さらば愛しのインスタント・ヌードル

@isako

さらば愛しのインスタント・ヌードル



 義堂清太郎ぎどうせいたろう博士が過去に戻るタイプのタイム・マシンを完成させたせいで、人類が今まで認識してきた世界はすべて崩壊した。


 たとえば、西暦2000年12月1日午前10時30分ちょうど(日本時間)において、義堂式タイム・マシンを起動させ、任意の人物α氏がぴったり100年前に設定された1900年に遡行そこうしたとする。


 その「過去」である1900年の世界において、「2000年人」であるα氏が存在していることは、これまでの1900年の世界(つまり時間遡行そこうがない、手つかずの、純粋で基本軸として存在している世界。「純粋時間」とよばれる)にはあり得ないこととなる。


 ここで、即座に、「純粋時間」の1900年と、遡行済みの1900(α)年との間に矛盾が生じることになる。たとえα氏が忘れものをとりに帰るために、すぐに「1900年」から離脱して「2000年」に戻ったとしても、その「2000年」は、「1900年のとある2分間において、『2000年人』であるα氏が存在していた2000年」ということになり、もとの「2000年」ではなくなる。つまり2000(α)年が発生する。


 この矛盾、過去と現在と未来の美しい流れをぶった切り崩壊させる矛盾が起きたとき、世界はどうなるのか。人類が至ったのは一つの恐ろしい結末だった。


 「何も起きなかった」のである。


 義堂清太郎博士は歴史上で最初の時間遡行者ということになっている。彼は時間遡行の理論を完成させると、その論文をどこに発表せず、そして誰にもその存在を語らず、ただの平凡な量子力学の教授として20年間を過ごした。


 その20年間で、彼は、「任意の時点での人間の生命と精神を維持したまま、任意の過去にその人物を転移させる乗り物」を制作した。それはセダン・タイプと呼ばれる古典様式を模した銀色の自動車の形をしていた。義堂博士はその形状について「私なりのユーモアでございます」と述べたが、だれもその意味を理解することはできなかった。


 義堂博士は、タイム・マシンのデモンストレーションと称して、西暦2xxx年12月1日、午後6時55分から同日午後7時ちょうどまでの五分間におけるの日本のすべての民間テレビ局の放映権を購入して、その映像をライヴ放送した。またインターネットによる同時中継も行った。彼は言った。


「わたくしがこれから行おうとしておるのは、ただの時間旅行なぞではございません。人間実存の、意味や価値を根底からひっくり返す人類の革命的進歩、広義の進化そのものでございます。わたくしは嘘吐きでも、気狂いでもございません。しかし、これから起こることを目の当たりになられる多くの方々は、わたくしが何をしているのか。あるいはしたのか、よくわからないようになる、意味不明の泥沼に陥ってしまうことになるやもしれません。そういうものを見越したうえでの方策は取ってあります。誰もがこの進化を、革命を体験できるよう準備をしてあります。それでは時間もありませんので、さっそく始めさせていただきます」


 義堂博士は件の古典的な形式のヴィークルに乗り込むと、取り付けられたガラス窓を開けて、頭だけをカメラに向けて言う。

「それでは、わたくしは、1966年の東京へ。メル・テイラーの情熱的なドラム・パフォーマンスを……」


 博士を乗せた車は古典様式にそった巨大な摩擦タイヤを無視して、磁気浮上によるホバリングを始める。同時にガラス窓が閉まって、その外側を黒い遮蔽膜がせり上がって保護する。カメラから義堂博士の姿が消え、宙に浮かぶ車のみが映像として映し出される。


 突如として激しい発光を始めたタイム・マシンは、その光が強まるに伴い、ボディの輪郭を光の中に溶け込ませていって、ついに見えなくなった。光で画面が切れるのを危惧したカメラマンがカメラを引かせると、夕闇のなか、大学の駐車場の中央で、巨大な花火のような光球が回転しているらしいのがわかる。


