とっくのとうのピンク

 30分後、完成したナオコをじろじろと見て、山田は「元が元だからな」と表情を変えずに言いきった。


「それ、どういう意味ですか」


「外国産の牛から和牛のステーキは生まれない、という意味だ。まあマシにはなった」


 あんまりな言い草にむっとするが、彼のセンスに関しては、認めざるをえなかった。鏡にうつった自分を確認して、多少なりとも感謝する気になったのだ。

 彼女は淡いピンクのサマーニットに、ペールグレーのロングスカートを履いていた。疲れた就活生の休日、という雰囲気から逃げ出している。少し服装をいじって化粧をするだけで、こんなに変わるものなのだ。ナオコは我ながら感心していた。


 ヒビの入った壁かけ時計をみると、18時40分だった。切り裂かれたカーテンの向こう側をみると、心臓が変な動きをした。他人の部屋で見る夜景は、ただの真っ暗闇だ。しかしその底に、夏の夜半に現れる奇妙な期待がただよっている。


 山田は、寝室の片隅にあぐらをかいて座っていた。 バッグを手にとって、どのように声をかけるべきか迷っていると、

「マルコ殿に、君を使うのはやめろと言っておけ」と言った。


「鈍いし動揺しやすいから、尾行にむいていない。そうだな、新藤のほうが良いと言っておけ……あれは怖い女だからな」


 ナオコはだまった。そして「山田さん」と話しかけた。


「なんだ、早くいかないと遅刻するぞ」


 彼は胸ポケットをあさって、タバコとライターを取りだした。箱から口にくわえ、火をつける。煙の帯が目のまえを横切る。


「精神分離機、どうして任務以外で使っているんですか」


 彼はちらりと見あげた。


「口止めされなかったか?」


「……聞いたところで山田さんは話さないだろう、と言われました」


 ナオコは、不思議なくらい平静を保っていた。


 ――――そもそも、最初からこうするべきだったのかもしれない。


 それは妙な確信だった。マルコは山田と信頼関係を結べと言った。あのときは仕事のできない自分への脅しだと思いこんでいたが、違ったのかもしれない。


「数値の超過が確認されているって、マルコさんが言っていました。どうしてそんなことを?」


 心音が大きく聞こえた。山田はタバコを吸いながら、こちらをながめている。負けじとにらみかえすと、彼の目が細まる。ナオコはわずかに後ずさった。


「マルコ殿の言うとおりだ」と、おもむろに立ちあがる。

「君を雇ったとき、彼は、君はこの会社を変える人間になると言っていた。そのとおりだったな」


「へ?」


 唐突に影がさす。まばたきする暇もなく、接近されていた。髪の毛がぐいと後ろに引っぱられ、強制的に上を向かされる。無表情が、そこにあった。

 ああ、いつもの表情だ。彼女は、ぼんやりと思った。冷たい鏡みたいに、かたくなに侵入を拒む目をしている。


「君みたいな人間がいることで、会社がダメになる。話しても無駄だと言われたのなら話すな。上司に言われたことくらい、きっちり守れ。使えないのだから、それくらいのことは学ぶべきだ」


 髪を掴む手から、力がぬけていく。ナオコは緊張した面持ちで、彼の行動を見守った。厳しい叱責を言うにしては、声が穏やかだった。

 ぼんやりしていると、いきなり腕がつかまれた。そしてあっという間に玄関に引きずられ、

「早くいけ」と乱暴に外に放りだされる


「ちょっ」


 ふりむくと、扉が目の前でしまった。がしゃん、となにかが落ちたような音が聞こえる。


「あの、山田さん」


 お礼すら言っていない、と思って扉をたたく。しばらくしてから、

「さっさと行け。遅刻は社会人失格だぞ」と、くぐもった声が返ってきた。


 そのあとは、もうなにも聞こえなかった。部屋の扉が、高い壁のように思えてならなかった。

 今度こそ約束に遅刻してしまうと思って、部屋に背をむける。えり足を引かれるような気持ちでマンションを後にする。急ぎ足で駅前へと向かう。


 忙しく歩く間にも、山田のことが頭から離れなかった。叱責を受けた。思えば、彼の言うことは当然だ。だがどうしても、間違いだと思えなかった。

 あのとき、彼はタバコを吸いながらなにを考えていたのだろう。想像しても分かるはずがない。分かるはずもないが、考えつづけてしまう。


 なぜだろう、と自問自答する。それは仕事だからだ。それはそうだ。内心でうなずく。仕事だから、こんなにも気になる。

 髪をつかんだ手の感触が、ふとよみがえる。背中をわずかにかすめて、抜けていった。


 ナオコは小走りになった。このままだと七時に間にあわない。帰宅する人々の横をぬけながら、頭に浮かんだイメージを振り払う。こんなことを考えている場合ではない。胸がこんなにも弾んでいるのは、走っているからだ。

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鏡の国のバカ 阿部ひづめ @abehidume

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