E氏、人事的大問題を疑う
自分の職場の向かいの座席の住人であるE氏は、東京生まれの東京育ち、つまり東京男だ。スレンダー、眼鏡、会計系職人。どれもが彼の魅力だが、何より自分で考えるから、結果として個性的に生きている。
ある朝、E氏はマウスを触りながらデスクに肘をつき、その手で何か小さな黒い四角形のものを口のすぐ近くに持っていた。「今日はなんですかそれ」と声をかけると、E氏はスッとそれを軽く持ち上げた。
「酢昆布。食う?」
「いや、いいです」
酢こんぶの時代は長かった。
そのまま猛烈に仕事をして、あっという間に夜の八時を迎えた頃だった。唐突に内線電話が鳴った。夜の八時頃に鳴る内線電話というのは、ものすごく頻繁にやりとりをしている「仲間」からの軽い連絡、お前まだいるんだろう的な戦友同士の声掛け的な「あれどこにあったっけ」的な短い用事か、またはとんでもなくろくでもない人物からのろくでもない電話か。どちらかである。
2コールほどお互いに無視してみたが、仕方がないので若輩者である自分が出た。
M氏だった。
M氏はいつも何かに追い詰められたような焦った喋り方をする人物として少しだけE氏の中で名をはせていた。自分は関わりもなく、だから悪いイメージもない。
自分が「M氏ですわ」と言うと、「うおっ」とだけE氏は言った。
この電話を自分が取ったことでなんとか、E氏が電話後に「お前の質問に答えるために残業して待ってたわけじゃねえんだよ、くそがぁ!」と悪態をつかずにすんだのだ。
良かった。
通話に戻ると、M氏はこちらの事情も聞かずに怒涛の語りを展開した。
「売上額が違うんですよ!」
「へえ?」
「このままじゃ報告できないんですよ! データがシステムに間違って登録されてるんですよ! 修正しなくちゃならないんですよ!」
「はあ」
「今すぐに修正しないと間に合わないんですよ! 明日の朝に間に合わないんですよ!」
「はあ」
自分は別に何の担当でもないのに、何故こんな話をされているのかわからない。ただ、親切心と好奇心とで電話を保留して、言われているデータを社内システムで確認してみた。
E氏は「M氏? 今すぐ何だって?」と美味しいところだけ美味しく聞こうとする。
かいつまんで教えてあげた。
「売上額が違うとか何とか。今すぐ修正したいとかなんとか」
「っんだよそれ。修正すりゃいいじゃん自分で。なんでうちにかけんだよ!」
わかる。わかるがしかし、なるべく親身に優しく話を聞いてみた。該当データは確かにM氏が自分では修正できない、バグのような状態になっていて、売上額が8万円ほど小さくなっていた。
これは今すぐには修正できないです、と伝えると、M氏は再びワーッワーッとなった。
明日の報告が……明日の報告が……と壊れたラジオのように繰り返すので、関係ない自分から「社会人レベル・普通」くらいのアドバイスをしてみた。
「正しい金額がわかっているなら、正しい金額で報告をすればいいんじゃないんですか?」
「だめなんです! 報告資料とシステムが完全に一致していなければならないんです!」
「え……でもバグですから。正しい金額を報告して、注釈とかで1件バグあり、明日修正予定、とか添えれば良くないですか?」
「それじゃだめなんですよおお! だめなんですううううう!」
それじゃ…… だめなの?
疑問に思って更に聞いた。
「何を使って何を報告するんですか?」
「Word文書です! 予算達成率の報告をするんです! ああ間に合わない間に合わないどうしても今すぐバグデータを修正しないと…」
「でもこれシステム部の人に依頼しないと修正できないですよ。システム部の人帰っちゃってるし、そんな用事で連絡する必要ないでしょ」
「してくださいよ!」
「いや、こっちからはしませんし、Mさんもしちゃだめですよ。Wordに正しい数字書けばいいじゃないですか」
「だめなんですよ! どうしてもシステムと、報告をするその瞬間! 一致していないと! 言われてしまうんですよ! 言われてしまうんですよおお!」
言われて…… しまうの?
E氏は本当に酷い人なので、相談するとただ一言「ばかじゃねえの?」と言った。
酷い。
「そんなの、どう考えても正しい金額Wordにぽんで書いて終わりだろ。つか明日の朝って定例会議だろ。あの会議の中で誰がリアルタイムでシステム見ながらM氏に何を言うんだよ。誰だよそれは。そいつをむしろ知りたいわ。何者なんだよ」
確かに知りたい。自分は電話に戻り、M氏に語りかけた。
「あのね、お気持ちについてはわかるんですけどね。今修正してあげられれば良かったんですが、自分もこのデータ、修正できないわけですよ。今処理しようとしても反映されるのは明日の日付になりますし、報告時点でシステムと正しい金額を一致させるって、出来ないわけですよ。一致が大事なら、小さい金額ですし、資料はシステムと一致させておいて、後で資料を修正するのでもいいんじゃないんですか? こんなゆるい会社なのに。正しさが大事なら、さっきお伝えしたように、正しい額にシステムエラーが1件あるって添えるしかないですよ。それ以上のアドバイスは出来ないですよ。というか、誰に言われるんですか? 報告時点で一致って、こういうケースでも本当にその人そう言うんですか? おかしくないですか? 胸張って正しい金額報告したらいいんじゃないですか? お困りならその人にこちらから、うまく根回ししましょうか?」
E氏は自分の仕事を順調に薦めながら、ふんふんと機嫌よく面白そうにこちらの話を聞いている。
M氏は悲しそうに言った。
「おっしゃるとおりなんです。本当に、本当に私もそう思うんですけれどもね、おかしいと思うんですけれども。ただもう本当に、そうした話が通じない相手なんですよ。必ず言われてしまうんですよ。人事的な! 大問題に! なるんですよ!」
人事的な…… 大問題に!
