歩道橋の上で

ラーさん

歩道橋の上で

 オレは走っていた。

 軋み。

 叫び。

 オレの体を突き抜ける。

 衝動。

 オレは走った。

 揺れ動く世界。

 感情に押されるように。

 動悸。

 息は激しく。

 不安。

 熱く。

 緊張。

 走る。

 あの歩道橋の上。

 その向こう。

 空。



  ***



 暑い。

「はっ、はっ」

 八月だ。

 入道雲がそびえる空に、白い太陽が輝いている。

 夏空である。

 蝉が高く鳴いている。

「はっ、はっ」

 オレは走っていた。

 高校三年の夏だった。

 高三の夏は夏期講習の夏だ。

 何が楽しくて休みの日にまで勉強せにゃならんのかと思わないでもなかったが、

「夏に自分を追い込まなかった奴は、冬に追い込まれて泣きを見ることになるんだ」

 という先生の脅迫や、

「え、おまえ予備校行かないの? そんなんじゃ大学落ちるって」

 という友人のありがたいアドバイスに従って、

「はっ、はっ」

 オレは予備校に向かって走っていた。

(ヤベー、初日から遅刻すんよ)

 暑い。

 冷房を効かした家からぎりぎりまで出るのを粘り続けた結果だった。

 走れば間に合うかという時間。

 暑い。

 走りたくはなかったが、初日に遅刻では講師にも目を付けられてしまうので走らざるを得ない。一回の遅刻で狙って指されたり、嫌味や皮肉の対象にされたりするのはごめんだ。

 噴出す汗。

 シャツはぐっしょり濡れた。

 あの横断歩道を渡れば予備校までもうすぐだが、こういうときに限って妨害というのは入るようにできている。

 赤信号。

(だぁっー! ちくしょう!)

 この信号は長い。余裕で三分は待つ。

 待てば遅刻。

 どうするか?

(くそっ! しかたがねぇ!)

