永遠を彷徨うコンドルの噺-9-

 木の生い茂る、ビルカバンバの麓の森は、暗い闇に閉ざされていた。そんな中をさくさくと、茂みをかき分け進んでいく。

 先を進むチュチャが、松明の火をふと掲げる。そうして見つけた五つ目の泉を覗き込み、「これも違うのかしらね」と彼女は苦笑した。

 幾条かの川と豊富な地下水を有するこの森には、泉と呼べる代物が複数あり、そのどれがススル・プガイオであるのかは、伝承の中で明言されていない。それで二人は森の中を歩き回り、泉を見つける度、それを覗き込むということを繰り返していたのだ。

「インティの民は古来、生きた人間を生贄にして、その心臓を神に捧げていたの」

 ふと、チュチャがそう告げる。

「あなたが望む、泉の中の男との邂逅も、生贄を捧げれば叶うかもしれないわ。試してみる?」

「冗談言うな。君が生贄になってくれるとでも?」

 苦笑しながら少年が言えば、「そうよ」とチュチャは軽い口調で言った。

「私達は王を求めた。王はついぞ、現れなかった。残されたインティには、もはや破滅の道しかない。──そうして滅んでいく様を目の当たりにするくらいなら、私はあなたのために、生贄にだってなりましょう」

 「そうか」少年はぽつりと答え、その場へ静かに足を止める。

 そこにまた、ひとつの泉があった。チュチャが話して聞かせたような、青く明るく輝く泉が。

「ねえ、チュチャ。君をここに伴ったのは、本当は君が、ススル・プガイオのを知っているんじゃないかと思ったからなんだ」

「あら、……それはどうして?」

 微笑み、振り返るチュチャの目が、少年をじっと見つめている。

 少年の、青く輝くその瞳を。

「君がいつだって、まるで全てを知っていたかのように、何もかもを受け入れるから」

 チュチャはただ微笑んで、彼の問いには応えなかった。少年は己の身につけた首飾りを外し、それをチュチャに手渡すと、「好きに使って」とそう告げた。

「君が使うのでも、ワスカルが使うのでも構わない。印さえあれば、きっと誰だって構わないんだ。これを掲げて王を名乗れば、協力を名乗り出る部族もあるだろう。……俺はせめて、新しく立つその王の、健闘を祈ることにするよ」

 それが最期の言葉になった。

 幼い頃、耳にしたのと同じように、とぷんと静かな水音があった。手足を縛られてはいなかったが、少年は一切の抗いを見せず、泉の内へと沈んでいった。

 しんと静まり返った水中は、彼にとって心地が良かった。

 ふと目を開けてみてみれば、遥か眼前に、月の光を受け、揺らめく、美しい水面が見えていた。

 

 ***

 

 艶やかな色とりどりの布が、青空の下ではためいている。ぼんやりとした意識を呼び起こしながら、少年は幾度か瞬きした。

 自分が何をしていたのか、今ひとつすぐに思い出せない。しかししばらくするうちに、どこか、広大な敷地に面した高い椅子に、座していることを認識する。

 楽しげな人々の声が、拓けたその場に満ちていた。

 基壇きだん状に日干し煉瓦れんがを積み上げた、巨大な高台の中腹に、少年は腰掛けていた。闘技場か何かであろうか。高台の前には広場があり、それをぐるりと取り囲むように、人々がひしめき合っている。そうして歓声を上げるのも、場の中心で舞い歌うのも、──皆、褐色の肌をした、インティの人々である。

 鼻孔びこうをくすぐるかぐわしい香り。見れば少年の座した席の前に、食事が用意されている。つやつやと輝く果物に、調理された肉の類。それらの食事がその席に座した人間のために、特別に用意されたものであることを、少年はすぐに理解した。

「……、王のための席」

 呟いて、ふらりとその場へ立ち上がる。すると場にひしめき合ったインティの人々が、少年を見、喜びの歓声を上げた。

 これは一体、何だというのだろう。見れば先程、人々が舞い歌っていた場には戦士達が姿を表し、その腕前を競い始めている。その様子を見る人々は、それぞれに拳を振り上げ、戦士達を応援した。

