永遠を彷徨うコンドルの噺-10-
実感のないまま、ぽつりと小さく呟いた。
「アカシアの記録、アーカーシャ記……。ここに蓄えられた無限の記憶を、人間達は好きなように呼び、己の認識どおりの姿で見るものだ。こうして泉の姿となるのは、インティの民には文字がなく、記録を残すという概念がなかったためなのだろう。だがそれなのに、流水でないのが不思議でならぬ。時は流れ行くもの。生は移ろいゆくもの。それなのに彼らは、記憶を泉と表現する」
男の言葉を、少年はすぐに理解することはできなかった。それでも、水面から目を離せない。水面には、彼にもそうとわかるインティの人間もいれば、白き人々の姿も映し出されていた。その他に、不可思議な衣服を身に着けたもの、見たこともない道具を操るもの、奇妙な動きをするもの、実に様々な者が映し出されている。
「結局の所、文字など、記録など、人の手で遺したところでたかが知れているのだ。一度争いが起きれば、多くの記録は抹消される。敗者の記録は勿論のこと、勝者の記録に限ってすら、正しく残される試しなどない。インティの民はそれを、よく理解していたのやもしれないな。だからこそ高度な文明を持ちながら、文字を得ようとはしなかった。ただその時を生きていた──」
「あなたは何者なのですか」
気づけばそう問うていた。泉の中の男。最盛の王コリンカチャに、未来を示したと伝わる男。人間離れした雰囲気のあるこの男は、伝承どおり、太陽の神の化身なのだろうか。
「俺はあの時、インティの手で泉に捧げられた時、恐らく死ぬはずだったのです。だがそれを、あなたが助けた。書き換えた。……それは一体、何故なのです」
──だがここで、死なせてしまうのはどうにも惜しいな。お前のもう一つの運命は、なかなかどうして、魅力的だ。
──我が友人との縁もある。お前がそれを望むなら、この先の世界を見せてあげよう。
「単なる暇つぶしだ」
ふと、言葉が口をついて出た。少年の口から出ただけで、彼自身の言葉ではない。見れば男は水面の上へ静かに立ち、その手に細い竿を持って、楽しげに、釣り糸を傍へ垂らしている。
「お前の祖先、コリンカチャとは釣り友達でね。あいつめ、万人の追い求める年代記を手にしながら、未来など知ってしまっては面白くない、過去など好きに作り変える、と笑いおって、過去も未来も望もうとはしなかった。なのにその血族が、『記録者』になる素養を持っていたなんて、面白い話じゃないか」
記録者。
馴染みのない言葉ではあったが、少年には心当たりがあった。文字を持たぬインティの歴史を、文化を、信仰を問い、それを書き記したノート。それはたしかに、記録であった。
「俺の記録したものは、全て灰になったけれど……」
この男だって、つい先程言ったではないか。文字など、記録など、人の手で遺したところでたかが知れているのだと。
「お前は二つの血の合わさるところに生まれながら、どちらに寄ることもしない。征服者の血を継ぎながら、その権力を振りかざすこともせず、王の位に立つことのできる境遇でありながら、決起しようとは考えぬ臆病者。しかし、──」
男の釣り糸に、何かがかかり、逃げおおせた。男は先の軽くなった釣り糸をつまみ、にやりと笑みを浮かべてから、少年を見据え、こう言った。
「記録者としては、正解だ」
私の黄金のコンドルよ。この瑣末な暇つぶしに、お前の翼を使わせておくれ。
***
嵐の夜のことである。
ある屋敷に、旅の詩人が訪れた。荒天に濡れそぼる、その小柄な体を哀れに感じたのであろう。屋敷の主人はこの旅人を招き入れ、彼に宿と食事を与えた。
詩人の口に語られまするは、全能の書の物語。
弦よ、そのはじまりを歌いませ。
人よ、その終わりを歌いませ。
その音色の美しいこと。語りぶりの巧みなこと。旅の詩人はすっかりと、屋敷の人々の心の内に入り込む。そうして、褐色の肌のこの旅人は、目を輝かせて余興を見守る子供の手を取り、笑みを深くしてこう告げたのだ。
「王を見つけなさいませ、ジラルド様──」
── 『永遠を彷徨うコンドルの噺』 完 ──
アカシア年代記 里見透 @ThorSatomi
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