馬と騎士

束川 千勝

Franz Marcという男

 小さな部屋で、布が張られただけのカンバスを、マルクはイーゼルの前に置かれた椅子に座ってぼんやりと眺めていた。部屋に置かれたランプが煌々とカンバスと彼を照らす。そんな彼の手には筆が握られていた。

 意を決したように立ち上がり、パレットを手に取って筆を乱暴にそれへ擦り付ける。カンバスをぼんやりと眺めていた彼の姿はそこになく、白い布を睨みつけるマルクが、そこにはいた。ぐしゃりと音が立ちそうなほどの勢いで筆をカンバスに叩きつける。しかしそうしたところで満足のいく作品ができるわけではない。ただ自分の感情をカンバスに叩きつけるだけの行動であった。

 しばらくして気が済んだのか、マルクは筆とパレットを置き、再び椅子に腰かけた。ふぅ、と小さく息を吐く。その吐息に誘われるようにランプの灯が揺らめくのを視界の隅で捉える。しかし納得のいく作品が出来たわけではない。椅子から立ち上がり、勢いよくベッドに寝転がる。固いスプリングのないベッドがマルクの体を受け止める。薄いシーツに顔を埋めて彼は油の匂いに身を包み、静かに目を閉じた。



◆     ◇     ◆



 何をやっても上手くいかないことにやり場のない苛立ちを覚える。どうしようもない怒りにマルクは手を拱いていた。自制心などはとうの昔に消え去っている。いつの間にか日が昇っていたのだろう、部屋に差し込む日差しすらも煩わしくて、彼は部屋をカーテンで閉め切ったままにしていた。

「やはりお前には無理だったのだ」

 頭の奥の奥で父の嘲笑う声が響き、マルクはテーブルを叩く。マルクは込み上げる激情に身を任せて花瓶を床に叩きつけた。行き場のない怒りが脳を支配する。

「お前には才能がない、私の言うことも素直に聞けないお前が画家になれるとでも思っていたのか」

 父の厳しい言葉が脳内に反響する。うるさい、と頭を振るも、父の表情や声は消えてはくれない。もう何をやっても上手くいかない。全て父のせいだ。そう思わずにはいられないほど、マルクは追いつめられていた。

 画家の父の元で育つも、父はマルクを認めてくれることは一度たりともなかった。そんな父の元を離れてもなお、その呪縛から逃れることは叶わない。

父から逃れることも考え、ドイツからパリに渡って早二年が経った一九〇五年。多くの芸術に触れる為に国を跨いできたものの、自分の芸術が父の虚像から逃れることは出来なかった。どれだけの時間を費やしても、どれだけ父から離れようとも、父の存在がマルクの中から消えることはない。自分を蔑むあの目はずっと彼を空虚の中から見つめていた。

父の言うことなど、自分の創り上げた虚像に過ぎない、自分には才能があるはずだ。彼は自らを鼓舞するも、やはり何をやっても上手くいかない。無意識のように描き続けるカンバスの絵もどこか暗い。この世の中が暗闇に沈んでいってしまったような暗さだ。マルクは何かに取り憑かれたようにひたすらカンバスに向き合った。

そして完成した絵はやはりと言うべきか、酷く暗い。地に伏したような自身が反映されているようであった。明るい色など、白以外には存在しない。まるで自分の叫びのようだな、とマルクは他人事のように思った。しかしこのような絵でも、今彼が描き上げた最高の物である。これだけが、今の彼にできることのような気がしていた。

 長期に渡るパリ滞在を経て、二年が経った。その間、マルクは様々な絵画を見続けた。そこで出会ったうち、彼の心を動かしたのはゴッホの絵であった。彼の絵を見た瞬間、マルクの全身に衝撃が走る。頭から雷を受けたような、そんな気分になった。

 それからすぐ、マルクはドイツへと帰国することになる。

「さよなら、芸術の街」

 汽車に乗りながらマルクは考えた。自分がパリで得たものは大きい。自分に抱えられるほどのものかとも悩んだりはしたが、結局その大きなものを彼は全てその身に、その腕にその目に宿していた。

「これからは自由な動物を描こう」

 帽子を目深にかぶり、コートの前を重ねるように合わせ、マルクは座席の背もたれに体を預けた。窓の外に目を向けると、目まぐるしく変わる緑色の森に少しだけ酔いそうになる。しかしその緑色に生い茂る森を見て、ほっとする気持ちもなくはない。長時間汽車に揺られて長旅をするのも、悪くはないだろうな、なんてことをマルクは一人思ったのだった。



 一九一〇年作品に行き詰まったマルクは、度々ゴッホの絵を初めて見た時のことを思い出していた。

「こんなにも自由な絵があったとは…」

 当時、あのようなものは初めて見たと言っても過言ではなかった。なぜ今までにこの人物の絵を見ようと思わなかったのか、そう過去の自分に悔しい感情を抱くほどであった。

「僕も、こういう風に自由に描いてもいいはずだ」

 当時の自分と今の自分の気持ちが繋がった瞬間、マルクは駆け出した。今すぐにでも、筆を執りたい! 全身が疼き、そう叫んでいる。早くカンバスの前に立たなければ。

「この喜びを、どう表現すればいい!?」

 どたどたと大きな音を立てて部屋に上がり込んだマルクは言いようのない興奮を抑えきれずにいた。思わず笑みが零れる。静かにしろと隣人に怒鳴りつけられたとしても、笑って返せるほどに、彼は興奮していたのだ。笑みを抑えることもなく、下絵のまま放置されていたカンバスをイーゼルに乗せる。広大な風景の中でこちらに背を向けている馬に、彼は笑いかけた。

「なんだ、もう色が乗ってるじゃないか」

 お待たせ、と誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、パレットと筆を両手に持った彼は、今までに使ったこともないような色をパレットに出し、筆に色を乗せる。

 まず明るい黄色で全体に色を乗せる。つんと鼻を刺激する油の匂いが、部屋に籠るのも気にせず、マルクは笑みを浮かべたままカンバスに向き合った。赤、緑、青と次々と色を乗せていくと、今までにない鮮やかなカンバスが出来上がる。こちらに背を向けた赤みを帯びた橙色の馬の鬣は青。かつての暗さなどどこにも姿を見せていない。ビビッドに染まるその絵は輝いて見えた。

