき人形を持って出て行った。それだけのことだよ」

「正気ですか?」

「正気も何も。この映像からわかることだ。廟晏にもそう話すつもりだよ」

 ここが病院でなければ声を上げていたかもしれない。

 僕が?

 他人のために?

 違う。

「息子の命を助けてくれた君にだけ本当のことを話そう」社長が静かに口を開く。「私が知らなかったとでも思うかね? カメラは天井だけじゃない。それに、あれがやろうとしていたことは、私が遥か昔に許可を出してあった。やれるものならやってみろと云う意味だったが。人形が外に出たがるとは思えなかったからね」

「麿坂勇和というのは」

「長男だよ。人形は二番目だ」

「母親は」

「屋敷に女は一人だ」

 メイドか。

「天井以外のカメラも、使い物にならない頃合いか。葬式くらいは出してやらないといけないな」

 執事も。

 責任をとらされて。違う。

 こうなることがわかっていて、こうなることを見逃したという罪に耐えかねて。

 命を絶たされた。

 そうか。

 やけに屋敷が静かだったのはすでに。

「助からなかったらどうするつもりだったんですか」

「助かっただろう? 廟晏には君がいる。君は、利用価値のある物を易々とは手放さない」

 なにもかも。

 社長の手の平の上だったのか。

 胸糞悪すぎる。

 手術が終わってもたいらは眼を覚まさない。いっそ覚まさないほうが幸せかもしれない。

 なんて。

 僕が決めることじゃない。

 どこで聞きつけたのか、讃良智崗が見舞いに来た。その日の内に。

「衡宜は?」

 順当な質問だろう。僕だってそれが知りたい。

 病室はもちろんカネに物を云わせた個室。

 社長はたいらが息をしていることを確認すると、さっさといなくなった。

 つまるところ、事情を話せるのは僕しかいない。

「生きてるの?」

「どっちのことです?」思わず聞いてしまった。

 たいらの蒼白い顔がどうにも悲痛さを助長する。

「なにがあったの?」

「墓まで持って行けそうです?」

「どういう意味?」

「このままだと結婚相手が、あなたの知る衡宜じゃなくなるってことです」

「死んだの?」

「遺体がないので、葬式でどう誤魔化すかですね」

 讃良智崗が目頭を押さえて重たい息を吐く。

「ショックを受けているところ悪いんですが、衡宜の顔は?」

「十年以上会ってないわ」

「あなたが知ってる衡宜は、僕が知ってる衡宜なのかどうかって意味なんですが」

「どういうこと?」

「市長は?」見舞いに来るかどうか。

「私は云ってないけど」

 じゃあ、ここで話していても大丈夫か。

「衡宜は二人いたんですよ」

 讃良智崗が眼を逸らした。

 ああ、やっぱり。

「ご存知でしたか」

「私を誰だと思っているの?」

「市長の娘ですか」その返答が妙に可笑しかった。

「父が云うなら火星人とでも結婚するわよ」

「いまどき殊勝な方ですね」

「いまさら何も驚かないわ。衡宜が廟晏くんになろうが」讃良智崗が白いベッドを見る。「だから、全部話してちょうだい。私には知る権利と義務がある」

「あなたの知ってる衡宜はどっちだったんですか」

 自称麿坂か。

 地下にいた方か。

「私が決めることじゃないでしょ。社長がこれからどうするかなんて、あなたにだってわかるはずよ。だからたいらって呼んでるんじゃないの?」

 ゼロからすべて説明する必要はなさそうだ。

 手間が省ける。

 麿坂から連絡があった。正しくは、たいらのケータイに。

 たいらがまだ眼を覚まさないので僕が代わりに出た。

「いまから会えないかい?」

「僕でよければですけど」

 そんなことより。

 衡宜は?

