若者たち
稲垣奈美
若者たち
自由なものなど何もない。鳥さえも空につながれている。 ― ボブ・ディラン
1
ユーミンの苗字がまだ松任谷ではなく荒井だった頃、血気盛んな若者はフォークに走るかロックに走るか。はたまたアイドルの追っかけか。テレビをつければ若者がコンテストで腕を競い合っている。そんな姿を画面越しに冷めた目で観ているのが僕だ。「なんか展開のない曲だなぁ」とか「もっととんがった見た目のほうが曲に合うのになぁ」なんて批評家じみた事を思う。じゃあお前がやるかと言われたら全く自信はない。そもそも僕は歌が上手くないのだから。好きな事でどんどん有名になっていく同年代の奴らを「僕だってやればできるさ」なんて無駄な対抗心を燃やす自分に、そろそろ嫌気がさしてきた。周りと自分を比べては傷ついたり、自分の無力さを嘆いてみたり、果てに開き直ってアハハと笑ってみたりするのは、とても疲れる。そこで僕は映画の世界に救いを求めた。暇さえあれば映画館へ行き、その日の気分で気になったものを観る。邦画でも洋画でも何でも。映画雑誌も月に一回本屋へ買いに行った。道徳は映画から学んだ。英語は主にクリント・イーストウッドから学んだ。映画雑誌から得た情報を一旦頭の中で整理するために、何も考えず部屋でスケッチなんかしたりして。
僕はテレビを観ながらこうも考える。人間は苦悩している人間の姿を見るのが好きなのではないかと。そういう点で芸能人というのは常に人前に出ているから、共感も批判もされやすい職種であると言える。理想と現実のギャップに思い悩むアーティストや、プライベートの時間がどんどん無くなって自分を見失うアイドル。彼らの姿を他人事に心配したり勝手に「この人はこういう性格だから」と決めつけたりするのが僕たち一般人の暇つぶしネタになったりする。なんと残酷な世界なんだろう。だからといって僕は芸能人が嫌いな訳じゃない。基本的にはとても尊敬している。人前で歌うとか、迫真の演技をするとか、僕が絶対にできない事を軽々とやってのけるから(軽々やっているように見せているだけだという事に最近気付いた)。特に音楽関係の仕事人は大好きだ。彼らの作る音楽は、人生を変える力がある。まるでピカソの絵が人々に気付きを与えてくれたように。そうした気付きを与えてくれたのが吉田拓郎か、フラワートラベリンバンドか、はたまたミシェル・ポルナレフルかは人によって違うんだろう。だが音楽を聴いて嫌な思いをする人なんて滅多にいない。
僕が音楽の力を強く信じるようになったのは、友人であるリュウの影響が大きい。リュウは音楽家であり孤独なアーティストだ。大体の奴が仲間とバンドを結成しては、自分たちの周りで起きる出来事を、自称伊勢正三並の作詞力で歌にし、多くの人に届け、将来は日比谷野音のステージに立つのを夢見ているのに対し、リュウは真逆で、部屋に一人こもってギターを弾き続け、曲を書き続け、一曲完成したらしたで別にどこかで披露する訳でも売り込む訳でもなく、ただひたすらストックを増やす。そうして永遠に曲を書き続ける。それがリュウだ。ちなみに彼はボブ・ディランを崇拝しているが、曲はニール・ヤングっぽい、どこか暗くて人生に辟易している感じのものが多い。一度彼にそれを言ったら、「全く違う」と怒られた。それ以来僕は心の中で思っても、口には出すまいと決めた。つもりだ。
そんな未来の音楽家が多く在籍する大学という場所は、一見誰もが華やかな青春を謳歌しているように見えるが、一方では授業料の値上げ反対や、学園の民主化を訴える新左翼的な学生たちが大学を相手取り、抗議文書を出したりデモをおこなったりする、いわゆる「学生運動」が過激化していた。僕はそういった方面には全く関わりがなく、元々何も問題を起こさず目もつけられず、ごくごく普通に(映画をたくさん観ながら)過ごしたかったので、そんな血気盛んな学生たちを視界の隅に収めながらも、校庭から聞こえる熱い演説は、まるでつまらない喋りばかりのラジオのように聴き流し、自分には到底関係のない話だと思っていた。実際、社会がどうだとか、政治がどうだとかは勉強で習う程度で十分で、それ以上の興味はなかった。誰かと闘うとか、皆で力を合わせて立ち向かうとか、そういうのは全く僕の性分とは合わない。
つまり僕は至って普通の大学生だった。授業中一番後ろの席に座り、肘をついて、先生がだるそうに喋る言葉を右から左へ受け流しながら、黒板に増えていく文字をボーッと眺めている。それで一日が終わる。たまに寝落ちし、テストの前は真面目な友人のノートを見せてもらってテスト範囲を確認する。それが普通の大学生であり、一般的な授業態度であり、そうやって四年間過ごす事を、大学生活が半分過ぎて確信した今日この頃である。一応高校のときは何らかの意思を持って津久見大の法学部を選び、社会に出たときに何か役立つだろうという漠然とした目的を持って授業を受けようと思っていた。はずだ。今やその気持ちすらどこかへ消えてしまった。
高校からの友人であるハマは、昔から夏目漱石も驚くほどの無鉄砲で、いわゆる典型的なやんちゃ坊主。わがままでケンカっ早い。その割に芯を通す強さと、決して友達を裏切らない優しさを持ち合わせている。これでモテない訳がないのだが、彼自身とても女関係がルーズなので(年々ひどくなっている)、知らない女の子が突然ハマをビンタしても僕は決して驚かない。僕が親だったら、娘にはハマのような男には絶対近づかせないだろう。友達としてはとてもいい奴なのだが。
高校時代、友達がほとんどいなかった僕は、授業を抜け出して屋上で映画雑誌を読むのが日課だった。そこへある日、ハマがやってきた。ドアが開く音に驚いて振り向くと、唇の端を手で押さえながら、いかにもやんちゃそうな男が立っていた。互いに目が合った。
「なんだよ、先客かよ」
ハマがめんどくさそうに言う。その頃僕は、ハマが同じクラスの奴だという事は知っていたが、たまに廊下で見かけるくらいで、話した事もなければ特に関わりたいとも思わなかった。ケンカばかりの彼と、映画オタクな僕とでは人種が違いすぎる。だがこの状況、今ここで僕が立ち上がったら、彼はどうするだろう。きっと彼の横を通り過ぎようとした途端に胸ぐらを掴まれるに違いない。痛い思いはなるべく避けたい。僕は何も見なかったフリで、映画雑誌に目線を戻した。
「お前俺と同じクラスの奴だよな?」
僕の計画は失敗に終わった。
「だよな、どっかで見た事あると思った。で、お前もサボリか」
「同類にするな」と喉まで出かけた言葉を飲み込んで、「別に」と言った。いつもは風の音や校庭から聞こえる生徒たちのだるそうな声をBGMに雑誌を読んでいたのが、突然不良生徒という雑音が加わり、雑誌を読んでいても内容が一切入ってこなくなってしまった。アメリカン・ニューシネマの名作ランキングより、今この状況をどううまく切り抜けるかのほうが大切なのだから。かと言って今更ここで雑誌を閉じて立ち去る訳にもいかない。
「お前映画好きなの?」
気付いたら不良生徒が僕の目の前に立ち、雑誌を覗き込んでいた。
「俺この前『卒業』観たんだけどさ、あれイマイチだったな。まぁロビンソン夫人は良かったけどよ」
「君は現代のジェームス・ディーンってとこか」
「俺は理由なく反抗なんかしねぇよ」
フッと笑い合った。それは互いに共通する何かを見つけて認め合った笑いだった。
それから僕とハマが友達と呼べる仲になるまでにそう時間はかからず、気付いたら屋上で会うのが日課になった。主に映画の話、時には将来について本気で語り合い、今じゃ何を話したのかよく覚えていないが、たくさん話をした。ハマは喋り出すと止まらないし、ひょうきんでおもしろい奴だ。気付いたら、僕は高校生活のほとんどをハマと過ごしていた。ハマはモテるしオシャレなのに気取っていない感じが女子からはとても好評なようだ。比べて僕といえば、たいしてかっこいい訳でもなければ話が上手い訳でもないので、特にモテ期というのを実感した事がない。だから真近で見ていたハマの青春がとてもキラキラしていた。僕にもそんなキラキラした日々は訪れるんだろうか。ハマから女の子の話を聞くたびに、僕はちょっとした劣等感と感心を込めてひねくれた笑顔を浮かべた。
ある日いつものようにハマと屋上で喋っていたとき、突然乱暴にドアが開き、数人の男子が入ってきた。隣のクラスにいたような気がする質の悪い不良三人と、それに絡まれているいじめられっ子が真ん中に一人。瞬時に「逃げなくては」と察した。今すぐ映画雑誌を閉じて立ち去らないと…と動き出す前に絡まれてしまった。
「誰かと思えば、卑怯で有名な浜田じゃねぇか」
不良の一人が嫌味ったらしい笑みを浮かべている。無理矢理先生に丸坊主にされた頭が皮肉にもとても似合う。細い目で睨みを利かす奴がこちら(というか主にハマ)に向かって歩き出した。ハマはのんびりタバコをふかしている。
「お前古沢先輩の女に手出しといてタダで済むと思うなよ」
丸坊主がハマに近づいてガンをつけている。僕だったら「すいません」しか言えないのに、ハマは相変わらず相手にする気すらないらしい。なんと堂々たる態度。その様子を見て丸坊主が言った。
「ま、いいや、今日はお前の相手なんかしてる暇ないんでな」
仲間がいじめられっ子を連れて屋上の反対側へ行こうとしたとき、ハマが口を開いた。
「そいつさぁ」
タバコを消して最後の煙を吐き出す。
「俺のダチなんだわ」
それから不良三人が倒れるまでは一瞬の出来事だった。気付いたらハマが、腰が抜けたいじめられっ子に手を差し伸べていた。僕は何もできずただ見守るしかなかった。知らない間に手に力が入っていたらしく、さっきまで読んでいた『三銃士』の特集ページがくしゃくしゃに潰れていた。
「お前、名前は?」
ハマがタバコに火をつけながら聞く。
「…中村リュウです」
「リュウ、マルボロの意味って知ってるか?『丸坊主はボロボロになるまでやっつけろ』だよ」