「これだ…」

 数時間にも渡るカンバスとの向き合いを終え、ぽつりと呟いた。

 思わずカーテンを開けて全身に光を浴びたくなるほどの心の躍動感。落ち着いたはずであるにも関わらず、心は未だに落ち着かない。呆然と出来上がったカンバスを見つめる。そんな彼の中に、父の影はもう存在しなかった。

「はは…」

 堪らず笑いが込み上げてくる。もう彼を抑えるものはこの世には存在しない。彼はベッドに倒れ込んで大きく息を吸って、さらに大きく吐くように笑った。

「あははははっ!」

 かつて無理だと、自分には才能などないのだと罵った厳しい声は彼の笑い声に掻き消えていった。やってやったぞ! そう思わずにはいられない。もうあの忌々しい呪いのような声に縛られずとも生きていけるのだ。

 これこそが自分の望んだ世界であると、マルクは全身で感じていた。『Horse in a landscape』の誕生である。



◆     ◇     ◆



 『Horse in a landscape』を完成させた一九一〇年の夏。マルクは新芸術家協会の第二回展覧会へと訪れていた。前々から気になっていた芸術派の展覧会だ。よく人は彼らの芸術を馬鹿にすると聞いていたが、マルクは決して馬鹿になどしなかった。パリで活躍する画家の前衛的な作品を、人々は激しく非難した。なぜ描きたいように描いたものを非難されなければならないのか、そもそも芸術とは自由な存在ではなかったのか。マルクは人々の前衛作品に対しての扱いにひどく憤っていた。

「こんなにも素晴らしい作品ばかりじゃないか」

 人がほとんどいないような広く閑散としたアパートのワンルームを使い切った画廊。大きなカンバスを前にしたマルクは誰にともなく呟いた。いつまででもこの空間で、この作品達を眺めていたい、そんな気持ちになっていた。この静かな空間で、カンバスの中にだけ流れる違う空気に漂っていたいとさえ思う。しっかりとこの景色を目に焼き付けておこう、そう考えてカンバスの前に立ち続けた。

 そうして何十分、何時間経っただろうか。真上にあった太陽は西へ傾き、山間に沈みかけていた。しかし窓を遮っている画廊で、マルクはやはりそんなことにも気付かずにいた。

「君は、この絵をどう思う?」

 ある一枚のカンバスの前に立っていた時、不意に後ろから肩に手を置かれ、はっとしてマルクは振り返った。そこには眼鏡をかけた男が立っていて、マルクはその人物を認めたと同時に再度カンバスと向き合った。『Group in Crinolines』『ワシリー・カンディンスキー』並んで書かれたその文字になるほど、と斜め後ろに立つ男に意識を持ちつつも彼は口を開いた。

「そうですね、一言で言えば、…稚拙な言葉ではありますが、素晴らしい作品かと。今までに僕が出会ってきた絵画とは違い、全くの抽象で、荒々しいタッチの中の優しさが垣間見えるようです。色遣いも華やかで幻想的だ。だけども幻想的だと終わらせるにはもったいないですね。…女性に黄色を使っていることから…、あなたも色彩論をご存じで?」

 振り返り眼鏡の奥にある目をじっと見つめる。男は驚いたように目を見開いてから、ふと笑みを浮かべた。

「知っているよ、あれこそが素晴らしい理論だ。…君、名前は?」

 握手を求める彼にマルクはすぐさま答える。

「マルク。フランツ・マルクです。…カンディンスキーさん」

 ぎゅっと握った手に力を込めて、マルクも笑みを浮かべた。まさか本人から声をかけてもらえるとは思っておらず、高揚した気持ちを抑えることが出来ない。

「ではマルクくん、少しお茶でもどうだい」

 有無を言わせぬような問いに、マルクは頷く以外の答えを持ち合わせてはいなかった。二人はカンバスの前から立ち退き、画廊を出て小さなカフェへ足を運んだ。テーブルを挟んで向かい合うように座った二人。真ん中には互いの頼んだビールが置かれている。しかしどちらも手を付けようとせず、細長いグラスがその空気にじっとりと汗をかいた。




「新しい芸術と言っても、やはり未来の芽を潰すことは決してあってはなりません」

「そうだ。そうだとも」

「なぜ新しく、今までになかったからと言って非難されなければならないのでしょう」

「やはり新しいものは擁護すべき存在だ。それが今までとは比べ物にならないものだとしても」

「そうです!」

 ダンッ、とテーブルに強く叩き落したマルクの拳の隣でビールの泡のみが残ったグラスが汗をドッと流した。カンディンスキーは彼の強く握り締められた拳からマルクへと視線を移し、彼の目をじっと見つめ、頷く。それからにわかに立ち上がり、彼に手を差し伸べた。

「やはり私は君を招待したい。どうだ、君も協会の会員にならないか?」

 彼のずっしりとした言葉にマルクは目を丸くし、それからカンディンスキー同様に立ち上がる。その顔にはもう驚きはなく、喜びで満ちていた。

「もちろんです! ぜひ、入会させてください!」

 カンディンスキーの手を握り、これが自分の意思だというようにぐっと力を込めると、彼もまた強く握り返してくれた。同じ意見を持つ人物と出会うことで自分の芸術論も変わるだろう。マルクはその考えに喜びをかみしめる。この世が光に満ちたような気がした。幸せが一気に訪れたような気さえしていた。これから自分はさらに成長するだろう。そんな確信を抱く。

 カンディンスキーとの感動の対面、それは赤い夕焼けが二人を照らすカフェでのことだった。この時マルク三十歳、カンディンスキー四十四歳。芸術を語ることに年齢の差など、彼らには存在しなかった。




 それからは互いの作品を見せ合い、批評し合った。更なる境地へと目指し、二人は互いを高め合った。それは知り合うまでの年月を埋めるようにも見え、やはりそこに歳の差などありはしなかった。二人はまるで知己であり、唯一無二の友人を得たように日々を暮していた。

