8
しばらくして泣き止むと、彼は私の背中をゆっくりと背もたれに戻した。そして、一緒にご飯を食べてみよう。と言った。
少し冷めてしまったスープを口に含む。
ほんのりとした塩気。野菜の旨み。たしかにこのくらいであれば食べられる気がしてきた。
木製の、少し長めな箸で春雨を掴む。スープに浸ったそれはとてもなめらかで、食べやすかった。
彼は、そのスープに加えて何やらパンを食べている。恐らく自家製なのであろうマーマレードが、朝日に照らされて綺麗だった。
大きな窓から見える広大な海と小さく動く漁船を眺めながら、私と彼は静かに食事をした。
気がつくと、お皿の中のスープはなくなっていた。
「ごちそうさまでした。」
と言う。彼は私の皿の中を覗くと、ソファーからすくっと立ち上がり、私の頭を撫でた。
「偉いね。よくできました。まだ食べる?」
「あっ、大丈夫です。とても美味しかったです。」
と答える。彼は白い食器をお盆の上に載せると、
「僕はこの片付けと、あと今日の治療の準備をしちゃうから、君はソファーで休んでいていいよ。ブランケットはそこの棚の一番上にあるからね。」
と言われた。
「あっ、じゃあお皿の片付け私がやります。」
とっさにそう言ったが、彼は「いいよいいよ」と台所の方へ歩いていった。
彼にそう言われたからには、片付けをしなくても良いのだろう。リビングに置かれている唯一の棚からブランケットを出し、休むことにした。
3人、いや4人は楽にかけられるであろうソファーに寝転がる。この家に、こんなに沢山の人が来る事はあるのだろうかと考えながら、目を閉じる。
遠くで、皿と皿がぶつかる音が聞こえる。そこで私の意識は終わった。
明日花、あすか、と名前を呼ぶ声が聞こえる。うっすらと目を開けると、そこには彼の姿があった。
今考えると、今初めて彼に名前で呼びかけられた気がする。
何かが心のなかで転がったような、むずむずとした感じがする。
「ついておいで。」
白衣にマスク。これは何かが行われるのだと察した私は、素直に彼のあとについて行った。
白く少し大きな引き戸を引いて、診察室のような部屋に入る。しかし今日はそこをスルーして奥の処置室へ向かった。
またふかふかのベットに寝かされ、右腕の袖を肘の上までまくられる。
「はーい、じゃあ少しだけチクッとします。」
針が腕に入って来る痛み。そしてすぐ、液体が流れ込む痛み。
「朝のお薬飲んでなかったみたいだから、痛み止めも点滴に入れとくね。」
そう言って彼は、チューブの途中に黄色の薬を流し込んだ。
そして手際よく左腕の袖もまくり始めた。
「君、包帯巻くの上手だね。しっかり固定できてるよ。ごめん、痛いかもしれないけど、また消毒しておこうね。」
くるくると包帯を解く彼の手は、やはり暖かくて綺麗だった。
大きな脱脂綿の入ったビンがベッドの脇に置かれる。
「はい、じゃあちょっとだけ我慢ね。」
ヅキヅキと、何かを刺されているような痛み。体が思わずビクッと反応する。
彼は処置をしていない方の手で、左手を握ってくれた。
「はーい。いい子。今日もよくできました。1時間くらいかな。ゆっくりしてていいからね。」
ゆっくりと私の頭を撫でると、窓のカーテンを閉め、彼は歩き去ろうとした。
彼がドアを閉めるのと、私のかすかな声が喉から出るのは同時だった。
「あの、私……」
彼の顔がこちらを見る。堀が深くて、色白で。これだけ綺麗なら、女の人も多いのだろうか。
「やっぱりいきたくないです。」
「もう、生きたくないです。だって、だって…」
ここまで言うと、もうその感情は言葉にならなかった。
彼は、その大きな目でわたしを見つめた。
私は泣きながら、彼にすべてを話した。
どうして腕にたくさんの傷があるのか。
そして、どうしてあの時、海に身を投げようとしたのか。