僕は何も被害を受けた訳ではないのに、ハマに完膚なきまでにぶちのめれた気分だった。ハマがタバコをふかす姿は、まさにジェームス・ディーンそのものだ。根が優しく、人一倍正義感に溢れているが、若さゆえの未熟さと不器用さが邪魔している。もしかしてこいつも早く死んでしまうのでは、という不安を打ち消すように、僕は「アホか」と呟いた。こうして屋上仲間にリュウが加わった。その後一度ハマが血まみれの手で現れた事があったが、それ以外はとても平和な時間だった。
後にリュウが音楽家だと知った。彼は一人でギターを弾いて曲を作る。どこに披露する訳でもなく。「バンドを組みたい」とも「ライブをしたい」とも言った事がなかった。一度だけリュウの作った歌を聴いた事があるが、とてもいい歌だと思った。少し暗いが、それもまた彼の味だ。
「ニール・ヤングみたいだな」
ハマがつぶやいた。
「違うよ、ボブ・ディランさ。ディランが彼女のスーズ・ロトロに向けて歌った想いを、僕なりに解釈して歌にしたんだ」
高校を卒業して、僕たち三人は同じ津久見大学に進んだ。ハマは一番授業がゆるいという経営学部に、リュウはあらゆるジャンルのオタクが集まる心理学部に、僕はなんとなく賢そうという理由で法学部に進んだ。三人とも学部が違うのに、高校以上に一緒の時間を過ごした。それは集合場所が屋上から喫茶『ガロ』に変わったからかもしれない。
大学に入って一年半が過ぎた夏の終わりのある日、僕たちはいつものように授業をサボって『ガロ』へ向かった。飾りの南京錠が付けられたドアを開けると、五〇年代以前の黒人ブルースが聴こえてくる。ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、ペッシー・スミスなど。英語は全く分からないが、純粋に「かっこいい」と思っていた。洒落た店内には、キラキラ輝く大きなシャンデリアが天井からこちらを見下ろしている。二十席ほどの椅子が並び、一番奥にはソファ席が二つ。そのうちのひとつ、窓際のソファ席が僕たちの指定席だった。デートにはぴったりの場所なのに、まだ男三人でしか来た事がないのは仕方がない。
店員の女の子が、慣れた手つきで水とおしぼりを持って来て、オーダーを聞いた。
「アイスコーヒー、三つ」
ハマが笑顔で答える。僕たちは、「コーヒー」という響きがどこか大人っぽい感じがして、大学に入ってからよく飲むようになった。ブラックはまだまだ苦くて無理だが。
ハマがマルボロの箱からタバコを一本取り出し、ライターで火を点けた。数分後、店員がアイスコーヒーを持って来て、僕たちのテーブルに置いた。砂糖とミルクと伝票を置いて遠ざかっていく女の子の姿を眺めながら、あの子は何歳くらいだろうと考えた。僕たちより年上だろうか、それともまだ高校生だろうか。はっきりとした答えを求めていない問題を氷の中に溶かし、僕は砂糖とミルクをコーヒーの中にたっぷり入れた。リュウも同じ事をした。その様子を見つめていたハマが言う。
「お前らまだ甘いのしか飲めねぇのかよ。お子ちゃまだな〜」
ストローでグラスの中を混ぜると、濃いブラウンの液体がどんどん白く濁っていった。スピーカーからマディ・ウォーターズがこぶしを効かせている。
「これが一番美味しいの」
「砂糖なんか入れたら、そんなのコーヒーじゃなくて、ただのジュースだろ」
ブラックを飲めるようになるのが大人の条件だと思っているハマは、当たり前のように苦い液体を飲み始める。僕はハマの言葉をスルーして、好みの味になった甘いコーヒーを飲んだ。そしてもう一度ストローでコーヒーをかき混ぜた。カランカランと、氷が軽やかな音を立てる。その音に少し鳥肌が立った。「カランカラン」という音色が、どうも自分にはあまりにも不釣り合いで、「お前にこんなオシャレな飲み物など百年早いわ」と言われているような、喫茶店というオシャレな空間に馴染めていない自分をさらに際出たせるような、そんな気がしてどうも恥ずかしくなる。そんな僕にお構いなしで、リュウが隣で「カランカラン」と大きく音を立てる。
「アメリカでもコーヒーには砂糖とミルク結構入れるらしいよ」
「かーっ、これだからお子ちゃまは」
そう言ってソファの背にもたれて両手を広げ黒目を一周させるハマの姿は、相変わらずジェームス・ディーンそのものだ。
「豆本来の旨味と苦味を味わうには、何も加えずに飲むのが一番だろ。冷たい真っ黒な液体がスーッと喉を通っていく。そのなめらかさと美味さが分からんようじゃあ、お前らもアメリカ人もまだまだってことよ」
コーヒーを日本に持って来たアメリカ人まで否定するのがハマ流なのだろう。特に深い意味はない。
「そういえば、ハマ、ジャック・ケルアックって知ってるか?」
「ジャック・ケルアック?知らねぇな。映画監督にそんな名前の奴いないし」
「小説家だよ。彼が書いた『路上』って本に、ディーン・モリアーティって奴が出てくるんだけど、ハマにそっくりだなって、今ふと思い出した」
「なんでこのタイミングで思い出すんだよ。で、どんな奴?」
「遊び人のクズ野郎ってとこかな」
リュウがクスッと笑った。それと反対に、ハマがムスッとする。
「主人公のサルって大学生がアメリカ横断する話でさ、そいつと一緒に旅をするのがディーンなのさ。クズっていうか、まぁクズだな。でもこれがかっこいいんだ。本能のままに突っ走って生きてる姿が」
「褒められてんのか、けなされてんのか分かんねぇな」
「でも確かに、ハマ君ってちょっと狂った面があるよね」
リュウが甘いコーヒーを一口飲む。
「そう、それがハマの魅力なんだよ。『理由なき反抗』のジムとか、『俺たちに明日はない』のクライドとか、『路上』のディーンとか、きっと皆愛に飢えてるんだ。だからいちいち不器用で誤解されやすい。そういう人種なんだろうな」
「で、そいつら全員の良い要素を俺が持ってるって事か」
「そういうやけにポジティブなとこも、魅力だよね」
リュウが笑う。
「モテる男はつれぇよ。俺もそのうち日本縦断でもすっか」
2
久しぶりに講義に出たらちょっと楽しかった、なんて感じるのは最初の十分ほどで、あとは睡魔という絶対王者にノックアウトされて試合終了だ。社会学なんて学んで何になるのか。社会の構造なんて今更知ったところで愚痴が増えるだけで、どうせ今更何も変える事なんてできない。結局は大人の言いなりなのさ。この教授だって、僕たち若者の事を「どうせお前らは社会に出たって何の役にも立たない」とか思ってるに違いない。こうやって講義してる時間がもったいないとか思ってるんだろうな。そんな被害妄想すらバカバカしくて、今日は睡魔すらやってこなかった。窓の向こうの景色に目をやる。緑が生い茂る校庭には、ギターを持った男子が二人。あぁ、僕のこの行き場のない不満と鬱憤も歌にして全世界に届けてくれたらいいのに。このままここにいたら、僕は死んでしまう。
「そうやっていつまでも被害妄想を続けるの?」
誰かの声がして振り向いた。そこには眠そうに教授の話を聞く人間しかいなかった。昔からそうだ。何か考え事をし始めると、誰かが僕に質問を投げかける。少し説教じみたその聞き方にイライラする事もある。皮肉っぽく正論を言われる事ほどイライラするものはない。そして結論を曖昧にしたまま鐘が鳴った。
一人で考え事をしていると、大体頭の中でボブ・ディランの『朝日のあたる家』が流れてくる。前にリュウが教えてくれた曲だ。借りたレコードを流した瞬間から、狂ったように何百回と聴いているので、脳が自動再生する機能を覚えてしまったらしい。あのマイナー調と暗い情念の込もったボブ・ディランの声がスッと耳に入って心地よかった。心地いい、という表現が合っているかは分からないが、人間のダークな部分にこれでもかと迫り来る感じが素晴らしい。無理に人を励ましたり明るくさせたりしない、まさにこれぞ人間の本性というべきブルースに惹かれた。リュウに言わせれば、それこそが、名曲が名曲たる所以なのだそうだ。よく分からないが。ノートやシャーペンを適当にカバンに戻し、朝日のあたらない教室を後にしようとしたその瞬間、肩をトントンと叩かれた。
「これ忘れてるよ」
すらっとした細身の女の子が、僕の愛読書を手にしていた。ショートヘアをぴったり九一分けにして、黄色地の花柄のミニワンピース。その袖からのぞく華奢な腕。足元は自己主張しすぎないダークブラウンのローファー。まさにツイッギーそのものだった。
「あ、どうも」
映画雑誌に目を落としたまま受け取った。
「あんまり外ばっかり見てると、先生に怒られるよ」
そう言って彼女は教室を出ていった。誰だろう。ツイッギーが同じ授業を受けていたのすら気付かないほど、僕は窓の外ばかり見つめていたらしい。彼女が歩いていく姿を見つめていたら、視界の隅に派手なシャツを着た男が入ってきた。
「だから違うって」
ガロに着く前から尋問は始まっていた。
「いや〜俺は嬉しいよ。長かったなぁ、お前の冬」
こうなるのがめんどくさいので、ハマにはバレたくなかったのだが。仕方ない。
「ああいうタイプの女は、お前みたいな一匹狼な奴に惹かれるんだな」
ハマが嬉し顔で悩んでいるのを、リュウがニコニコしながら眺める。そんな二人をやれやれと思いながら見つめる僕。よく飽きずに五年もこうして一緒にいられるもんだ。
すると近くでイスが動く音がして、目をやった。近くに座っていた大学生らしき男子二人組が立ち上がってこちらに目をやった。
「いいねぇ、頭の悪い学生は暇で」
「あ?」
ハマが睨みを効かす。
「日々勉強に追われている身からすると羨ましい限りだよ。せいぜい楽しんでくれたまえ、二度とない青春を。ま、社会に出たらどっちが重宝されるかは、もう目に見えているけどね」
「お前らが卒業する頃には、もう社会は腐りきってるよ」
ハマが立ち上がろうとしたので、必死に止めた。
「しかし、君たちみたいな不真面目な学生がいるお陰で、真面目に政治や社会情勢について勉強している僕たちが大企業に就職し、優秀な人材と褒め称えられるんだ。むしろ礼を言わなければいけないね」
