更級ダイアリー

地下鉄東西線の烏丸御池駅を出る。

菅原詩織が烏丸通を少し北上したところで、イヤフォンマイクからささやくような声が聴こえた。

「このあたりです」

スマートフォンの中の常陸姫はあくびをしながら周囲を見渡した。


「私の家、ここでした」


そこには大きなビルしかない。だが詩織は、万感の想いが込められた言葉を信じた。


「やっと帰ってきました」


姫の声が少しだけ震えたような気がした。スマートフォンの液晶画面に映し出される体は、腰から足まで消えていた。


詩織はいつも通りの悪態である「はい、ハウス」を吐くつもりだった。

だが実際に口から出た言葉は、少ししわがれた「良かったね」だけだった。


姫は笑顔で頷き、

「はい、ただいまです!」

と元気な声で答えた。




烏丸通を1本内に入ったしなびた居酒屋で、詩織は生ビールをあおり、スマートフォンに視線を落とす。


「アンタの体、透けてるんだけど」

「まあ、成仏待ったなしなので。けど詩織が寝るまではがんばりますよ」


私は、と詩織は言いかけ、口をつぐむ。ハモの湯引きをつつき、ウーロンハイで流す。薄いので焼酎を足した。


「私は、アンタにはけっこう腹立つことが、いや、かなりムカついたけど、楽しかった、うん」

「私はまあまあでした」

すかさず返された返答に、詩織は苦笑した。


「ですけど、また旅ができるなんて思いもしなかったですし、その相手が詩織で良かったと心の底から思います」

詩織は姫から目を逸らした。2杯目のハイボールを流し込みつつ、2切れのシメ鯖をいっぺんに口に運ぶ。


「私がこんな子供みたいな格好なので説得力ないかもしれませんが、いつの間にかあなたのことを自分の娘のように感じてました。口の悪さには閉口しましたが、素直じゃないだけだなって、すぐにわかりましたよ」

厨房では鮎を焼いているのだろうか、香ばしい匂いが漂ってくる。

「そもそも、普通はわざわざ千葉から京都まで連れてきてくれません。詩織に新手の詐欺かと疑われる可能性も考えてましたし。ああ危ない、眠るところだった」

しなびた店かと思っていたが、ひっきりなしに客が入ってくる。食べるものからもわかるが、いい店なのだろう。


「本当にありがとう。あなたが優しい人で良かった」


詩織は、冷酒がこぼれないようにグラスをゆっくりと持ち上げた。

努力及ばず、テーブルに大きめの水たまりができた。

姫は詩織の顔を見上げ、優しく笑った。

雪の寒さに耐えながら美しく咲く、菜の花のような笑顔だった。


「そうだ、私、旅行の間に日記書いてたんですよ。

言うなれば新しい更級日記ですね。

絶対世に出しませんが。というか出せません、どうあがいても」

あくびをしながら姫は話を続ける。

「昔と比べれば、それはそれは短い日程でしたけど、書くことは沢山ありました。

けどスマホ忍者とか、どう書けば信じてもらえるんだろう。

そもそもパソコンの中で意識が芽生えたって、どう転んでも笑い話ですからね。

幽霊がこんなこと言うのも変ですけど」

店内のテレビが歓声を上げた。サッカーの大きな大会で日本チームが勝ち進んでいるらしい。


姫ははたと拳を打った。

「もし詩織が良ければ、私との旅で学べたことを教えてほしいです。

これぞ、まさしく! 冥土の土産!」


姫は再び、小刻みに震え続ける詩織の顔を見上げた。

我が子をあやすような優しい表情で話しかける。


「だから詩織、そんな顔しないで…」


テーブルのあちこちに水たまりができている。冷酒のグラスはほぼ空だった。

消え入るようなか細い声で詩織は言った。

「…ごや…も…」

「はい?」

「…名古屋のモーニングはお得…」

「なんですかそれ!」

姫はガクッとつまづき、そのまま消えた。


詩織は眼鏡を外し、ハンカチで顔を拭いた。イヤフォンマイクに話しかける。

「Heyヒメ」

返事はない。菅原家アプリは消えていた。

詩織は笑った。

「な、なによそのダサい消え方は。私が眠るまでがんばるって言ってたでしょう。ふざけてんの?」

詩織は閉店まで待ったが、姫が現れる気配は無かった。勘定を済まし、外へ出る。2月の夜の冷たい空気がほてった頭を冷やしてくれるようだった。

菅原孝標女が住んでいたという場所に再び行った。

まばたきをすると、一瞬だけ幻が見えた気がした。

大人になった姫が、楽しそうに子供をあやしていた。


詩織はホテルへ戻った。

シャワーを浴びながら、声を上げて泣いた。




翌朝、詩織は烏丸御池駅へ歩きながら電話をしていた。

「そうか、おつかれさん」

平塚で居酒屋を営む鈴木の声は、少し同情を含んでいるようだった。

「けど、いい逝き方でした。ずっこけて消えましたからね」

鈴木は笑い声で応えた。

「これから千葉へ帰ります。暖かくなったら、またお邪魔しますね」

「前日に電話くれれば、いい魚用意しておくよ」

礼を言って詩織は電話を切った。



京都から新幹線で東京へ向かう。行きは3泊、帰りは2時間と少し。坂上と会う約束の時間には、予定通りに着きそうだった。

東京駅に着き、指定された待ち合わせ場所に詩織は向かう。坂上はすでにいた。詩織を見つけるなり駆け寄ってきた。

「菅原さん、来てくださってありがとうございます。忘れる前にこれを」

と言って坂上は詩織に小銭を渡した。

「この間のお釣りの8円です」

詩織は失笑しながら礼を言う。

「こないだの勧誘はもうやめました。田口さんに騙されていたと気づきました」

「まあ、あんなことはやらないほうがいいと思いますよ」

「ついては、本当の僕を見ていただいて、改めて許しを請いたいと思いました」

詩織は眉をひそめた。


「つまり、今は、本当の坂上さんということなんですか?」

「はいそうです」

「会社の時は偽っているんですか?」

「使い分けています」

詩織はポケットの中のスマートフォンを握りしめた。


「私にはその違いがわからないのですが」

坂上は言葉に詰まった。

「じゃあ会社の人には本気でぶつかってないということなんでしょうか。もし、会社の坂上さんと今が違うというのなら、それを見せてください」

坂上は口を開きかけたが、詩織をそれを許さなかった。

「もし見せられないのなら、ないんですよ。そんな都合の良い仮面は」

言いながら踵を返した。言いたいことはほぼ言えた。

「あんまりふざけたこと言ってると、ウズラの卵、2個ともカチ割りますよ」



詩織は京葉線のホームに向けて歩く。もう振り返ることはしない。

今日は久しぶりの我が家で、ゆっくりとお酒を飲んで眠りたい。

イヤフォンマイクを耳にかけ、好きな音楽をかける。何の気なしにマイクに向かって話しかけそうになったが、歯を食いしばって踏みとどまった。

ポケットに放り込んだスマートフォンが一瞬震えたような気がした。

詩織は笑顔でポケットを一つ叩き、立ち止まらずに歩いていった。

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更級ダイアリー 桑原賢五郎丸 @coffee_oic

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