 やがて、金属が物理的な負荷から破断したときのような、甲高いなかも、どこか鈍さのある音が、ばちゅん、と響き渡ると、タイム・マシンを包んでいた光球はそれと同時に消え去った。夜の、静かな駐車場が残る。


 するとカメラの外から、50代前後という感じの、あまりぱっとしない雰囲気である学者ふうの男が現れて、手元のくしゃくしゃのメモを読み上げた。


「え、義堂清太郎博士の助手をしています、小木おぎ治具文人じぐむんと圭吾けいごと申します。放送は残り二分というところですが、ここで義堂博士から世界中の皆さまに残されたヴィデオ・レターがあります。実験終了後、こちらを放送するようにと義堂博士が私に命じられました。え、それではご覧ください」


『義堂清太郎でございます。この映像は西暦2xxx年12月1日午前10時に録画されたものです。みなさま、さきほどのタイムスリップをご覧になられたでしょうか。わたくしは既に、皆さまがおられる2xxx年の「純粋時間」のタイムラインから離脱し、1966(S.Gido)年におります。これらの言葉はまだ意味不明のものであられましょう。簡単にいってしまえば、もう私が皆さまとお会いすることはありません。皆さまが生きる世界から私は永遠に離脱することになりました。私はこれから、「1966年」に、東京で行われたThe Venturesの演奏会に忍び込みます。もちろん彼らの生演奏を聴くためでございます。

 それはさておき、このテレビ放送が終了すると同時に、世界の名だたる研究機関に、わたくしのタイムスリップについての論考とタイム・マシンの設計図データが送信されることになっております。また同様に、わたくしの個人ウェブサイトでそれらをフリーに公開いたします。純粋時間に残された皆さまへの、わたくしからの置き土産でございます。どうぞご自由に、お使いください。

 それでは、これからの人類の皆さまが経験するであろう、無限の並行世界の生成とそれが生み出す新たな精神呼吸のはじまりを祝福いたしましょう。みんなおめでとう』


 義堂博士の言葉が終わると、愚にもつかないヴァラエティ・ショーが始まり、コメディアンが番組のタイトルを絶叫した。その絶叫から新時代が始まったといってもいい。世界は、人間は、分裂を始めたのである。


 義堂博士は2xxx年から1966年にタイムスリップした。そして、その時点で、「1966年の世界の中に、はるか未来の人物・義堂清太郎(Seitaro Gido)が存在する」という一個の事実を抱えた新たな世界、「1966(S.Gido)年」が成立した。


 となると、過去の出来事から現在の事象が因果の流れとして派生していくという一般的な感覚からして――卵が割られなければ、オムレツが焼かれることもない――過去の改変から波及する現在ひいては未来への影響がある、と目されたのだが、そういうものはなかった。


 過去として成立してしまった出来事を、「改変」として認識できないのではないかという問いもあったが、それも違った。我々の生きる純粋時間「2xxx年」は、義堂清太郎という人間が消失しただけで、なんの変化も生み出さないというのが、結局の事実であり、そのことは、義堂博士が公開した論文の中で巧妙に論証された。

 

「過去の改変は実現し得ない。枝分かれした新たなる世界が成立し、新たなる未来が構築されていくのみである。」と義堂博士は論文の中で述べた。


 博士が行った最初の時間旅行によって生まれたものは、「純粋時間」の中に存在する我々には絶対に認識できないもう一つの並行世界「1966(S.Gido)年」であり、そこから進行して永遠に続くもう一つの「2xxx年」すなわち「2xxx(S.Gido)年」である。


 時間遡行によって過去が書き換えられることで、因果と歴史が破壊され、最悪のディストピアが誕生するといったようなサイエンス・フィクション的な恐怖は取り除かれた。どれだけの人間が過去にさかのぼり、それを弄ったとしても、新たな世界「X(α)年」が成立するだけであり、「純粋時間」には何の影響も及ぼさない。それが義堂博士の導いた時間遡行の結論だった。