ハマが殴りかかろうとする前に、腕をつかんで座らせた。別に争うような相手じゃないし、ケンカが原因で一生ガロに来れなくなるのは嫌だ。どこの学生かは知らないが、きっと裕福な家庭で甘やかされて育ったのだろう。人の気持ちを考える、という人間として最低限のマナーを学ばずに大人になってしまったらしい。最後にもう一度メガネを直して(メガネはそんなにずれるものじゃないと思うのだが)、ニヤッと笑い、二人は出て行った。うん、嫌いなタイプだ。勉強ばかりやってる奴は、相当鬱憤が溜まってるんだな、と思った。
「なんで止めんだよ!」
こっちもこっちでケンカを止められた鬱憤が溜まってるんだな。
「ほかっとけよ。ここで殴ったらあいつらの思う壺だぞ」
「くっそあいつら。俺はああいうインテリぶってる奴がいっちばん嫌いなんだ」
空気を変えようと、リュウが口を開いた。
「それより僕、『愛と平和』に入ることにしたんだ」
「あ?『愛と誠』だ?」
僕はその名に聞き覚えがあった。
「それ、この前北館の前で演説してた奴らだろ」
「そう、この前裏庭でギター弾いてたらね、『愛と平和』のリーダーやってる布川先輩が来て「君の歌には説得力がある」って。「君の歌は世界を変えるかもしれない。その歌に込められた怒りや哀しみを、もっと多くの人に伝えないか?興味があれば『愛と平和』の集会に来い」って」
布川という名前はよく耳にする。確か津久見大の院生で、『愛と平和』という学生団体を結成し、校内で頻繁に学生運動をおこなっている。何を主張して何を目指しているかまでは知らないが。そもそも知ろうと思った事がなかった。リュウからその名が出るまでは。
「でね、昨日僕集会に行ってみたんだ。三十人くらいいたかなぁ?僕全然知らなかったけど、日本の未来を良くするために活動してるんだって。日本の事を本気で考えてる学生がすっごく多くてびっくりしたよ!周りが噂するほど怖い人たちじゃなかったし」
「おいリュウ、そいつには気を付けろ。俺の情報網によると…」
「つまり女の子ってことね」
僕が補足した。
「そいつ、やべぇ奴だぞ。『愛と平和』なんて表面(おもてづら)は良さそうな団体つくって、教育改革だの何だの言ってっけどよ、元々は悪名高い政治家の息子らしい。金ばらまいて仲間を増やしたり、抜けようとした仲間をリンチしたりしてるって噂だぜ。ま、顔は俺のほうが数百倍、いや数万倍…」
「そこまで聞いてねぇよ」
「しかし、『愛と平和』は、ここら辺でも有名な新左翼派の、結構過激な学生運動をやってる奴らだ。最近支持する学生も増えて勢力を拡大してるって噂だぞ」
リュウがめんどくさそうに口を開く。
「大丈夫だよ!皆『愛と平和』の人たちとちゃんと喋った事ないから、そうやって言うんだ。本当はすごく熱い正義感を持った人たちの集まりなんだよ」
「熱い正義感ねぇ…それがあらぬ方向に進まなきゃいいけどな。正義感はあっても、誰もがキング牧師として崇められる訳じゃねぇんだぞ。その布川って奴のどこに惚れたか知らねぇが、無茶な事はするなよ」
「だから大丈夫だってば!」
ハマの忠告を鬱陶しそうにかわしながら、リュウが自分の意思で動いている姿を初めて見た。だが、そのうち集会やら何やらが嫌になって、すぐに戻ってくるだろうと思っていた。この時点では。
3
翌日、珍しく気持ちのいい目覚めだったが、時計を見たらすでにいつもより三時間進んでいた。ダッシュで着替えを済ませ、大学へ向かって走りながら、家の鍵を閉めたか不安になった。まぁ、いい。所詮金のない大学生が買った画材道具しかない部屋だ。
大学に着き、そっと教室の扉を開けたら、ちょうど教授が後ろを向いて黒板に何か書いているところだった。タイミング良くスッと、一番後ろの左端の席に座った。一息ついてふと右を見たら、二つ離れた席にツイッギーが座っていた。彼女は僕を見てクスッと笑った。それ以上の会話はなかった。カバンから教科書を取り出そうとしたが、家に忘れてきた。代わりに映画雑誌を取り出し、最近よくテレビに出るようになったある映画評論家(僕はあまり好きではない)の連載コラムを読み始めた。今年の上半期に上映された映画について、特に『ゴジラ対メガロ』にひどく悪態をついていた。
「ふん、何が『観るに絶えない』だ。こういう奴らは映画ってものがないとただの能なしじゃないか」
評論家への評論を述べたところで、次のページを開き、そのまま寝てしまった。どれくらい寝ていたか分からないが、突然右肩を誰かにつつかれたので目を覚ました。
「ねぇ、起きて。先生来るよ」
気付いたら、さっきまで黒板に張り付いていたうっすら頭のハゲかかった小太りの教授が、生徒のノートを見てまわっていた。
「レポートを書きなさいって。ほら、黒板見て」
彼女はそう言いながらチラチラ前を気にしていた。僕もそれにつられて前を向いた。すると前から五列目に座っていた奴が、先生に教科書で頭をポンッと叩かれた。
「おい、お前はいっつも寝よって。単位はなしだ」
結局教授が僕のところまで見回りに来る前に、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。大きく伸びをして、雑誌をカバンにしまおうとしたそのとき、ツイッギーが横から顔を出した。
「『追憶』はすごく良かったけどね。『スケアクロウ』もおもしろかったよ」
「映画好きなの?」
ツイッギーがニコッと笑った。
「うん、ほぼ每日映画館に行ってるもん。特にアメリカン・ニューシネマが好き」
「僕も。『理由なき反抗』は名作だね」
「だよね!ジェームス・ディーンかっこいいし。そうだ、今度一緒に映画観に行かない?今ね、ちょうどキネマ・ミリオンでアメリカン・ニューシネマ特集やってるの。毎週違う作品が流れるのよ」
「へぇ、今週は?」
「『俺たちに明日はない』」
特に観に行かない理由もなかった。僕もアメリカン・ニューシネマは大好きだ。あの時代に作品は、何度観ても泣ける。
「じゃあ、今度の日曜日、朝十時にミリオン集合ね」
そう言って彼女は軽やかに教室を出ていった。と思ったらすぐにひょっこり顔を出した。
「あ、私サチコって言うの。君は?」
「トシ」
「トシ君ね、じゃあね」
彼女の後ろ姿を見送りながら、直前までの会話の余韻に浸っていた。
まただ。なんでこういつもいつもハマに見つかるんだ。
「なんだよ、せっかく恋愛マスターの俺が色々教えてやろうと思ったのによぉ。いいか」
「アドバイスはいらない」という僕の言葉は、食い気味で喋りだしたハマの耳には届かなかったようだ。
「女は最初が肝心だ。何童貞野郎みたいにモゴモゴしてんだよ。そんなんだからお前は…」
溜め息をついた。
「いいか、女ってのは押しに弱い。映画館なんて最高のデートスポットじゃねぇか。映画を観ながら手を握ってそのまま…」
「そういうんじゃないから。ただの友達としての…ていうか、さっき初めてちゃんと喋ったばかりだし」
「愛に時間なんて関係ねぇよ。しかしお前みたいな奴を好きになる女もいるんだなぁ。ま、続きはガロで聞きますわ」
ガロに着くと、先に授業を終えたリュウが待っていた。アイスコーヒーを持つ手は、相変わらず細い。あれから『愛と平和』に関する質問はしないようにしている。
「となると次はリュウだな」
「えぇ、僕?僕はそういうの全然ないから…でも本当すごいやトシ君。僕なんて女の子に話し掛けられただけで、すっごく緊張しちゃうもん。オドオドして会話なんかできないよ。なんでそんなに平気で喋れるの?」
「お前はおとなしすぎなんだよ。女は肉食が好きなんだぜ?」
ハマが言うと説得力があるように聞こえる。
「無理だよぉ。すごく人見知りだし根暗だし…僕なんかと喋っても皆つまんないだろうなぁって、なんか申し訳なくなっちゃう…」
「リュウは十分おもしろいよ。音楽にも詳しいし」
「詳しいのはボブ・ディランだけさ。しかも、ギターやってるっていっても、バンドを組んでかっこよくキメれるタイプでもないもん。人前に出ると緊張しちゃって手が震えるし、逃げ出したくなるんだ。自分の部屋で弾いてるのが一番楽しいよ」
「お前はいつもそうやって一人でいるからいつまでたっても童て…」
「ち、違うもん!もうハマ君やめてよ!」
顔を真っ赤にしたリュウが、アイスコーヒーを飲む。
「僕、自分に自信がないんだ。歌ってる人たちを見ると、上手すぎて僕なんて到底及ばないって思っちゃうし、それを見ている人たちに混ざって楽しみたい気持ちと、そこに混ざりきれない消極的な自分と。このままでいいやって思う自分と、天才だって呼ばれたい自分と」
「自分の実力なんて誰も分からねぇよ。だったらホラ吹いたもん勝ちだぜ」
ハマの持論は極端な場合が多いが、ごく稀にいい事を言う。
「いいかリュウ、お前の好きなボブ・ディランとエルビス・プレスリーはカリスマだ。だがな、大抵の奴は「自分はカリスマだ」と思い込んで演じてる。特に歌手や役者はな。俺の場合は女の子の前だ。でないと、普通の人間が人前に立ったところで見向きもされねぇ。カリスマってのはな、自分で作り出した、もう一人のめちゃめちゃかっこいい自分だ。お前にもなりたい理想像とかあんだろ?自分はすでにその理想像を手に入れたって思い込むんだ」
「ボブ・ディランみたいになったら、僕も変われるかな?こんな僕のことを受け入れてくれる人が、いつか現れる?」
「その気持ちがあるなら、大丈夫さ。何なら俺がちゃんと指導してやろうか?」
「リュウ、道を誤るな」
すかさず止めに入る。
「おいトシ、俺は校内一、いや日本一のモテ男なんだぞ?」
「トシ君とハマ君を足して二で割ったらちょうどいいのにね」
入口のほうからカランカランと音がして誰かが入ってきた。ヨレヨレの白いシャツに黒いパンツ。中年らしいたっぷりと脂肪のついたお腹。彼はカウンターへ座るのと同時にホットコーヒーを注文した。こんな真夏にホットを飲む奴がいるのか、と思った。
「それよりお前、あっちはどうなんだよ。『愛と誠』は」