「自分達の論考を本にしてみないか」そう言い出したのは果たしてどちらだったろう。どちらであったとしても、どちらも同意したことであった。自分の意見をより深くしたい、より多くの人に知ってほしい。そう感じたことに変わりはなかった。

「本の名前はどうするんですか?」

 日の高い昼、マルクはカンディンスキーを家に招いていた。ランチとビールをテーブルに置き、出会った時と同じようにテーブルを挟んで向かい合って座っていた。ビールを飲みつつ、マルクは彼に尋ねた。

「それはもう決まっているさ」

 一枚の紙を取り出したカンディンスキーはふと窓の外を見た。

「今日は晴れているな」

 つられてマルクも外を見遣ると、そこには青空が広がっていた。雲に隠れることのない太陽に照らされた町が輝く。そうですね、と眩しそうに目を細めたマルクは息を吐くように呟く。

「綺麗な青空です。…でもそれがどうかしたんですか?」

 その言葉にカンディンスキーは笑った。

「私達は青が好きだからね」

 外から手元に出した紙へと視線を戻す。マルクもこちらへと視線を戻したことを皮切りに、折りたたまれた紙を広げる。

「君は馬が好きだろう? そして私は騎手が好きだ」

 眼鏡の奥の瞳が楽しそうに弧を描く。マルクはじっと彼の広げた紙を見つめ、目を丸くする。

「青騎士。…どうだい、いいだろう?」

 満面の笑みを浮かべてビールを煽るカンディンスキーに、マルクは大きく頷いた。そして瓶を持つ。カンディンスキーの方へそれを向けると、彼もまた瓶をマルクの方へ傾けた。かつん、と鈍い音が鳴り、二人は笑い合う。簡素な部屋に降り注ぐ太陽の光が二人を祝福していた。

それから数日、どのような内容にするか、どのようなものを題材にするか、などといったことを二人で考えていく。それと同時に、新芸術家協会第三回展へと向けて制作を始めていた。その中で二人の作風はだんだんと抽象化していく。元々抽象画を描いていたカンディンスキーの絵は更に度を増し、線で表現するようになった。マルクの絵もまた、それにならうようにどんどん抽象になっていく。

そんな二人の絵を良く思わない者は多くいた。元来、抽象画というものは否定されてきたのだ。写実的に、見たものを見たまま描くべきだという声の方が多く、見たものを抽象化する彼らの描き方は非難され続けていた。それが受け入れられるべき存在であった新芸術家協会でさえも、いつしか抽象化し、大胆な絵を描くマルクやカンディンスキーを非難するようになった。

「こんなのは間違っている」

 憤りを隠そうともせず、自分の身長を優に超える高さで、どれだけ自分が並んでも足りないほど幅のあるカンバスを見上げながらマルクは呟いた。その斜め前で脚立を跨いで座り、カンバスと向き合うカンディンスキーは苦笑を漏らす。

「仕方のないことだ。時代の流れは緩やかだろう。その中で急激に変化するものを、人はそう易々と受け入れられないのさ」

 カンバスに下地としてグレイッシュイエローを、雑とも丁寧とも言えない筆遣いで塗り付ける。これほどまでに大きければバケツを上からひっくり返したいと思ってしまうのはマルクだけではないはずだ。カンディンスキーの筆の動きをじっと見つめるマルクの表情には、納得いかないという色が混じっていた。

 しかし、と続けようとするマルクを彼は遮り、脚立から降りて持っていた筆もパレットも全て椅子に置いた。

「いくら考えても、今のままではどうしようもないさ。私達は今できることをしようではないか」

 カンバスに布を被せ、カンディンスキーはマルクを振り返った。今できること、それはつまり絵を描き、本を作ること。マルクは友人に諭され、何も言うことが出来ず、ただ頷いた。その瞳には強い意志が灯っていたことに、カンディンスキーは気付いていた。それでも彼は何も言わずに、ただマルクに目配せをしてから部屋を出て行った。マルクはカンディンスキーからもらった視線に応えるように自分のカンバスに向き合う。自分のできること、自分のやりたいこと、自分の見たいもの、それらは全て繋がる。

 以前とは全く違う手つきで丁寧に筆をカンバスの上に滑らせていく。目の前に浮かぶものをカンバスに描き写すだけ。難しいようで、簡単だ。だが簡単なようで、実は難しくもある。彼にとっては簡単であった。しかしそれは、周りからすれば非難されるべきものでもある。丁寧に塗り重ねられた緑、橙、青、黄色の真ん中に存在するのは、青みがかかった紫のような色をした狐だ。森の中、木の傍で眠る狐はマルクには青色に見えた。だからこそ彼はこの色で塗ったのだが、あまりにも現実とはかけ離れているそれを非難する声は多い。しかし外側だけに縛られてはいけない。人間はもっと、物事の内面、本質を見るべきであると考えていた。

 数時間手直しをして満足したマルクは裏に『Blue Fox』と記し、表に署名を残してイーゼルに立てかけた。そして数時間前にカンディンスキーがそうしたように、彼はカンバスに目配せをして部屋を出た。

 何かを描くのは楽しい。特にそれが動物であれば、尚更だ。初めて動物を描きたいと思った時は、描くことが楽しみで、楽しみで。それだけが自分の全てだと思い込めるほど、動物を描くことに喜びを感じていた。それなのに一時は動物を描くことにも苦痛を抱いていた。どうしようもない投げやりな気持ちになってしまうことだってあった。それが今では初めて動物を描きたいと思った時と同じ感情を描いている。頭の奥に広がる情景をそのままカンバスに写す、その行為が彼を救っていた。



◆     ◇     ◆



 約半年が過ぎ、カンディンスキーが巨大なカンバスの絵を描き上げた秋、マルクは彼と本の構成に勤しんでいた。ああでもない、こうでもないと議論を交わしあい、徐々に形にしていき、もうすぐで完成だと言うところまでこぎつけた。