「だっ! ほっ!」

 信号の隣に歩道橋があった。

 駆け上る。

「はっ! たっ!」

 暑い。

 うだる。

 汗。

 足が重い。

「だっ! やっ!」

 歩道橋の上。

 女の人。

 白い服に白い帽子のその人は、夏の日射しが降り注ぐ、白く輝く歩道橋の上で、一人静かにたたずんでいた。

 オレは後ろを通り過ぎる。

 横顔。

 空を見ていた。

 空は青。

 雲は白。

 車の音。

 蝉の声。

 オレは歩道橋を駆け下りる。

 予備校にはなんとか間に合った。オレが汗だくで席に着くのと、講師が教室に入ってくるのとは同時だった。

 最初の授業ということで、いろいろと授業の進め方について説明があったが、なんとなく集中できなかったので、頭に入らなかった。

 帽子の影からのぞけた、夏空とは対照的な物憂げな表情。

 今日は英語と国語の二コマの授業。終るのに三時間。

 帰りに歩道橋を見上げたが、彼女はもういなかった。



  ***



 さて、こうしてオレには気になる彼女ができたのであるが、それがあの日限りのことであるのなら、たいしたことにはならないはずだった。

 翌日。

 予備校への道。

 さすがにオレも二日連続では走らない。

 あの横断歩道。

 その隣の歩道橋。

 その上。

 白い帽子の彼女がたたずんでいた。

 その翌日も。

 その翌々日も。

 毎日いたのである。

 晴れの日の昼間には必ずいた。

 おかげさまで気になって気になってしょうがない。

 信号が青でも、歩道橋を渡って通るのが日課になってしまった。

 そっと横顔を盗み見る。

 遠い顔。

 さすがに声を掛けるのはためらわれたが、

 惹かれた。

 結果、授業は上の空である。

「お~い、キミタカ」

「えっ」

「授業終ったぞ」

 と、友人の宮井に言われるまで気付かないぐらい、気持ちは空の上だった。

「ほら、次の教室移らんと、いい席なくなっちまうぜ。講師の目の前はやだかんな」

「ああ」

 宮井に促され廊下に出る。

 宮井は高校の同級生だ。国立志望で頭がいい。ついでに顔もよく、性格も明るく社交的で頼りになる。友人として実に将来の期待できる男だ。

「最近どうしちゃったのよ。えっらい気ぃ抜けて」

「うっせい」

「うーん、こいつはあれか?」

「なんだよ」

「ズバリ、好きな女ができた」

 そして勘も鋭い。

 その鋭さに胸が驚く。

 驚きが顔に伝わったか、宮井は意地悪そうに笑った。

「おっ、その反応。なんだ図星かい」

 宮井がニヤニヤとオレの顔をのぞき込む。

「でも残念。時期が悪いね。ほら、浪人とかなったらポイント低くなるし」

 と、宮井の警句はもっともなことなのだが、

「わ、わぁーてるよ」

「ホントか~?」

 時、既に遅く、今や彼女の横顔を見るのが、オレの夏期講習中最大の楽しみになっていた。

 彼女は日が暮れる予備校帰りには必ずいなくなっている。

 それが結構ガッカリくる。

 それぐらい、彼女はオレにとって気になる存在になっていた。

 今日も帰りにはいなかった。

 ガッカリした。



  ***



「キミタカ! ちゃんと勉強してるの!」

 部屋で勉強をしていると、突然母親がドアを開けて、オレに向かってそう言った。

「な、なんだよ、いきなり」

 机に向かうオレの姿を見て、母はほっと一息ついた。

「ちゃんとやってる? ……それならいいんだけどね」

「なんだよそれ」

「いやぁね、三軒隣の大庭さん家の息子」

「ああ、タカシ兄さん」

 オレより二つ年上のご近所さんだ。

「そう、浪人して今プーのタカシ君」

 身もフタもないことを言う。オレは嫌な予感がした。

「ほらさ、タカシ君、真向かいのケイちゃんと前から付き合ってたじゃない」

 ケイコ姉さんは、タカシ兄さんの同級生でクラスメイト。

「ふられたらしいのよ」

「えっ」

 手をつないで街を歩く姿は、幾度と見かけた。

 だが、最近は見ていない。

「別れの台詞がなんでも、『一年浪人ぐらいならまだしも、高卒フリーターで人生設計も真っ白な人とはこれ以上付き合えない』だとか」

 ケイコ姉さんは大学生。心理カウンセラーになるのが夢とかで、臨床心理学科のある大学に通っている。

 それにしてもこんな具体的な別れの台詞なんて下世話なことを、母はどこから聞いてくるのだろうとか思っていたら、

「あたしゃ、これを聞いて一番にあんたの心配をしてしまったよ」

 矛先がこっちに向いた。

「……なんで?」

「あんた、この前の模試も志望校ギリギリの成績だったでしょう」

 予感的中。

 母の愚痴は苦く鋭い。

「昔っからそう。あんたはいつもソコソコで」

 痛い。

「ソコソコにしかやらないのか、ソコソコにしかできないのか」

 刺さる刺さる。

「どっちにしろ出来はよくないんだから、ヤル気で勝負だってのに、それもソコソコでさぁ」

 親のセリフか?

「それで今のご時世は、やれ能力主義だ、やれ自己責任だのの時代じゃない。そこでのソコソコを考えると、あんたの将来、不安に思っちゃうわよ」

 母の愚痴は苦く鋭い。

 鋭すぎて心が殺されそうだ。

 グレたくなる。

「ともかくキミタカ、これだけは覚えておきなさいよ」

 母はなお鋭い。

「学歴信仰も薄れたし、サラリーマンなんてソコソコの人生だなんて言うけど、大学でなきゃソコソコのサラリーマンにもなれないんだからね」

 オレは討ち死にしかけた。



  ***



 夏の日射しは今日もゆるぎない。

 暑い。

 足取りが重い。

 心の重さだ。

 家を出る前の母の言葉がこたえていた。

「……くそっ、もう少し言い方あるだろ」

 すっかりへこんだ。

 暑い。

 蝉がうるさい。

 予備校が遠い。

 しかしそういう母の言葉は本当なのだろう。

 だからこたえるのだ。

 暑い。

 それでもオレにはソコソコの人生を送る以外に、これといった道が見えないので、ソコソコのオレはソコソコの人生を送るべく、今日も予備校にソコソコの勉強をしに行くのであった。