僕が触れないように気を付けていた話題に、ハマが軽々と触れた。でもリュウの反応は思ったより明るかった。
「『愛と平和』ね。順調だよ。今夜もまた集会があるんだ」
「集会?」
「そう。結構頻繁に皆で集まってるんだけど、この前大学側に提出した抗議文書について、いつまで経っても大学側から返事がないから、どうしたらいいかを皆で話し合うんだ。って言ってもほとんど布川先輩の独壇場だけどね」
「やっぱなぁんか気に食わねぇなぁ、その布川ってやつ」
ハマが言う。ソファの背にもたれながら、右手でコーヒーを取り口元に持っていった。
「でも慕ってる人多いよ」
「にしてもよぉ、結局口だけで何にもしてねぇじゃねぇか。あれだけキャーキャー言われるなら、一限目を十二時からに変えることくらい楽勝だろ?」
「まぁ色んな噂があるにせよ、何百人もの学生を束ねてる奴だ。僕達が思うよりもっと大きなことを企んでる可能性は高い。そのうちコロンビア大の学生運動を真似てストでもやらかすかも」
「日本じゃ『いちご白書』みたいにならねぇよ。上手く言って、ぶどう白書ってとこだ」
「その通りだ」
カウンターのほうから声がした。
「誰だおっさん」
多分あれは、普通のサラリーマンじゃない。なんとなくそう思った。
「お前らの大学の学長は政府とズブズブなんだよ。何なら教授会の奴らほぼ全員な。だからお前らが何企んでようと、若い奴らが血気盛んに色々やったところで何も変わりゃしねぇんだよ。学生運動だぁ?調子乗んじゃねぇよ。俺らが頑張って働いて、その金でお前ら学生はこうして勉強できてんだろうが。お前らの大学があるのも誰のお陰だと思ってる?日本のためだとか言って調子乗ってんじゃねぇぞ。大人に楯突こうなんざ百年早ぇんだよ」
そうだ、この人は…
「おいおっさん、おめーもこんな時間にここにいるたぁ、暇人だな」
ハマが口を開いた。またケンカしたらガロ出禁になるぞ。
「お前らと一緒にすんじゃねぇよ。俺は布川の動向を探りに来ただけだ」
「おじさん、警察か何かですか?」
僕は恐る恐る聞いた。おじさんはニヤッと笑って「そうだ」と言い、警察手帳を見せた。名前は大貫と言うらしい。そしてリュウのほうを向き、気だるそうに言った。
「おいそこのもやし、悪いこたぁ言わねぇ。すぐに『愛を平和』を抜けるんだな。じゃねぇと、とんでもねぇとばっちり食らっちまうぞ」
リュウが反論する前に、僕が口を開いた。
「あの、その『愛と平和』のリーダーの布川って、本当はどんな奴なんですか?悪い噂も色々聞きますけど」
「その噂通りだよ。あいつは表では仲間集めて授業料値下げだのベトナム戦争反対だの何だの言ってっけどよ、父親に似て、自分の理想のためなら仲間にも暴力振るうクソ野郎だよ」
「あの噂は本当だったのか」
「先輩はそんな人じゃない!」
「お、もう洗脳されちまったか」
「先輩は本気でこの大学を、この国を変えようとしてる。僕だけじゃない。布川先輩の演説を聞いた人は、皆この国のことを考えて、いい未来を作ろうと頑張ってるんだ!」
「リュウ…」
「お前が思ってるほど本気で日本を変えようとしてる奴はいねぇよ。『愛と平和』はもういつ仲間割れが起きてもおかしくない状態だ。お前はそういうのを知らずにヤバイ所に入っちまったって訳よ。まぁいいさ。お前さんもそのうち分かるだろうよ。お前らがどんだけ大きな奴を相手にしてるか。布川に伝えとけ。もう何度も言ってるが、お前の考えは全てお見通しだってな」
大貫はコーヒーを一気に飲み干して雑に小銭をテーブルに置いてガロを出て行った。なんとなく大貫がいた席にまだ大貫の臭いが残っているような、もわっとした嫌な空気が残っていた。
「なんだあのクソジジィ」
僕はリュウに思い切って聞いた。答えは分かってるが。
「お前布川に利用されてるんじゃないのか?」
「そんなことないよ…先輩はそんな人じゃない!確かにちょっと怖いなって思うときもあるけど、皆をまとめるためには必要なことだろ?いつだってそうじゃないか…何かを変えようとする人は世間から邪魔者扱いされて嫌われる。でもその分、信じてくれる仲間もちゃんといるんだ。僕は布川先輩を信じる。先輩ならこの国を変えてくれるって、僕自身も変われるって信じてるんだ。…集会の時間だからもう行くよ」
予想通りの返事だった。息子を心配する母親の気持ちが少し分かったような気がした。
「ほっとけよ。あいつのことだ。どうせすぐ怖気づいて戻ってくるさ」
4
「君たちは、目の前に敷かれたレールに疑問を持った事はあるか?当たり前のようにまっすぐ進むそのレールが、どこに向かっていて、その先はどうなっているのか、疑った事はあるか?かつてプラトンは言った。『思慮を持ち、正義をかざしてその生涯を送らなければ、何者も決して幸福にはなれない』と。何も考えずのうのうと生きていては、決して幸せになる事はできない。だってそうだろう?そういう人間は、幸福がどういうものであるかを真剣に考える事もなければ、求める事もないんだ。だが、僕たちは違う。僕たちは知っている。“常識”と呼ばれるものが、常に正しいとは限らないという事を。大人たちが勝手に作ったルールは、大人にとってのみ都合の良いようにできていて、僕たちには不利益で邪魔なものでならない。だが、まるでその“常識”と呼ばれる奴が、あたかも世間一般から見れば至極真っ当で、自分たちは先人たちと同じようにそれを作り上げ、正義の名の下でそれをおこなっているように見せている。この錯覚に騙されてしまう奴が本当に多い訳だが。実際はそうじゃない。僕たちにとって、そのルールが良い方向にはたらいた事があっただろうか?たとえばどうだろう、経営難でもないこの大学が、僕たちに高額な授業料を課す事が、本当に正しいと言えるだろうか?そこに隠された本当の意味を知りたいか?これはつまりひとつは、僕たちが賢くなって、大人のやっていることに口出ししようとするのを防ぐためさ。大人にとっては、僕たちのような、しっかりと意思を持ち、未来の事を考えて闘おうとしている若者は邪魔で仕方ないはず。だから授業料を上げて、払えなくなった学生は大学から消える。そうすれば教授たちの悪巧みが知られる事はない。授業料を払える金持ちの子は、政府と繋がっているか、何も考えずのうのうと生きてきた場合が多いから、犬として使えると見込まれ優遇する。つまりそういう事さ。そしてもうひとつの理由は、政府との癒着を強めるためだ。うちの大学は、間接的ながらも、ベトナム戦争に加担している。嘘じゃないさ。一九四五年に終戦を迎えたはずの戦争は、未だに続いているんだ。僕たちの知らないところで。この状態を見過ごしていいものだろうか?いや、見過ごしてはいけない。決して目をそらしてはいけない事実なんだ。政府との癒着を強めるためには、ベトナム戦争に加担する必要がある。そうすると必要になってくるのは金だ。武器を売る金、武器を作る金。そうした金をどこから捻出するか。僕たち学生からさ。だから授業料を上げる。この仕組みを解明したとき、僕は愕然とした。この津久見大学は、もはや国に支配されていると言っても過言ではない。しかもそうした一連の行為を、あたかも正しい事であるかのように、あたかも必要不可欠な決断であるかのように、僕たちに諭してくる。そしてまた悲しい事に、こうして津久見大学が出した結果が間違いであるという事に気付かない学生がなんと多い事か。今こそ目を覚ますんだ。僕たちは騙されている。騙され続けているんだ。常識を疑え。目の前に敷かれたまっすぐなレールを疑うのだ。その先は行き止まりか?崖か?どこに続いているか、不安ではないか?自分の利益しか考えず、無責任な言葉を浴びせる大人たちに、僕たちの人生を託そうと言うのか?根拠のない常識を押し付けてくる人間に「はいはい」と屈しろと言うのか?僕たちはよく学んだはずだ。もう、大人に期待してはいけないと。彼らが僕たちのために何かを変えてくれる事は決してない。現状では。抗議文だって所詮彼らにとっては、ただの紙切れでしかないのだ。だが、僕たちの努力を無駄に終わらせる訳にはいかない。なぜ僕たちは今ここにいる?僕たちは何のために集まっている?僕たち自身の“自由”を勝ち取るためだろう?それこそが『愛と平和』なのだ。僕たちが、大人たちの作ったルールに縛られなければならない理由がどこにある?僕たちが僕たち自身の未来を守ってはいけないとする理由なんてどこにある?今こそ、革命が必要なのだ。ここに集まる君たちが社会に対して抱いているその怒りを、憤りを、正義を、見せつけてやろうじゃないか。やりどころのないこの悔しさを、反抗を、力に変えるんだ。君たちが思っているほど、世間は甘くない。だからこそ、これからは自分の目で見て、自分の頭で考えろ。社会に蔓延る嘘や欺瞞に目を潰される前に、飼い馴らされた犬に成り下がる前に、革命を起こすんだ。大人たちの理屈に流されるな。愚鈍な大人たちを、この黒く染まりきってしまった社会を、今こそ僕たちが変えようではないか。時は来た。新たな時代の幕開けが、もうそこまで来ている。僕たちは、闘う。僕たちの未来のために。君たちが求めているのは、金か?権力か?それとも自由か?革命か?しっぽを振ってほいほい付いていく犬になるくらいなら、たとえ雨に打たれ風に打たれ泥水をすすっても、野良犬として自分の意思をしっかり持って生きていくほうがよっぽどマシだ。僕たちは神の子であり、力を持っている。そしてここには、神の子の仲間がいる。同じ意思を持つ仲間が。それこそが『愛と平和』なのだ。僕が望むものは、君たちと同じ“自由”だ。自由が欲しいんだ。これまで僕たちは、自由を得るために必死に闘ってきた。が、もう一度ここで決意を新たにしたい。あらためて、君たちの力を貸してくれないだろうか」
布川は深く息を吸った。