 義堂博士が残した論文と、タイム・マシンの設計図は徹底的に精査され、ついにあのテレビ放送から二年が経った冬に、世界中でタイム・マシンが普及するようになった。


 様々な企業や研究機関がタイム・マシンを開発し、それに改良を重ねたが、結局もっとも精度の高いマシンをつくった、という信頼を得ることができたのは博士の助手だった小木というあの研究者だった。


 今度は旧時代の自動車型ではなく、ハンディタイプの端末機器のような形状になった。義堂博士の設計において、元々時間遡行にはそれほど巨大な設備は不必要であり、最初のタイム・マシンがあれほどの大きさになったのはどうやら博士の趣味だったらしい。


 初めは金持ちたちが、次には一般民衆が、そういう順番で、タイム・マシンが広がっていった。みんなが思い思いの時間に飛んで行って、「X(α)年」を無数に作り上げていった。

 

 彼らの多くはあるいは、その旅行先の時代から、もといた「2xxx年」に戻っていったのかもしれない。でもそれは「X(α)年」から構築された別世界「2xxx(α)年」でしかない。


 そして彼らの片手には携帯電話くらいの大きさのタイム・マシンが常に握られているだろう。彼らが「過去に戻りたい」とか思って、遡行を繰り返す度に、「X(α)年」に新しい遡行が追加された「X(α-β)年」が成立する。これから先は言うまでもない。ほぼ無限に、恣意の数だけ、矛盾を生み出しながら世界が成立していく。「X(α-β-γ-δ……)年」が。


 その世界は、過去への干渉によって、無数の修正がなされる世界になるだろう。やり直しはなんどでもきく。旅行者はいくつもの新しい世界を創りあげた。


                  ⁂


 俺の両親は俺が十五のときに飛んだ。窓からじゃない。この世界から飛んでいった。「2xxx(Fa-)年」と「2xxx(Mo-)年」をそれぞれ別々に作り上げて、俺が今生きている時代/世界から消えていった。葬式なんてしない。彼らは時間旅行者に過ぎず、この世界に戻ってこないというだけで、死者ではないから。


 俺は伯父のところに預けられた。だがそいつもすぐに飛んだ。夫に捨てられた伯母に残された手紙には一文、こう書かれていた。「お前も飛べばいい。」


 伯母は飛んだ。他の連中と違うのは、行先は硬いアスファルトだったというところである。伯母の葬式はちゃんと行われた。


 タイム・マシンが大衆化されたせいで、人々は人生の苦しみから逃れるようにじゃんじゃん飛んでいった。地球上の人口はぐいぐいと減っていった。なんとなく社会は保たれているが、じきに文明は滅びるだろうと予測されていた。ところどころで、もう近代を手放したところがあるという噂も広がった。


 最後の進歩である時間遡行が、人類を終わらせたのである。


 一ヶ月とちょっとで完全な天蓋孤独になった俺は、いろんな人の親切と、運の良さのおかげで高校までは出ることができた。大学には行けなかったが、自分の食い扶持を自分で稼いで生きていくことはできる程度になった。


 皮肉なことに、俺はタイム・マシンを生産販売している企業の、カスタマーセンターの電話係を務めていた。説明書も読めないあほに、タイム・マシンの使用方法を教える係である。一日に五十人くらいは対応する。毎日、じゃんじゃん人が飛んでいることを実感する。


 もうタイム・マシンは高級品でもなんでもなかった。俺の月給の三分の一ほどの値段で購入できる。実際、同僚だって普通に飛んだりする。朝礼の時に、上司が陰鬱な表情で「××くんが時間旅行におもむいた」と言うことだって、全然珍しくない。


 昼休み、ポッドで沸かした湯をインスタント・ヌードルの器に注いで、それを箸でかき回していた。俺は三分を待たない。まだ固いヌードルをぐにぐに噛んでいるところ、同僚の高田が俺に話しかけてきた。