「キミ」

 歩道橋の上。

「えっ」

 突然だった。

「え、あ、オレですか?」

 彼女はうなずく。

「そうキミ」

 彼女の口から声。

「キミ、いつも私の顔を見ながらここを通るでしょ?」

 キレイな声だった。

「下に信号があるのに、毎日わざわざ歩道橋を上って通る人は珍しいから、気になっちゃって」

 柔らかい微笑み。

「キミ、学生?」

 それは予期せぬ出来事で、

「え、あ、高校生です」

 手が届くとも思っていなかったものが、

「何年生?」

 不意に目の前に降りてきた。

「三年です」

 オレのソコソコの人生の中では、

「あら、じゃあ受験生? もしかして、今予備校に向かう途中とか?」

 滅多に起こらぬ大イベントの発生で、

「あ、や、はい」

 これは何かソコソコのオレらしからぬ、

「あらら、じゃあ呼び止めて悪かったかしら」

 ソコソコでないことが、

「いや、そんな」

 始まるような予感がした。

 蝉が高く鳴いた。



  ***



 で。

「信号が近くにある歩道橋ってあんまり人が通らないじゃない。面倒臭かったりして」

 オレは彼女とよく会話をするようになった。

「歩道橋の下には人がいるのに、上には誰もいない。忘れられているみたいに」

 歩道橋の上。彼女が横にいる。

「それがね、好きなの」

 彼女は微笑んだ。

「それがここにいる理由」

 彼女の話はとても変わっていて、よく理解できないこともあったけれど、それがこの人にとても似つかわしく、オレはそんな彼女が好きだった。

 夏空。

「……なんか難しいですね」

 白い帽子。

「う~ん、難しいか」

 蝉の声。

「そうね、難しいかもしれないわね」

 白い横顔。

 微笑み。

「でも難しいからいいのかもしれないわね」

 彼女の名前をオレは知らない。

「名前?」

 前に一度聞いてみたのだが、

「葉月」

「葉月さん?」

「嘘」

 からかわれた。

「いいよ、好きに呼んで」

 オレが戸惑っていると、彼女は笑顔で続ける。

「好きな女の子の名前とか」

「え、と……」

「困る?」

 困った。

「つまりね、キミのつけた名前がキミにとっての私の名前になるの。ちょっとしたお遊び。キミは私になんて呼んでもらいたい?」

 こうして見事にはぐらかされ、結局オレは彼女を葉月さんと呼ぶことになり、

「ところでキミタカ君」

 こっちは本名を教えてしまうことになった。

「予備校には行かなくていいの?」



  ***



 いいわけがない。

「はい、ここで昨日教えた構文を使ってね……」

 講師は丁寧に説明してくれる。

 しかし。

(教わってねぇ~)