「一ヶ月後の九月三十日、『愛と平和』はデモを起こす。構内の北側に建設中の講堂に立てこもり、講堂の建設中止を訴える。知ってるか?あの講堂は、政府からの資金で立てられている。つまり、津久見が政府とズブズブである事を象徴する建物なんだ。なんと恥ずかしい事だろう。本当に恥ずべき事だ。これまで僕たちは、何度も教授会に抗議文を提出してきた。が、そのたびに彼らは「熟考します」と言ったきり音沙汰なし。大人とはそういうものだ。僕たちが出した抗議文なんて、ただの紙切れでしかないんだよ。「若者が大人に口出ししよって」としか思っていないんだよ。ふざけるな。僕たちは、一人の人間として自由を手に入れる権利がある。それを主張する権利がある。君たちも痛いほど感じているだろう?このまま黙って大人に従い続けていては、何も変わらないんだ。腐った根は腐ったままだ。もしかしたら、周りの根も腐らせてしまうかもしれない。一度全部引っこ抜いて土ごと変えて、新しいのを植え直さなければ。君たちからすれば、この世界はとてもつまらないだろう。しかし、それを承知した上で声をあげるか、黙って従うかによって、日本の未来だけでなく、君たち自身の未来が変わるという事を、どうか理解してほしい。社会に対して憤りを感じるか?怒りを感じるか?悔しさを感じるか?なら、それを言葉にしろ。外へ発信しろ。溜め込むな。身体に悪いぞ。僕がこの『愛と平和』を作ったのは、大人たちが作り上げたルールに反旗を翻し、本当の自由を取り戻すためだ。何もせずに自然といい社会になる確率と、革命が成功し新たな社会が生まれる確率、どちらが高いと思う?答えは、圧倒的に革命のほうだ。何もせずにいい社会になる事など、望むだけ無駄なのだ。誰も心地良い場所からは出たいと思わないからな。つまり、このまま大人たちに任せていては、もっと悪い未来になる。断言しよう。僕たちが変えるという強い意思を持ち、それを外に発信していく事が大事なんだ。人間は時に、想像を遥かに超える力を発揮する。君たち一人一人がその力を発揮したら、怖いものなしさ。君たちの実力を一番知っているのは、君たち自身なのだから。だって、他に誰が分かる?君たちは、君たちが思う以上に力を秘めている。それを忘れないでくれ。そしてもうひとつ重要なのが、環境だ。つまり、誰と組みどこで闘うか、という事だが、その点については安心してくれ。君たちはすでにこの『愛と平和』の仲間を手に入れた。ともに闘う屈強な若者たちがいる。そして、僕と一緒に明るい未来を手に入れよう。今こそ、革命を起こすんだ!」
彼が拳を挙げると、そこにいた数十人の学生たちも、同じように拳を挙げた。なぜ彼がここまで多くの仲間を集め、学生運動をおこなう事ができるのか。それは、彼が群を抜いて容姿端麗であり、頭のキレる男であるからだ。スラッと背が高く、ファッションセンスも良い。テストは常にほぼ満点。英語もペラペラ。ちょっと口を開けば、そのなめらかな美しい声に心奪われない女子はいなかった。同性から嫌われるタイプでもなく、友達思いでユーモアがある彼を心から尊敬する男子も多かった。つまり火の打ちどころのない男であるから、『愛を平和』を作る事ができたのだ。そんな完璧に近い人間を教授たちも放っておくはずがなく、はじめは出来の良いこの若者を、自分たちの後継者として育てようと企んでいた。しかし、それが裏目に出たのだ。裏事情を知りすぎた彼が抗議文を持って来たときは、教授たち全員目が点になった。飼い犬に手を噛まれるとはまさにこの事だ。そりゃ怒りも収まるはずがない。
「僕についてきてくれる仲間はいるか?」
布川の演説を聞いていたほぼ全員が手を挙げた。その光景はまさにヒトラーを崇拝する軍隊そのものだ。むしろ手を挙げないと殺されそうなほど冷たい視線を向けられる。だから端っこのほうに座っていたリュウも、手を挙げた。自分のために。『愛と平和』が自分が想像していたものと違うと気付いたのは、この時だ。だが今更抜けれるはずもない。リュウは大人しく演説を聞き続けようと決めた。布川が言葉を続ける。
「ありがとう。ありがとう。僕はなんて幸せ者だろう。君たちとこうしていられる事を、誇りに思うよ。本当に感謝する。皆もう理解していると思うが、これは決してテロではない。革命だ。僕たちはテロ集団でもなければ、過激派な学生団体でもない。論理的な話をするための手段として、デモをおこなうだけであると理解してくれ。この国が抱える問題を明らかにし、分かりやすく説明し、理解してもらった上で、より良い未来を目指す。そんな僕たちの行為を、大人たちは鼻で笑って高台から見ているのさ。どうせ若者の戯言だろうと。そのうち収まるだろうと。僕たちもなめられたものだ。大人だけが甘い蜜を吸い、僕たちがつらい状況に耐えなければならない理由がどこにある?今こそ革命を起こそう。では、このデモの詳細については、曽我から伝えてもらう」
曽我と呼ばれる男が、最前列の端から前へ出てきた。布川の親友であり(親友という定義が布川の中にあるのならだが)、右腕であり、陰の立役者。布川がヒトラーならば、曽我は若きアドルフ・アイヒマンといったところか。眼鏡の奥の目に映るのは、警察と取っ組み合いをする学生たちの姿か。アイヒマン曽我がデモの詳細について話し出すと、全員が一生懸命に聴いた。必死にメモを取ろうと、カバンからペンとノートを取り出した学生たちに、曽我が怒鳴った。そりゃそうだ。メモなど取って万が一警察や教授たちに見つかったら面倒だ。そもそも何十人とこの部屋に集まっている時点で怪しいが。誰もそれについては疑問を持たないのだろうか。それとも、それも計画のうちなのか。リュウには知る由もない。布川傘下の者たちは、疑う事を知らず、目を輝かせていた。説明を一通り終え、曽我が布川を呼んだ。全員が彼の言葉を待った。
「ここで、新しい仲間を紹介したい」
リュウの背筋が凍った。悪い予感がして、それがすぐに現実となった。自分の名前が呼ばれたとき、一気に吐き気がした。人の前に立つなんて、これまでの人生で一番避けてきた行為だ。でもここで逃げ出して殺されてしまう訳にもいかず、震える脚で布川のもとまで歩いていった。自分に向けられる目線が、鋭い矢のように全身に刺さる。やっぱりそうだ、皆僕を「何だあのナヨナヨした奴は」という目で見てるんだ。「なんでこんな奴が」って思ってるんだ。あぁ、今すぐここから帰りたい。布川の元まで歩いていくたった十歩ほどの道が、永遠に続くと思われるほど長く感じた。リュウが横に来ると、布川がリュウの肩をポンッと叩いた。それだけで倒れそうだった。
「こちら、二年生の中村リュウ君だ。彼は、天才的アーティストだ。自分の思いを歌にしている。彼が中庭でギターを弾いている姿が、あまりにもボブ・ディランにそっくりだったので、思わず声を掛けた。ぜひ『愛と平和』に加わってほしいと言った。すると彼は、快諾してくれたんだ。少々シャイな性格だが、アーティストというのは、総じてそういうものだろう。僕は彼のそんなところがとても好きだ。アーティストとして名を残すのは、とても難しい。だが、革命家として名を残す事はできる。僕はそう断言する。なぜなら、そもそもこの現代社会に、革命家になろうという者がとても少ないからだ。アーティストであり、革命家である彼が入ってくれた事で、『愛と平和』はますます強くなる。君が、愛と平和のために頑張ってくれる事を期待しているよ」
その言葉に秘められたごくわずかな違和感を感じながらも、逃げられない状態で布川に歯向かう事など誰ができるだろう。リュウは、この事はトシとハマにはあまり話さないでいようと思った。
「以上、解散」
布川の言葉と同時くらいに、別の学生が声を上げた。
「布川先輩、このデモは、絶対にやらなければいけないんですか?もっと他に手はないんでしょうか?」
場がざわつく。冷たい視線。独特の雰囲気。それを増長するかのように、布川がゆっくりと口を開く。
「残念ながら、もう他に手はない。僕の力不足だ。デモという危険な行為を、君たちに強いるつもりはない。が、社会を変えたいと本気で願う仲間を見捨てるつもりもない。僕は、一人でも革命を起こすつもりだ。それについてきてくれる仲間と、同じ未来を作りたい。同じ気持ちで、同じ夢を持って。それができないという人間を、無理に引き止めるつもりはないよ。君はどうする?」
「僕は、あなたがただ武力行使したいだけとしか思えません。確かに授業料や戦争加担に関する問題を見過ごす訳にはいきませんが、だったらこの大学ではなく、もっと上の教育委員会や、教育問題に熱心な議員に直接はたらきかけるべきだと思います。いくら汚い大人が多いとはいえ、汚くない大人もいるはずです。現段階でデモをやってしまったら、失敗する確率も高いと思います。もっと慎重に計画を練るべきではないでしょうか?これで本当にデモが失敗したら、僕たちが好き勝手やって自爆した、としか見られないのではないでしょうか」
布川は意味ありげに相槌を打った。そして恐ろしいほど完璧な笑顔を浮かべた。
「そうか。なかなかすごい人間が入ったものだ。君とはもっと話がしたい。どうか僕にもっと知恵を与えてくれないか?他の者は今日は解散だ。また次の集会で」
ヒトラーとアイヒマンと彼の三人が部屋に残った。その後、彼が集会に現れる事はなかった。
5
どこへ続くか分からない細い田舎道を、オンボロ車が走る。クライドは左手でハンドルを握り、右手で持っているリンゴをひとかじりした。その姿に何人の男が憧れた事だろう。そんな彼を愛おしそうに見つめる助手席のボニー。数十メートル先の道路脇にトラックが止まっている。そのすぐそばで一人の男が二人に向かって手を振っていた。いかにも地元の農家、といった感じだ。クライドは男のそばに車を止め、彼の元へゆっくりと笑顔で歩いていく。そこに強盗犯を物語る色は全くない。普通の人間だ。そんな彼の姿を助手席から見守るボニーは、これまでの逃走劇から若干疲れを顔ににじませている。クライドが男に手を差し出した直後、音を立てて草むらから鳥が飛び立った。前方から向かってくる一台の車。草むらに一瞬視線をやり、すぐにトラックの下に隠れる男。クライドはやっと異変に気付いた。遅かった。ボニーとクライドが互いに見つめ合った瞬間、いくつもの銃弾が二人めがけて撃ち込まれた。執拗に。何発も、何発も、何発も、何発も。スローモーションでクライドが倒れる。一瞬のうちに一人の人間の人生が終わった。右手から食べかけのリンゴが転がり落ちた。ボニーは助手席で体制を崩し、開いたドアから地面に上半身をだらりと下げていた。