 一九一一年、マルクはマリアという女性と結婚し、浮かれていた。美しい妻と、偉大な友人、彼らさえいれば自分の世界は幸せに満ちていると思っていた。その偉大な友人は彼の結婚をまるで自分のことのように喜んでくれたのだ。それにだって、嬉しく思う。この喜びを表すようにカンバスに描かれたのは、山の中を喜び飛び跳ねる黄色い牝牛、『Yellow Cow』だ。燃えるように熱い赤、橙などで背景の山を描き、牝牛には喜びの黄色を、そして一部に静かな青を乗せた。黄色から溢れ出るのは穏やかさ、優しさ、そして喜び。マルクは笑顔でこの牝牛を彩っていた。マルクの笑顔に対し、少し気味が悪いな、と苦笑したカンディンスキーの言葉にも耳を貸さずにただひたすらにカンバスに黄色を塗り付けていたのだ。

「黄色は女性原理を表す。だから黄色はマリアさ。反対に青は男性原理を表す。だから青は僕」

 それから、と続けるマルクの表情は、にやけているとも言えるようなものだ。

「赤は物質を表すだろう? この世界は物質世界なんだ。その中で黄色と青は精神を表す。つまりマリアと僕だけの世界さ」

 頬を緩ませるマルクに、カンディンスキーもマリアも嬉しそうに笑う。

「私はその世界にはいないのか?」

 カンディンスキーが口角を上げながら茶々を入れると、マルクは自信ありげに胸を張った。

「申し訳ないですが、この世界は僕とマリア、夫婦の世界です」

 声高らかに告げたマルクにそれはそうだな、と笑って返すカンディンスキーを、マリアは愛しい子供を見守るように見つめていた。

 しかしその幸せを邪魔するかのように、芸術に対する非難は二人に降りかかった。同年冬、二人は新芸術家協会第三回展へ向けての出品審査を受けていた。しかしカンディンスキーの巨大なカンバスに描かれた『Composition V』の結果は出品拒否。物質から精神を解放し、自らの「内的必然性」に従う抽象画を、協会は拒否したのだ。今まで穏やかに対処してきたカンディンスキーも、今回ばかりは納得いかず、新芸術家協会のメンバーと対立することになった。そして頭ごなしに否定するメンバーとはもう分かり合えないと判断し、カンディンスキーは脱会してしまった。以前から自分たちに対する協会内での風当たりの強さに苛立ちや理不尽さを感じていたマルクは一つ返事でカンディンスキーについて行き、彼もまた一年と少しで協会を脱会することとなった。

「信じられません」

「そうだな」

 いつもは穏やかに返事をくれて、余裕を見せているカンディンスキーの表情には、怒りの色が見えた。言葉も素っ気ない。いつかこうなることはわかっていた。それが今日だっただけの話だ。

「……すまない、マルク。今日は一人にしてくれ。マリアにもよろしく頼む」

 マルクを一瞥することもなく、ただそれだけを声に出す。

「いや……いいんです。そういう時なんでしょう。またいつでもいらしてください。僕とマリアは、いつでもあなたを歓迎します」

 困った様子も悲しい様子も、怒りの様子も見せずに笑顔を作って告げるマルクからは、彼の表情は見えなかった。そしてそんなマルクの表情もまた、カンディンスキーには見えなかった。ありがとう、といつもなら想像もできないような弱い声音で答えた彼は、マルクを置いて一人で歩いて去ってしまう。仕方ないさ。誰よりも悲しく、怒りでいっぱいになっているのは、彼なのだから。こういう時は変に刺激しない方がいいだろう。マルクは一人、納得して妻の待つ自宅へと足を向けた。冬の寒空を連れてくる冷たい風が彼の頬を撫でつける。この風が我が偉大なる唯一の親友の心を凍らせないように、と心の中で静かに祈ったのだった。

「おかえりなさい」

 暖かい部屋に、温かい料理、そして温かい笑顔で迎えてくれる美しい妻、マリアにマルクは笑顔を返した。ただいま。

「カンディンスキーさんは一緒じゃないのね」

 彼の友人は度々この新婚夫婦の住まう家を訪ねていた。まるで家族の一員のようになっていた。マルクは何も答えない。その表情には先程カンディンスキーに見せたような笑顔も、マリアに見せたような笑顔も存在しなかった。怒りと悲しみの混じり合った複雑な表情。二人の抱く運命、そして周りの酷い対応を知っているマリアは彼の表情に全てを悟ったようで、そっとマルクの背を押して椅子に座らせた。

「こんなのは間違っている」

 いつだったか、カンディンスキーのいる場で告げた言葉を、無意識のうちに口から吐き出す。その声は以前とは違い、弱々しい。マリアは隣に腰かけホットミルクを差し出した。彼がカップを受け取ってから、マルクの膝上に手を置く。

「ええ、そうね、間違っているわ。ならあなたは、どうするべきかしら」

 ゆっくりと吐き出された言葉は息のようで、それでいて大地を踏みしめるような力強さを孕んでいて、マルクは思わず彼女の顔を凝視した。

「僕は、カンディンスキーさんを支えるべきだ」

 自然と言葉が口を出た。それから差し出されたホットミルクを飲み込む。砂糖の入っていないそれは喉に絡みつくことなく体の中心を通っていく。

「そうね、でもそれだけじゃないでしょう」

 優しく微笑まれ、マルクはじんわりと胸が熱くなるのを感じる。それと同時にホットミルクの通った道が熱くなる。

「そうだ、僕は彼と共に戦わなければならない。彼を叱咤して、引き摺り起こして、共に戦う意思をしっかりと見せなければならない!」

 拳を握り込むと、マリアは優しく微笑んだ。彼はそんな彼女を見て、勢いよく立ち上がった。それがわかっていたかのようにマリアは口を開く。

「いってらっしゃい」

 そう告げた彼女に、マルクはありがとう、と告げて分厚い毛皮のコートを着込み、これまた分厚い毛皮の帽子を被って外へと出た。

 先程までにはなかった白い道が出来ており、マルクはゆっくりと、それでも駆け足でその白い道を歩く。はぁ、と息を吐くと白い息がマルクの顔を覆う。そんな息さえも凍ってしまいそうなほど寒い中、マルクはカンディンスキーの自宅へと向かう。すっかり日は暮れていて、街灯だけが寂しく道を照らしている。こんな夜に、道を歩く者はいない。ひっそりと息を潜めた街路樹が揺れることもなく、マルクを見送っている。