思わず電話を保留した。
「人事的な大問題になるそうです!」
E氏は嬉しそうに顔を上げて叫んだ。
「そんな日本語があったかよ!!!」
そこから延々30分以上も悲しい話を聞いた。データが修正できないと、「誰か」に「言われてしまう」、そしてそれが「人事的大問題」という不思議なM氏の言葉を聞き続け、明日の会議に出てやろうかと思ったほどだった。「誰かは言えません」、「本当に人事的大問題になるんです」と繰り返されて夜は終わった。
E氏は得意の舌打ちをしながら言った。
「くだらねえ相談聞かされるために残ってんじゃねんだよ。くそがあ。人事的大問題のわけねえよ。なんだよそれは。誰だよ。誰に言われちゃうんだよ」
「人事的大問題ですからね」
「ほんとそんなわけないのにさ。誰だよ。社長かよ」
「社長ですかね。でも社長がそんなこと言うわけないですからね」
「なんだよ人事。大問題」
盛り上がったが、あまり仕事にならない状態で夜は終わった。
翌朝、E氏はその日もカッコよく酢こんぶを食べていた。
昨日も夜まで残っていたのに今朝も資料作成か、やる気十分だなと思って見ていると、正面で「にやっ」と笑った。
「今朝の会議資料フォルダ、何か入ってるわ」
朝の会議は、小さなわが社ながらも一応少し偉い人だけが集まる。つまり限られた人にだけ、そのフォルダのアクセス権がある。
権利を持つE氏は時々このフォルダをチェックしては、真面目に会社の動きを確かめたり、面白おかしい資料を見つけて楽しませてくれるのだ。
「M氏の資料入ってるわ」
「何て書いてあります?」
「……普通だな。なんかすげえ数字のところにでかいフォント使ってる。妙にムカつくなあ……」
「補足ついてます?」
「ついてないなあ。売上予算達成してるって書いてあるわ。つか、文字が上から並んでるだけですっげえ読みづれえなこの資料……。言ってることも意味わかんねえし達成した理由とか何もわかんねえわ、ムカつくわ……」
E氏と自分は示し合わせて素早くシステムを叩き、その数字が「システムとは違うがバグがあるから仕方ないという正しい売上額」なのか「バグのことを忘れておいて資料とシステムを一致させた嘘だけど叱られない額」なのかを確かめようとした。
「えっ!」
目を疑った。
E氏も叫んだ。
「バグの金額、8万円じゃねえのかよ! そんなレベルじゃねえ、全然違うじゃねえかああ! M氏どうしたあああ! 人事大丈夫なのかあああ!」
E氏は電卓を取り出し、差額を素早く算出した。
電卓はブラインドタッチ。クールだ。
「あっ!」
それを見て自分も叫んだ。
「消費税額が!」
E氏は一人で電卓を叩きながら楽しそうに生き生きしはじめた。
「こっ、こいつ、予算が税抜なのに、実績に税込書いてる! M氏どうしたあああ! まあ待て、それでも達成してるのか? いやいやいや税抜だと達成してねええ! M氏の資料は? 達成してるー! システムは? してねえええよ! M氏ー! 達成してねえよおお! 達成って書いちゃってるよ! でかいフォントで! うおお昨日見てあげればあああ」
朝からマックスハイテンションになった我々は、
「これは人事的大問題だー!」
と騒いだ。
落ち着いたところで会議の資料をよく見ると、議事録をとる担当者に人事所属の社員の名前があった。
「あっ」E氏が言った。「この人、M氏が数字間違えてるの指摘してくれたんじゃね? この人元経理じゃん。数字細かいじゃん」
真実は怖くてM氏には確かめられなかった。
E氏と自分は、昼食に牛丼を食べながら昨晩M氏が言っていたことを色々と思い出した。
M氏はこう言っていた。
「それがお前のやり方なのかって言われるんですよ!」
牛丼に卵を落としながら、E氏は言った。
「これがM氏のやりかたかよ! コントかよ! ちきしょう、未達成野郎がでかいフォントなんかムカつくけど気の毒だから許すわ!」
もちろんそんなWordごときでM氏の売上実績が予算を達成していると勘違いされてしまうような会社ではないので、偉い人が「ふーん達成したんだ」と思ったあと席で「あれっ? 達成してないじゃん」って思っただけで今日も平和でした。
そういうわけで。
E氏は時々仕事をしていると、
ふっ…とラップトップの上に両目を光らせて、
何も会話をしていないタイミングで自分に向け、
「人事的大問題!」
と言うようになった。
おわり
※9割強実話
E氏のいる職場 伊藤 終 @saa110
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