銀行を襲い人を殺し豪快な逃走劇を繰り広げた人間のなんとも無残な終わり方。これが当然と思うか、悲しいと思うかは人それぞれだが、僕はとても羨ましいと思った。誰かを本気で愛する事ができた二人。生きる事に必死だった二人。良いか悪いかは別にして、歴史に名を刻んだ二人。果たして俺が凶悪犯だったらどうしていただろう。クライドのような考えを持てただろうか。クライドのように、ボニーを愛する事はできるだろうか。考えれば考えるほど、僕は自信をなくした。
キネマ・ミリオンを出ると、秋晴れの空が眩しくて眉間にシワを寄せた。もう九月なのにまだ暑い。もう一生あの雪がしんしんと降る中で白い息を吐くノスタルジックな季節なんてやって来ないんじゃないかと思ってしまう。出口の近くにあるショーウインドウにうっすらと自分の姿が映った。同じ人間のはずなのに、なぜスクリーンを通して見る人間のそれはとても尊いものに見えるのだろう。それに比べ、僕の顔や指や服は、どこにでもあるような、大して注目されるほどのものでもないだろう。むしろ人様の前に出ては申し訳ないとさえ思ってしまう。「俺はリュウか」と自分にツッコミたくなった。隣でサチコが大きく伸びをする。白いワンピースから細い腕が伸びる。果たしてこれはデートと呼んでいいのだろうか。デートなんて高校以来全くしていないし、そのときは散々な結果でハマに笑われた記憶しかないので、もはや何がデートか分からなくなる。そもそも、なぜ女の子と映画を観る事になったんだろう。数日前の出来事を思い返すほど、一人で勝手に恥ずかしくなった。強制的に思考をポジティブに変えよう。たまには誰かと映画を観るのもいいものだと。しかも彼女となら、映画の感想を事細かに喋ったとしても、ドン引きしないかもしれない。ふとサチコのほうを見た。その瞬間、ドクッという一響きの鼓動を強く耳に感じた。その一瞬の感動を、どこかしら懐かしく感じている自分がいる。彼女ともっと話したい。彼女の事をもっと知りたい。僕は「ガロでランチを食べよう」と言った。昼飯ではなくランチ、と言った自分の声が、彼女に話し掛けた自分のその声が、まるで誰か別の誰かが発したように聞こえた。こういうときこそ『非情のライセンス』の会田刑事のようなダンディさが欲しいものだ。
休日のガロはとても混み合っていた。いつも平日の午後に来ていたので、ここまで客が多いと、まるで全然違う喫茶店に来たような感覚だ。いつものソファ席も今日は若い男女四人組が陣取っている。唯一空いていた、窓際の小さな二人がけの席に座った。すぐに水とおしぼりとメニューをもらい、僕は急いで水を一口飲んだ。少しだけ緊張がほぐれた。彼女はゆっくりとメニュー広げ、ランチを選んでいる。水を飲んだせいか、お腹が鳴りそうになった。さっきまで緊張で空腹など全く感じていなかったのに。少し慣れてきたのか、やっと余裕が出たのか。何を喋ったらいいかも分からない。そしてふと、僕なんかがこんな小洒落た喫茶店にいていいのか不安になった。いつも男三人で来ているときは、そんな風に思った事はほとんどなかったのに。なぜ女の子といると、こんなにも自分に自信がなくなってしまうのだろう。彼女は僕の事をどう思っているのだろうか。きっとハマなら「どんとしてりゃいいんだよ」で片付けるんだろうな。いつも女の子の話に事欠かないあいつをちょっと尊敬した。ちょっとだけ。
「ねぇ、パンケーキがある!」
子どものようなはしゃぎ声に、少しビクッとした。やはり男とばかりつるんでいては良くない。のか。
「あとで頼んでもいい?」
そう言って僕を見つめる大きな目に、ノーと言える男なんてこの世にいるのだろうか。いたとしたら、どケチな男か、出家した坊さんくらいだ。二人でメニューを見ながら色々悩み、彼女はオムライスとオレンジジュースを、僕はガロ特製カレーとアイスコーヒーを頼んだ(ガロのカレーは、僕が死ぬ前に食べたいものランキングベスト3に入っている)。
料理が来るまでの間、『俺たちに明日はない』について互いの見解を語り合った。まずは彼女から。あのシーンはこうだとか、あそこであの人が泣いたのは、こういう感情だったからじゃないかとか。彼女がアメリカン・ニューシネマだけでなく、もっと昔のフランス映画や最新作まで幅広く知っている事に、とても感心した。彼女の見解に対して俺が持論を展開しようと口を開けたところで、店員がドリンクを持って来た。いつもはベストタイミングで運んでくれると感じる店員も、総じてデート中だけは「もっと空気を読んでくれよ」と思ってしまう。でも客の都合に振り回されてしまう店員に、少し申し訳ない気持ちもあった。もし店員がハマだったら、お客を怒らせるか、女の子にちょっかいを出すかしてすぐ辞めさせられそうだな。
運ばれてきたオレンジジュースとアイスコーヒー、その横に並べられた砂糖とミルクを見つめ、今日はブラックで飲んでみようと思った。袋からストローを取り出し、なるべく音を立てないようにそっとグラスに差した。そしてゆっくりとストローに口をつける。どこかの国で採れた何らかの豆から抽出した何らかの黒い液体が、口の中に入ってきた。うん、まずい。やっぱりハマの言う通り、これをまだ美味しいと感じられない僕は、大人の階段を前に怖気づいている小さな子どもに過ぎないのかもしれない。しかも、ただ女の子と映画を観に行くだけでも、死ぬほど緊張してしまうなんて。僕はコーヒーをわざと大袈裟にかき混ぜて、氷のカランカランという音を聞きながら、あえて自己嫌悪に陥った。ふと前を見たら、オレンジジュースを両手ではさんで彼女がこちらを見ている。
「すごいね、トシ君。コーヒー、ブラックで飲めるんだ」
やせ我慢をしているとは言えず、もう一口コーヒーを飲んだ。結局、男というのはとても単純で、女の子に褒められれば何でもするんだ。そして、クールで大人な対応のできる奴がモテると思っている。つまり、女の子の前では、コーヒーをブラックで、しれっと、平然と飲むのがかっこいいと。そして夜はフィリップ・マーロウのように、ギムレット片手に女を口説く。もう一度コーヒーを飲んだ。まずい。テーブルの隅に置かれている砂糖とミルクが「今日は出番はないのか」と訴えてくるのを頑張って無視した。
「で、トシ君の見解は?」
オレンジジュースの中の氷を、ストローでグラスの底に押しながら、彼女が言った。映画好きがこう言うときは、大体「あの終わり方はどう思う?」「あの俳優の演技は何点?」「監督がこの映画で伝えたかった事は何だと思う?」といった具合の答えを求めている。僕は小さく咳払いをして、答えた。
「クライドの目が良かった。あれはウォーレン・ベイティじゃない。クライド・バロウの目だ。彼は社会的には犯罪者かもしれないが、その目はとても深くて温かくて優しい。社会に反抗して生きてきた彼の尖った部分と良い調和を出している。特にボニーを見つめるときの彼は、僕たちみたいな一般人が、好きな人に向ける愛情の込もったそれと何ら変わらない。つまり、彼も一般人であり、ふとしたきっかけで、犯罪者になってしまった、かわいそうな人なんだ」
「それで?」
「それで…人間ってこんな簡単に死を迎えるのかって怖くなった」
「なるほどね」
僕は言葉を続けた。
「ボニーとクライドを見ていると、何が正解で何が間違いかが、分からなくなるな」
「人間なんてそんなもんじゃない。何が正解かなんて一生分からないのよ」
後から気付いたのだが、彼女はときどき物事すべてを悟ったような物言いをする。
「この先どうなるんだろうとか、あの時ああしておけばよかったなんて思って生きてちゃつまらないわ。そんなのただの取り越し苦労だもの。そういう人は一生人生を楽しめないの。ってナオミちゃんも言ってたわ」
「ナオミちゃん?」
「『痴人の愛』よ」
「あぁ」
彼女はオレンジジュースを飲んだ。今度は僕が聞く。
「君はどう思った?」
「私は、さ…」
彼女が何か言いかけたタイミングで、カレーとオムライスが運ばれてきた。まったく、人生は映画のようにタイミング良く上手くはいかないものだ。いや、ある意味映画にありそうなタイミングだろうか。良い事はおあずけ。互いに目が合って笑った。それぞれスプーンを取って食べ始めた。カレーは今日も最高の味だった。いや、いつも以上に最高だった。彼女がいるからか、それとも俺の味覚がいつも以上に敏感なのか。なるほどどちらにせよ、「おいしいね」と言い合える友達というのは、人生を豊かにしてくれるらしい。
ふと、ハマがクライドを演じたらどうなるだろうと想像してみた。…ハマそのものだ。なら、ボニーは誰だ?ハマの周りにいる女の子では、ボニーほど熱心にハマを追いかけたりしなさそうだ。だとすると…
「トシ君、絶対彼女いないでしょ」
なぜ絶対、なのか、なぜいないと決めつけられているのか、反論したいが、図星だったので何も言えなかった。
「やっぱり。勘だけどね」
そう言って笑う彼女が、何を考えているのか分からない。なぜ?なぜ僕の事がそんなにも分かるのか。そして、僕はどう返事をすればいい?彼女がクスッと笑った。
「トシ君って、おもしろいね。やっぱり私が想像した通りの人だ」
「え?」
彼女はオムライスをスプーンに取りながら言った。少食なのだろうか、あまりオムライスが減っていなかった。僕もやっとカレーの味が分かるようになった。
その後何回か一緒に映画を観に行った。これがデートというものなら、デートという事にしておこう。SFものからサスペンス、ホラーにコメディ、最新作から昔の作品まで、いろんなものを観た。