 何が変に刺激しない方がいい、だ。マルクは過去の自分を叱咤する。こういう時だからこそ、刺激を与えるべきではないのか。きっとあの人はこんなことで挫けてしまう人ではない。それはわかっている。だがしかし、仲間であり、友人である自分が何もしないなど、言語道断である。マルクは急ぎ足で自分にまとわりつく空気を、まるで自分の暗い気持ちを切るように、掻っ切っていく。




「カンディンスキーさん!」

 ドンドン、と大きな音を立ててドアを叩く。するとゆっくりとドアが開き、中からカンディンスキーが現れた。

「今日は一人にしてくれと言ったはずだが?」

 眼鏡の奥に見える静かな眼光にマルクはどきりと心臓を鳴らす。いつもの彼ではない気がするが、やはりこの一面も彼の物であると認識する。

「すみません。ですが……僕は、あなたを支えたいんです。あなたは僕の大切な友人だから」

 その言葉に、正面に立つカンディンスキーの眼鏡の奥の目は大きく見開かれた。それから弧を描くように細められ、彼はマルクを家の中へと招いた。

「君はそういう人間だったね」

 椅子に座ったカンディンスキーが苦笑を漏らす。彼は知っていたのだ、マルクが友人の支えになりたいと願う人物であると。

「カンディンスキーさん。僕に考えがあります」

 勧められた椅子に座ることもせず、ドアの前で立ったまま、マルクは彼に声をかけた。なんだい、カンディンスキーが視線をやると、マルクは意を決したように彼に一歩、また一歩と近付いた。

「青騎士を」

 一旦言葉を切り、カンディンスキーの様子を伺う。青騎士という単語が出たにも関わらず、彼は眉ひとつ動かさず、マルクを見つめていた。それに確信を得るかのようにマルクもカンディンスキーを見つめる。

「芸術グループとして、確立させましょう」

 その一言はやけに大きく、閑散としていた薄暗い部屋に響いた。吐く息は依然白く、全身が寒さを訴えているが、震えは違う。武者震いのようなそれだった。カンディンスキーは眼鏡の奥の瞳を光らせ、マルクを射る。緊迫したような空気に、マルクの喉が上下した。

「どういうつもりで?」

 静かに出された声は、責める声でも、非難の声でもない。ただ単に、問う声だった。

「青騎士は僕達の論考や様々な芸術に対する芸術家の論考をまとめた本です。そしてそれを、絵画として表すんですよ」

 きっぱりと言い切ったマルクにカンディンスキーはなるほど、と頷いた。

「新しい抽象画を描く、僕達のグループを作りませんか?」

 初めて会った時、彼がそうしてくれたように、マルクは彼に手を差し伸べた。カンディンスキーもそれを思ったのか、薄ら笑みを浮かべ、立ち上がり、マルクの手を握る。

「もちろんだとも」

 しっかりと握った手を、マルクは笑顔で見つめた。カンディンスキーもすっかり明るい表情を見せていた。

「私は良い友人を持ったな」

 手を離してから二人で向かい合って座り、カンディンスキーは嬉しそうに笑う。それにつられるようにしてマルクも笑みを浮かべる。それは僕もですよ、と返すと二人で笑い合った。



◆     ◇     ◆



 青騎士というグループを作ってから数ヶ月。誰にも知られていないこのグループの名をつけた本が出版された。当初の予定通り、その名は『青騎士』。マルクとカンディンスキー、彼らの考えに共感する者も多く、二人を訪ねるものは少なくなかった。しかしやはり、彼らの芸術を受け入れられず、拒否するかのように批判する者も多い。良い意味でも悪い意味でも、二人の青騎士はドイツで瞬く間に名を馳せた。それからグループを知る者は多く、加入したいと申し出てくる者を二人は快く受け入れた。青騎士はグループという名を持つものの、その本質はグループではなかった。時代、国境、民俗、全てを超えたところで個々の作品を見据え、芸術表現の限界を拡大しようという試みそのものであったのだ。その考えに多くの人々は共感することになる。

その後、ブルリューク、マッケ、シェーンベルクと言った画家達を加えての展覧会を開催した。このことで更に多くの人が青騎士の名を知ることとなる。青騎士はミュンヘンで活動していたことにより、彼の地は一躍ヨーロッパの前衛芸術の重要な中心地のひとつとなったのだった。それにより、かつて彼らを非難した者は手の平を返すように彼らを持ち上げた。その変わりように、マルクは戸惑っていた。本当に喜ぶべきなのか、人々の豹変ぶりに憤るべきなのか。カンディンスキーはそんな彼の心情を悟ってか、自らは冷静に動いていた。

「こんなのは…」

 無意識のうちに呟く言葉に、カンディンスキーが笑う。

「間違っている、か?」

 自分が口にしようとした言葉を言われ、マルクはぽかんと口を開けた。間抜け面だ、と彼に茶化され、すぐに口を閉じる。

「何を迷うことがある。人々は私達を歓迎しているんだぞ」

 静かに、諭すようにカンディンスキーは告げる。マルクは口ごもるように彼から視線を外し、納得いかない表情を見せた。今まで自分達を非難してきた人物が、すぐに手の平を返すように自分達を持ち上げ歓迎することに疑問を抱いていたのだ。人とはこうも簡単に意思を変えられるものだろうか。そんなはずはないだろう。マルクは筆を握り締め、無言のままカンディンスキーを追い出して部屋に閉じ籠った。

 もうすぐ青騎士展覧会の第二回が控えている。それに向けて新たな絵を描きたいとマルクは考えていた。しかしこんな複雑な気持ちのままでは、何が描けようか。マルクの心は知らぬ間に鬱蒼とした森を作り、誰にも入り込めないほどの大きな闇を作っていった。

 こうしなければならない、こうするべきである。複雑な気持ちが人々に左右され、そんな考えが巡り巡ってしまう。

 いつしかマルクの筆は、ひたすらに陰鬱で機械的なまでに図式的な絵しか描かなくなった。その変化をカンディンスキーも感じていたものの、どうすることも出来ず、傍に立ち彼を支えることしか出来なかった。