「それって、もう何百年もそういうかたちらしいよ」


「そういうかたち?」


「だから、即席めんだよ。1900年代の後半にそういう形に開発されてから、ずっとそうなんだって」


「へぇ。そりゃ進歩のない話だな」


「僕らがそれを言うの?」高田は笑った。


「お前、昼飯は?」


「今日はいいや、お腹が減らないんだ」


「お前なんか顔悪くないか? 大丈夫か」


「顔が、でしょ」また笑った。


「ちゃんと食ってんのか?」


 俺が訊くと、高田はにっこり微笑んで頷いた。


「家ではちゃんと食べてるよ」


「肉食わなきゃだめだぞ」


「食べてるって」


「こんど焼肉食いに行こうか」


「焼肉はあんまり好きじゃないな」


「なんだよ、のらねぇな」


蕎麦そばは? いいところがあるみたいなんだ」


「ソバはちょっとシケてないか」


「おいしいらしいんだ。天ぷらもやってる」


「てんぷら。それならいいな」


「映画も見に行こうよ。義堂清太郎博士の伝記ドラマが週末に封切ふうぎりだよ」


「義堂清太郎ときたか。ちょっと悪趣味だな」


「博士の発明のお蔭で仕事があるのに、よくそんなこと言えるよ」


「それとこれとは別だからな」


「君はタイムマシン嫌いだもんね」


「タイムマシン大好きですってやつの方が少ない」


 少し高田が黙った。


「それじゃ、週末、蕎麦と映画ね。忘れないでよ」


 そういうと、あいつはふらふらとどこかに去っていった。高田と話していた時間のせいで、ヌードルは俺好みの堅さから少し伸びてしまっていた。健康に悪そうな味の濃いスープを全部飲み干したあと、長い小便をした。それから仕事に戻った。


 日曜日、俺たちは予定通り映画を観たあと、蕎麦を食った。意外と悪くなかった。だいたい俺は、麺ものはなんでも好きなのだ。


 高田が本屋に寄りたいと言ったので付き添った。あいつはなにか小難しそうな小説を一つ買った。俺はそういうのが全然わからないタイプだから、なんとなく高田の感受性豊かなところとか、繊細なところを普段から小馬鹿にして遊んでいた。でも内心、憧れてもいた。


 さらに高田が、夕飯の買い物に行きたいと言った。せっかくだから焼肉を食べに行こうと誘ったけど、高田は遠慮した。奢るといっても聞かなかった。無理に食わしても悪いので、それ以上は言わなかった。


 高田が、野菜とか甘い菓子ばかりをぽんぽん買い物かごに放りこんでいくのを見てげんなりした。肉類は、ピンクに着色されたハムだけだった。俺がその不健康な食事スタイルを咎めると、


「そうは言うけど、君だって、肉とインスタントものばっかりなんでしょ」と切り返される。俺もたいがい不健康だった。


 そのあともなんだかんだと用事に付き合わされて、結局暗くなるまで遊んだ。別れるのがちょっと名残惜しくなるくらいには、楽しかった。


「じゃあ、また明日にな」


「うん。またね」


 そう言って俺たちは別れた。


 その晩も、俺は買いだめしてあるインスタント・ヌードルに湯を注いで、三分を待たずに即食べた。金欠のとき、あるいは料理が面倒なときはこれをする。今日は映画も見たし、うまい蕎麦も食ったから、晩飯はこれでいい。


 つまらないテレビを観ながら、俺はゆっくりと眠りの世界に落ちていった。誰かの馬鹿笑いが小さく聞こえる。それは画面を隔てた別の世界で行われている。俺は今にも眠ろうとしている。心地いい曖昧さがやってくる。


 なにか必死さを感じさせるような響きで、携帯電話が鳴った。その音は、俺を心地よさの中から引っ張り上げて、頬をぴしゃりと叩いた。俺はまだはっきりしない意識で、電話に出た。