ある日、僕は家に彼女を呼んだ。大学になって一人暮らしを始めた僕の部屋は、狭いが誰にも邪魔されずに絵を描ける最高の城だ。小雨が降る中、傘を差して駅まで彼女を迎えに行き、二人で手を繋いで家までの川沿いの道を歩いた。手を繋ぐという行為は、人間に安心感を与えると聞いた事があるが、僕は未だにひどく緊張してしまう。説の再検証を求める。
家に着くと、彼女は靴を脱いで中へ入った。
「へぇ〜ここがトシ君の部屋かぁ」
部屋の中をキョロキョロ見渡すので、僕は急に不安になった。本は綺麗に並んでいるだろうか。洗濯物はちゃんと全部しまっただろうか。床に髪は落ちていないだろうか。昨日夜中に掃除したのにまだ気になる。
「適当に座って」
靴を脱ぎながら、緊張しているのがバレないようにぞんざいに言った。彼女は明るく「うん」と言って、僕のベッドに腰掛け、そばにあったスケッチブックをめくった。
「これ、トシ君描いたの?」
そこに描かれていたのは、僕の部屋の窓から見える景色。
「上手だね」
「趣味程度だよ」
彼女はさらに数ページめくって、あるページで止まった。
「これ、ピカソみたい」
「彼が死んだ翌日に描いたんだ」
「そっか、この前死んじゃったんだっけ。天才も人間だったんだね」
その言い回しにどこかくすぐったさを感じながら、僕はイスに腰掛けた。すると彼女がスケッチブックと、床に置いてあった二十四色のクレパスを僕に渡した。
「私も描いて!」
突然の要望にあたふたしながらも、「描いて」という彼女の要望を断る理由は、恥ずかしいという事以外特になく、ここで断るのもなんかなと思い、スケッチブックとクレパスを受け取って描き始めた。かすかに手が震える。彼女はおとなしく座っているのが苦手らしく、乱雑に本が積み重なる棚を眺めては、気になったのを手にとってパラパラとめくっていた。
「トシ君って本も読むのね」
ぞんざいに置かれた太宰治の本をめくりながら、彼女は言った。
「あたしね、知識っていうのは庭みたいなものだと思うの。どれだけいい種を植えても、土台がしっかりできてないと、いいものは育たない。ましてそれがどんな種類のもので、どういう育て方をしたらいいかを知らないと、全く意味がないの。逆に、トシ君みたいにもともといい土を持ってて、ちゃんと耕してきちんと水をやれば、うまく育つ。知識なんてなくっても楽しく生きていけるなんて言う人はだめよ。美しい景色を眺めるには、背伸びをしたり望遠鏡を買ったりしないと」
そう言い終わって、彼女はこちらを振り向いた。
「描けた?」
「まだ」
彼女はまた本棚に目線を戻した。そんな彼女の後ろ姿を見ながら、僕は聞いた。
「彼氏とかいるの?」
「なんで?」
相変わらずサチコは俺に背を向けている。
「いや別に。なんとなく」
すると彼女がサッとこちらに寄ってきて、僕の唇にキスをした。
「いたらこんな事しないわ」
そしてまたキスをした。さっきより長く。深く。サチコの熱が舌から伝わってくる。その白く透き通った肌に触れるたびに、鼓動が大きくなる。すると突然、僕は得体の知れない不安に襲われた。ただ漠然と、このままサチコとはもう二度と会えないんじゃないかと思い、なるべく顔を見られないようにサチコを強く抱きしめた。
「誰かを好きになるのに、理由なんていらないのね」
そういえば、ハマも同じ事言ってたっけ。
「皆自分に足りないものを探しながら生きてるのよね。愛とか、お金とか、時間とか、知識とか。そうやって足りないものを埋めていって、完璧な状態に近づく過程が、美しいの。私ね、トシ君にはその美しさを感じるの。でもトシ君が完璧な人間になっちゃったら、なんにもおもしろくないわ。それに…」
彼女が僕の目を見る。
「トシ君は、クライドと同じ目をしてる」
僕は、その意味がよく分からなかった。僕が?あのクライドに?僕は彼女と二人で銀行を襲うところを想像した。金を持ってドアから出ようとしたところで僕が段差につまづき、彼女に怒られる。
「人ってとても弱い生き物なの。一人でも生きていけるって思い込むときもあるし、寂しくて誰かがいないと生きていけないって思うときもある。自分はこのままでいいのか、本当にこの生き方が正解なのか、分からなくなるときもある。そういった人間特有の悩みを、自分一人で抱え込んでるような目をしてるのよ、トシ君もクライドも」
「そうかな?僕は全然分からないけど」
「分からなくていいのよ。自分を客観的に見れるようになっちゃったら、何もおもしろくないわ。大人になるって本当つまらないのよ」
そう言って、彼女は立ち上がり、窓を開けた。窓際に座って下を眺める彼女は、まるでリッピの描く聖母のように美しかった。
「キレイな川だね」
「春になったら桜が咲いてもっと綺麗だよ。川沿いにちょっと歩くと、いい銭湯があるんだ」
彼女が目を輝かせながら振り向いた。
「そろそろできた?」
僕は恥ずかしげに絵を見せた。彼女はそれをまじまじと見つめ、笑った。
「全然似てないじゃない」
そう言いながらも嬉しそうに笑うサチコを見ているのが、嬉しかった。僕は今、とても幸せだと思った。
「そういえば、トシ君の夢ってなぁに?」
ちゃんと考えた事がなかった。
「私はね、海外に行く事。知らない世界を見てみたいの。もう世界は変わろうとしてるのよ。自分が今どこにいて、どんな状況で暮らしているのか、客観的に知りたいじゃない。これからどんどん、想像もつかないような仕事が生まれて、新しい常識が生まれていくのよきっと。それについていけるように、いろんな世界を見ておきたいわ。で、トシ君の夢は?」
僕は返答に困った。そこへ聞き慣れた声が響いた。僕の頭の中だけで。と思ったが違ったようだ。
「何だよ」
僕は窓から顔を出し、下にいたハマに帰れ、と手で促した。
「トシ、やばいんだよ」
僕の後ろから彼女が顔を出した。
「あら、こんにちは」
「おっと、お取り込み中だったか。ちょっとやばい事が起きてよ。トシ、借りてもいいか?」
サチコが「うん」と言った。
「何かあったのか?」
「今ダチから聞いたんだけどよ、リュウが入ったっつー学生団体、あのー、名前忘れたけど、そいつらが今建設中の講堂でデモやってるらしい。もしかしたら、リュウもいるかも」
嫌な予感がした。
「あいつバカ野郎…優しいから周りに流されて参加せざるを得ない状況になっちまったんじゃないかって思ってよ。ちなみに、リュウこっちに来てねぇよな?」
僕は首を横に振った。
「大学に行こう」
と言ったものの、サチコを一人で残す訳にはいかず、もたもたしていた。
「いいのよ、行って」
「サチコ…」
「友達を助けてあげて」
僕は玄関を飛び出して、ハマと大学へ向かった。
「こんな状況で、初めて名前で呼んでくれるなんてね」
部屋に一人残されたサチコは、スケッチブックから一枚紙をはがし、呟いた。
「上手く描いてねって言ったのに」
6
徐々に雨が強まり、大学に着く頃にはどしゃぶりになった。僕たちは建設中の講堂の前で立ち止まった。うっすらと霧に囲まれている講堂は、異様な雰囲気を醸し出していた。それはまるでスティーブン・キングの『ダークタワー』に出てくる暗黒の塔だ。きっとあの中には、邪悪な王がいて、今まさに世界征服を成し遂げようとしている瞬間なんだろう。壁一面を覆うグレーのビニールが風で煽られ、バサバサ音を立てている。そこからちらっと覗く濃いブラウンの壁。たった二階建てなのに、下から見上げると、てっぺんはまるで天まで届きそうなくらい高く見える。まるで形のない権力がそこに存在しているかのようだ。まだ昼だというのに、空が暗い。
僕とハマが到着した頃には、講堂に立てこもった学生たちと、その講堂を取り囲む警察が、今にもドンパチを始めそうな雰囲気だった。警察の中に、一人だけ傘を差している人間がいた。大貫だ、とすぐに分かった。講堂の入口は、中に入れないよう大量のイスとテーブルが積み重なっている。その隙間から武装した学生たちが顔を出し、警察の様子を伺っている。火炎瓶や消化器、水が入ったバケツ、催涙ガス、イスなどを持って。どちらが先に始めるか。
二人で警察から少し離れたところに立って、荒い呼吸の中でリュウを探した。が、見当たらない。でも、講堂にいるのは間違いないと思った。あれだけの数。聞いた話では『愛と平和』のメンバーほとんどが参加しているはずだ。僕はリュウの名前を叫んだ。その声は講堂に届く前に、デモの騒音にかき消された。講堂の中から、誰かがトラメガで喋り始めた。
「これは自由の壁だ。日本の未来を明るくする希望が、こちら側にはある。そして壁の向こう側には、金と権力にまみれた連中がのうのうと突っ立っている。今我々がいるこの講堂は、負の象徴だ。完成してしまえば、汚い大人たちに服従したと認める事になる。我々は何としてもそれを阻止せねばならない。権力に立ち向かわなければならない。さぁ、この壁を守るために革命を起こそうではないか!」
「おめーらいい加減にしろよ。こんなバリケードなんか作りやがって。こっちは夜勤明けで疲れてんだよ」
数十名の警察を引き連れた大貫が、だるそうにトラメガで喋る。一触即発の雰囲気だ。するとまた講堂から声がした。
「そこにいる腐った大人どもへ告ぐ。これは我らがリーダー布川拓海先輩と我々『愛と平和』からの宣戦布告だ。政府という肩書きを濫用し、むやみやたらにルールで若者を縛りつけ、この腐りきった社会でのうのうと生きるお前らに屈するなど死んでもお断りだ。我々がこの世界を変える。腐った人間は排除し、愛と平和を世界に広めるのだ」
講堂の中から怒号にも近い掛け声が響く。憤りと怒りの混じった声だ。僕は恐怖を感じた。リュウは無事だろうか。リュウは…
僕とハマは講堂の裏へまわり、もうひとつの入口を探した。が、グレーのビニールが邪魔で、よく分からない。もう一度正面へ戻り、警察と少し離れた場所に立ち、リュウの名前を叫んだ。続いてハマが叫んだ。やっぱり聞こえないか、と思った矢先、講堂の中から一人、僕たちのほうに振り向いた。リュウだ。リュウが僕たちに気付いた。こちらに向かって何かを叫んでる。その声は騒音にかき消され全く聞き取れなかったが、口元は明らかに僕たちの名前を呼んでいた。