「きっとこれは、間違っていない」

 マルクは自分に言い聞かせるように筆を握り続けた。かつての明るさ、優しさを失くしてしまったかのようにひたすらカンバスに向き合う。その目は暗く、闇を宿しているようにも見えて、まだかすかな光を残しているようにも見えた。カンディンスキーにも影響されたような図式的な絵に、マルク自身は光を感じていた。しかしその気持ちとは対照的に、彼は手負いの獣のように鋭い眼差しで誰も寄せ付けない雰囲気を出していた。

 ザカザカと音を立てて荒々しく色をカンバスに塗り付けていく。右側には黄色を塗り付け、左側には青を塗り付ける。男と女の対立である。その上から精神を塗り替えるように赤を重ねていく。その中で動物達の奇しくも自由とは言えない姿を描いていく。

 周りを伺う動物達は怯えているように見え、逃げ場のない彼らの惑いが描かれているようだった。カンディンスキーは度々彼の家を訪ね、部屋のドアにもたれて彼のカンバスへ向かう後姿を見つめていた。何をするということもなく、ただ彼を見守るように、眼鏡の奥に潜む熱い眼差しを彼に向けていただけだった。

「カンディンスキーさん」

 マリアがマルクの様子を伺い、不安そうな目をカンディンスキーに向けた。カンディンスキーはマルクを見遣ってから、視線をマリアに移す。彼は肩を竦めてマルクに背を向け、マリアを連れて部屋を出て行った。マルクは彼らの一連の動きになど、気付いていなかった。

 いつかのカンディンスキーが描いていたような自分よりもはるかに大きなカンバスに向き合い続け、食事も摂らない、眠るときもカンバスの前で毛布に包まるだけ。そんな彼をマリアは常に心配していた。芸術の元にしか生きることのできない彼のことを知っていたからこそ、今の状況が不安で仕方なかったのだ。

 マルクは誰もいない部屋でふと窓の外を見た。空を飛ぶ鳥がこちらにちらりと視線を遣ってからすぐに一鳴きして大きく翼をはためかせ、飛び立った。呆然と見つめていたマルクの表情に笑みが浮かんだ。

「君達は、こんなにも」

 筆を置いて窓枠に寄りかかり、空を見上げる。これから描くべきものが見えたような気がした。一息ついてマルクは再びカンバスと向き合った。この決心は、鈍らないだろう。そんな気持ちを込めて筆を握る。荒々しい筆遣いは変わらないものの、先程までとは違った光を瞳に宿していた。心に作られていた暗い森は次第に切り拓かれていた。

「間違ってなど、いるものか」

 口元に笑みを湛え、マルクはカンバスに色を重ねていく。幾重にも重なる色は様々な姿を描いていき、気の済むまで筆を動かし続けた。何度目の夜が明けただろうか。完成されたカンバスの前でマルクはひたすら眠り続けた。



「マルク、起きろ」

 深い眠りの淵に立っていた時、声をかけられたマルクはふと重い瞼を持ち上げた。目の前には友人が座っていて、呆れたような眼差しがレンズ越しにマルクを見つめていた。きょろりと辺りを見渡すとそこは自分のアトリエで、カンディンスキーの後ろには大きなカンバスがイーゼルに立てかけられていた。マリアが用意したであろうミルクとパンをマルクに差し出したカンディンスキーは立ち上がり、カンバスを見つめた。固いパンに齧り付きながらマルクも立ち上がり、彼の隣に並ぶ。タイトルは、と問われたマルクはただ一言、『Fate of the Animals』とだけ答えた。

「これが君の叫びか」

 狭い部屋でイーゼルに立てかけられた一枚の絵画を前にして、カンディンスキーは感嘆するようにマルクに問うた。マルクは彼を見て少しだけ瞠目した後、すぐに笑った。ミルクを煽り、更にパンに齧り付く。そして満足したのか、ミルクとパンは椅子の上にそっと置いた。

「まさか」

 鼻で笑うようで、それでいて自虐的な笑いにカンディンスキーは絵画から彼に視線を移した。その時にはもう彼は絵をじっと見つめていた。

「これは僕の叫びではない。〝彼ら〟の叫びですよ」

 そっと絵具で盛り上がる画面を指で撫でると、突き刺さるように感じられる、思い。

「僕は彼らの叫びを描くのです」

 ぎゅっと握られた拳、射るような覚悟を決めた眼光。彼は一体その先に何を見ているのか。カンディンスキーにはそれがわかるようで、わからなかった。所詮は他人だな、カンディンスキーは目を伏せて肩を竦ませた。私は私のものを描かせてもらおう。行き着く先はきっと同じなのだから。彼はそう心の中でのみマルクに告げてそっと部屋を出た。

 部屋に残されたマルクはじっとカンバスを見つめ続けた。そしてカンバスから離れ、窓の桟に凭れ掛かる。

「これから何が起ころうとも、きっと彼らは変わらない」

 窓の外に視線を遣るといつかの鳥が大きく翼を広げて広い大空を舞っていた。

「きっと僕も、変わらないんだろうな」

 むしろ、変わってはいけないのかもしれない。マルクはそっと目を閉じた。緩やかな風がマルクの鼻をくすぐった。運命の時は、近い。瞼の裏に描かれるこの光景がどうか現実にならないように。そう祈りながらマルクは空を仰ぎ見た。

 一九一三年。幸せの崩壊は、彼らのすぐ足元にまで迫っていた。


◆     ◇     ◆


 街だけでなく、国全体が静けさを失いつつあった。それも当然のことだ。戦争が、始まったのだ。静かな時間など元から存在していなかったかのように、ドイツでは他国との大きな戦に向けて慌ただしく人々が動いていた。耳をすませば遥か遠くから砲弾の音が聞こえ、町では子供が震えあがり家から出ないようになった。大人達は皆険しい顔をしていて、笑顔を見せることがない。かく言うマルクも、そのうちの一人であった。窓の外を眺めながらカンバスに視線を移す。