「もしもし」


「あ、高田です」


「おう。なに?」


「いや、今日はありがとうって、お礼の電話」


「なんだそりゃ」


「べつにいいでしょ」


「はいはい。どーも。こちらこそ」


 電話の向こうはなんだか騒がしかった。俺は尋ねた。


「お前いま、外? もしかしてまだ帰ってないのか?」


「ん? いや、一旦帰って、ちょっと用事で、いま外」


「あそう」


「タイムマシン買ったんだ」高田が言った。


 俺は腹のなかのヌードルが口から噴き出るかと思うくらい気分が悪くなった。でも、だからといって、俺になにができただろうか。


「へぇ」


「今から飛ぼうと思う」


「どこ行くんだ?」


「去年だね」


 誰だっていろいろある。高田の場合、去年なのだろう。


「そうか」


「うん」


「元気でな」俺は言った。


「ありがとう」


「無茶すんなよ」


「大丈夫。一回きりでいいんだ」


「α時間のお前はどうするんだ?」


「どうもしない。重複したって平気だよ。僕と彼は結局別人さ」


「殺すなよ」


 時間遡行の基本的な問題として、自分が生きている時代への遡行を行うと、同じ時間/世界に同一のDNAを持つ人間が重複することになる。記憶情報と経験時間の差は生じるが、人間の精神からして、自分がもう一人いるのは、決定的な居心地の悪さがある。時間旅行者たち(そして新たに生成された世界の彼ら)がそれをどのように処理しているかは、誰にも分からない。


 高田のように、去年とかそのくらいの短いスパンを遡行すると、見た目もあまり変わらない自分が隣に現れることになる。


「殺さないよ」高田が笑った。


「殺すだろ」


 「去年」という具体的な遡行の目標があるということは、修正したい過去があるということだ。そして修正した世界には、その「2xxx(Takada)年」の世界には、遡行していない、去年の高田がいることになる。たとえ修正のあと、去年から修正済みの世界に戻っても、去年の高田が一年を過ごしてそこにいる。もとの生活に戻るには、どうしてもその高田は邪魔になる。


 時間遡行による修正能力から考えればいくらでも世界を創り変えることはできるが、もといた世界と同じ椅子に座りたいとき、時間旅行者はその椅子に座るドッペルゲンガーと対面することになる。


 高田の場所はどこまでもここだけなのだ。もしかしたら既に誰かの修正を受けているのかもしれない、「純粋時間」ではないかもしれない、「2xxx(α-β-γ-δ……)年」かもしれないこの世界にしか、高田の椅子はないのだ。


 俺たちは、そのことを、誰よりも分かっているはずなのに。


「うん。殺すよ」高田の声は涙ぐんでいた。


「やめとけ。お前には無理だよ」


「もう決めたから」


「どうせ俺に止めて欲しくて電話したんだろ。うざったいから早く家帰れ」


「半分はそう。でも半分は、君とお別れするための挨拶かもしれない」


 高田が飛んだあとの「2xxx(Takada)年」にはちゃんとその時間/世界の俺がいる。でもいまこの世界には、俺と高田にとってどこまでも純粋なこの時間からは、高田は失われることになる。永遠に。飛ぶとはそういうことなのだ。


「てめーぶっとばずぞ」


「それ言うと思ったよ」


「わかった。頼むからやめてくれ」


 返事はなかった。俺はとてつもなく怖いと思った。ひさしぶりに人間が怖いと思った。高田の返事を待ってると、あいつは電話を切った。俺はかけ直したけど、つながらなかった。


 俺は家から飛び出して走り出した。走ってる途中で、そういえば高田の家の住所を知らないことを思い出した。自分のあほさ加減にうんざりしながら、上司に電話をかけた。出なかった。連絡の取れる会社の連中に片っ端から電話をかけて、高田の住所を聞き出そうとしたが、全員が、住所を知らないか電話に出ないかだった。


 俺はもう吹っ切れて、諦めた。死ねばいい思った。勝手に消えたらいい。どうせ新しい世界で好き勝手修正した時間を生きるんだ。幸福だろう。そう考えることにした。家に帰って、冷蔵庫の中の酒を全部飲んだ。飽き足らず、コンビニまで行って、山ほど買い込んで、それも飲み干した。それから一時間と経たないうちに、胃の中身を全部便器に吐き出した。最悪だった。


