7

 まだ早い時間なので、彼が起きているか心配であった。


 口から出る綿菓子のような水蒸気は、遠い海に流されていく。


 そもそも彼はあの家で暮らしているのだろうか。全く生活感の無い部屋を思い出し、そんなふうに思う。


 海からの風は冷たく、行き交う人も少ない。先程すれ違った犬を連れたおじいさんには、変な目で見られた気がする。


 例のロープをまたぐ。もう今日は、怖くない気がした。


 彼の家に行くと、どうやら彼は起きていそうだった。窓からはうっすらと光が見える。


 強めに3回、ノックをする。高校受検の面接練習の時に、2回のノックだと失礼だと教わった。《《》》


 しばらくするとタオルを首に巻いた彼が、にっこりと微笑んでドアを開けた。


「今日はずいぶん早かったね。どうぞ、入って。」


 優しい声で言われる。もしかしたらここが私の居場所なのかもしれないと、ふと思う。


「朝ごはんは食べた?」


 そういえば朝ごはんなんて忘れていた。最近は朝起きた瞬間から、吐き気に襲われるのだ。


「いえ。朝は吐き気がひどくて。」


「そっか。じゃあいまも気持ち悪い?」


「はい、少し。」


 そんな会話をしながら、ふかふかのソファーに腰かける。


「昨日のゼリーとお薬、ちゃんと飲めた?」


「あっ、昨日の夜は飲みましたけど、朝は何にもしないで出てきちゃいました。」


「了解。じゃあ朝ごはん、一緒に食べてみようか。大丈夫。ちゃんと食べやすいやつ作ってくるからね。」


 すくっと立ち上がると、彼はキッチンに向かった。


 食べると言ったって、ここ数日はインスタントのスープかゼリーしか口にしていない。食べなくてはいけない、と思いつつも、どうしても食べられないのだ。


 もしも彼が作ってくれたものを食べられなかったらどうしよう。迷惑にならないだろうか。


 食事は色々な問題になることが多い。怖い。


 ほんのりと、コンソメのような匂いがする。何となく、食べられるような気がしてきた。


 しばらくすると、お盆を持った彼が現れた。やはり彼の手は大きい。お盆を楽に持っている。


「はーい、できました。野菜のコンソメスープ。あっ、春雨も入ってるよ。よかったら食べてね。」


「ありがとうございます。」


「多分君が嫌なのは、お肉とか、お魚とか、ご飯とか。そういう重めな食材だと思うんだ。だから、このくらいなら美味しく食べられると思うよ。」


「全部食べきらなくても大丈夫ですか?」


「どうしてそんなこと聞くの?全部食べきらなくたって、君が食べたい分だけ食べればいいんだよ。」


「優しいんですね。」


 少し前の事だ。朝ごはんが食べられないのに、親が食べろと強要してくるので、仕方なく一口だけ食べた。


 するととても気持ちが悪くなり、もうそれ以上は食べられなくなった。限界だったのだ。


 しかし、一口だけかじられたパンを見て、親は激怒した。


 汚らしい。それだけしか食べられないのなら、そもそも食べるな。と言うのである。


 さっきまで食べろ食べろと言ってきたくせに。


 嫌な記憶が蘇り、気がついたらまた苦しくなっていた。


 彼はいつの間にか私の隣に座り、大丈夫大丈夫、と声をかけてくれていた。


 食事を食べる事さえも戸惑う自分自身に嫌気が差した。


「ごめなさい。ごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい。」


 泣きながら彼に向かって謝った。


 彼は言う。


「どうして君が謝るの?大丈夫だよ。大丈夫。きっと、食べることに対してなにかトラウマがあるんだね。」


 そして私の目を見て言った。


「ねえ、ちょっとさ、その暗くて苦しいの、僕に分けてくれない?」


「目、つむって。」


 そう言われた瞬間、温かいものに身体を包まれる感じがした。


 長らく感じていなかったこの気持ち。苦しさも、悲しさも、辛さも、全てが楽になる気がする。


 そして、私は彼に何をされているのかに気がついた。ハグをされているのだ。男の人にハグをされるのがこんなにも安心する事だなんて知らなかった。


 赤ちゃんをあやすお父さんのように、彼は私の頭をなでた。そして、沢山。もう数え切れないくらいに、「いい子だね。」と言った。


 私は自分自身のことを、ずっと悪い人間とだと考えてきた。


 何をしても親から叱られるし、認めてもらえない。だからきっと、私は悪い子供なのだと思ってきた。


 でも、それは間違いだった。


 だって私はいま、彼に、こんなにたくさん「いい子だね。」と言われている。


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