 色自体は暗くない。しかし描き方によってこうも変わってしまうのかと思えるほど暗い表情を見せるカンバスにマルクは眼光を強くした。

 立ち上がってカンバスに背を向け、そっと部屋を出る。リビングで椅子に座っていたマリアに彼はこれからのことを告げた。マリアは何も言わず目を伏せ、小さく頷いた。きっと彼を止めることは出来ない。

「カンディンスキーさんにも、言ってくる」

 マリアの返事を聞くこともなく、マルクは家を出て行った。

夏の日差しが肌を刺す。眩しさに目を細め、マルクは早歩きをする。カンディンスキーの住まう自宅までの道がとてつもなく長く感じる。長い足をできるだけ早く動かそうとしている彼からは焦りが見える。いつしか早歩きだった彼は駆け出していた。

 やっとの思いで着いたカンディンスキーのでは、カンディンスキーが驚いたような表情で彼を迎えた。マルクは真剣な眼差しをしていて、カンディンスキーはその表情に眼鏡の奥に潜む目を細めた。

「外で話そうか」

 カンディンスキーが玄関のドアを閉め、促す。マルクはそれに従って頷いた。二人で並んで歩く。目的はどこなのか、マルクがそれを知る由もなく、ただ彼について行った。並んで歩いているも、会話は一切ない。カンディンスキーはただまっすぐに前を向いていて、マルクもそれに倣った。彼らの真上では太陽が笑みを浮かべているように光を降り注ぎ、二人の下に影を落とす。石畳の道にぽたりぽたりと滴が落ちていく。それは黒い染みを作るも二人が通り過ぎる頃にはすっかり色を失くしていた。

 暑い、ただそれだけがマルクの頭を占めていた。遠くで動物達の悲鳴のような鳴き声が聞こえる気がして、マルクはしばし目を閉じる。

「ここでいいかい」

 あるカフェの前でカンディンスキーは足を止めた。マルクは何を言うこともなく、ただ従った。ウェイターにビールを頼み、二人は向かい合って席に着いた。マルクは膝の上に乗せた拳をじっと見つめている。彼らの視線は絡まない。すぐにビールが手元に置かれ、どちらからともなくビールを煽った。トン、と優しくテーブルに置かれたグラスを見つめながらマルクは口を開く。

「僕は、戦場へ行くことにしました」

 重い口から放たれた言葉に、同じくグラスを見つめていたカンディンスキーは瞠目した。ゆっくりとマルクを見上げるも、やはり視線は絡まない。カンディンスキーはそうか、と小さく呟いて眼鏡を外した。目を瞑り、眉間を揉み合わせる。

「マッケも、徴兵され戦場へ赴くそうだ」

 カンディンスキーは以前仲間から寄せられた手紙を思い出す。

「戦場は、…写生場ではない。剣を、矢を、銃を持つだろう。……最悪、命を失うかもしれない」

そう告げられたマルクはグラスに映るカンディンスキーを見つめていた。否、マルクは彼を直接見ることができなかったのだ。大切な友人を置いて戦場へ赴く。彼の言った通り、最悪命を失う。会うのもこれが最後になってしまうかもしれない。双方から溢れ出る悲しみが周囲を支配した。

「だけど」

 小さく声が聞こえ、その場で初めてマルクはカンディンスキーを見た。眼鏡はすでにかけられていて、眼鏡の奥の瞳と視線が絡まった。眼鏡のレンズの歪みか、彼の瞳は潤んで見える。マルクはそれにぐっと唇を噛んだ。

「だけど、マルク。…君は戦場でも、絵を描き続けてくれ」

 視線を逸らすこともなく、小さな、それでも力強い言葉にマルクは大きく頷いた。

「君の絵は素晴らしい。それは私が一番よく知っている。大丈夫だ、君は、間違っていない」

 背中を押すような言葉に、マルクは体を震わせた。

「そして、戻ってきたら、また青騎士として展覧会を開こう」

 青い馬と騎士を描こうではないか。カンディンスキーはおもむろに立ち上がり、マルクの肩を叩いた。マルクも立ち上がり、視界を遮るように瞑った。

「はい…!」

 その時初めて、二人は熱い抱擁を交わした。そして初めて会った日のように、互いの手を強く握り合った。

 彼が友人であり、仲間であり、素晴らしいライバルであって良かった。互いにそう感じながら、二人は別れを告げてそれぞれの妻の待つ家へと帰って行った。


◆     ◇     ◆


 数日後だった。マルクが戦場へ赴いたのは。じっとりと汗が滲む感覚に苛立ちを覚える者も、すでに恐怖で震えている者もいた。マルクはその中でひっそりと小さな紙と画材を大事に抱えていた。友人との約束を破るわけにはいかない。自分は戦場であろうとも画家である限り、絵を描かなければならないのだ。それはまさに使命感のようであって、生きがいでもあった。

 少しの休息時間にもマルクは絵を描き続け、絵葉書として妻や友人達に送り続けた。動物の姿が描かれたものがほとんどで、やはりそれは彼の言う、〝動物たちの叫び〟であった。

 それから一年ほど経ったある日、彼は自分の描いた絵を見て、それから二年前に描いた『Fate of the Animals』を思い出し、笑った。そして絵葉書に書くのだ。

―――僕の絵は、まるでこの戦争のひとつの予感のようで、恐ろしく、また感銘を覚える。すごいだろう、これはきっと僕にしかできない。

「…だけどこれは、この戦争は、間違っている」

 思わず絵葉書を握ってしまいそうになって、我に返る。皺ひとつないそれを妻へ向けて送る。カンディンスキーからは妻と共にスイスに渡った後、去年の暮れには単身でロシアに戻ったと風の噂で聞いた。ロシアも安全とは言えないが、ここよりかは幾分ましだろう。そう思いながらマルクはまた戦場を歩いた。

 知らせを送るだけ。戦場ではそれすら出来得る状況ではなくなってきていた。当たり前のように、向こうからの返事はない。ただこちらの状況を知らせるだけで、それさえも危ぶまれているということは、戦況が悪化しているということだ。戦場でしか生きることができず、故郷との連絡も取れない。そんな自分が、まるで外界から隔離された動物のようにマルクは感じていた。