「そいつも含めて。ちと頼みがあってな」

「死体の処理とか、遺品整理とか、その程度の用事で呼びつけられたら堪ったもんじゃないですね」

 沈黙。

 まさか正解じゃないだろうな。

「まあ、とにかく来てくれや。場所はそっちに送っといた」

 メールに住所があった。

 麿坂のアパート。

 鍵が開いているので勝手に入って来ていいとのこと。

 暗い廊下。

 生臭いというか、何かが腐ったようなにおいがして。

 鼻を押さえると。

 後ろに気配がして、そして。

 振り返る隙はなかった。

 油断。

 いや、割とどうでもよくなってたのかもしれない。

 生きてようが死んでようが。

 たいら、ごめん。

 真実には自分で辿り着いて。

 あと。

 僕がいないからって死ぬ理由にはしないで。

 地獄に付いてこられたって迷惑だから。



     4


 何年前だったか。兄を陥れて大怪我を負わせたことがあった。

 言い訳に聞こえるけど、僕が直接手を下したわけじゃない。

 兄に想いを寄せる先輩に助言するふりをして、僕の計算通りにことを動かした。

 僕はまったく現場に足を運んでいない。一歩も部屋から出なかった。

 はっきり云って、快感以外の何物でもなかった。

 ゲームのようだった。

 僕の指示一つで人が生きたり死んだりする。

 人の命なんか。

 その程度の価値しかない。

 兄はいまも郊外の病院で治療中。

 兄に想いを寄せる先輩が足繁く見舞いに通って、日記代わりに僕に報告してくれる。

 兄はまだ目覚めない。

 いっそ目覚めないほうが幸せなんじゃないかと思う。

 そのことで姉に存在を消されそうなほど怨まれた。いまも赦してはくれていない。

 僕が白竜胆会の本部に近寄らないのはそのため。

 でも、父は僕を次期総裁に指名している。

 姉はどうする気だろう。総裁に直談判するのだろうか。

 どうでもいいか。

「廟晏くんをどこにやった?」麿坂の声だと思う。

 視界が歪んでいる。

 後頭部殴打のせいだ。

「云えないなら書くか? それとも」何かを足元に放られた。

 足元?

 座っているのか、立っているのかも覚束ない。

 僕のケータイだ。

「タップくらいはできっだろ。ほら」

 握らされるが力が入らない。

 拒否しているわけじゃない。

 本当に、

 手に力が入らないんだ。

「強くやりすぎたか。弱ったな」

 弱ったのは僕の方だ。

 二度と文化的な活動ができなくなったらどうしてくれる?

 腐敗臭が鼻腔にこびりついてもはや自分の体臭な気がしてきた。

 なんでこんな汚濁の中で息ができる?

「喋れねえのか?」麿坂の太い指が僕の口をこじ開ける。

「簡単に死なれては困ります」

 僕の耳がまだ正常なら、いま聞こえた声で殺人計画のすべてが見通せた。

 なるほど。

 僕を殺したいほど憎んでいる女。

 姉だ。

「あなたのせいで、マズルさんはいまも目覚めない」

 石段から足を滑らせたのは、兄貴の先輩が突き落としたからなんだけどな。

「あなたがマズルさんにわけのわからない卑猥なバイトを紹介しなければ」

 漫画家のモデルになるバイトは兄貴が自分で探したんだけどな。

「マズルさんを返してください」

 それは先輩に云ってよ。

 僕は兄貴を奪ってなんかいない。

 それにそもそも兄貴の心を奪ったのは。

「サズカさんにもきつく云い聞かせています」

 いや、そっちじゃなくって。

「都合が悪くなると聞こえないふりをするの。サズカさんのもう一つの人格ってそういうことでしょう?」

 さあ、僕は専門家じゃないから。

「そのへんにしといてくれるかい? 俺も急いでる」麿坂が姉の横から文字通り顔を挟む。「社長と取引してる。廟晏くんを差し出せば衡宜を、もちろん、俺じゃなくて、弟の方だが、解放してくれるってな。もともと廟晏くんは社長が買ったキャンバスだ。それを、何かの手違いで、衡宜が愛用してんだ。社長も困ってる」

 要は、麿坂が衡宜に戻るのか。

 たいらと衡宜を交換する。

 僕には今更衡宜がまともに生きていけるとは思えない。

 何かの手違い。

 僕の裏工作のことか。

「あんたを人質にすれば、廟晏くんは誘き出せるかい?」

 それは、間違いなく。

 のこのこ出てくると思うけど。

「病院にいなかった。家にもどこにも。社長も知らないらしい。これはもう、あんたの手引きがあったとしか」

「本部にもいないの。あなたの家にも。総裁も知らないそうよ。これはもう、あなたの手引きがあったとしか」

 なんで。

 麿坂と姉の声がダブって二重に聞こえるんだ?