私が話をしている間、彼は頷きながら頭をなでてくれた。
白衣のきれいな匂いが鼻の中に入って来る。小学校の時、お母さんがアイロンがけをしてくれた割烹着の匂い。
「だから、もう私はここにいたくない。」
私がここまで言うと、彼はおもむろに部屋の奥へ向かった。
真っ白なグランドピアノ。
映画やドラマでしか見たことがなかった。
白衣を着た彼が椅子を引き、袖をまくり、指を置いた。
大きな手で弾き始めた曲は、ドビュッシー、月の光。
彼の音色はとても優しくて、窓から見える海に溶けてしまいそうだった。
心の中を洗ってくれるような、そんな気がした。
「君、今日楽譜忘れたでしょ。」
話しかけられて、はじめて曲が終わったことに気付いた。
「あっ、忘れてました。ごめんなさい。」
自分でも驚くほどの鼻声で答える。
「こういう事、一緒にしたかったから楽譜って言ったのに。」
こういう事、とはピアノを弾くことだろうか。
「学校、嫌な日は行かなくていいし、家にいたくない日はここにいていいから。僕とピアノと君でさ、色々考えてみない?」
思えば、いつだって私を助けてくれたのは音楽だった。
彼はそれをわかって私に言っているのだろうか。
私はこくんと頷いた。
私の運命は、あの日を境に大きく変わった。
ーーー兄が、海に身を投げた。
それを聞いたのは、悲しいほど空が綺麗な日だった。
私の実家は、地元でそこそこの規模の会社を経営している。
兄は、順当にいくと会社を継ぐべき人だった。
6年前。私が10歳で兄が18歳の時、兄は親や祖父母から強烈なプレッシャーをかけられ、一流大学の入試を受けさせられていた。
兄の名前は蒼汰といった。だから私は彼のことをそう兄と呼んでいた。そう兄は、空がとてもきれいな、秋晴れの日に産まれたそうだ。
そう兄は優しい兄だった。
頭も良くて、スポーツもできた。おまけに顔も良かったので、毎年バレンタインには沢山のチョコを持って帰ってきた。
そのチョコを一緒に食べながら、「あすかは、どんな子よりも1番かわいいよ。」と言ってくれた時のことは、今でもずっと心に残っている。
彼は受験期に入ると、家に帰ってくるのが遅くなった。
大好きだったピアノやサッカーをやめ、学校では遅くまで自習をし、その後予備校に通っていたらしい。
その頃から、彼の目に光が無くなったのに気づいていた。
家の中でも彼とはすれ違いの生活になり心配になった私は、夜な夜な彼の部屋を訪ねた。
彼は家でもまだ勉強をしていて、後ろから見る背中は、少し細くなったように思えた。
私はそんな背中を後ろから抱きしめた。
そう。昔から彼はよく私を抱っこしてくれていた。
びっくりしてこちらをみる彼の目は、少し充血していて、その下には大きなくまができていた。
「そう兄、もう受験なんてやめちゃいなよ。」
私はそう言った。しかし彼は、
「ありがとう。あすか。でもお兄ちゃんは、頑張らなくちゃいけないんだ。どうしてもね。」
と言った。
「そんなになってまで頑張る意味があるものなんてないよ。」
私はそう返した。
「ううん。お兄ちゃんは、あすかを守るために頑張ってるんだ。だから、構ってあげられなくて寂しいかもしれないけど、ちょっとまっててね。」
彼は、その大きな手で、私の頭を撫でながらそう言った。
私の事を守るため。その時はどういうことだか分からなかった。
その後彼は、もう遅い時間だからと私を部屋へ連れ戻し、寝かしつけてくれた。
その受験が成功すれば、そう兄は今も私の隣にいてくれたのかもしれない。
しかし、彼が力を尽くして挑んだ受験は、良い結果にならなかった。
クリフ 芹生 湖白 @kyulasu
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