 何かの祭の最中であろうか。しかしなんにせよ、少年の知らない祭である。そもそもこんな集いが、存在しているわけがないのだ。広大な土地にインティだけが集まって、こんなふうに楽しそうに、遊びに興じる姿など──、

「久しぶりだね、コリンカチャ」

 耳に覚えのある男の声。コリンカチャ、と、少年を英雄の王の名で呼ぶその男の姿は、すぐに見つけることができた。

 気怠く振り返る少年の目の前に、黄金のコンドルを従えた男が立っている。コンドルを従える、この男自身の体も、柔くいくらか発光している。それで少年もようやく、己が一体何者で、何を行ったのか、全てを思い出すことができた。

「ススル・プガイオ、──その泉の中の男。もしやあなたが、そうなのですか。あの日、あの晩、インティの人々の手で神に捧げられた俺を助けて、……運命をのは、あなたなのですか」

 震える声で問うてみる。すると相手は不可思議そうに眉根を寄せて、「ああ、もしかして」と、無遠慮に少年へ詰め寄った。息のかかるほど近くまで顔を寄せられても、不思議と、男の呼吸を感じない。少年がじっと立ちすくんでいると、男は不意に笑いだし、少年の目を見開くように、両手でまぶたを押し開ける。

「おや、青い目」

 彼が混血であることを物語る、白き人々から受け継いだ色。

「なんだ、似ているだけの別人とは。最近めっきり姿を見せないから、どうしたのかとは思っていたが。その様子だと、どうやらまた随分と、外では時間が流れたらしい。さて、教えておくれ。お前がいたのは一体いつの、なんというこよみの上であった? お前によく似た顔貌かおかたちをした、コリンカチャという友人がいるのだが、お前、その人間を知らないか」

 問われ、少年は戸惑いを隠せず、眉根を寄せた。

──久しぶりだね、コリンカチャ。……おや、違うな。よく似ているが、別人だ。それがどうして、こんなところへ迷い込んでしまったのやら。

 そうだ、以前もこの声は、少年を別の人間と誤った。そのことを、彼は忘れているのだろうか。

 「……コリンカチャは、」やっとの事で口を開けば、男はようやく少年を放し、「うん?」と言葉を促した。

「コリンカチャは死にました。もう何世代も前に、……。タワンティン・スウユの全盛を築いた王は死に、火の大陸には異民族達が押し寄せて、……今はもう、タワンティン・スウユという国自体が滅んでいます」

 ぽつりぽつりと少年が言うのを、男はコンドルの羽根を撫でながら、じっと静かに聞いていた。そうしてにこりと微笑むと、「そうかい」と相槌を打つ。この男は先程、コリンカチャを友人と言った。だがその死を聞いても、いたむ様子は少しもない。

「ここは、……この祭は、一体何なのですか。インティの民が、インティらしい服を着て、楽しげにはしゃぎあっている。ここは、この場所は、」

「その質問には価値がない。既に答えを得ているのだろ」

 王のためにあつらえられた席を降り、人々の合間を縫うように歩く。だが人々は、少年のことも、この男のことも、見えていないかのように無関心だ。

「ではここは、俺の考え通り、……過去のタワンティン・スウユなのですか。最も栄えていた、コリンカチャの統治の時代の、」

 男はこたえない。だがその沈黙こそが、彼にとっての答えであった。

(ああ、こんなにも、……豊かな時代があったのだ)

 男の足は止まらない。彼はただ無言で観覧席を下り、正面の門から塀の外部へと進んでいく。少年もそれに続き、しかし、──

 黄金のコンドルが羽根を広げた、その瞬間、息を呑んで立ち止まる。

 塀の外に、無限の水面が広がっていた。水面。そうだ、何の波紋も浮かばぬ水面が、少年の足元から視界に収まる全ての先へまで、ずっと、ずっとただ続いていた。流れのない、そこにある水面には、全て──、見知らぬ風景が映し出されている。

 振り返る。先程までそこにあった巨大な広場は、既にない。だが少年の足元に続く水面には、楽しげに笑うインティの人々の姿が映し出されている。

「──、知の泉、ススル・プガイオ」

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