 どちらかが。

 僕の脳が作り出した幻。

 どっちだったら。

 この状況を打開できるだろう。云い換える。

 生きて帰れるだろう。

 生きて帰る?

 生きていたってすることもないのに?

 したいこともないし。

 ああ、でも。

 たいらは悲しがるだろうな。

「君には多くを知らせすぎた」耳のすぐ後ろで社長の声がした。「でも消えてもらうには、君の存在は大きすぎる。白竜胆会との関係が断絶するだけならまだしも、市長の顔にも泥を塗りかねない。だから、どうだろう? 君には共犯になってもらいたい」

「たいらを、本当の御曹司にするんですね?」

「おいおい、そいつは話が違う」麿坂が口を挟む。「廟晏くんをあんたのキャンバスにして、衡宜を元々の通りあんたの跡取りにするっていう約束で」

「お前がまだ死んでないじゃないか」社長が冷え切った声で言う。「無理矢理攫ったお前に発言権はない。あの子は本当に外に出たがったのか? いや、そんなことは絶対にあり得ない。外に出たところで待っているのは、悪意に満ちた心ない獣の類ばかり。楽しいことも、興味を引くことも、あの地下にしかない。そう教えてきた」

 ひどい英才教育だ。

 間違いなく、社長の生き映しだよ。

「じゃあ、間を取って、麿坂には死んでもらって、衡宜をキャンバスにして、廟晏を跡継ぎにしたらどうです? 何も目新しくはないんです。表向きは、麿坂が現れる前の状況と差がない。市長には、衡宜が病死したから、廟晏にしてくれと頭を下げるだけでいい。市長の娘には僕から云いましょう。どうです?」

 姉の声が消えた。

 麿坂の影が見える。

 社長の姿は見えない。

 要は、そういうことなのだ。

 僕は、麿坂のアパートにいて、後頭部強打のせいでわけのわからない幻を見ていた。

「もう一遍聞くが、廟晏くんはどこにいる?」麿坂は刃物を持っていた。

 それで脅しているつもりなのだ。

 僕はうつ伏せで、後ろ手に拘束されている。

 麿坂の後方が玄関だろう。

 ここは、

 血のこびりついた薄暗い廊下。

「いい加減に、とぼけないでくれるか。病院にいないなら君に聞くのが筋だろうに」

「そんなの電話口で済ませてくださいよ。わざわざこんな」鼻が曲がりそうなほどの腐敗臭を浴びせて。「僕が真っ白だったらどうするんです?」

「いや、知ってるよ。君は知ってる。君に知らないことはない。君は衡宜と俺を切り捨てて、廟晏くんを選んだ。廟晏くんは結局キャンバスのままだ。描く相手が変わるだけだよ。廟晏と長く一緒にいて情でも移ったかい? 元々君は衡宜の友だちだったじゃないか。友だちを裏切るのか?」

 友だち。

 裏切り。

 鼻で嗤える。そんなもの。

 一体なんの価値があるというのだ。

 付き合う人間は僕が決めるし、付き合わない人間が死のうが生きようが殺そうがどうだっていい。

 廟晏を生かす価値。

 廟晏を買うように社長に進言したときから共犯の腹は括っていた。

「家に帰りたいんですが」

「帰ってくれていいさ。だがその前に」麿坂が僕の鼻先に刃物を突き立てた。

 床に穴が空いた。

 身体は起こせない。

 かわすことはできそうにない。

「廟晏くんの居場所を吐いてってくれや」

 なんで。

 病院で意識が戻らないたいらの居所を、麿坂が知らないんだ?

 本当に麿坂からの電話が来たんだろうか。

 ここは麿坂のアパートなのだろうか。

 本当にうつ伏せで後ろ手を拘束されているのだろうか。

 幻に幻の上書きをしていないか。

 僕は本当は、

 どこで何をしているんだ?

 どこで何をしたいんだ?