 そこからさきはもう覚えていない。多分すぐに寝た。


 夢の中でも高田が現れた。俺は高田がまだこの時間にいたことが嬉しくてたまらなかった。でも話しかけると、高田はまだ時間遡行を諦めたわけではないようだった。時間が戻っただけだった。俺たちはまだ、蕎麦を食い終わったばかりだった。


「おい、飛ぶなよ」俺が言った。


「いや、行くよ」高田が言った。


「やめとけ。ここで我慢しろ」


「無理だ。僕は去年を変える」


「頼むから」


 また高田は黙った。俺はこのやり取りを一度どこかでやったことがある気がしたが、気がしただけだった。


「僕は……」


 高田が何かごちゃごちゃ言った。なんか去年に失敗したとか、それがずっとどうとか、そういう話だったけど、俺にはうまく理解できなかった。


 俺はなんとなく、分かっていた。高田は飛びたいとは思ってない。こいつは飛びたくて飛ぶんじゃない。飛ぶしかないから飛ぶんだ。だから、俺に何かできるはずなんだ。でもその何かが分からない。飛ばなくてよくする方法が、分からない。


「なぁ、いいじゃないか。いまこうしてこの時間を生きてるだけで。お前、そんなに苦しいのか? 俺は毎日お前と顔合わせてるだけでもけっこう楽しいんだ」


 高田は何も言わない。


「行かないでくれってんじゃ、足りないのか? 俺の都合だけじゃ、お前をこの世界には縛れないんだろうか。とんでっちまうのか」


「俺は弁も立たないし、機転もきかない。マニュアル通りに電話越しで指示するしか能のない男なんだよ。お前の期待には応えられそうもない……」


 考えれば考えるほど思考がくすんだ。何かを言おうとすれば言おうとするほど舌はもつれた。


 俺が途方に暮れて、ただ突っ立っていると、高田の身体が鈍く発光し始めた。義堂清太郎の初代タイム・マシンと同じようにして、その身体が形を失っていく。


 俺は高田の名を叫んだ。ありったけの力で叫んだのに、喉から声は出なかった。


 ぱっと目の前が明るくなって、何も見えない時間が続いて、気付いたら俺は自分の家のベッドの上で涙を流していた。まだ部屋の中は暗かった。時計を見ると、午前一時を少し回ったくらいだった。


 昂った気分を鎮めようと、俺は夜の散歩に出かけた。冷ややかな空気を吸い込むと、肺の中からきりっと引き締まる感じがして気分が良くなった。


 高田に電話してみた。つながった。


「まだ、行ってないな」「うん。行ってない」


 俺も高田も、今は泣いていいない。


「やめにしたのか」「わからない」

「お前これ、めっちゃメンヘラっぽいからな」「うん」

「それでどうすんのよ」「どうしよう」


「どうしたらいい?」


「行くなよ」


「分かった」


 深い息が鼻から抜けた。肩から力が無くなって、携帯を取り落とした。慌てて拾い上げて、高田の名前を呼んだ。夜の公園に俺の大きな声が響いて、誰も聞いていないはずだけど、ちょっとひやっとする。


「なに? いま落としたの?」高田はちゃんと応答した。


「ああ、落とした。でもすぐひろったからセーフだよ」俺が返した。


「食べもんじゃないんだから」高田が笑った。


「じゃあまた明日……もう今日だけど」


「うん」


「ちゃんとこいよ」


「いくよ」


 この会話がいかにも青春らしくて、胸ヤケがした。高田に聞こえないようちょっと携帯と離してから、うぇっ、とやると、高田が言った。


「ありがとう」


 これもまた「うえっ」て感じなので内心厳しかったのだが、高田に配慮して俺は余計なことは言わなかった。


「おう」


「僕も君と毎日会えるの、やっぱりけっこう楽しいんだよ」


 なんのことだろうかと思ったけど、いつかそんなことを言ったのを思い出した。伝わってなかった気がしてたから、伝わってて安心した。


                            

                                 〈終〉

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