「リュウ、バカ何やってんだよ」
今にも泣きそうな顔で、こちらを見ている。胸が苦しくなった。どこでどうなったかは知らないが、こんなの間違ってる。早くリュウを救い出さないと。すると突然リュウの姿が消えた。さっきまでリュウがいた隙間からは、知らない奴が顔を出し、僕たちのほうを睨んだ。雨が強くなって、またトラメガから声がした。もはや学生が喋っているのか、警察が喋っているのかすら分からない。雨は強まるばかりだ。どうしたらいい。どうしたらリュウを救える?どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい…ずっと頭の中で考えていたら、ハマが突然何かをひらめいたらしく、僕に耳打ちした。いい案だ。早速それを実行しようとしたそのとき、講堂の側面の壁から誰かが出てきた。リュウだ。グレーのビニールをよけようと動きまわっている。もしかして…
「リュウ!」
ハマが叫ぶ。リュウが顔を出し、こちらに向かって走り出した。警察の一人が、その姿に気付いた。やばい。
「リュウ、戻れ!そこを動くな!」
その声は雨にかき消され、嫌な予感は現実へと変わった。リュウが数歩走り出した途端、一人の警官がリュウに向かって発泡した。
パンッ
その音を合図に、警察がバリケードに突っ込んだ。地鳴りのような叫び声に、腹の底から恐怖を感じた。僕は腰が抜けてしまう前に、前のめりになりながら、倒れたリュウのもとへ走った。
うつ伏せで地面に倒れ込んだリュウの手の平には、大きなガラスが刺さり、そこから真っ赤な血が皮膚とコンクリートに細い線を描いている。その少し下からは大きな血の塊がどんどんコンクリートに広がり、雨とまざって鉄のような臭いを発している。ハマがリュウの名前を呼ぶ。返事はない。僕はリュウの両肩を慎重に持ち上げて、仰向けにさせた。そのときのリュウの顔が、今でもたまに夢に出てくる。額、瞼、頬、首…あらゆるところに擦り傷がある。うっすらと開いている目に生命力はなく、焦点が合わないままただ前を見つめていた。その様子を見て言葉を失った僕とハマは、惨めな姿になったリュウをじっと見つめる事ができなかった。
「救急車呼んでくる」
そう言ってハマはよろめきながら走り出した。その言葉に希望の破片もなかった。ただこのままリュウをコンクリートの上で死なせたくないという気持ちだけが滲み出ていた。
「リュウ…」
僕は「大丈夫だ」とも「しっかりしろ」とも言えず、ただリュウの名前を呼び続けた。友人が死にかけているにもかかわらず、泣く事すらできない。人間はこんなにも簡単に死ぬのか。こんなにも簡単に人間らしさを失ってしまうのか。映画の中だけの話じゃない。その事実にただただ呆然としていた。
だらりと下がった真っ赤な手がピクッと動いた。そこで僕はもう一度リュウの名前を呼んだ。リュウはまだ生きていた。かすかな呼吸で息をしていた。苦しみにもだえる顔を見ていられず、僕は目を閉じた。そして目を開けて、講堂のほうを見た。
学生たちが作ったバリケードは簡単に壊され、中にいた学生たちが、火炎瓶を投げつけたり、催涙スプレーで応戦している。が、それを圧倒的に上回る大人たちの暴力にやられ、どんどん人が倒れていく。
「トシ君…」
そう聞こえた気がして、リュウに目をやった。その直後、リュウの口から真っ赤な血が溢れ出た。それが雨と混ざって、コンクリートの地面に広がっていく。
「リュウ、大丈夫だ。大丈夫だからな」
僕は、ひたすらハマが戻ってくるのを待った。その間にも、リュウは何かを伝えようとしている。
「トシ君…ごめん…」
僕はそれに対し、何も言えなかった。その後も、リュウはずっと必死に何かを伝えようとしているが、口がパクパクするだけで、声にならない。これ以上もう苦しむリュウを見ていられず、僕はもう一度講堂のほうに目をやった。警察の容赦ない暴力。無我夢中で逃げまどう学生たち。倒れた学生たちの重さで、講堂の壁を覆うグレーのビニールが破れ、悲鳴が響き渡る。と思った矢先、ふと気が抜けたような重みを感じた。
「リュウ?」
リュウは口を半開きにしたまま、死んだ。左手をだらりと地面に垂れている。無駄だと分かっていながらも、必死にリュウの身体を揺さぶった。起きる事のない奇跡を願った。リュウの名前を必死に叫びながら、涙が溢れた。身体を揺さぶるたびに揺れる半開きの口が、目が、髪が、リュウじゃない別の誰かに見えた。人間らしさを失った人間のそれに。僕は動きを止め、右手でリュウの目をそっと閉じた。声にならないまま、僕は謝った。リュウ、ごめん…ごめんな…助けてやれなくて本当にごめん…そのままリュウを強く抱きしめ、肩を震わせて泣き続けた。
「今救急車呼んだから」
ハマはそれ以上言葉を発しなかった。地面に座り込み、だらりと垂れたリュウの手を握った。さっきまでの体温は、もうなかった。ハマは立ち上がり、講堂に向かって叫んだ。
「お前らいつまでやってんだよ!こんな事して何のためになんだよ!」
すると、傘を差した大貫が近くに寄ってきて、ハマの顔を殴った。地面に倒れる。
「何のためにもなんねぇよ。ただ犠牲を出しただけだ。しかも布川は早々に窓から逃げようとして、待ち構えてた警察に連れていかれたよ。全くこれだから若い奴は」
ハマが立ち上がり、大貫の胸ぐらを掴む。
「お前らが早く止めてれば…」
言葉を詰まらせた。大貫はサッとハマの手を振り払い、講堂に向かってトラメガで叫んだ。
「おい早くしろよ。こっちは夜勤明けで疲れてんだよ。お前らが散々振り回すもんだから。さっさと片付けちゃって」
そう言って講堂のほうへ歩いて行った。ハマは地面に座り込み、首を垂らして泣いている。その背中は雨に濡れ、悲しみと怒りと悔しさがにじみ出ているように見えた。僕は、もう目を開ける事のないリュウを、強く、強く抱きしめていた。
雨が降り続ける。学生たちは散り散りに逃げ惑う。結局皆、生きるのに必死なんだ。自分たちの命を守る事で精いっぱいなんだ。未来とか、社会とか、そんな大きな規模の話より、今を生き抜くのに必死なんだ。警察は容赦なく彼らに暴力を振るう。これが、『愛と平和』が望んでいたものなのか?これで何かが変わるのか?結局、大人には反抗できないのか?僕たちは、何のためにこんな事をしてるんだ。
この一件で、『愛と平和』は事実上解散。学生、警察含め多くの負傷者を出したが、デモで命を落としたのは、リュウだけだった。
7
だんたんと空が高くなり、心地良いと感じるほどに気温が下がってきた。暑いと「早く冬になってくれ」と願うのに、涼しくなると夏が恋しくなる。人間とはなんとわがままな生き物だろう。ハマはコンビニの入口でタバコを吸っていた。ハマも僕も時代遅れなシャツを着ている。いくつになっても変わらないのは、ハマの猫背だ。下を向いたまま口からタバコの煙を出す姿に、なんとも言えない寂しさが漂っていた。ハマの胸板はこんなにも薄かっただろうか。こんなにも小さく見えただろうか。遠くを見つめる目が、多くの物事を乗り越えてきたような、物事の道理を少しずつ理解し始めたような、明らかに数年前のハマとは違った目をしていた。僕はどうだ。あの一件を乗り越えるには、あと二十年くらいかかりそうだ。
タバコを地面に捨てて靴裏で火を消した。一呼吸置いてから「行くか」と呟いた。歩き出した足音の中に、リュウのそれはない。あと一音足りない。リュウがいない状態に、まだ慣れない。僕もハマも、互いにそれを感じながら、それを言葉にしてしまうのが嫌で、黙ったままゆっくりと歩き出した。
砂利の上を歩くガシャッガシャッという音に、少し鳥肌が立った。僕は氷の音だけでなく、砂利の音も苦手らしい。だが、ハマはそんなのお構いなしにガシャッガシャッとうるさく音を立てながら進む。
リュウの墓はとても綺麗に手入れされていた。ハマがコンビニ袋からカフェオレ三本のうち一本を取り出し、墓へ手向けた。コンッという音が小さく響く。
「どうせお前、天国でも曲作ってんだろ。せっかく作るなら、俺たちに聴かせろよな」
ハマがフッと笑う。
「最後にあいつの歌聴いたのいつだっけ」
「さぁ。大学入ったくらいの頃じゃない?」
「そうか」
ハマの墓を見つめながら答えた。僕たちと布川以外に聴いた事がある人間がいるとすれば、部屋から漏れる音を壁越しに聞いた家族くらいか。それもきっと「またあの子は」くらいの感じで雑音にしか思っていなかったかもしれない。それに、勝手な想像だが、内気なあいつが自分でレコード会社に曲を売り込むとは思えない。
ハマが袋から残りのカフェオレを取り出し、僕に一本渡した。二人で同時に栓を開ける。ハマはしゃがんで、口元に缶を当てる。
「また聴かせてくれよ。あのー、『風の丘』だっけ?あれ名曲だよ」
三人で乾杯した。記憶の奥深くで、氷がカランカランと鳴った気がした。
「……あまっ」
もうすぐ夏が終わると言うのに、空はまぶしいくらい青かった。もう一生冬なんて来ないんじゃないかという錯覚に、今では悲しみも寂しさも悔しさも乗っかって、全て夏のせいだと思わないと涙が溢れ出てしまう。リュウが死んで五年が経った。あれから僕たちはどれくらい成長しただろう。確かに見た目は落ち着いたが、中身は今でも授業を抜けて、ハマとリュウと三人でガロで喋っていた時のままだ。何も成長しちゃいない。リュウはきっと今ごろ、天国の端っこのほうに座って一人でギターを弾いているんだろう。お前がもう少し生きていたら、もしかしたら、今ごろ『第二のボブ・ディラン』なんて呼ばれていたかもしれないのに。そして僕は相変わらずテレビの前で批評家めいた事をぶつぶつ言っていただろうに。
「行くか」
二人同時に歩き出した。今日は平日だから、きっとガロは空いている。
若者たち 稲垣奈美 @namiinagaki
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