「助けに来てくれたの?」衡宜の声がした。「アズマさん、助けて。助けてください。痛いんです。血が出てて。止まらなくて。殺される。変なのに無理矢理連れてこられて。帰りたい。かえりたい」

 帰るって、

 どこに?

 お前の居場所は最初からそこじゃないか。

 暗くて狭い土の下。

 讃良智崗は泣いていた。僕は永久に彼女に逆らえない。

 社長は、市長夫妻と別室で話をしている。

「廟晏くんは?」讃良智崗がハンカチで涙を拭いながら云う。

 麿坂に殴られた後頭部が痛む。

 あいつ、絶対本気でやりやがった。

「大丈夫?」

「生きてるよ。まだ何も知らないけど」

 讃良智崗が呼ばれた。

 帰ろうか。

 たいらはまだ目覚めない。



     5


 僕はここをテーマパークだと思っている。

 ヒトがいっぱい蠢いて、カネがたくさん動く。

 変な建物がぽこぽこあって、怪しい催しがどんどこ開かれる。

 宗教法人白竜胆会。

 最高責任者は総裁と思われがちだが、実はそうじゃない。

 信者なら知ってる。

 総裁は外向きのスピーカでしかない。

 本当の支配者には、幹部しか会えない。

 僕は、総裁の息子で、次期総裁候補で、関係者で、縁者だ。

「マチハ様? いるんでしょう。話があります」

 天井にステンドグラスが嵌まっている。

 上を見ながら返答を待つ。

 ちかちか眩しいだけの過剰装飾。

「私へのご用件は総裁にお申し付けください」空から声が降ってくる。

 仕掛けを聞けば拍子抜けする。

 天井にスピーカがあるだけ。

「伝言ゲームの理論ですよ。内容と意図が歪められる恐れがあるので」

「総裁を呼びますよ」

「今日はいませんよ」知ってて敢えて今日にした。今日を狙ったと云い換える。

「では日を改めてください」

「総裁不信任決議って、貴女の許可があればよかったんですっけ?」

 息を呑んだ音がした。

 僕の推測が確かなら。

「貴女が僕の母親でしょう?」

「答えることは許可されていません」返答が著しく早かった。

「誰にです? 総裁が貴女の指示で動いてるの、皆知ってるんですよ」

「答えることはできません」

「じゃあそっちはいいです。物のついでで聞いただけですから。不信任決議のほうに戻しましょう。つまりは、貴女が是と云えば白だし、非といえば黒になる。貴女の云う通りに動かない人形は、切り捨てるだけ。裏を返せば、貴女の云いなりの人形なら、誰だっていいわけです。現総裁だって、僕だって」