この最悪の戦況の中で兵士達は軽やかに話が弾むはずもなく、どんよりと重い空気を醸し出し、士気は下がるばかりであった。そんな中、やはりマルクは絵を描き続けた。例え誰かに送ることが困難であっても、描くことは決してやめない。それは歳の離れた、大切な友人からの願いでもあったから。描くことを許してくれた人でもあったから。

 描き続けてまた年を越し、二月に入った。ドイツ軍はフランス領地に侵攻し、ウェルダンに砲撃を繰り返していた。ここからはずっと同じ地で、フランス軍との砲弾の打ち合いだった。命の危機は、大勢の兵士のすぐ傍で、彼らを見下ろしていた。マルクもまた、それに見下ろされ、時には横に並び、時には背中合わせになった。

「それでも僕は、ドイツに帰らなければならないんだ」

 強く意思を持ったマルクは決して屈しなかった。絵を描く暇などないくらいに戦は進んでいく。彼のすぐ傍が砲弾により爆破されたこともあった。そんな中でも彼は生き続けた。もはや国の為ではない。自分の為に、自分の守るべき命の為に生き続け、戦い続けていた。

 その後のドイツ軍の戦況は良いものだった。元々こちらの攻撃が早かった為、フランス軍は態勢を整えきれていなかったのだ。しかしそれが覆されたのは、すぐのことだ。兵士の疲労を癒す為とはいえ、油断した隙にフランス軍に攻められてしまった。それからはドイツ軍が他の軍へと気を回さなければならない、といった事情もあり、形勢はすぐに逆転し、一気にドイツ軍の不利となった。

状況が変わったのは、それから長い月日が経った十二月のことだ。

 一瞬のことだった。

 ドイツ軍がウェルダンから引き上げるということを全ドイツ兵に告げ、引き上げている最中のことだ。今まで以上に大きな砲撃の音が耳を劈き、凄まじい暴風が彼らを襲った。地面が盛り上がり、爆発する。爆風に押され地に伏したマルクは目を大きく見開き、辺りを見渡した。遠くでフランス軍の大砲が煙を吐いているのに気付く。やられてしまった。マルクはそう思った。体が焼けつくように痛く、何も考えられない程だった。周りでは自分と同じなのか、体を動かすことも出来ないドイツ兵が大勢地面に転がっていた。投げ出された体は動かず、必死に空を見上げれば、青い空が広がっていた。憎らしいな、マルクは口元を歪めた。最後に僕の好きな青が見れるなんて。

「……カン、ディンスキーさん……」

 小さく口から洩れる吐息のような言葉。この言葉は、届くだろうか。

「あお、きし……」

 目の前を馬が駆けていく。その美しい姿にマルクは目を細め、マルクはそっと目を閉じ暗い世界に身を投じた。そんな彼の体を馬が運ぶように、青い馬が彼に寄り添う。そして嘶いた。我らは共にあると、青い馬はそう鳴いたのだった。




◆     ◇     ◆




 マルクが戦死したとマリアから知らせを受けたカンディンスキーは持っていた手紙を握り締めた。しばしの間放心してしまう。カンディンスキーはその場に崩れ落ち、慟哭した。

 大切な友人を失くしてしまった。こんな、戦争で。彼はマルクのことを思い浮かべる。誰よりも動物を愛し、馬を愛し、絵を愛していた。そんな彼がなぜ戦争で命を落とさなければならなかったのか。

 マリアからの手紙には、マルクが戦場で最後まで筆を持つことを止めなかったと生き残った兵士が言っていたと記されていた。その事実が更に彼を震え上がらせた。

「君は、ばかじゃないのか」

 もうこの世には存在しないマルクに告げる。君は本当にばかだ、と。

「戻ってきたら、展覧会を開くんじゃなかったのか! …それなのに、最後まで、私との約束を守るなんて…!」

 そんなことはいいから、生き延びてくれ。絵なら帰って来てからでも描けるではないか。そう言った所で、現実は何も変わらない。大切な友人と、マルクと顔を合わせることは二度と敵わない。拳を握り締め、彼は最後に交わした握手を思い出した。最初も最後も、握手だったな。そんなことを思いながら立ち上がる。

 ふらふらとカンバスの前に立ち、パレットに青を乗せ、筆を擦りつける。それから真っ白のカンバスに青い線を描いていく。せめてもの思い。彼の分の青い馬と騎士を描こうではないか。涙に濡れた瞳でカンバスを見つめる。その目は優しく、慈愛に満ちている。

「……マルク、君には青い馬が見えたか?」

 そっと筆をカンバスの上で躍らせながら彼は問う。返事はもちろん返って来ない。しかしどこか遠くで一頭の馬が泣いた気がした。

―――ええ、カンディンスキーさん。とても綺麗な青い馬が。

 風に乗って声が聞こえた。二年、会っていなくとも、すぐにわかる友人の声だ。振り返ってもそこには並べられた自分のカンバスしかない。しかしその中で一つだけあったのだ。ドイツを去るとき、マリアに譲ってもらった一枚のカンバス。

 青い馬に跨る果敢な青い騎士の姿がそこにはあった。

「……そうか、よかったな、マルク」

 カンバスを撫でてカンディンスキーは笑みを浮かべる。さようなら、素晴らしいドイツの画家よ。カンディンスキーの頬を撫でるロシアの風には、ドイツの香りが乗せられていた。
















【参考資料】

 岡田素之,相澤正己訳『青騎士』株式会社社精興社(2007)

 ラモン・ティオ・ベリド著,清水敏夫訳『岩波 世界の巨匠 カンディンスキー』(1993)

 本江邦夫監修カタログ『ドイツ表現主義の芸術』(不明)

 Wikipedia フランツ・マルク(日本語・ドイツ語)

 Wikipedia ワシリー・カンディンスキー(日本語・英語)

 WikiArt Franz Marc

 WikiArt Wassily Kandinsky

 GUGGENHEIM Collection Online Franz Marc

 Earl Art Gallery フランツ・マルク

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馬と騎士 束川 千勝 @tsukagawa-tikatsu

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