 すっかり予備校をサボる癖がついてしまった。

「はい、次のページ」

 授業は進む。

「はい、ここ重要ね」

 どこをやっているのかわからない。

「はい、ここ森本君、答えて」

 来週は模試だ。

「はい、正解」

 まずいとは思っているのだが、

「はい、ここが混同しやすい単語だけど、anything butはnothing butと違うから注意するようにねー」

 どうにも、ここで講師の話を聞いているよりも、

「キミタカ君、今日も空は広いね」

 葉月さんのちょっと浮いている話の方が、オレの興味を引くのだった。

 夏空。

「ビルの合間とかにいるとね、街って狭いなって思うときがあるのよ」

 歩道橋の上。

「街だって全部知っているわけじゃないんだから、狭くはないはずなのにね」

 見渡す街並み。

「でも、空はすっきりしてるから」

 入道雲。

「広いんだよね」

 蝉の声。

「私も空みたいになりたいな」

 葉月さんは空を見上げる。

「裏も表もなくなって、すっきりさわやか、おおらかに」

 オレも見上げる。

「いいですね」

 夏空。

 雲はゆっくり流れる。

 満ちる夏の光。

 雑踏は遠い。

 青。

「いいよね」

 葉月さん。

「いいですね」

 オレ。

「でも、遠い」

 葉月さんは遠い目で、いつもこうして空を見る。

 その横顔。

 近かった。



  ***



「試験終了です。みなさん筆記用具を置いてください」

 しまった。

「はい、では後ろから解答用紙をまわしてください」

 しまった。

「だぁっ!」

 ひっくり返った。

「どうだった模試」

「見りゃわかるだろ。KO」

 模試の結果は散々だった。

 予備校の廊下。ベンチの上でオレはひっくり返った。

 宮井は余裕にぶどうジュースなど飲んでいる。

「女にうつつを抜かした己を恨め」

 宮井は前回の模試で全国一三七位だった。

「さらばライバル」

「誰がライバルだ」

 非常にまずい結果になった。

 模試の成績が出るのは十月だが、手応えの不十分さは誰よりもよくわかる。

 試験場から出てきた生徒たちが、模試の結果について話している。

 悲喜こもごもの模試後の風景。

 まずいことになっているのは、感じている。

 余裕の宮井。

 宮井は頭がいい上、勉強もしっかりやるので、その成績はまさに磐石だ。

 オレは頭がいいわけではない上、勉強もサボったので、その成績はまさに崖っぷちだ。

 このまま行けば、志望校に落第するのは確実だろう。

 タカシ兄さん。

 母は怒るだろう。

 危機感。

 しかし。

 決定的ではなかった。

 どこか遠い。

 あやふやな距離感。

 焦燥。

 冷静。

 隣り合う。

 あやふやな。

 遠さ。

「……なぁ、宮井」

「あん?」

「受験ってどんくらい重要かな」

 宮井は目を丸くした。

「なんだよ、突然」

「何かなるのかなぁ」

「だからなんだよ」

 オレは視線をずらした。

 小さい窓。

 窓の外に空。

 狭い。

「おーい、どうしたー」

「空みたいになれたらな……」

 宮井の冷たい視線が刺さった。

「ショックで頭をやられたか。かわいそうに」

「かわいそうはないだろ」

 宮井に向き直る。宮井は肩をすくめて首を振った。

「遠い目して『空みたいになれたらな……』は、かわいそうだろう」

「いいだろ、別に」

 宮井がオレの真似をして言う。オレはふてくされた。

「怒んな、怒んな、そういう気分のときもあるさ」

 宮井は笑って言うが、その笑いがカンに触る。

「そんな軽い意味のセリフじゃねぇー。オレは模試だとか受験だとかみたいな小さなことにかかずらわないでなぁ……」

 葉月さんの顔。

「空みたいに、すっきりさわやか、おおらかになりてぇって言ったんだよ」

 宮井は涼しげだった。

「まぁ、言いたいことはわかるがね」

 宮井は缶ジュースを傾ける。

 一飲み。

「でも、おまえは空じゃないだろ」

 空き缶。

「飛べないから歩くってのが人間さね」

 空き缶はゴミ箱に落ちた。

 乾いた音。

 宮井がゴミ箱から戻ってくる。

「そんなもんかよ」

「そんなもんだよ」

 オレはくすぶった。

 宮井は笑う。

「だいたい、おまえがそんなこと言っても、ただの現実逃避にしか聞こえん」

 痛い。

 宮井は頭がいい。

 しかし、オレの頭は宮井ほど出来てはいない。



  ***



「今日は反対から来るんだ」

 宮井にやり込められた、模試の帰りの歩道橋。

 葉月さんはタバコを吸っていた。

 紫煙のゆらめき。

「朝から模試があったんで。今はその帰りです」

「あらら、それはお疲れ様」

 葉月さんはくわえたタバコをオレの前に差し出した。

 かすかに口紅のついたタバコ。

「試験おさめに一服する?」

「え」

「冗談」

 葉月さんは笑ってタバコをくわえ直す。

「ダメだよ、キミタカ君は未成年にタバコを勧めるような悪い大人になっちゃ」

 葉月さんのくわえたタバコは赤く灯って、灰色に落ちる。

 煙が漂う。

「珍しいですね」

「たまーにね、吸いたくなるときがあるの」

 白い息。

 空に散って消えた。

 青空。

「……葉月さん」

「うん?」

 葉月さんのゆったりとした瞳。

 オレは口を開いた。

「受験に意味ってあるんでしょうか」

「あるでしょう。大学に入れる」

 調子が狂う。

「そうですけど、そうじゃなくて」

 葉月さんは平然とタバコをくゆらす。

「じゃあ、どうなの?」

「どうって、受験って大学に入りたい人が受けるものだと」

「キミタカ君は大学に行きたくないんだ」

 行きたくないのか?