 間があった。

 考える間というより、場面転換の間。

「不信任決議が通ったのち、総裁選に立候補するおつもりですか」マチハ様が云う。

「最初から総裁に“なる”ために、僕は総裁の息子なんかやってるわけでしょう? 何を今更って感じですけど」

 白竜胆会の創始者は、マチハ様の実父。

 要するに、単なる世襲制でしかない。

「アズマさんの私利私欲のためにほいそれと開け渡すわけにいきませんの」姉がいた。「これ以上、マチハ様を困らせないで頂けます?」

「姉さんが代わりに話を聞いてくれるのなら」

 裏の通用口から敷地の外に連れ出された。

 僕が本部の土を踏んでいるのが気に入らないのだろう。

「ここだと誰かの耳に入りますよ?」

「不信任決議なんかさせませんわ」姉が云う。

 空が昏くなりつつある。

「させるかさせないか、僕は決められませんよ。よくおわかりのはずです」

「使った分を取り返さなければいけませんものね」

 壁にもたれかかる。

 風がちょっと冷たい。

「よく、ご存じですね」

「サズカさんから聞きましたわ」

 なんでサズカが知ってるんだろう。

 地獄耳の姉が知ってるならまだしも、そっちのほうが不思議だった。

「別に金が目当てでどうのこうじゃないんですよ。失った分なんかなんとでもなります。僕がここを手に入れてどうするかなんて、姉さんならわかるでしょう?」

「あなたにだけは渡しませんわ」姉が云う。

「へえ、出馬でもするんですか。次期総裁って“決まってる”僕に対抗して?」

 姉が目指しているものはなんだろう。

 僕が頂点に立って好き勝手されるのが生理的に厭なだけだろう。

 何のビジョンもない。何をしたいわけでもない。

 その程度の脆弱な意志で。

「ところで、兄さんと話せましたか?」わざと話題を振った。「当日会場にいないと無効票なんでしょう?」

「私の弟ならもう一人いますわ」

「色仕掛けでもして抱き込もうって? てか、彼に権利があるかどうか、ちゃんとマチハ様に確認しておいてくださいよ?」

 すっかり忘れていた。

 いるじゃないか。とっておきの伏兵が。

「まさか、マズルさんと同じことをするつもりですの?」鉄壁な姉の表情が強張った。

「彼は僕に逆らえない。そうゆう約束でKREを救ってやった恩があるんです」

「総裁が再婚したのは、あなたの計画の内だったのかしら」

「再婚? 莫迦云わないで下さいよ。あの男が孕ませた女は最初からたった一人しかいない。本来そうなるべきだったところに戻しただけです。感謝されこそすれ、姉さんにそんな顔される謂われはないですね」

 どいつもこいつも。

 何も知りゃしない。

 自分だけお綺麗なままでいやがる。

「優しい兄さんじゃ、ここで息はできません」

「どういう意味?」姉が云う。

「姉さんは、自分が汚れないためにサズカを利用しているだけですよ。もう祭壇に入れるの、姉さんだけじゃないですか。純潔がどうのこうのっていうアレ、どこの処女厨が決めたクソ教義なんです?」

 姉が口を開く前に遮った。

「兄さんも、とっくにヤってますよ。姉さんが知らないだけで」

「アズマさん」

「僕はこんな莫迦げた世界を終わらせたいんですよ。だからまず手始めに白竜胆会を潰します。教義?信者? 知りませんよ、僕が始めたんじゃないんですから。路頭に迷ったって、お布施が集まらなくなったって知らない。姉さんに一方的に恨まれて不快ですけど、この際はっきり云いましょう。この下らない祭りを見せないために、兄さんには席を外してもらう必要があった。あの人にこの汚濁は耐えられない」

「どの口で仰るの?」姉の声が引き攣る。「ご自身の胸に聞いてください。あなたが、あなたがマズルさんをそこの石段から」

「実際に見てないくせに、勝手に決めつけないで下さい。実際に見てた預言者さんに聞いたら如何です?」

 姉が口を噤む。

 口で僕には勝てない。

「サズカは生まれてずっと汚濁のなかで培養されたせいで善悪の判断がついてない。まあ、兄さんよりは好かれてるはずなんで、折を見てなんとかしますよ。根は素直な子なんで。どこかの誰かさんと違って」

 姉が自分の腕を掴む。「ここを潰してその先はどうするの?」

「さあ?潰してから考えます。姉さんも賢いんですから、そろそろ気づいてくださいよ。間違ってるのは僕らじゃない。僕らを勝手に生み出して、勝手に競わせて、遺伝子を存続させようとする、もうとっくに死んだ意志です。そんなのに従うことなんかない。セックスしても全然楽しくないのは、きっとそういうことなんでしょうね。もし間違って殖えちゃったら最悪ですから」僕は姉を見た。「女なんか大嫌いだ」

 木々がざわめく。

 敷地の外は森になっている。

 行こう。

 身体も冷えてきた。

「協力してくれるんなら早めに云ってくださいね。そうじゃないと、敵ってことになっちゃいますから」

「私も殺すの?」

「も、てのはなんですか? 僕は誰ひとり殺してなんかいない。濡れ衣もいいところです」

 姉は呼び止めなかったし追っても来なかった。

 姉が次に採る手段はわかっている。

 僕を失墜させる仲間を増やすこと。

 さて、そう簡単にいくだろうか。

 なんとなく歩いていたら例の石段に来てしまった。数えたことはないが、優に三桁はあるだろう。

 何度も云うが、兄がここから落ちたのは、僕のせいじゃない。

 藤都巽恒に電話をかける。

「こんばんは、僕です。朝頼アズマ。旅費を全額負担するので、こっちに来れませんか」



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