 そういうわけではない。

 ただ。

「何のために行くのかと」

 葉月さんが見ている。

「親に言われたんですよ。『あんたはいつもソコソコで』って。別にソコソコになるために生きているわけじゃないのに、それでもソコソコになるには、大学ぐらい出なくちゃならないわけで」

 見ている。

「自分はソコソコになりたいのかと思うと疑問で、でもソコソコで、ソコソコのままずっと流されているようで、それでこのままずっとソコソコなのかと思うと気が遠くなるようで」

 見ている。

「だからといって、それ以上になろうと思っても、どうすればいいのかわからなくて、その……」

 見ている。

「……すいません。よくわからないこと言ってしまって」

 短くなったタバコ。

「ふーん」

 灰皿代わりの空き缶に灰を落とす。

 白い帽子が傾いて、葉月さんの視線も落ちた。

 缶コーヒーの空き缶。

「……でも、流されないのは大変なことだよ」

 灰に汚れた空き口。

「自分で泳がなくちゃならないから」

 車の流れ。

 止まる。

 信号。

「それに」

 横断歩道に人。

「溺れても誰も助けてはくれないしね」

 再び車が流れ出す。

 葉月さんはオレに顔を向けた。

「なんにしろ、流されたくなかったら目標を持たなくちゃ。でないと泳ぎだすこともできないよ」

 葉月さんは二本目のタバコに火をつける。

 紅い唇。

 深く吸って、吐いた。

 白い息。

 頼りなくたゆたい、やがて消えた。

 青空。

 高い。

「……ねぇ、キミタカ君。私がなんで嘘の名前かわかる?」

 二本目のタバコも短くなる頃、紅い唇が開いた。

「……いえ」

 二本目のタバコも空き缶に消えた。

「嘘は現実とは違うから」

 葉月さんは笑った。

「でも嘘をついている自分は現実」

 自嘲。

「逃げられるわけはないのにね」

 とてもか細い笑顔だった。

 蝉が鳴いている。

 高く、高く。

「……そういえば、なんで葉月なんですか?」

 葉月さんは指を上に差した。

「今は八月でしょ?」

 夏空。

 蝉の声がやんだ。



  ***



 模試を最後に夏期講習も終了し、やがて八月も夏休みも終わりを告げて、二学期の始業式の日がやってきた。

 早いものだ。

 始業式が終って体育館から戻った教室は、夏休み前と変わらず誰かが設定した二〇度設定の冷房でガンガンに冷やされている。

「寒いっちゅうに、極端な」

 宮井が設定温度を上げる。

 それでも当分は寒いので、オレは窓を開けた。

 生温かい風。

 残暑はまだ厳しいが、朝夕は涼しく、夏は確実に翳りを見せていた。

 空の青はしだいに深みを失いつつある。

 薄い雲。

 蝉はまだ鳴いている。

 葉月さんは今日も歩道橋にいるのだろうか。

 さすがに学校は休めず、オレは夏休み前と変わらない、窓際の自分の席に座っている。

「なに、たそがれてんだよ」

 宮井が戻ってきた。

「あ、いや、夏休みも終わっちまったなぁって」

「ほんとだよなぁー、いくら受験生たって、もう少しぐらい遊びたかったぜ」

「どっか行った?」

「海に二度」

「行ってんじゃん」

「おまえは予備校サボってただろ」

「うっ」

「女にうつつを抜かし、予備校サボってどこで遊び呆けていたのやら」

「別に遊んでいたわけじゃねぇよ」

「まあ、いいけど」

 そう言われると、よくない気がする。

「でも気をつけな。みなさんは遊んじゃいないようだからね」

 宮井があごで差す。

 英単語帳とにらめっこするクラスメイト。

「早く終わんねぇーかなぁー、受験」

 夏休み前と変わらない教室の中には、夏休み前と違った空気があった。

 時間は確実に流れている。

 ズルズルと。

 オレは窓を閉めた。



  ***



 十月。

「キミタカッ!」

 予想通りの結末が訪れた。

「何なの、この成績は!」

 模試の結果。

「全然、下がってるじゃない!」

 散々だった。

「あんた何しに夏期講習行ってたの!」

 母は怒った。

 かなり。

「いくらしたと思ってるの!」

 四万八千円。

「無駄じゃない!」

 母の声が家のリビングに響き渡る。

 オレは黙って座っていた。

 母の言うことはいちいちもっともだったから。

 テーブルの向こうの母もやがて口を閉ざした。

 沈黙。

 母もいくぶんか落ち着いて、ゆっくりと口を開く。

「……どうするの?」

 どうするのだろう?

 やるべきことはわかっている。

 夏を取り返す猛勉強だ。

 しかし。

 自信がなかった。

 サボった分を取り返す。

 たいしたことではない。

 人並みの努力だ。

 しかし、人並みのものだから。

 やりきる自身が湧かなかった。

 けれど。

 だからといって。

 言い訳になどならない。

 口は重く開いた。

「……これから努力します」

 母はため息をつく。

 重く。

 その目には疑いがあった。

 当然だ。

 誰より自分が信じていない。

「……やれるんでしょうね?」

「……はい」

「じゃあ、ちゃんとやりなさい」

 うなずく。

 母は立ち上がった。

「前にも言ったわよね。気を張りなさいよ。今のままじゃ、ソコソコにもなれないんだからね」

 ソコソコ。

 母はキッチンに消えた。

 ソコソコ。

 オレはしばらくそのまま座っていた。

 ソコソコ。

 そのまま座っていた。

 ソコソコ。

 そのまま。

 ソコソコ。

 秒針の刻む音。

 オレは立ち上がった。



  ***



 オレは走っていた。

 軋み。

 叫び。

 オレの体を突き抜ける。

 衝動。

 オレは走った。

 揺れ動く世界。

 感情に押されるように。

 動悸。

 息は激しく。

 不安。

 熱く。

 緊張。

 走る。

 あの歩道橋の上。

 その向こう。

 空。



  ***



 十月の空は秋だった。

 涼しさと緊張。

 葉月さんが立っていた。

 歩道橋の上。

「キミタカ君」

 八月と同じように。

 薄手のコートを羽織った葉月さん。

 オレの前に立っている。

「どうしたの?」

 澄んだ声。

「そんなに息を切らして」

 オレは衝動を口にした。

「好きです」

 葉月さんは目を丸くした。

 オレは構わずまくし立てた。

「オレはガキで先のこともわからないけど」

 熱く。

「でもズルズルもソコソコも嫌なのはわかってる」

 強く。

「けど、今はそれしかなくて」

 求める。

「でも、葉月さんだけは特別で」

 遠くに。

「空の広さを知っているから」

 葉月さんの瞳。

「だから!」

 叫んだ。

 荒い息。

 徐々に静かになる。

 ゆっくりと。

 熱さだけを残して。

 葉月さんがオレの眼を見ている。

「キレイな目だね」

 葉月さんは胸元からタバコを取り出すと火をつけた。

 赤く灯る。

「キミタカ君の目はほんとキレイ」

 白い息。

「私、キミタカ君の目、好きだよ」

 優しい瞳。

「……だから」

 タバコの火を見つめる。

「だから、キミタカ君は汚れてみたいだけなんだよ」

 じりじりと、白が灰に変わっていく。

「私も、昔は同じだったから」

 笑った。

 弱い笑顔だった。

「でもね、それは幻想なんだよ。きっと」

 葉月さんは空を見上げる。

 高く、遠い。

 空色。

 ただ、美しく。

 澄んでいた。

 紫煙。

「汚れたって何も変わらない」

 漂う。

「ただ汚れるだけ」

 灰が落ちた。

「私は、キレイなキミタカ君が好きだから」

 葉月さんの瞳。

 寂しく。

 遠く。

 タバコは手元に下りて、

「だから……」

 手すりに押し付けられて、

「さよなら」

 消えた。

 秋の涼しさだけが残った。



  ***



 こうして葉月さんは行ってしまった。その後、葉月さんをあの歩道橋で見ることは二度となかった。

 予備校の教室。

 窓の外のイチョウは、いつのまにか鮮やかな黄色に染まっていた。

 葉月さんがいなくなっても、結局ズルズルとした流れは変わらない。

 イチョウが舞い散る。

 何も変わっていない。

 不安も消えない。

 しかし。

「次、佐藤……公孝君の方、答えて」

「はい」

 逃げ場を失ったオレは再び受験に向き直った。

「as followsです」

「うん、よろしい。じゃあ座って」

 葉月さんが背中を見せたあの日。

 オレは立ち尽くすだけだった。

 追いかけることもせず。

 呼び止めることもせず。

 結局、オレには汚れる勇気もなかったのだ。

 ただ、目の前の流れが嫌だから、他人の流れに乗ろうとしただけに過ぎなかったのだ。

 オレには勇気がなかったから。

 卑怯だったから。

 一人より二人。

 けれど。

 断られた。

 恥ずかしかった。

「次、河本君」

 だからオレはここにいる。

 イチョウの落葉。

 揺れる風。

 かすむ空。

 オレはこの流れから抜け出せるのだろうか。

 一筋の雲。

 けれどそのときは。

 高く、遠い。

 必ず一人で抜け出してみせる。

 空。

 あの八月は終ったのだから。

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